騒動の始まり(3)
…──30分後。
一人のイケメンから、とめどない場末感が漂っていた。
やけに視線は遠くにあって、先刻までのジョシュと同じか、あるいはそれ以上に濁りきっている。小鼻からはブルスコファーと鼻息が漏れ、半開きの唇からはブツブツと読経じみたうわ言が呟かれていた。船漕ぐ頭がフラフラと危うい。ルシアはそれとなく肩を揺すってみる。
「あの……大丈夫です?」
「モルスァ」
意味不明の頷き一つ。明らかにダメな返答だ。なまじ顔がいいだけに、かえって台無しである。
──なんかちょっと……いや、かなり幻滅。
レーナは淡い夢から醒め落胆とも安堵とも呼べぬものを胸の内から吐き出すかたわら、目の端で客達を様子を追った。やはりというか、その空気はよろしくない。
余所の都市の大体がそうであるように、この街の貴族と庶民の間には深い溝がある。
彼らには様々な噂が絶えなかった。興業師と手を組んで八百長を仕組んでいる、管理局に身内を送り込んで私物化を企んでいる、美形の闘士を男娼として囲っている……あくまで噂の域を出ないが、火のないところに煙は立たない。
わかっているのは一つだけ。彼らは散々に儲けていて、しかしそれを民に還元しない。その一事だけでも、反感を抱かせるには十分であった。
その血に連なる若造が、何の酔狂か溜まり場にいる……それだけも十分に不愉快ごとであった。
いかにも酒を不味そうに飲みつつ、あからさまな敵意をかれ一人に向け続けている。
いよいよ剣呑な空気を身にまとわせ始め、露骨に舌打ちするモノもいる。よくない兆候だ。まとめ役兼諫め役兼サンドバッグのモヒオは未だ腹を抱えて死にかけており、とうてい動けそうにない。
彼らも元・闘士の店で暴れるほど馬鹿ではないだろうが、揉め事は店の評判に差し障る。彼女達に怪我でもさせたらその親にも申し訳が立たない。
その点、レーナは──この長身美脚の男勝りは、器量がよく物怖じもせず、さらに闘士顔負けの腕っ節。そこらの男ではまず歯がたたない。接客も調理もモンキー以下の彼女を店に立たせているのは、まさにこう言う時のためなのだ。
ジョシュは仕事だと言わんばかりに目線をよこし、レーナもまた頷き応える。さりげなく身を滑らせ、凡愚とモヒカンの間に立った。
壁に背をもたせて腕組む様は一見何気なく見える。が、その実全員が間合いの中だ。先刻場を湧かせた女修羅が睨みをきかすとあっては、男達も迂闊に手を出せない。
しかし同時に、安堵の効果ももたらした。店内最強がすぐそこで目を光らせているのだ。大丈夫、まだ慌てるような時間じゃない──。
そんな殺伐とし始めた店内を一顧だにせず、もうすっかり出来上がりあそばしたシャバ憎はひたすらにルシアを手放さない。
厳禁であるお触りまで決めて、すっかりご機嫌の様子である。さしものルシアもこれには一瞬、露骨に顔をしかめる。
「……困りますわ、お客様」
「ふふん、よいではないか。今少し近うよらぬか。なに、金なら有るのだ……ほれ、通り」
そう言って男が無造作に投げ出したのは、ちょうど手のひらに乗るくらいの、しかしいやに持ち重りのする革袋だった。それを卓の上へと放り出す。転がり出たのは銅貨でも銀貨でなく、黄金の正八角形──オクタゴン金貨であった。それも2枚や3枚どころではない。皮袋いっぱいに詰まったそれは、下手をすれば通りの区画ごと買えるほどの金額だ。
余りに浮き世離れした男の金銭感覚に、店中全員があっけにとられ、このお大尽の素性を改めて訝った。
男は全身に刺さる視線を心地よさげに受け止め殊更に大きくふんぞり返ると、手のひらで金貨を弄びながら、瓶ごと奪ったメスカルに口をつけ、一息に呷った。
げふりと酒臭い息をつき、尊大極まる声と視線をジョシュに向かって投げかける。
「……主よ。この娘を身請けしたい。……異論無いな?」
「困りやす。その娘らは売りもんじゃねえ」
