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プロローグはベタベタに

 

 陽炎揺らめく東京都心の交差点で、女子大生、沙布冴夏(さっぷさえか)は考える。


(──あたしって今、食べ頃なんじゃないかなあ?)


 8月半ば、本日正午の天気予報、予想最高気温は摂氏34度──実際にはそれを3度ばかり上回る。

 見上げた空の左手に入道雲が浮かんでいて、更には太陽が覇王のごとく鎮座ましまし、日本の首都を地獄の釜へと変えている。


 おかげで冴夏は身体と言わず頭と言わず、脳幹の芯、髪の毛一本分を残してしっかりこってり熱が通っている。

 今のあたしはアルデンテ。これ以上茹でたら硬くなって美味しくないハズ──…なかなか変わらない信号と同じく、彼女の思考は真っ赤な色で染まりつつあった。


 冴夏は、周囲へ視線を向ける。彼女が立つ横断歩道には、かなりの人だかりが出来ていた。

 他愛のない話に花を咲かせる学生諸氏、何が珍しいのかあちこちカメラを向ける外国人旅行者。

 物珍しげにその姿をチラ見するOLにギャル。

 そんな彼女達の透ける背のブラ紐や、大胆に剥きだした汗みずくの太腿にひと時の癒しを見出す殿方諸氏。

 こうして見ると、暑さにはうんざりしながらも夏独特の雰囲気を皆どこか楽しんでいるようにも見えた。


 そんな中、一人冴夏だけがは見た目も行動も場違いだ。

 196cmの長身を黒一色のサウナスーツに身を包み、フードも目一杯目深に被っている。

 狭い視界の中で、絶え間なく行き交う車両の群れと対岸の人々の姿が上下に揺れる。急遽設定したマラソンコース。

 運悪く足止めを喰らい、規則正しく足踏みをし始めておよそ1分30秒が経過。未だスクランブル交差点は緊急発進(スクランブル)させてくれる気配はない。

 冴夏の喉はもうすっかりカラカラで、ひたすら熱がこもったスーツの下には汗一つ流れていない。それ程までに乾いている。


 それでも彼女が足を止めないのには訳がある。……単純明快、ダイエットだ。


 とは言え、『やぁん、サエカってば夏なのにあちこちユルユルなの☆ カレに見せらんない(*´艸`*)』と言うようなクソ甘ったるいスイーツな理由ではない。

 女性としては規格外に近い身長に、スラリと伸びた長い手足。全体的に細身で引き締まっていながら、その癖しっかりと主張するべき所は主張している。とりわけ前面にムンと突き出された双子の半球は、さながらよく熟れたスイカのよう。が、何よりもチャームポイントはそのお腹である。見事に割れた6つの(シックス)コブ(パック)。ちょんとつつけば薄皮一枚の下、鉄板のように頼もしい感触が、今はスーツの下で「ヒッヒッフー」と呼吸に合わせて蠕動している。よくよく見ればその手首足首にはリストウェイトが重量感たっぷりに巻かれていて、動かす度にチャラ男のアクセのごとくに音を立てていた。


 ヂャラヂャラたゆんたゆんヒッヒッフー。硬軟取り合わせたSE振りまく黒い巨人を、周囲の人々は鬱陶しそうに、あるいは物珍しげにチラ見を繰り返す。

 見られることには慣れているが、今日はとりわけ視線がアツい──特に頭の軽そうな男女のつがいは、遠慮も会釈もなしに冴夏を見て笑い合っていた。

 互いの腕を相手の身体のそこかしこに巻きつけて、キャッキャウフフと夏の正午に鬱陶しい彩りを添えている。

 内心穏やかならぬものが芽生えてくるのを努めて抑えながら、冴夏もまた彼らを目だけで追いかけた。


 冴夏に負けず劣らず茹で上がった二人の様子は、彼女と同等、あるいはそれ以上に悪目立ちしていた。

 男の方は、サングラスに恵方巻きじみたリーゼント。

 夏だというのに鋲付きの革パンを履いていて、ちょいワル気取りでガニ股っている。そこに足を絡める女は、乳尻太腿をパツンパツンにはみ出させたワンレンボディコン。羽根つき扇子をひらひら踊らせている。生きたバブルがそこに居た。体臭とどぎつい香水が混ざり合い、周囲一帯に化学兵器めいた悪臭を垂れ流している。

