さよならお化けのキャーちゃん
すべての人の心の中に、キャーちゃんが棲みつきますように……。
「なんだい。改まってこんな所に呼び出して。普段しない事をすると、血の雨が降るって言うよ」
「それはキミの世界での迷信だろう? いいからちょっとその手に持っているバラ置いて。そこに座んなさい。ちなみにそのバラどっから持ってきたの。まあいいけど」
ここは僕の家の僕の部屋。僕の前に居るこの、へんちくりんな野郎は僕が小学校の時に拾った石が割れて中から生まれた? お化けのキャーちゃんだ。現在、僕は中学2年生に上がったわけだけれど、キャーちゃんはずっと僕の家で居候をしている。
見かけは、白い布をかぶってツルリンとしている。頭から1本でも3本でもなく、2本の黒い毛が生えている。たらこ唇で、目は細い。前が見えているのか時々、心配になるよ。現に電柱にぶつかっているのをたまに見る。そして落下している。
あ、キャーちゃんは空が飛べる。壁などの障害物もすり抜ける事ができる。
お化けだからね。
……なのに、僕に限らずみんなに見えているんだ。幽霊と、お化けと、どう違うっていうんだろう?
「幽霊とは、死者の魂。死者が成仏できず、生前の姿で現れたもの。亡霊、お化けとも言う」
「じゃあ違いは?」
聞き返しても、キャーちゃんは僕の肩をポンポンと叩きながら、とても馬鹿を見下す目つきだ。何だか腹が立つ。そこの毛を引っ張ってやろうか。
こんなムカつく野郎と一緒に暮らしている僕は北野真太郎。マタロウ、って呼ばないでほしい。平凡な中学2年生だ。水泳陸上部で、夏は水泳、冬は陸上をしているよ。メガネは授業中でしかかけていない。
自慢だけど、モテる方だ。常に女子への優しさと配慮は忘れない。
困る事は、ひとつだけ。
おめえだよ、キャー。
「そろそろ、家を出て行って欲しいんだけど」
と、僕はある、さわやかな日曜日の昼下がり、自分の部屋に呼びつけてキャーちゃんに話を切り出した。キャーちゃんは、無いように見えたんだけど耳穴をほじりながら、僕の話を聞いている。
「何の事だか」
すっとぼけている。いつもいい態度だ。ケンカ上等なその心構えは時々、感心する。
「キミがここに来て、もう5年になるね。僕もまだ子供だったしキミも、まだまだ素直だったからペット感覚でキミを受け入れる事ができたのだろうけど」
「相手をペット呼ばわりってのは、どうよ? そこ、世論が黙っちゃいないよ」
「今はキミと僕とで話をしているんだ。まあよく聞け」
僕は咳払いをひとつ。キャーちゃんは欠伸をひとつ。……口臭い。
「僕は来年、受験だ。キャーちゃんに、かまっていられなくなる。キミもいい機会だ。一度、お化けの世界に帰ってみたらどうだろう」
座布団の上で正座していたキャーちゃんは、短い足をあぐらに組み直した。ヒザの上で、片ヒジをたてて、こっちをにらんでいる……。
はっきり言って、ヤクザだ。僕は白い布をかぶったヤクザを相手にしている。
「心外だったな。ボクとキミとは永遠にひとつだと思っていたよ」
僕は心臓から鳥肌がたったような気がした。気持ちが悪い事をこいつはサラッと。
「そんなわけないだろう。頼むから、出て行ってくれないか。……キミのコレクションズと一緒に」
僕は部屋の壁や棚を指さした。
北方向の壁に、アイドル数十人の顔や全身ポスター。水着グラビア、セーラー服、婦人警官、女医に女教師まである。棚には関連本やビデオ、DVD。『夜のおかず3分クッキング♪』と背表紙に記されているが、中身のおかずに関しては触れたくない。
西方向に鉄道模型の陳列。僕には全然わからないけど、『東急5000系』『国鉄DD51形』とか、名前の書かれた札がケースに貼ってある。そこの本棚には同じく関連本やDVD。以前、時刻表を借りようとしたら、本の間に「××木 イサオ TEL.××-×××× ○○駅20時」と走り書きしたメモが挟まってあった。聞きたくなかったので聞かなかったが、キャーちゃんにはキャーちゃんの交流があるらしい。
南方向にアニメグッズだ。魔法少女やネコ耳だけでなく、アニメのジャンルは幅広いらしい。どこから入手したのか刀やメイド服、ピンク毛のカツラなんてものが並んでいる。もちろん本やDVD、音楽CDやドラマCDも。時々、居間の方から「お兄ちゃ〜ん!」という、まだ幼げな少女の声が聞こえてくる。だいたい日曜日には、大きめのリュックを背負って、肩から町内でもらったような長めのタオルをぶら下げて、出かけていく日が多い。「祭り見物に行ってくるよ」と言って出かけるが、その祭りは主に東京・大阪と都心部である事を知っている。
……そして東方向に、僕の勉強机とベッドだ。
部屋の5分の4は、キャーちゃんのコレクションズで埋もれている。
どうして僕は5年間も我慢ができたのだろう。人が良いのにも、あきれる。
「居候の分際、って言葉を学習した方がいいよ。キャーちゃん」
キャーちゃんは、「ウーン」と、片ヒジの手の上にあごを置いて唸った。おお、ちょっとは考えてくれている。
やがてキャーちゃんはヒザをポンと叩いた。
「そうだな。3年ぶりに実家へ帰らせて頂きます」
と、土下座して伏せた。
……3年ぶりかよ! そして実家があるのかよ!
