二転三転
ジョルジュは空を舞っていた。
縦に横に自由自在、グルグル、いやさギュルギュルと。
その浮遊感に夢を見た。まだジョルジュが幼く、自由で、童貞が童貞らしくいられたあの頃を……。
その頃は祖父も健在で、彼の元をたずねては、こうして抱き上げられあやして貰った。『このまま落ちたらどうしよう』というタマヒュンもののスリルと『そんな事にはならない』という安心感、その両極をいっぺんに味わうことの出来る、摩訶不思議なフライト時間。今この感覚はそれに近い。童心の貴族は無邪気な笑みを浮かべたまま、つかの間、揺籃に夢浸る。
その夢幻の対価は、固くて苦い床の味であった。
「うごフッ……!!」
ジョルジュは数度目の苦悶の声をあげ、たった今自身に起こったことを必死に理解しようとした。
渾身の一撃を見舞わんと大きく拳をつきだしたその瞬間、いつの間にか酒樽よろしくうつ伏せに抱えられていた。かと思えばプロペラのごとく大きく宙を舞わされ、そのまま頭から真っ逆様。こんな技は全く知らない。そもそもが温室育ち、受け身のうの字も知らないのだ。身体の全面をしたたかに打ち付けて、ごんろごんろと悶えるばかり。
旋回式フェイスバスター、『F5』。
ジョルジュやモヒカンらには知る由もないことだが、レーナが前世で独学した、さるプロレスラーのフィニッシュ・ホールドである。
およそ女性が使うべきではない高難度かつ豪快極まる殺人投げに、店内のモヒカンはやんやの喝采を揚げ、子供のようなキラキラした目で女無双を褒め称えた。
しかし食らった当人はたまったものではない。端正な顔は無残にひしゃげ、今やもう見る影もない。
それでも懸命に立ち上がれば、視界の端に『青髪』の──ルシアの怯えた様子が引っかかった。途端、ジョルジュの胸のうちには言い知れない何かが溢れてやまない。
──大丈夫だ、私はやれる。即ちヤレる。あの子とヤレる。殺られる訳にはまだ行かぬ。
韻を踏み踏み立ち上がり、ジョルジュはルシアに向かってにこりと微笑んだ。常ならば乙女のハートを鷲掴むそれも、今や土砂崩れした壁画に同じ。愛しの君は「ひっ」と顔を引きつらせ、すこぶるイヤそうに目を反らす。
「レーナ、まだ余裕があるわ! 油断しないで!」
「おう!」
レーナの男らしい返答により、ルシアの表情に安堵が浮かんだ。その大きな大きな背中に向けて、熱い視線と声援を送る。両手を組み、懸命に祈る仕草はまさに、恋する乙女の向けるそれである。対してジョルジュに向けられたのは、どこまでも怜悧で冷たい、ゴミを見るような目つきであった。
ジョルジュは深い悲しみに包まれた。と同時、なぜだかすごく興奮した。
このまま負ける訳にはいかない。もう少ししぶとく立ちまわって、もっともっと味わいたい。正体不明の背徳感が彼を奮い立たせた。
(見ていろ『青髪』! 私の戦いはこれからだ!! )
ジョルジュは再び雄叫びを上げ、女巨人にむしゃぶりついた。
◆
数分後。
ジョルジュは力尽きていた。
向かったそばから、ちぎっては投げちぎっては投げ、鎧袖一触、快刀乱麻を断つごとく……たとえる言葉もつきるほどに転され、這々の体で店外へ。今はぼんやり浮かぶ月を背に、芋虫のように這いつくばっている。
見ている方が哀れを催す、いっそ清々しいほどの大敗であった。
(私の戦いはここまでか……?)