 所々訛りの混ざったあたり、頑張って背伸びしてきたお上りさんなのだろう。声もでかいし、よくよく見れば随分と若い。中学生だろうか。

 黒い巨人に昭和勢──対面の信号待ちの方々には、さぞ真夏の幻覚じみて見えることだろうその光景に不穏な空気が徐々に高まっていく。

 人々が無意識のうちに惨劇を予感したその時、一陣の熱風が吹きすぎた。

 強烈な向かい風。車の排ガスと混ざり合った悪戯なビル風が女性陣の短いスカートをはためかせ、おっさんの枯れすすきめいた頭から数少ない実りを刈り上げる。冴夏のフードも漏れなくその餌食となった。


 白日のもとにさらけ出される、やはり全体的に大きな頭と顔──ウホッとした目、ウホウホっとした鼻、ウッホウッホな唇……どこかネアンデルタール人を思わせるゴリッとした顔立ち。

 髪型は金色に染めたベリーショート。髪の毛の一本一本が、針金で出来ているかのように太くて硬い。キリッとふとましい眉毛と合わせて、なんとも雄々しい有様だった。


 サウナスーツを着た森の賢者が、突如都心の真ん中に現れた──瞬間、信号待ちの人々は寸時思考を真っ白に焼かれて固まった。


 殆どの人が頭に『!?』を浮かべて後退(あとじさ)る中、しかし古代人二名だけは違った。

 素早く立ち直った男のほうが、何故か感涙にむせんだ様子で冴夏の方を指さした。


「さ、サップだ……!」


 一瞬、どよりとざわめきが起こる。

 遅れて気を取り直した女が、脳までヘリウムで侵されたアホっぽい声で乗っかった。


「ボブサップとかなっつかしー(笑) 超ウケる(笑) どこどこ? どこいんの?」

「ちげーよ、()のほう! すげぇ、マジデケェ! 強そう、かっこいい!」


 男のほうが興奮した声で叫ぶ。のみならず、なんと馴れ馴れしくも冴夏の二の腕あたりをバンバンと叩いた。何なんだコイツは、調査兵団の手の者なのか。

 巨人の瞬発力を舐めているとしか思えない。男はサングラスを取り外し、冴夏の頭から爪先までを何度も何度も眺め回す。

 冴夏の頭は益々ファッキンホットに茹で上がり、このまま手づかみでバリバリと食ってしまいたい衝動に駆られた。直後、『みんな逃げてー』とばかりに信号が変わった。

 いそいそと歩行者が横断する気配を感じて、冴夏は我に返って走りだす。

 本人的には軽いジョグのつもりだが、グングンと迫ってくる姿はどう見ても『突撃』だ。


 馬なし騎兵の一人突撃に恐れをなして、人混みがまっぷたつに割れる。お構いなしにその間を駆け抜ける。冴夏は少しだけ、鰯の群れに突っ込むサメの姿を連想した。

 その背中を、例の中坊カップルの声が追いかけて来る。


「サップー! 次の試合絶対勝てよー! 絶対負けんなよー!! 俺、ぜってー応援するから!!」


 はたから聞けばな余りにも失礼な声援。だが、その声には何の裏も悪意もない。

『ああ、しまったな』と冴夏は少し苦い顔をする。


 ──自分のファンなら、もう少し優しくしてあげるべきだった。




 ◆◆◆




 沙布冴夏、21歳──おそらく今が食べ頃の、ピチピチムキムキの女子大生。茹で具合もさることながら、『旬』という意味では尚更だ。


 なぜなら彼女はアスリート──世にも珍しい女子総合格闘家。しかも今をときめく日本のホープ。


 金剛大学3年、レスリング部所属。アマレス戦績、46勝無敗。19歳でプロへ転向、女子総合格闘技団体『戦闘女郎』にてデビュー。以来負けなしの14連勝を樹立。

 どんな相手にも力任せにぶつかっていくアグレッシブなファイトスタイル、そしてその苗字から、キャッチコピーは『ボブサップ(雌)』。あるいは大きな身体から、『女セーム・シュルト』などとも。

