蛮勇少女
痺れるような空気の中。
少女が一歩、前に進む。威風堂々、衛兵の男に苦鳴をあげさせたながら。
彼の手に極まった技は、手首の付け根を丸めるように握り、ぐいぐいと身体の外に向かってねじり上げているだけ。
およそ技とも呼べないような代物だった。男躍起になって引き剥がそうと、まだ自由な左手で力を込める。が、全くに歯がたたない。驚き、少女の顔を見やれば、怒りも痛みも数瞬忘れるほどの涼しげな美貌──涼しげなまま怒るという、中々に複雑な面持ちのまま。
その目にも腕にも力んだ様子もなく、拾ったの小枝をひっつまんでいる、そんな無感動があるばかり。と、突然に目が合った。同時、
──ぐじっ。
湿り気のある音と感触が、男の中で渦を巻いた。
原因を辿れば、見事にへしゃげた右手首。視覚と触覚、その双方で味わう灼熱──。
「あ……あGAAああああえェあああがっぐぎあああAAAAAAああァあァッ!!」
さらなる絶叫が夜の南通を恐れの色に引き裂いて、追う兵も追われる民も、皆一様に居竦んだ。
少女は──レーナは、早速に壊した男をつまらなそうに見やる。面倒臭げに尻を一蹴り。さしたる威力もないそれを受け、男がまろぶように逃げ帰る。
逃げ帰った男は涙と鼻水と脂汗を流して身悶える。衛兵たちは地を転がる仲間に駆け寄り、急ぎ助け起こした。
どうやら折れてはいない。が、見事に関節が外れ、ぶらぶらとだらしのない様子になっていた。騒然となる衛兵たちと、呪縛を解かれて逃げ去る外野。
レーナはその一切に反応せず、ゆるい夜風に髪をなぶらせた。
その一陣が吹きすぎ終わるその頃には、レーナの顔にはありありと怒りが滲んでいた。
乱れ髪もそのままに、柳眉も険しく、カツカツと音高く、無人の荒野を行くが如し。
進むほどに歩が早まり、いよいよその身体が、一気呵成に飛びかからんとしたまさにその時、レーナは背後から強い力で取り押さえられた。叔父のジョシュ渾身の羽交い絞め。
レーナはじたばたともがき、その戒めを解こうとする。
「おいやめろ! 落ち着けレーナ!」
「離して叔父さん! そいつ殺せない……!」
その顔を憤怒一色真っ赤に染めて、ド直球の殺意を投げる。時折不意打ちのように頭突きを繰り出す、まるで駄々っ子そのものだ。ジョシュはそれでも、懸命に言葉を投げる。
「言った側からすぐこれか!? こんな無茶通るわけがねえんだ、大人しくしてろ、すぐ終わる!」
「……ッ」
叔父の必死な説得に、野獣レーナはピタリと動きを止めた。いいぞ、大人になった──胸を撫で下ろしたまさにその瞬間、無情のパンプスがジョシュの足の甲踏み抜いた。
「ほォグッ……!?」
珍妙な呻きをあげてピョンピョンと跳ねる元・闘士。
それを振り返り、ギャンギャンと噛み付くレーナの目には、もはや一片の理性もない。
「のめるわけ無いでしょ!? せっかく丸く収まりそうだったのに! アイツ絶対ぶん殴る! んで頭蓋骨引っこ抜く!」
世にも残虐な要望を口にしてバキバキと手指の関節を音高く鳴らす──今度こそ正真の怒りをあらわにした姪を前に、ジョシュはそろそろ胃に穴が空きそうだった。
「ヒース、そっち止めろ! お前の坊ちゃん滅茶苦茶だぞ!?」
「止めたよ、処置なしだ。しかも俺は子守失格だとさ」
問われたヒースは両手を上げて『お手上げ』を示すと、胡座をかいてそのまま傍観を決め込んだ。二つ名のごとく、人参がなければ働かないのが彼の主義だ。