おおジョルジュよ、死んでしまうとは情けない──いくら自分を罵倒しても、もはや身体がついて来ない。のみならず、とにかくやたらと眠かった。
このまま地面と懇ろになるのも、存外悪くない気さえ……。いやいや流石にそれは貴族として、というより人として終わっている。そもそもこんなのは間違いである。まがりになりにも武門の男が、女にたやすく転がされるなど。そんなことはありえない。最後の方など、殆ど親子の戯れだったではないか。
そうだ。これはきっと夢なんだ。本当の自分はきっと今頃、自室のベッドで胸と股間をふくらませているに違いない。ヒース、ヒースはまだか。このままでは夜が明けるぞ。どうか早く起こしてくれ。でないとこのまま、床と添い遂げてしまいかねんぞ……。
しかしいくら待てども夢から覚めず、ヒースも迎えにやってこない。ならばやはり、これが現実? もう、どっちでもいいや。
──なぁ地面、結婚しよう。少々硬いし無口ではあるが、お前の身体はなんと冷たく心地よいのか……。
いよいよ恥じらいも常識もかなぐり捨てて、この種族差を超えた愛をどう父に報告すべきかを考え始めたその時、その胸に地面を持つ女が一人。
「どーしたぁウラナリィ、もう立てないってかァ……? それともお前はドングリなのかァア……!?」
顔を上げれば、メイド姿のケダモノが居た。
店からの逆光の中、背を反らし月に吠えるかのごとく、大口開けてゲラゲラと嗤っている。それは慎みも恥じらいも人間性も全て捨て去った、邪悪極まりない哄笑であった。
──おのれ蛮族、誰がリスさんの好物か!!
衝動的な怒りに突き動かされ、ジョルジュは力を振り絞る。一気に跳ね起き殴りかかろうとして──愕然となった。
「おぉ……!?」
すでにジョルジュは、身体の制御の半分を失っていた。腰が抜け、膝がカクカク笑いっぱなし。思わず自身も笑ってしまうほど。口では散々いきがっても、身体は正直であった。
一方レーナはその様子に、そろそろアホらしくなっていた。
てんで弱くて話にならない──勢い込んで可愛がったはいいが、これではぱっと見いじめではないか。
わざと負けても良かったのだが、そうしたらそうしたで、嵩に掛かって偉ぶるかもしれない。勝つにせよ負けるにせよ、これほど難儀な相手もそうそう居ない。
レーナはもうすっかり面倒くさくなり、未だ唸る貴族をつついた。
「ねードングリぃ、そろそろやめない? あたしもう飽きちゃったよ」
「だから……誰がドングリだ……!」
「だってそうじゃん。さっきからコロコロコロコロ……他になんて呼べばいいのさ」
レーナの言葉に悪意はない。モヒカンモーリスをモヒオと名付けるような、雑なセンスの持ち主である。
ただ感じたまま、思った事を言ったまでで、むしろちょっとした親しみすら込めたつもりだった。だが勝者の一方的な敬意など、敗者にはうまく伝わる訳もなく。
「貴族をあまり……なめるなよ……!!」
ジョルジュはそう吐き捨てると、まだ動く両腕を懸命に前に突っ張った。どうにかこうにかもがいてもがいてもがきまくった。数度目にしてようやく、震えるつま先が大地を噛む。尻を振り立て、生まれたてあるいは死にかけの子馬のごとく四肢を懸命に突っ張って懸命に自らを励まし続ける。
それ、もう一息。やればできるぞアンヨが上手──みっともないその有様に、モヒカン達から嘲笑が起こる。それでもその目はギラギラと、激しく強く光を帯びる。笑いたくば笑うがいい。私は勝つ。何より童貞のまま、死ぬるわけには行くものか……!
ジョルジュは更に力を込めた。天高く尻を突き上げた、ケモノのごとき四つん這い。無様で優雅さの欠片もない、貴族にあるまじき不格好。けれど、それのどこが悪い──獰猛ですらあるジョルジュの気迫に、周囲の者は嘲笑を引っ込めた。そしてレーナにもまた、胸うつ何かがこみ上げる。
「……いいよ、じゃあ相撲勝負ね」
我が意を得たりとジョルジュは微笑んだが、一方では激しい疑問が渦を巻いた。
ところでスモー!? スモーとは一体なんだ!? 何でお前もしゃがみ込む!? 静かにテンパるジョルジュをよそに、レーナがどんと身構える。
西:惨破霊酢、東:喰煮虎訃。両雄、吐息が重なる至近距離。角つきあって待った無し。
「はっけよーい?」
「よ……よーい!」
当然ながらよくはない。ないのだが、ジョルジュは見よう見まねで構えをとった。貴族たるもの、庶民のこの期に及んで後には引けぬ。なら乗るしかない、このビッグウェーブに!