 バックボーンはレスリングだが、空手にサンボにボクシング、変わった所では投げ技主体の中国拳法『シュワイジャオ』を嗜む筋金入りの戦う女──それが彼女、沙布冴夏だ。


 人気低迷著しい日本総合格闘技界、それも『女性の選手』とくればニッチもいいところの珍獣だが、現在破竹の14連勝の『期待の星』ともなると、意外と露出の機会も多い。

 この炎天下で頑なにフードを被り続けていたのは、無用なトラブルを避けるためでもあった。何より彼女は、自身の顔が嫌いで仕方がない。

 だが、身体の方は結構……いや相当に好きだ。

 肩口の三角筋は逞しく盛り上がり、見事な隆起を誇る後背筋は、一つとしてつまめる所がないほどに張り詰めている。量感豊かなバストを支えるは、鍛えに鍛えた大胸筋。

 未だ殿方に触れさせたことはないが、触ればバスケットボールのような質感が楽しめる。

 機能美と肉体美、その双方を兼ね合わせたどこもかしこもキレているこの肉体──どこからどう見ても食べごろだろう。

 少々脂身に乏しいが、そこはまあヘルシーということで一つ納得していただいて、どなたかステキな王子様に食べて頂きたかった。残さず骨までお願いしたかった。


 ……が、彼氏は居ない。居た試しもないし、この先も望みはあまり持っていない。


 それもひとえに、この体格と顔のせい──認めたくないが、自分の容姿は異性に需要があるとは到底、思えなかった。

 両親には感謝している。おぎゃあとこの世に生まれでた時から、彼女はすでに大きかった。6000グラムのヘビーベビー。

 その体格に見合った丈夫過ぎる体質で、病気一つすることなくすくすくと育っていった。

 母の愛情料理を米粒一つ残さず毎日平らげ、中学に入る頃には父を追い越し、それでも彼女のDNAは頑なに成長を止めようとはしない。

 小学校時代は頑なにスカートを拒み、パンツ姿で通していが、中学ともなればそうは行かない。

 果たしていざ着込んだ特注のセーラー服姿は、『学生』の制服というより『水兵』じみていた。雄っぱいがなければ自分でも性別を疑っていただろう。


 そしていざ入学から1週間──やはりというべきか、アホ真っ盛りの男子は彼女をしきりに囃し立てる。

 冴夏を的にした『悪ふざけ』という名のいじめが始ろうとしつつある中、彼女はその芽を全て己の力で摘み取った。……無論、物理攻撃でだ。

 その姿は、馬鹿で粗野な男子を憎む女子一同からはメシアのごとく崇められ、お礼参りの先輩方もことごとくが彼女の前に為す術なく散っていく。

 彼女の前にはもはや敵なし──入学から数ヶ月で校内および近隣一帯のヤンキー小僧をねじ伏せ、日本最強のJCとあだ名される彼女の前に、様々な分野からのスカウトが現れた。

 バレーにバスケにソフトボール、柔道空手道そして何故か書道。引く手あまたの状況の中、彼女が選んだのはレスリングだった。


 冴夏が一目惚れしたイケメンスカウト、その彼が好きだと言った格闘ゲーム。

 そのゲームでいつも使っていたキャラクターが、レスラーだったからだ。


 ──あたしも、サイクロンになる。


 3年後、彼女はサイクロンだった。

 2年の猛特訓の後、日本ジュニア選手権に颯爽と登場、試合開始と同時にタックル→ピンフォール。この繰り返しのみで、あれよあれよと圧勝の山を築く。

 累計試合タイムはジャスト1分。伝説の幕開けである。以降特例でシニア大会にエントリーし、女子72kg級で屍の山を築きあげる。並み居る強豪をねじ伏せ、表彰台で雄叫ぶ姿に日本中が熱狂あるいは戦慄した。


 そうなると、かかる期待は当然五輪、金メダル──強化指定選手の内定を受け、彼女の伝説は第二章に入るかに思われた。

 ところが自身の肉体が、冴夏の夢と希望をを打ち砕く。


 ついに身長180cmの大台を突破した時、彼女の骨格が、鍛え上げた筋肉が、どう削っても女子レスリングのリミットへと収まらなくなったである。

 レスリングは自分のすべて──そう言っても差し支えのない情熱を注ぎ込んだはずなのに、ルールの壁が冴夏を拒む。

 冴夏は涙した。思えば泣いたのはこの時が初めてで、いつも冴夏は笑っているか猛っているかのどちらかだった。

 弱い自分を自覚して、慰めて欲しくって、冴夏はとある男の下へと駆け込んだ。冴夏がサイクロンになる切っ掛けを作ったスカウトマンだ。

『困った時は、いつでもおいで』優しい言葉を思い出し、彼に慰めてもらおうと思ったのだ。

 ところがいざ彼の住まうマンションに辿り着いた時、冴夏は見てしまった。幸せそうに腕を組む、一組のカップル。女の方はお腹が大きく、互いにとても幸せそうだ。とてもじゃないが飛び込んでいける余地はない。自ら傷口に塩を塗ったようなものだ。冴夏はこの時初めて、我欲に任せた安易な選択を後悔した。