「固いことを言うなよ店主殿。斯様な姿で媚を売らせておいて、売り物ではない? ……フン、信じられるものかよ」
男の口はすっかりと饒舌さを増し、店主の苦言を一蹴すると、その舌鋒はルシアへと向かう。貴族特有のねちっこさでもってしきりに美しい髪を手櫛ですきつつ、しっかりと腰を抱いたまま離さない。
「……君も君だ。その格好、その体つき……誘ってないとは言わせぬぞ? 先ほどのアレは何だ? はしたないとは思わぬか?」
「それは……」
問われてルシアは言葉に詰まる──あんなものはちょっとした、小遣い稼ぎのための心付けみたいなものである。
それをわざわざ目くじら立てて問い詰めるのは、自身が盛り場の作法も分からぬ無粋ものだと宣言したに等しい。しかし正直に告げた所で、この莫迦者に伝わるかどうか……。
男はその沈黙を一体どう受け止めたのか、やにわに膝を叩いて立ち上がった。
「おお、わかったぞ! 君は……君達はアレだな? 不安なのであろう? 一体全体この若造、どこの成金の小倅か、とな! ならばよろしい、この私も名乗るに吝かではない。いいか、よく聞き給え! 我が名はジョルジュ! ジョルジュ・サンパレス! 恐れ多くも王家よりこの地を賜りし、武神マスラウがその末裔、カロッゾ・スサ・ブドゥージョ・ド・サンパレスが四男である!」
「「「はぁ!?」」」
朗々と歌い上げるようなその名乗りに、今度こそ店内は言葉を失った。客やレーナはおろか、ジョシュでさえもがぽかんと大口を開けている。
サンパレスといえば、恐れ多くも我らがブドゥージョの大領主。いかに貴族を憎もうと、武神マスラウとその末裔に限っては話は別。また現当主カロッゾは謹厳実直を絵に描いたような男と評判でもあった。
その子弟を名乗る男が、まさかこんな盆暗のボケナスだとは──……。
愚鈍あらため大貴族の四男は、一堂の絶句に満足気に首肯すると、いよいよ獣欲を解き放って再びルシアににじり寄った。両手の指先はワキワキと卑猥に蠢き、狙い定めてまっしぐら──ゴールは勿論、可憐な乙女の豊かに実った双子の山地。ルシアは怯えて動けない。哀れ慰み者になる寸前、駆けつけられたのはただ一人。
「そこまでよ、お坊ちゃま」
凛とした声音が響き、一同がハッと意識を引き戻される。
一体いつの間に動いたのか、気づけばレーナが仮面の如き無表情で二人の間に立ちはだかって不埒者の手首をかたく戒めていた。
ジョルジュはとっさにその手をふりほどこうと力を込める。が、びくとも動かない。驚き目を見張りつつ、しかし動揺を悟られぬよう、つとめて落ち着き払った低い声で問い返す。
「……この手は何かね」
その声には露骨に不興が浮かんでいたが、レーナは全く動じない。きゅっと柳眉にしわ寄せて、フンと小さく鼻息一つ。
「触んなっつってんのよ。アンタがどんだけ偉かろうとルールはルール。お店の中じゃ守って下さい」
この短気狒々にしては相当に抑制の聞いた常識的な物言いに、ジョルジュは酔いを忘れて更に気圧された。
しかしここで引いては名折れとばかりに、女の言葉尻を捕まえ反論を試みる。
「……店の外ならよいのかね?」
「そりゃあ構いませんけど、見てわかりません? この子嫌がってるでしょうが。それとも力尽くですか? まさか由緒正しいお貴族様がンな野暮なことはしませんよね?」
「む……」
たちまちの内に言いくるめられ、ジョルジュの腕から力が抜ける。敵ながら見事な弁舌。野暮と切り捨てられてしまっては、流石に口をつぐまざるをえない。
「それと言っときますけど、そんなはした金じゃうちの子はなびきませんから。ヤリきゃよそを当ってくださいな。代わりに、あたしも店のみんなも今起きたことは全て忘れます」
きっぱり真っ向から諭され、ジョルジュは改めて女中の端正な顔をまじまじと見つめた。すると蕩けた眸が不意に覚め、真摯な目線がまっすぐに瞳を捉える。突然の紳士モード──この期に及んでレーナの胸が、小さくトクリと乙女に揺れる。