「ン残ったァァアアアアッ」
「おごォッ……!!」
当然ジョルジュは残れるわけもなし。壮絶なぶちかましによって、その細身は遥か遠くへ一直線。飛んでる! 私飛んでる! いっそ爽快とも言える飛翔感。
ジョルジュは慣性の赴くがまま、南通りのどまんなかへと吹き飛んだ。すさまじい衝撃と共に、露店の屋根へと見事な着弾。濛々たる土煙の中身を起こせば、何だ何だと通りの耳目が一身に集まりはじめる。
「どうした兄ちゃん、どっから飛んできた?」
「俺ぁみたぜ。『虎』」の方からだ」
応じた者が顎をしゃくったその先で、たちまち人垣が割れ始める……奴が、レーナがやって来る。背後にモヒカン、店主のジョシュらを伴って──。
「あんだよ、レーナ? また喧嘩かぁ!?」「今日のは随分とひょろいねェ」
「見せもんじゃないよ! 散った散った!」
レーナはうるさそうに追い払うが、野次馬達は遠巻きにして離れない。あっという間に人だかりはトラブル慣れした者達にとって、こんなのは宴の余興のうち。むしろこれからが本番とばかりにはやし立てる。
無理矢理にジョルジュを立たせたばかりか、その背を押して続きをせがむ。
「どうした兄ちゃん、根性見せろ!」「やっつけねぇと食われちまうぞー」
「そいつ食われてぇってんならやめとけ、大事なムスコが千切られちまうぜ!」
聞くに耐えない下品な野次に、さすがのレーナも眉をしかめた。
温室育ちのジョルジュにとっては尚の事、彼らのドラ声は異国の悪罵のように響く。
すっかりと酔いは醒め、変わって彼を支配したのは混乱と恐怖──何で私はここに居る。何故こんな目に合わねばならない。何故、何が悪かったのだ。
レーナ、無言のままに歩み寄る。ジョルジュはもはや動けない。ドラゴンに玉乗り仕込みそうな迫力を、その一身に受け止めて。
いよいよ、逃げ場はない。しかし闘志はすっかりと萎え、ただただ震え上がるばかり。
そんな有様だというのに、この女は止まってくれない。全くの無表情で、冷たい目だけが淡々と見下ろしている。
すわ、とどめを加える気か──ジョルジュは目を閉じ頭を抱えて蹲り、迫り来る死の瞬間に息を詰めた。
1秒、2秒──10秒たってもそれは来ない。20秒、30秒。息を詰めるのも苦しいが、それでもジョルジュは目を開けない。
40秒、50秒。まだこない。ひょっとしたらまだ、そんなに時間は経ってないのか。そんな考えが浮かんでくる。たしか聞いたことがある。死の間際の一瞬は、時間の流れが酷く遅いと。
50秒。ついに耐え切れず、ジョルジュは大きく息をついた。涙目を見開いたその瞬間、彼の視界を陰りが覆った。僅かな悲鳴と、覚悟したよりずっとずっと軽い、拍子抜けの衝撃。
「これは……」
改めて見つめると、それは彼の愛刀、それから彼が店に置き去りにした、大金の詰まった革袋であった。
「アンタの持ちモンでしょうが。もうお代いらないから、今日の所は帰ってくんない?」
そのうんざりとした口調と、真向から見下ろす視線に、ジョルジュはぽかんと口を開けた。貴族一人をぶっ飛ばしておいて、何というふてぶてしさか。
今し方怯えきっていたのも忘れ、ジョルジュの中には猛然といきり立った。
「ふざけるな……! 私はやれる、まだ負けてないぞ! 女などに負けるものかよ!」
しかしその声はすっかり涙声で、説得力は欠片もない。誰の目にも勝敗は明らかで、何より自分自身が一番身にしみていた。
叫ぶほどに惨めがこみ上げ、思わず一つ、鼻を啜った。やがてそれが呼び水となったか、身も世もなくうーうーと漏れ始める。とうとう子供のようにグズりはじめ、その涙はとめどなく流れた。
流石にコレは誰しもが予想外。途端に場の空気が、気まずい湿り気を帯び始める。冷たい視線に根負けし、レーナは頬をかきつつ言葉を探した。
「はいはい、アンタが強いのはよく分かった。分かったからもう立ってよ。あんまり目立つと衛兵来るしさぁ……」
ほら立って、と再度の催促。今度はいささか、バツが悪そうに。
ジョルジュは差し出された手を前に逡巡する──大きいが、白くて柔らかそうな女の手。
