プレイバック霊界
「……ギブア────ップ…………!!」
「えっ!?」
ぺちぺちと肩を叩く感触と全力過ぎる悲鳴が、冴夏の意識をハッと現実に引き戻した。その拍子に身体を捻り、耳元でミシミシバキバキと嫌な音が響く。
いけない、またやって──殺ってしまうところだった。一度極めにかかるとつい我を忘れてしまう。
冴夏は肩固めを解きながら、今しがた息の音を止めかけた相手を見下ろした。男だ。中年のアスリート体型。筋肉の付き方からして、おそらく総合格闘家。
「えっと……大丈夫ですか……?」
男は首を一度頷きかけ、やはり首を横に振った。ダメらしい。目尻にうっすら涙を浮かべ、喉を抑えて舌を出し、ゼイゼイと喘ぎながら呼吸を整えている。
冴夏は暫く背中をさすってやりながら、周囲を見回す──しかしてここは、一体全体何処だろう。
どこもかしこもひたすらに眩しいほどに白く、上を見上げてもどこにも光源らしきものは見当たらない。遥か彼方に地平線らしきものが切り取り線のように霞んで見える。
ひょっとしてここはアレか、ボール集めの漫画に出てきた一日が一年になる特殊なお部屋だろうか。
だとすれば何たる行幸──減量ができる! 冴夏はいそいそとアップを始め、そこではたと気がついた。男の傍らに何かある。水と、そしてバナナが一房。
「ウホッ」
イイ食料──思わず伸びる右の手を、左手がとっさに抑えこむ。駄目だ駄目だ。せっかくここまで落としたのに、ここに来てカロリーなんて。
ああ、でもいい匂い……思わず小鼻をウホらせて、胸いっぱいに香りを吸い込む。
極限まで研ぎ澄まされた嗅覚で生産地を探る。この黄色さ、この丸み、小ぶりながら濃厚に香る果指の香り。そう、これは──!
「それは私のフィリピン産だ」
心を読んだようなツッコミに、冴夏は身を竦めた。視線を戻せば男がどうにか立ち直り、居住まいを正しているところだった。
──なんだろう、この人。弱いけど得体が知れない……凄く弱いけど……。
冴夏は大事なことを二回思い浮かべると、改めて男をしっかりと観察した。ダンディフェイスにカイゼル髭、上半身は裸で、下は黒いビキニパンツにレスリングシューズ。手足ワキにはムダ毛なし。
その癖ギャランドゥはご存命。キモイ。浅黒い肌には冷たい汗をびっしょりとかいていて、せっかくの腰のベルトが濡れ濡れだった。
そう、ベルトだ。金色の楕円に色とりどりの宝石を散りばめた、誇り高き強者の証。そのど真ん中に、荒々しいフォントで「GOD」なる団体名が刻まれている。
──そんな団体あったっけ……この男子選手の名前を必死に思い出そうとした。が、やはり見当はつかない。
さもありなん、とまたしても心を読んだように鷹揚に頷き、男が名乗る。
「我が名は闘争神……あまねく戦いの神である」
あんまりなリングネームに冴夏はうんざりし、ついで小首を捻らざるを得なかった。
神というにはあまりに弱い。もっとこう、とても太刀打ち出来ない様な威厳とかオーラがあって然るべきではないだろうか?
ましてや人間の女相手に簡単に泣かされるというのはちょっとどうなのだろう──…失礼千万な事を思い浮かべていると、自称・神は切なげに遠くを見た。
「うん……まさか秒殺されるとは思わなくてね……割とマジで立場がないっていうか反省はしてるけど、あまりいじめないでくれると神様は嬉しい」
「す、すいません……」
冴夏が素直に頭を下げると、自称・神はようやく胸を張る。それでも冴夏のほうが背が高く、ただ偉そうなおっさんにしか見えないけれど。
とりあえず相手の言う事を尊重し、冴夏はその場に正座した。この辺りの機微を知らねば体育会系ではやっていけない。
「では落ち着いて聞き給え、Ms.サップ。……You Died.」
「そっ……」
そんな──…激しい同様に襲われた冴夏は、MEはSHOCKで二の句が告げない。
「いやね、『そんな』って言うけど、普通コンボイとぶつかったら死ぬのはわかるよね?」
「あ、はい……でも……」
ショックなものはショックだ。
先刻の記憶が徐々に蘇り、やはり夢ではないのだと悟る。
つまり目の前のおっさんはお迎えで、ここはつまり、そういう場所で──…。
「いや、嘘だ」
きっぱりと強く言い捨てた。信じられない、ありえない。なぜなら冴夏はここに居る。意識は間違い無く鮮明にあって、足だってきちんとついてるし──……何で?