僕は口に出しては何もツッコまなかった。
……
キャーちゃんが去って、1週間。僕が本来、過ごすはずの日常を取り戻した。
もう、どこを探したってキャーちゃんはいない。キャーちゃんの、ぬくもりも匂い(臭い)も無い。だってキャーちゃんは無味無臭、体温も無い。
お化けだからね。
「もう、あいつに気を使う事も……遠慮する事も神経を使う事も引っ込む事も立場を考える事も愛想笑いを浮かべる事も配慮する事も割って入る事も……無いんだなあ」
と、僕は学校から自転車を押しつつ、街の歩道を歩いていた。僕の中でどれだけあいつの存在が大きかったのか、これでお分かりだろう。
僕の両親は両親で、とてもオープンな心の持ち主だった。例え車を他人の車に追突されても、「オ〜、気ニシナ〜イ! 命ブジ! オールオーケイ!」だ。そんな感覚だ。良いといえば良いのだが……得体の知れないモノを受け入れる勇気って、どうなんだろう。偉いのだろうか?
僕が街の商店街にさしかかると、ちょうど買い物をしている隣の家のおばちゃんとバッタリ出くわし、目が合ったので、お互い挨拶をした。おばちゃんは、佐々木さんという。
「最近、キャーちゃんを見ないわね。いつもウチの家のマーちゃん(猫・オス)と仲良く遊んでもらっていたんだけど……。気のせいか、マーちゃんも元気がなくってね。どうしたんだい? 病気かい?」
僕は、ちょっと気が引けた。
「お化けの世界に帰ったんです。もう戻っては来ないかもしれません」
言ったはずなのにキャーちゃんは自分のコレクションズをほとんど置いて行きやがった。どうしよう、あの腐グッズ達。もうキャーの野郎は戻って来ないと信じているが。
「そう……。ちょっと淋しいわねえ。真太郎君も」
いいえ、ちっとも。僕は微かな笑みを返した。おばちゃんは僕が淋しがっていると思っている。それはそれでいいや。
僕は再び自転車を押しながら歩道を歩き出した。時々、こんな風に近所のお知り合いの方々にキャーちゃんの事を振られるが、僕の態度はいつも同じ。愛想よくかわした。しかし……。
猫の相手、犬の相手、カラスの相手、ホームレスの相手、同類の相手。
キャーちゃんてば、結構、忙しい奴だな。
家に帰ると、テーブルの上に2人分の食事の用意と、置き手紙が1通。置き手紙には、「一応キャーちゃんの分も用意しておくから、もし帰って来たらよろしくね。母より」と記されていた。
冷めた肉じゃがと、ほうれん草のおひたし。食卓カバーにかぶせられている。「もう帰って来ないっての……。1週間も経つのに」
何で、わからない。みんな。いい加減に気がついてほしいな。
「先に宿題と……そうだ、今日発売の雑誌を買って来なくちゃ」
僕は財布と携帯電話と家の鍵を持って、近くのコンビニへ出かけた。
……
「よう。真太郎。今日もひとりかよ」「シケた面してんなあ」
コンビニの出入り口の側の雑誌コーナーで、クラスメイトで幼なじみの岡崎と卓川に声をかけられた。まだ学校の帰り途中らしい。学校用カバンが彼らの足元に置いてあって、まだ制服のままだった。
岡崎は、でぷっとした体格でダンゴっ鼻。卓川は逆に細身でチビだった。どちらかというと、岡崎の方が、えばっている。
「キャーの奴、もう帰って来ねえって本当かよ」
岡崎のすぐ横に積んである雑誌群の中から僕が1冊、雑誌を手に取ると、そう聞いてきた。
もう何度、同じ質問を受けた事か。「本当だよ」と、僕はそれだけを答えた。
「フウン。ついに見離されたか」
……僕は無視してレジへ向かった。会計が終わってコンビニを出ようとすると、また知っている子に出会った。
「真太郎君。ひとり?」
同じくクラスメイトで幼なじみの愛子ちゃんだ。根本愛子。肩までサラッとした髪を垂らした、みんなから可愛いと評判の女の子で、僕もとっても可愛いと思っている。