思わず掴むと、待ってましたと引き上げられた。勢い余って胸に飛び込む形になり、慌てて身を引き剥がした。けれどもその手は、まだ繋がれたまま。
「帰るよ」
有無を言わせぬ、それでいて逆らいがたい響きがあった。ジョルジュはその中に、ほんの僅か、照れと詫びのような色を見る。
正直に言うとほっとした。心底恐ろしかった。
ここで手打ちというのなら、是が非でもお願いしたい──それがジョルジュの本音である。
だが、ジョルジュは顔を上げない。あげられなかった。
小娘一人にあしらわれて、どの面下げておめおめと帰れる? せめて──せめて一矢。この女に吠え面かかせてやりたい。
ジョルジュは細剣を拾い上げ、その柄をギッと握った。
堅く確かな感触を得て、ジョルジュの脳裏に一瞬、不穏な考えがよぎる。
──斬れ。その腰物は飾りではないぞ。女一人ねじ伏せられず、何が男か。
──よせ。丸腰の女だぞ。それこそ恥の上塗りではないか。
相克する感情が彼を縛り、それこそが彼を救った。理由は二つ。もし本当に抜いていたら、レーナは今度こそジョルジュを剣ごと食ってやるつもりだった。
そしてもう一つは、単純にそれだけ時間が過ぎたから。
「おおい、道あけろ! 開けないなら蹴飛ばすぜ! ……開けろってんだ!」
大喝とともにどやどやと押しかけてきたのは、兜に小具足、鎖帷子で武装したむくつけき男達……衛兵の一団だった。
早速ににらみを聞かせ、周囲の野次馬を散らしにかかる。余りに早いその登場に、レーナも周囲も戸惑うばかり。そんな中、一番最後に現れたのは、他ならぬ彼のお守り役──。
「ヒース!!」
ジョルジュはすっかりと懐かしい顔を見てとるや、彼の元へ一も二もなく飛び込んだ。
「遅いぞ馬鹿者! どこで油を売っていた!? 」
「どこもくそもあるか!こちとら試合が終わって迎えにいって、アンタを探して出ずっぱりだぞ!? 衛兵の手まで借りちまってよ、とんだ大仕事だよ馬鹿野郎!」
ヒースは主の身を引きはがし、改めてジョルジュの顔をまじまじと見る。
涙と鼻水と痣だらけだが、どうやら命に別状は無い。ようやく、安堵の吐息を漏らすことが出来た。
一方、レーナは突然の闖入者に毒気を抜かれていた。
こちらに害意がないのと、なによりウホるほどのいい男──今度こそイケメンきた! あたしこっちがE! 途端に疼く雌の性。ガイアがレーナに、もっと盛れと囁きかける。
小鼻をウホウホとひくつかせ、胸いっぱいイケメンスメルを堪能すると、穴が空くほどに男の容姿を見つめた。
年の頃は25,6といった所か、面長な顔つき。垂れ目がちな一重に大きく高い鼻。口元に余裕のある笑み。焦げ茶の長髪を尻尾のように一筋垂らし、夜風に悠々となびかせている。
身の丈はジョシュと同じほど。幅広、肉厚の肩はむき出しで、よく鍛えられた逞しい腕。はだけたシャツの胸元には大きな傷跡。恐らくは刀傷。目を凝らせばあちこちに傷はあって、修羅場をくぐった独特の凄みを感じさせた。偉丈夫という言葉がよく似合い見れば見るほどイイ感じ。たまらずレーナは声をかけた。
「お兄さん、ひょっとして闘士?」
レーナの何気ない質問に、ヒースが振り返る。途端に「おおっ」と声を上げ、やにわに相好を崩し近づいて来た。
「勿論そうだが……俺のこと知らないっていうのはちょっと信じられないな?」
「えっと……」
レーナはとっさに言葉に詰まり、言葉を濁した。男の距離があまりに近い。
しかもその手があまりにも腰に自然に伸びてきた。例えどれだけウホッていても、普段なら絶対に見逃さないはずのボディタッチ。どぎまぎするより普通に驚いた。
(……この人)
──相当強い。あと、同じぐらいエロい。
一瞬にして二つの事実を看破して、レーナは二重の意味で肌を粟立たせた。
こんな殿方に抱かれるにやぶさかではないが、人生トータル三十数年、未だの経験0である。あまりグイグイ来られても対処に困る。
珍しくも戸惑っているところに、ジョシュが助け舟を出してくれた。
「そいつは俺の姪だ。迂闊に口説いてくれるなよ」