 冴夏はレスリング引退を発表し、世間から忘れ去られた。

 かろうじて部に席は置いてもらえているが、どうしたって居心地は悪い。

 柔道への転向も考えたが、どうもあちらの選手には歓迎されていないようだった。無理に軋轢を生むのも面倒で、空手やサンボなどの別競技で汗を流す。

 悩みに悩んだ末、冴夏は誕生間もない女子総合の世界に飛び込んだ。


 日本ではまだまだイロモノの女子MMAだが、北米や欧州では大々的に宣伝がうたれ、映画の題材に使われたりとかなりの人気を博している。

 アマチュアに比べると体重制限も比較的緩く、しかもファイトマネーが手に入る。女王ともなれば、一試合数百万は下らない。

 道はこれしかない──冴夏はそう確信し、今度こそ自分自身の為に決断を下した。


 そうして迎えたデビュー戦──アマチュアとは違う華やかな舞台。女が強くなったと叫ばれて久しい昨今、日本初の大規模興行『格闘女郎』が開催。

 スポットライトを浴びた冴夏はいたく感動した。

 大勢の観衆たちの前で存分に発奮し、今までのフラストレーションを吹き飛ばすかのように荒れ狂う。打撃も関節技もお手の物。

 こと格闘の技術において、彼女の吸収力はとどまることを知らなかった。

 その勢いはもはや何人も止められず、積み重ねた星の数は10と4つ。いずれもKOかTKOでのパーフェクトレコード。既に国内に敵はない。


 完全復活を遂げ、再び時の人となった冴夏に世界最大の総合格闘技イベント、WVTワールド・ヴァーリ・トゥードの招待状が届いたのは今年の頭。

 開催場所はここ日本、両国国技館。強豪集うこの大会に、冴夏は唯一の日本人女子として出場する。地元開催なだけに注目度は高い。


 スケジュールをWVT一本に絞り込み、この8ヶ月間ひたすらにトレーニングに励んだ。

 己の精神と肉体を限界までイジメ抜いての8ヶ月。技も肉体も極限まで高められ、後は試合を待つばかり……その、予定だった。



 ◆◆◆



 冴夏は走る。走り続けている。肌はカサカサに乾いていて、脱水症状で頭痛がする。半ば朦朧とする意識を置いて、手足だけが自動的に動くような有様だった。


 近代スポーツの分野において、日本人が大好きなハードワークや断食はご法度で、特に試合を控えた1週間は、普通は流して疲れが残らないようにするのが常識だ。

 その法度を破らねばならないほど、再び彼女は追い込まれていた。


 WVTヘビー級トーナメント──契約ウェイトは90.2キロ。ところが、冴夏が朝一番で確かめた体重は90.4キロ。

 未だ続く成長期が、呪いのように冴夏の前に立ちはだかった。


 契約体重を上回れば、その時点で失格。その上試合だけはきちんと行い、ファイトマネーは全額没収。

 冴夏自身には無縁のことだが、ドーピング検査で陽性が出れば軽くて1年の出場資格停止、重ければ追放処分。試合のルールはVale(なんでも) Tudo(有り)でも、レギュレーションは非常に厳格そのもの。

 あと200グラム、たったの200グラム。……なのにそれが、どうしても落ちない。


 時計を見る。午後1時過ぎ。

 3時間後の計量までに落とせなければ、全てが徒労になってしまう。このままではコーチや対戦相手、そして何よりファンに面目が立たない。

 先刻のあのカップルの顔を思い出し、冴夏は歯を食いしばった。いつの間にか落ちていたスピードを再び上げて、懸命にカロリーの燃焼を試みる。


(…──あたしは、あたしには)