愛子ちゃんがコンビニに入って来てそう言ったので、僕は去る足を止めてしまった。「う、うん。キャーちゃんは、この先ずっといないよ。帰って来ないしさ」
ちょっと、しどろもどろになってしまったけれど、愛子ちゃんは気にする風もなく、「ふうん。そうなの。でもまぁ真太郎君も、ちょっと肩の荷が下りたのかしら。いつも大変だなぁって思っていたのよ」
と、ズバズバと言い当てた。何だろう。ちょっと愛子ちゃんが怖い。
「でも、やっぱり居ないと分かると、淋しいね」
愛子ちゃんはそう言って「それじゃあね。また学校でね」と、飲料コーナーの方へ向かって行った。
僕は、しばらくただそこに突っ立っていた。サミシイネ……。
愛子ちゃんだけが言ってきたわけじゃないけれど、何だか心にズン、と、わだかまりができたように感じた。さっきまでは平気だったのに、何で急に。
僕はやっと重い足で外へ出た。背後で愛子ちゃんが酒とつまみをたくさん買っていたのがチラッと見えたが、体が重いし そんな事今はどうでもいいや。
僕達、未成年。それを分かって売る店員が悪いって事でいいや。そう思った。
……
帰宅して、玄関、階段、僕の部屋へと進んでいく。僕の部屋のドアを静かに、少し力をこめて開けた。でも、もちろんあの白い生物は居るはずはない。あるのは、残された奴の趣味だ。
「キャーちゃん……」
僕の目は、僕の勉強机の上に置いてある、ある戦闘民族のアニメのキャラクターのフィギュアに止まった。これは、ある日キャーちゃんが珍しく、僕にくれたものだった。「実はガチャガチャでダブっちゃって」と、本人は髪のない頭をポリポリと掻きながら渡してくれたのだが、これをもらった日は僕の誕生日だった。
お金のない(はずの……)キャーちゃんが、初めて僕にくれた、最初で最後の、プレゼント。
僕はあの時、とってもとっても嬉しかったんだ。
「もう帰っては来ないんだよ……」
僕はもう一度、自分に言い聞かせた。自分の部屋に入りづらくなって、先にご飯を食べようかなと思い、1階に下りて行った。
ちょっと時間的にいつもより早いけれど、晩御飯を食べ始めた。誰もいない食卓で、TVはつけているのに、静かだと思った。親と同じ食卓につく事は、僕が小学校高学年に上がる頃から少なくなっていっていた。
今日みたいに、ひとりでご飯を食べる日が常になるはずだったんだ。
だけど、いつも隣にキャーちゃんがいた。
いつもおかわりを何杯もするから、遠慮しろよこのハゲ……って心の中の僕は思っていた。ハゲはともかく、このハタ迷惑な振る舞いに、僕はタメ息をつきっ放しだったんだ。
迷惑だったから、追い出した。
嫌気がさしたから、出て行け、って言った。
今から思えば、5年間も共に過ごした友達にこんなひどい事を突然言われて、悲しくならないはずがない。怒ったって当たり前なんだ。
……でも、キャーちゃんはスンナリと帰ってしまった。文句ひとつ言わず。……ひとつもだ!
「何で……何で怒ってくれなかったんだよ! あんなにひどい事を言ったのに!」
僕の口から嗚咽が漏れた。ご飯が喉を通らない。箸を置いて、むせび泣いた。
「キャーちゃん……」
ゴメンよ、キャーちゃん。ゴメン。……淋しいよ、帰って来て……。
……すると、コンコン、とガラス戸を叩く音がした。
僕はそれに気がついて、顔を上げて外を見た。……庭に出るガラス越しに、暗闇に紛れて何かが居た。外から、ガラス戸を叩いている。
化け物だ……。普通は恐れ、おののくだろう。
でも僕はちっとも怖くなかった。すぐにパッと、そちらに飛んで行った。
「キャーちゃん!」
喜び叫びながら、ガラス戸の鍵を外し勢いよく開けた。
……帰って来た! キャーちゃんが帰って来たんだ!