……それが、悲劇に繋がることも知らずに。
レーナの手がゆるんだほんの一瞬。その一瞬の隙をつき、ジョルジュはサッと素早く手を引きぬくやいなや、稲妻のように鋭く早く閃かせる。酔漢とは思えぬ鮮やかすぎる手並み。レーナはとっさにルシアをかばい、大きく手を広げて立ちはだかる。しかしそれこそが、ジョルジュの思う壺であった。
──ぺたり、と。
そんな擬音がふさわしい、酷く物悲しい感触が、ジョルジュとレーナの腕と胸、双方の感覚神経を駆け抜けた。そこはまさに、時の流れを凍らせる禁断のスイッチであった。
ソムリエの如き厳しい目つき。弄る手つきは職人の技巧──神をも恐れぬ悪魔の所業。男は誰にもできないことをやってのけ、モヒカン達は不覚にも痺れてあこがれた。
レーナは思考が飛んで言葉が出ない。男もしばし無言で揉んだ。眉間にしわ寄せ懸命に。ほんの僅か、かろうじて膨らんでいるとわかるだけの感触。衣越しのもにむにをたっぷり3分は確かめた挙句、再び視線をあげ、残酷なまでに冷えた声にて、告げる──。
「……チェンジだ」
この上なく重たい沈黙の中、レーナは動かない。動けるわけもない。そもそも意味が分からない。
何だこれ。何してんのコイツ──ぱくぱくと口を喘がせ、「は?」だの「……え?」だのと、それだけ言うのが精一杯。他の者も未だ動けず、勇敢な貴族の偉業を見送るしか無かった。
一方、ジョルジュはやれやれと首を振りたくり、沈鬱な表情でトドメにかかる。
「……男は度胸、女は愛嬌。そして貴族は酔狂とはよく言うが──この平たさ、この虚しさ……何かねコレは? 私を愚弄しているのか? それとも哀れみでも乞うつも」
「グロオォォォオオオオオオッ!!」
レーナはみなまで言わせず、問答無用左のフック──男の首をねじ切る勢いで炸裂し、無礼な妄言は中断された。
なおもレーナは鼻息荒く、残心をとどめたまま。怒りのあまり拳が震える。ジョシュは額を押さえて天を仰ぎ、モヒカンどもは再び快哉を叫ぶ。
「……貴様ッ!! 試し揉み中だぞッ!?」
「強打!!」
再度の打擲は天高く馬殺す右──狙い過たず脳天を穿ち、不逞の輩を大地へと誘った。
レーナは怒りに震えつつ、未だ感触の残る場所へと視線を落とす。なだらかすぎる儚い丘。その深奥で屈辱が燃えさかる──チェンジ? チェンジだって? 出来るもんならしてーわよ。人の未来閉ざすなよ。何勝手に諦めてんだよ。もっと頑張れ、大きくなれよ! ……とうとう最後は自分を励ます羽目に。
貴族だとか店に迷惑だとか、そんなことはどうでもよかった。ただただ奪われた尊厳の大きさを思う──じわりと涙がにじみ、慌てて上を向く。ダメよレーナ、泣いちゃダメ。今はまだ、その時はじゃないわ。泣くのはコイツを殺して叩いて潰して炒めて燃やして埋めてから……独創的かつ猟奇的な創作料理を振舞うべく厨房へと引き換えさんとしたその時、背後でモヒカン達のどよめきが上がった。
「ま、まて……貴様……ッ」
なんとジョルジュが立ち上がり、頭を振って痛みにを追い出しているところではないか。
これにはさしものレーナも驚いた。手応えバッチリ、確実に仕留めたと思っていたのに。しかし現にまだ息があり、首の据わらぬ有様ながら、その目は戦意をたたえてギラリと光る。
「一度ならず二度までも! 許せぬ……断じて許せんッ!!」
「ヘハハァ……上等だァ……! 許さねーのはこっちの方だよ、このシャバ憎がァッ……!」
レーナもまた向き直り、乙女の大敵と胸突き合わせて睨み合う──ちくしょう。返せ、あたしのときめき!
しかして慟哭は声にでず、また出さず。まなじり吊り上げ、鬼も裸足の凶相浮かべて唸りを漏らす。
本日三度目、そして女の尊厳を賭けた闘いは、ひどく悲しい雄叫びが始まりの合図となった。
「グロォオオオオオオアアアアッ!!」