手も足もねじくれて居たはずなのに。よしんば歩けたとして、こんなに元気なはずがない。
あんなにひどかった痛みもなくて、だからそう、あの光景こそが夢のハズで……。
「……違う!」
もう一度強く。一度でも疑えば、全て受け入れざるをえない気がして。
赤べこのように首を振りたくり、冴夏は必死で抗った。何に対してかはわからない。ただただ認めたくなかった。今自分が戦っているのは、きっと形のない何かだ。
理不尽とか不運とか、この手を伸ばしてもつかめない何か──戦いようがない。こうして否定し続けるぐらいしか。
そんな冴夏をあざ笑うように、まっさらなキャンバスそのものだった空間にが変化した。
砂嵐のようなノイズの中に人影が映り込む。呆然とする冴夏を他所に、徐々に鮮明になっていく。
「……これは?」
「……君の、その後だ」
大手キー局の女子アナが沈痛な面持ちで一礼し、原稿に目線を落とす。
「本日の正午過ぎ、女子総合格闘家・沙布冴夏さんが大型車両と激突し、その場で亡くなられました。死因は頭部および頚椎の損傷によるショック死と見られておりますが、詳しい原因は調査中です。大型車両の運転手は事故直後に出頭し、現在取り調べが続いているものと──…」
ぐしゃぐしゃに凹んだフロントバンパーの中心に、ちょうど人の頭ぐらいの強い凹みが出来ている。
画面が切り替わり、今度はどこかの記者会見場へと移った。大勢のマイクが突き出される中、WTFの社長や大学の恩師らが沈痛な面持ちで居並ぶ。
…──あの人も居た。
端正な顔をくしゃくしゃに歪ませ、無数に突き立つマイクの前で呆然と一言も発せずにいる。
冴夏が何かを思う間もなく、不可思議なビジョンは次の場面へ切り替わる。
会場になるはずだった国技館。
お別れの会と称して、無数の、本当に大勢の人々が華を添えてくれている。
知っている顔を見つけた。泣き崩れているあの彼氏。それを支える彼女の方も、やがて貰い泣きで崩れてしまう。
「なんだよ……何でコンボイに負けてんだよ……勝つだろ……サップなら勝つに決まってるだろ……常識的に考えて……」
そして、ビジョンは最後に──ひどく懐かしい場所へと移り変わる。
壁に飾られたたくさんの表彰状。置き場所もないくらいのトロフィーと楯。
3人で暮らした、少し狭いけど思い出の詰まった我が家。心なしか煤けて見えるリビングに、二人の男女が寄り添うようにして腰を下ろしている。
両親は遺影を手に、テレビをじっと眺めていた。液晶には亡き娘の姿が写っている。ことさらに感傷を煽るような大仰な、それでいて安っぽいナレーション。
いつまでもいつまでも、静かに眺め続ける母の背中を、父がそっと撫でさする。もう涙も出ないのか。それとも、泣けないからそうしているのか……両親の憔悴した様子に、いよいよ認めざるを得なかった。
……沙布冴夏は、本当に死んだのだ。
◆
二人の間にたちまち重苦しい沈黙が垂れこめた。
ぐにゃりと歪んだ感覚がして、強烈なめまいをが冴夏を襲う。両手をついてかろうじて耐えた。気持ち悪い。吐くものなんか無いのに。私は死んでいるのに。
「……また、なんですか」
「む?」
「あたし、また戦えなかったんですか……?」
俯き、唇を噛む冴夏の顔は無念に歪み、固く瞑った瞼から、熱い涙が一筋流れる。とうとう肩を震わせ、鼻をすすって身も世もなく泣き崩れた。
──うおおおおおん。うおおおおおおおおん。
ヒグマの如くすすり泣く冴夏に、自称神はしばしの間立ち尽くした。彼女が荒れ狂うのを前にして言葉も無い。
冴夏が泣き疲れ、抜け殻のようになってようやく、意を決して口を開いた。
「……すまない」
地に頭をこすりつけるようにして、神は何度も詫びた。
冴夏には意味がわからないし、わかるつもりもない。
──うるさい。放っておいて。心が読めるんでしょ。神様なんでしょ。察してよ。理由も言わずに謝られても、かえって不愉快なんですけど。
はたしてそれを読み取ったか、闘争神はおもてを上げ、血を吐くように告げる。
「……私が、君を利用したのだ」
冴夏の身体がぴくりと反応する──利用という言葉に胸を刺し貫かれていると、神は黙って空を指す。