僕がドアを開けると、相手の顔が一瞬だけ僕の目に飛び込んできた。
アレ?
ガツンッ!
……次に、星が見えた。
……
「ダメだなあ。マタロウ君。一体何のために戸に鍵というものがついていると思っているの」
と、夢の中で、懐かしいあのフザけた声が聞こえた。
「マタロウじゃない! 僕は真太郎! ……何だい、防犯のために決まっているじゃないか」
「さっきの君は、どうよ? よくはっきりしない相手にいきなりドアオープンするだなんて。購入前に商品そのものの安全性を確かめない消費者と一緒じゃないか」
「何、説教こいているんだよ。それより、僕はどうなった?」
「安心したまえ。ボクが片付けてやった。まあ、当分ホスピタルからは出て来られまい」
「え? どういう事? さっきのは、キミじゃなかったの」
「ま、起きて自分の目で確かめてみな」
……
目を開くと、知っている天井だった。ここは僕の部屋で、自分のベッドの上だ。
どうやらここでずっと寝ていて、キャーちゃんと会話する夢を見ていたんだな。そう、頭の回転は早く、理解した。
あれ、何だか1階の方が騒がしい……。
僕は階段を下りて、さっきご飯を食べていたリビングへ行った。するとどうだ?
ガラス戸のガラスは中へ向けて割られ、床には少量の血が。さらにその血のすぐ横には消火器が転がっていた。
そして警察の人が数人と、僕のパパとママと、そして……。
「キャーちゃん!」
白い布をかぶったような、その姿。生物。いや、お化け類。
ふてぶてしいオーラをかもし出す、その存在感。キャーちゃんは、僕の叫び声に振り返った。「やあ。やっと起きたのかい。でも、もう少し寝ててもいいよ。面倒くさいから」
キャーちゃんは以前とちっとも変わらなかった。相変わらず、ムカツク。
「もしかして……僕、強盗に襲われたの?」
僕は辺りを観察して、キャーちゃんに尋ねた。代わりにママが答えてくれた。
「そうよ真ちゃん。いきなり強盗に殴られて、家に侵入しようとしたのを、ちょうど帰って来たキャーちゃんがボコボコにしてくれたのよ。キャーちゃんにお礼を言いなさい」
「う、うん……。ありがとう、キャーちゃん。それと……おかえり」
と、僕が素直にキャーちゃんに話しかけると、キャーちゃんは無いと思っていた鼻をほじりながら、「おう。また すぐに出て行くけど」と言った。
僕は「え」と、ちょっと驚いたけど、また頭がズキズキと痛み出してきたので、少し休む事にした。
キャーちゃんは旅に出る、と言った。お化けの世界に帰るつもりはないらしい。
この不在だった1週間も、結局、人間界で過ごしていたそうだ。ブッダの思想に触れ、ナスカの地上絵の上空を飛び、アメリカの大統領と会見してきたそうだ。
どこまで本当かわからないが、キャーちゃんはとても楽しそうだった。
世界には、ボクの知らない事が星のようにある。
キャーちゃんは空を見て、そんな大きな事を言った。
キャーちゃんは、何かに目覚めていた。
僕が素直に淋しいよ、と言ったら、キャーちゃんはパパの書斎のパソコンを指さして、
「今やインターネットという便利なものがある。使いたまえ」
と言って、僕の体をギュッと、抱きしめてくれた。「キミが淋しいと思った頃にはボクも、キミがいなくて淋しいと思っているさ」
僕は改めて、ちっぽけな自分を恥ずかしく思ったよ。
キャーちゃんは偉大だ。お化けにしとくにはもったいないよ。
「じゃ、行くし。部屋の残り物は処分しといて。何ならオクで売ればいいし」
僕よりも誰よりも人間らしい魂を持っている。僕はそう確信する。
「さよなら〜! さよなら、キャーちゃん!」
……
……
キャーちゃんが旅立ってしまって、僕が中学を卒業して、高校生になって、大学に落ちて、バイトして、就職して、三十路になって、結婚して、子供が産まれて、退職して、老人になっても。
キャーちゃんコレクションズは手をつけられず、ずっと押入れに、あるよ。
だいぶ年齢とともに傷んでいっているけれど、ずっとある。
キャーちゃんがいつかまた、ここに帰って来るんだと思っているから……。
《END》