心底呆れた顔で男の腕を引き剥がすと、今度はレーナに向かってやはり同じ顔をしながら、男の名を告げる。
「ヒース・ヘイデンス。二つ名は『荒馬』。つかオメェ、さっき店で試合観てたろうが」
叔父の呆れたような紹介に、レーナはあっと声を上げた。
そういえば腕相撲の間、こんな感じのが居た気がする──気がするだけで、よく見ては居なかったけど。
「これでも一応、都市王者なんだが……まあいいや」
ヒースはやや切なげに呟くと、気を取り直して昔なじみへと向き合った。
「それはそれとして『膳夫』殿よ、ウチの若は何やらかした?」
「……ちょいとはしゃぎ過ぎだったんでな。酔い覚ましてもらってただけさ」
「にしても少々、やりすぎじゃねえのか? 色男が台無しだ」
「あぁ分かってる。事情は俺が説明するから、後ろのおっかねぇのを下がらせてくれ」
「話が早くて助かるよ。……お前ら、坊ちゃんを頼む」
ヒースの声に、衛兵達がジョルジュの前に壁を作った。野次馬達の視線を跳ね返す。
叔父とヒースは頷きかわすと、大人二人で何事かを話し始めた。レーナは手持ち無沙汰のまま、二人の様子ををぼんやりと眺める。その袖をモヒオが小さく引っ張った。
「マスターに任せて、今のうちに引っ込みません? さっきから居心地が悪ぃや」
「……そういうわけにも行かないでしょ。ちっとやりすぎたしさぁ」
苦り切った表情で答えながら、レーナは小さくと頭を振った。
特に最後のぶちかましは、ちょっと気合が入りすぎ。……あんなに飛ぶとは思わなかったが、もう少し淑やかに振舞わなくては……。気は優しくて力持ち。うん。これで行こう。
どう見ても無理めなスローガンを掲げ終える頃、ジョシュが再び戻って頭を掻いた。
「どうだった?」
「どうもあの盆暗、本当にサンパレスのご子息らしい。ちっと出向いて詫びに行って来る。お前らは店畳んで、そのまま帰れ」
「なんで叔父さんが!? やったのはあたしだよ!?」
「オメェに任したのはこの俺で、そして俺は責任者だ。第一お前、ちゃんと説明できんのか?」
ジョシュにきっぱりと告げられ、流石のレーナも黙らざるを得ない。ああ、またこんな感じか。やっぱり途中で負ければよかった? でも、そもそもはあっちが悪いわけで……ごちゃごちゃをおなかに並べてみたけれど、今この場で言うべきはただ一つ。それぐらいはレーナにも分かる。
「ごめんなさい」
頭を下げ、さらなる叱責を待つ。それぐらいしか出来ない。
唯一任された仕事さえままならない、そんなメイドは店に不要──そう言われることも覚悟して、じっと沙汰を待つ。
まんじりともしない間をおいて、レーナの頭に大きい何かが乗っかった。ジョシュの手だ。顔を持ち上げてみると、そこには苦い微笑があった。
「心配すんな。あっちにも体面があるしな。大事にゃならんだろ」
「ほんとにごめん。帰ってきたらちゃんとする。厨房も覚える」
「あんま期待してねえが……まぁ、頑張れ」
ジョシュはレーナの頭をワシワシとかき回すと、その背を押して店の方へと向き直らせる。
本当はまだ納得は出来ない。自分のツケは自分で払いたい。けど、それすらあたしはまともに出来ない。だから今日は仕方ない、無理やり、どうにかこうにか、渋々だけど我慢する──そう決めたレーナは、人壁の向こう、もう一人の当事者の様子を背中越しに伺った。
さっきから衛兵越しに、甲高い声がキンキンと響いている。どうもあちらは万事解決とは行かないようだった。
◆
「ならぬ! サンパレスに唾したのだぞ!? しかるべき報いを与えよ!」
「あのなぁ坊ちゃん、酒の席の話だ。荒立てるのは粋じゃねぇよ」
「粋がどうした、私はほぼ逝きかけたのだ! 敵をとるのが筋であろうが!」
ジョルジュのおよそ尋常とは言い難い剣幕を、ヒースはどうにも持て余した。
言いたいことはよく分かる。よほど悔しかったということも。同時に、
「そうやって金玉ちっちェこというからモテねぇんだよ。いいか、貴族ってのはもっとどんと構えてだな……」
「私は命令したぞ、『荒馬』! 元を正せば貴様がッ……貴様が余計なことを吹きこまなければ……!」