それを知るジョシュは説得を早々に諦め、仕方なく、残った最後の当事者──荒ぶる軟弱へと水を向ける。
「旦那……いやジョルジュ殿下! それ以上の無体は家名にも傷がつきますぞ! すべての責はこの私が受けますゆえ、どうかご寛恕くださいますよう……!」
「ならん。そこの女は我兵を手に掛けたのだ。少なくともそいつには痛い目を見てもらわねばな」
間髪いれずの貴族の反論。レーナとは対照的な、芯まで凍った冷たい怒り。もはや己が下した姪も忘れ、狙いはレーナ一人に絞られている。
ジョシュは冷たい汗を拭いながら、それでも可愛い姪を守るために言葉を重ねた。
「女で、しかも丸腰ですぜ……?」
「私も丸腰であったよ。……ふん、大方護身のために魔石でも持たせたのであろう? さもなければ女風情に、あんな真似ができるものか。そうだ……そうに決まっている……」
それきりジョルジュはぶつぶつと、いまだ乱れた心ままに己の世界へ没頭する。もはやジョシュの声などは一向に聞こえていなかった。
「……話にならん! カロッゾ様がお嘆きになるぞ!」
ダメだっていうか、もうやだコイツラ──元・闘士は思わず叫びをあげ、自らの言葉に天啓を得た。
「そうだ、カロッゾ様なら……!」
カロッゾ・サンパレス。血の気の多い気風のブドゥージョにおいて、唯一畏れと尊崇を集める大領主。ジョシュ自身も何度か会った事があり、それなりに話せる人物であることも承知していた。
身内にはやや甘いと評判だが、幾ら何でもここまでの独走は許しはすまい……ジョシュはそこまで考え、パッと飛び起きると、未だ背に怒りを浮かべる姪を見て嘆息した。これはもう止まるまい。
ならばせめての保険掛け──。
「おい、種馬野郎! 俺は北まで行ってくる。いいか、くれぐれもレーナを本気で暴れさすんじゃねえぞ! 通りが消えてなくなっちまわァ」
「へいへい」
ジョシュはヒースのやる気のない様子に歯ぎしりしたが、それ以上は何も言わずに走り去った。
残されたヒースはヤレヤレと肩をすくませ、すぐ側に落ちていた酒瓶をとって口をつけた。散々な一日だ。飲まなきゃやっていられない。
◆
ヒースがうら寂しい一人飲みをおっぱじめたその間にも、両者の睨み合いは続いていた。
レーナを中心に左半分、衛兵達が睨みをきかせ、右半分にはモヒカン達が歯をむき出す。
頭目気取りのモヒオが一歩踏み出し、兄貴分の号令を今か今かと待ち構える。
しかしレーナの命令は、彼らの出鼻をくじくものだった。
「モヒオ……悪いけど下がっててくんない?」
「うぇえ!? 折角のヒャッハー日和に!? 独り占めするんスか!?」
切なげな舎弟の声に、レーナは目だけで振り返る。
「お前らと一緒にすんな。別にあたしはヒャッハーしてー訳じゃねーわよ」
「そうつれねェ事言わんでくださいよ。酒を抜くにゃあ、ちょうどいい人数だ」
また一歩を進めながら、モヒオはくつくつと笑って肩を震わせた。いかにもな悪役笑い。
久方ぶりの暴力の匂いに、悪童の本性が疼いたようだ。そろそろそりと背中に手を伸ばし、愛用のトマホークの感触を得る。
今しも口火を切ってやろうと口を「ヒ」の字に開いた瞬間、凄まじい風圧が彼の顔を叩いた。兄貴分の風切る裏拳。豊かに実ったモヒカンがそよぐ。
「だったら店仕舞いで酒抜きな。それから、ルシア達を家まで送ること」
淡々と拒絶しながら、どさくさ紛れに面倒事を押し付ける。
レーナはそこで再び目線を戻し、低く歌うように囁く。その一言で、悪童の顔色が真っ青に転じた。
「──ちょっとだけ、本気だす」