「まずこれを見て欲しい」
闘争神が示した先、再びビジョンが現れた。
試合当日──冴夏の命日。ビジョンの中の冴夏は自身の記憶の通り、寮の自室で体重計に乗っている。90.2kg、リミットジャスト。完璧な仕上がりに満足そうな笑顔。
羽でも生えたような足取りで、軽く汗を流して現場へと向かう。気合の入ったいい表情だ。
一方、冴夏と遭遇することのなかったコンボイは何事も無く事故現場を通過。悠々と巨体を滑らせ都内を進む。やがて車は見慣れた街──力士たちのサファリパーク、両国へ。
運転手は鼻歌交じりでハンドルを握り、手でひさしを作って天を仰ぐ。
仕事日和だと言わんばかりに眩しげに笑い──胸を抑えて蹲った。何かの発作か、それきりピクリとも動かない。
右足はアクセルペダルを踏み抜いたまま。それに従いコンボイがスピードを上げた。鋼鉄の巨獣が前方を走る車を跳ね飛ばし、それでも止まらない。
ひたすらになんかし、旧安田庭園を右手に見ながら一心不乱に国技館へと迫る。運転手は動かない。動けないでいる。苦しげに胸を抑えたまま、意識を手放していた。
開場を待つ人々が異変に気づいた時には、それは既に避けきれぬ物となっていた。
凄まじい勢いで激突したコンボイはそのまま横転し、逃げ遅れた人々を次々と巻き込みながら、尚も止まらず突き進む。
鋼鉄の死が酸鼻極まる暴食を止めた時、そこに広がっていたのは悪夢としか言いようのない光景──冴夏は無言で振り返る。闘争神の顔は痛ましげに歪んでいた。
「……私は、どうしてもこれを防ぎたかった。止めるにはこれしかなかった。あの時コンボイと戦えるのは君だけだった」
「だから、あたしの体重を……?」
「そうだ。神とはいっても、この世の運命を変えるのは容易ではないのだ」
「……だって、神様なんでしょう? 凄い力の持ち主なんでしょう!? 車を止めたり、運転手さんの病気を治すなり……!」
神は首を横に振り、苦しそうに告げた。
何故神々が人の世を救わないのか──…そもそも、救えないのだ。なぜなら神は、肉体を持たない。魂魄に近い別の階梯の存在である。
魂に対しては絶大な力を誇る神族だが、物理的には殆ど影響を及ぼせない。できる事といえばせいぜい、体重をほんの200グラム押し上げる──そのぐらいのちっぽけなもの。
この世の理を大きく覆すというのは、それこそ奇跡に等しい所業なのだと。
「……言い訳をさせてもらえば、勝算は十分にあったのだ。本来の君は強い。万全の状態であったなら、おそらく無傷で止められたはずだ。だが時間がなかった。あの状態の君を行かせるしかなかった。大勢の人の命と、日本の総合を守るために」
何度目かの沈黙。冴夏はうなだれたまま、身じろぎ一つせず。
再びヒグマ哭きされる前に、闘争神はもう一度頭を下げた。
「……Ms.サップ。我々の都合で、君には本当に気の毒な事をした。だが君は見事、その身を呈して大勢の人々を、日本の格闘技界を救ったのだ。その強さと功績を讃え、君を戦士たちの秘密の花園『ヴァルハラ』へと招待しようと……思ったんだが……」
そこで、神は言葉を区切った。区切らざるを得なかった。がら空きの土手っ腹に、たっぷりとブルーツ波を浴びた類人戦士が飛び込んできたのだから。
「んホォッ……!!」
重量級の砲弾が闘争神を朽木のようになぎ倒し、彼の頭を白い大地へと強く打ち付けた。仰ぎ見れば、90.2キロの人間山脈がどっしりと腹の上に根付いている。
『あ』と小さく声を上げた所で、顔面に爆発を浴びた。絶叫と体重とスピードの乗った拳という名の榴弾がウホウホと降り注ぐ。
一発一発に、無数の想いが篭っていた。死にたくなかった。弄ばれた。悔しい。でも、あんな地獄は見たくない──千々に乱れた想いをぶつけるには、恐らくこれしかないのだろう。なれば受け止めるが神の勤め──避ける事もせず、人の手による裁きを受け止める。
それにしても強烈だ。仮にも闘いの神ともあろうものが、あまりの痛さに泣いて謝りたくなって来た。
意識を根本から刈り取る呵責なき連撃に、神は自らの立場を忘れて祈る。
…──どうかくれぐれも、死神のお世話にならないように、と。