そのままジョルジュは再び鼻を啜り、続く言葉を曇らせた。
こう言われると、誘ったヒースはどうにも弱い。仕方なしに腕を組み、レーナとジョルジュ、双方を一瞥。散々に頭を悩ませ、ため息をつく。
コレがそこらのごろつきであれば、問答無用でその手に掛けていただろう。
しかし相手は女で、どうも礼を欠いたのはこちらが先。
若干……いや、かなりやり過ぎ感は否めないが、見たとこ怪我も大したことはない。喧嘩両成敗、あるいはちょっとした謹慎で済ませるのが妥当だろう。
普段のジョルジュなら分かりそうな道理を、今日はどうにも弁えてくれない。初めての南通りの体験は、彼には少々刺激が強すぎたようだった。
とはいえジョルジュももういい年だ。そろそろ分別ぐらい付けねばならない。
何よりヒースは、この主に弟にも似た親しみを覚えている。その弟分に、三流貴族のまね事をしてほしくなかった。……故に、結論は動かない。
「……やめとけ。男が下がるぜ」
様々な思いを込めたヒースの一言だったが、しかし通じなかった。2度、3度と口をぱくつかせ、ブルブルと肩を震わせる。
「……主の命令を聞けぬと言うのか……?」
「主だから、だよ。まず落ちつけって。 女一人に闘士けしかけるなんざ、そっちの方がどうかしてるぜ」
常にない頑なな態度に、ジョルジュは言葉を失った。せっかくに現れた味方がはずが、何もしてくれない──唯一友と呼べる男のその態度に、ひどく裏切られた思いだった。
今や彼の心は、乱気流も同然だった。一日通して上がって下がって、何もいいことなんかありゃしない。この日に抱えた屈辱と無力感は、どうしたって飲み込めない。
「貴様にはもう頼まん。衛兵諸君! 私の命令は聞いていたな!?」
突然に水を向けられ、衛兵達も戸惑いを見せた。こんな無茶仕事は聞いた事がない。
ところがジョルジュが取った次の行動に、彼らの態度はさっと翻った。
「諸君、ここに50万グラブほどある! 我が手足になるものにはコイツをくれてやろう! 今すぐこの場の者ども全員、一人残らず引っ立てよ!」
一息にそうまくし立て、袋の中身を盛大にぶちまける──澄んだ音を立てて転がる五十もの金貨。これには誰しも、目を奪われざるを得なかった。
一人頭25000グラブ。筆頭闘士の一ヶ月分の稼ぎに当たる大金である。それを平の衛兵が稼ぐなら、ゆうに2年は働かねばなるまい。
しかも音頭を取るのはサンパレスの御曹司、多少の無体を働いてでも、顔を売っておくに越したことはない──そこまでの計算を素早く巡らせ、彼らはたちまち傀儡となった。
(馬鹿共が……のぼせやがって)
ヒースはそう毒づくと、ジョルジュの肩を強く握る。
「……火に油を注ぎやがって、怪我人が出ても知らんぞ」
「黙れ不忠者が。貴様はクビだ。父上にそう申し上げる」
あまりの子供っぽさに、今度こそヒースは絶句した。もう面倒くせぇ、と一言つぶやき、静かにその手を離す。ジョルジュは努めて何でもないようにしながら、肩の痛みに顔をしかめていた。
決裂した二人を余所に、通りは既に大混乱の様相だった。
問答も容赦もない、苛烈なまでの働きぶり──酔漢、娼婦、大道芸人。中にはたった今通りかかった、全く関係のない者でさえ。たちまちに縄を打たれ、この理不尽に悲鳴をあげる。
なんとなく予想していたモヒオ達は店の娘らを下がらせ、素早くこの理不尽に応戦にかかる。しかし所詮はただの悪童、プロの兵隊には押されつつあった。
レーナもまたその手を掻い潜りながら、鋭く抗議の声を上げる。
「ちょっと待って、こんなの滅茶苦茶! それが衛兵のすること!?」
少女の大喝を受けて、衛兵の男は一瞬怯んだ。しかしすぐに頬を見難く歪ませて、居丈高にレーナに告げる。
「……悪いがこちらも仕事でな。お前も相手を見てから喧嘩を売れ」
そう言って頬を歪ませると、再び太い手を伸ばす──その直後、一際大きな悲鳴が宵の空にこだました。
追うものも追われるものも、あまりの声量につい振り返る。
「その言葉、そっくり返す」
男の手首をギリギリと極めながら、レーナの啖呵は低く夜の街に響いた。