「……ぎ、御意ッス」
振り返らずの宣言に、モヒオはかくかくと頷いた。仲間たちもそれに続きながら、『よーし、床磨き頑張っちゃうぞー』などと白々しく嘯いている。彼らの顔は一様に青ざめており、それが眺めるヒースに違和感を与えた。
先刻のジョシュといい、あの娘一人に振り回されている。どうも彼女が元・主人を可愛がった張本人のようだが、それにしたってあの反応はなんなのか。もやし一人を張り倒すぐらい、誰だって出来そうなものだが……。
(ふぅん、『ちょっとだけ本気』ねぇ……)
まあ、ちょっとならいいだろ──ヒースはジョシュの忠告を追いやって、勇ましい少女を食い入る様に見つめた。
ピョンピョンと飛び跳ねて足元を確かめてから、右手を前にだらりと下げた左構え。なるほど、なかなか様にはなっている。腕にも自信はあるのだろう。
が、相手は武門で知られるサンパレスの衛兵だ。最低でも下級闘士と互角か、それ以上でなければ勤まらない。隊長格にいたっては中堅闘士にも匹敵する。
それが、20人。今は一人、不覚を取って19.5人としておこうか。ヒースは既に傍観者とはいえ、女一人に大げさすぎる……いや、一人だけ心当たりがなくもないか。
(……アイツ相手じゃあるめえしよ。情けなくって涙がでるぜ)
ひょっとしたらひょっとして……いや、恐らく彼女は本当に強いのだろう。衛兵一人を難なく出し抜いたあたり、まあそれは認めるとしよう。
それでも所詮は女一人。一人二人はどうこうできても、この数を前には長くは持つまい。
むしろ下手に善戦しようものなら、かえって兵達を怒らせるだけ。傷物にされない、という保証もない。
ほどほどのところで止めてやろう──いつでも動けるように準備だけは怠らず、ヒースは今一度レーナを見た。ただし今度は、性的な意味で。
胸は少々……いや、全く持って物足りないが、他は殆ど完璧である。凛々しい顔立ちといい気の強さといい、実に彼の好みであった。
(むざむざしょっぴかせるなんざ勿体ねぇや。ひん剥かれねぇうちにかっさらって、うまいこと慰めてやりゃあ……)
頭のなかに種馬のごとき妄想を広げ、鼻の下をだらしなく緩ませた。……故に、彼は見逃した。
たった今彼女が見せた──電光石火の一撃を。
ニヤニヤしながら酒瓶に口をつけた丁度その時、唐突な爆音と衝撃が耳を弄した。驚きに瓶を取り落とし、中身の酒がダクダクと溢れる。
その液体が向かう先……打ち壊された屋台の残骸、その中心には喉を抑えて舌を突き出し、白目をむいた男が一人。先刻少女にやり込められた、0.5人前のマヌケ野郎。
「あァ……!?」
己もまた間抜けな声を上げ、ヒースは思わず自分の目を疑った。
少女が高々と振り上げた右足、そのつま先から未だ立ち上る土煙。踏みしめた軸足で石畳をビリビリと震わせ、見事な残心をとどめていた。ふわり翻ったスカートの裾を、ちょこんと直す余裕すらある。スカートの下、秘密の中身は秘密のまま──一つの彫刻のように、美しく理想的な立ち姿であった。
ヒースは更に目を瞬かせ、レーナと伸びた男の間を何度も往復させた。今のレーナと転がっている男の距離──ゆうに7、8ミーテルは離れている。
──この距離を、あの蹴りで? もやしのジョルジュはともかく、曲がりなりにも大の男を……?
ところがどっこい、これが現実。ヒースは未だ動けず、その光景に戦慄していた。
一堂唖然のその様子に、蛮勇少女が一人で笑う。
愛嬌たっぷり、華のように。
「さっ、次の人?」