 もうVT(コレ)しかないのだ。

 中学からの7年間、女の子らしいことは一切せずにひたすら愚直にトレーニングに励んで来た。

 恵まれた体格を生かしただけで卑怯とそしられ、ケタ違いのパワーと打たれ強さの前に敵はない。今まで組してきた選手には申し訳ないが、本当の意味で己の力を出し切ったことはない。

 冴夏は未だ、自分の限界を知らない。だから知りたい。自分がどれほど強いのか。まだ見ぬ強敵を想像するだけで、冴夏の顔はうっとりと夢見る乙女のように綻ぶ。

 力の限り戦って、闘いぬいて──世界で一番になりたい。


 また五輪の夢を絶たれた冴夏にとって、WVTこそが至高の舞台だ。そこで勝ちぬき頂点に立って、初めて冴夏は自身の生き様に胸を張れる。何かを掴んだと言い切れる。

 その為にはどうしてもアレが──ベルトが欲しい。


 金銀ダイヤをふんだんにあしらった、燦然と輝く女王の証。

 アレさえあれば、冴夏はこの先どんなそしりを受けようと耐えてみせる自身がある。

 逆に言えば、栄冠をつかむまで永遠に渇望は終わらない。


 そう、渇望だ。餓えて、乾いているのだ。人並みには生きられず、人並み以上の才能を持て余して、いつまでたっても自分のことが認められない。

 それはとても苦しくて、辛くて。せめて自分だけでも、自分のことを愛してあげたい。その為には証が欲しい。他にわがままは言わない。

 ただ、ベルトだけがあたしの全て──……。


 いよいよ思考中枢は活動をやめ、冴夏は今本能の獣となって、走る事と求める事だけを繰り返している。

 喉が渇いた。お腹が減った。好物のバナナが食べたい。計量後はたくさん食べよう。それから試合に勝って、ベルトを巻くんだ。喉、腹、ベルト、喉腹ベルト、ベルト、ベルト喉腹、ベルト……。

 繰り返される欲望のワルツ。もはや冴夏の目には、あらゆるものが水かバナナかベルトに見える。


 だから『ソレ』が猛然と飛び込んできた時、冴夏には水とバナナをもってベルトを巻いた何者かが飛び込んでくるような、そんなステキな光景に見えた。

 突然訪れるスローモーション──試合中、自身のコンディションが最高の時に訪れるゾーンにも似た感覚。


 相手との距離を測る。一足飛びには距離が遠く、腰が高い。腕を突っ張った体制の典型的なダメタックル、俗にいう『クワガタ』だ。瞬間、冴夏は『イケる』と思った。

 つま先が力強く大地をかみ、ウータンじみたバネが内蔵されたふくらはぎが躍動する。相手の腰よりなお低く、さらに鋭いレッグダイブ(両足タックル)──相手が受け身をしくじればそれだけでKOが取れる、『砲弾』と形容される彼女の得意技。


 同様の技を1万回行なって、1回繰り出せるかどうかの完璧なタイミング──地を這うほどに低く、そして鋭い。

 己を一個の肉の弾丸と化した冴夏がいよいよベルトに手をかけたその刹那、脳天が爆発した。


「ウホッ……!!」


 頚骨が嫌な音を立ててずれ、視界一面が真っ白に染まる。

 冴夏の身体は豪快に垂直に近い放物線で夏空を飛び、地面に向けて聖闘士のように頭から激突した。ニュートンさんに土下座して詫びるべき怪奇現象──Presented by Convoy。

 すっかりとあちこちトランスフォームさせられた冴夏の意識は、急速な眠気に襲われつつあった。綺麗なカウンターをもらった時の感触とよく似ている。全身に痺れが走って、全く言うことを聞かない。

 もぞもぞと身体を動かし、天を仰ぐのが精一杯だった。参った。これは立てない。人生初のK.O(ノックアウト)

 ぶつかったのが750cc(ナナハン)ならば『だったら行けるぜ』で済んだはずなのだが──……流石の冴夏も、コレには耐え切れなかった。


 だが冴夏は諦めない。心底諦めていない。

 ちょっと首がもげそうで、手足がイケナイ角度にぐねっているだけ。ほんのり白い骨が見えるけど、モツまでは飛び出ちゃいない。

 どっこいそれでも生きている──これ何の歌だっけ? と考えるぐらい、彼女の思考は鮮明だ。


 コンボイから運転手が飛び出してきて、真っ青な顔でこちらの様子を窺い始めた。その手に握りしめた携帯電話が頼みの綱だ。

 耳鳴りがひどくてわからないが、必死の形相で誰かと言葉を交している。30秒ほどで通話を終えると、運転手は携帯を懐へとしまいこんで大きく溜息を付いた。

 良かった、いい人だ。後は救急車の到着を待って、手術をしたらリングに上がろう。ぶっちゃけ1回戦は金魚(かませ)だから、正直余裕だろう。

 狂戦士じみた予定を立てる冴夏を、じっくりと見つめる運転手。ゴロリ首を転がせば、彼とまっすぐ目があった。

 運転手は口元を抑え、痛ましげに顔を歪める。耐え切れず、振り向いてから腹の中身をぶちまけた。その事を冴夏は申し訳なく思う──人様にこんな迷惑をかけて、一体、何をやってるんだ。

 そのまま何度も何度も心のなかで詫びながら、冴夏は自身の操作の復旧を願った。

 運転手はしばし頭を抱えていたが、再び冴夏を一瞥すると、がっくりと肩を落とした。そして……。


(──え!?)


 再びコンボイに乗り込むと、走り去ってしまった。


(──ちょっと……待ってよ! まだ生きてるって!)


 ウホウホ、ウホホ──もはや声帯は意味ある言葉を紡げず、自慢の腹筋が送り込む空気だけを外に吐き出している。

 興奮で血圧が上がり、冷静だった思考は一気に真っ白に染まる。その間隙に生々しい死の実感が迫ってきて、ようやく冴夏は恐怖を覚えた。


 ──やばい、死ぬ。死ぬとか何? 

 ──あたし、まだ何にも出来てない。頑張りきれてない。

 ──怖い。死ぬのはいや。戦いたい。戦って勝つんだ。その為に、生まれてきたんだ。


 大粒の涙をほろほろと流しながら、冴夏は胸に溜まった呪詛をウホウホと吐き出し続ける。許せない。ひと一人を轢いておいて、そのまま逃げるだなんてありえない。

 確かに車と勝負するほうが悪い。無理な減量などせず、素直に運営の沙汰を待つべきだったかもしれない。ひとえに己の愚かしさが恨めしい。

 けど、コレは。コレではあまりにも──…。


 冴夏の目が、半ばまでうっすらと閉じていく。閉じたくない、眠りたくない。いくら念じても体は言うことを聞いてくれない。

 自慢の腹筋もウホウホをやめ、今はただ一枚の鋼のように平らかになっている。


 ──諦めるもんか。絶対に。


 冴夏はジリジリと全身を灼かれながらそれだけを思う。

 女の意地が、ただただ閉じていく瞼を引き上げた。視界にあるのは、ビルと雲と、そして太陽。


 ──あった(・ ・ ・)かい(・ ・)。そうか、今寒いんだ。あたし。でも諦(・ ・ ・)めない(・ ・ ・)


 視界いっぱいに、再びベルトが見えてきた。絶対に掴むぞと心に決めて、キラキラと眩しいそれに腕を伸ばす。

 それを巻いた誰かが、冴夏を見下ろし笑ってる。顔はわからない。けど、強そうだ。冴夏は考える。コイツは何が得意だろう? 右利き、左利き? どこが弱点? 

 シミュレーションを開始。スタンド、しょっぱな飛んでくるジャブ。早い。もう一発。軌道を見越して左手でパーリング成功。すかさず右手で手首を捉えてアームドラッグ。

 相手の腕の引きに合わせて懐に飛び込んで、外掛けからテイクダウン。相手は冴夏の腹に両足をつっぱり、それ以上の攻め手を防ぐ。目と肩でフェイントを掛けてパスガード。成功。

 サイドポジションから腕を取り、袈裟に固めながらコツコツとパウンドを当てる。嫌がる相手の動きに合わせ、すかさず得意の肩固め。勝利の予感に、冴夏は笑いながら歯を食いしばる。力を絞る。絶対に勝ってやると、激しく魂を燃やす──…。




 ────。


 ────────。


 ────────────────……。






 …──女子総合格闘家、沙布冴夏。ロードワーク中の事故により急死。享年21歳。

 救急隊が事故現場へ駆けつけた時、野次馬たちの写メ攻めを浴びる彼女の遺体は、天に目掛けて手を伸ばし続けていたと言う。



 ──まるで、太陽を掴もうとしているみたいに。












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