その男、一隻眼につき。6
本家の人間にイタチを預けた灰と深岐は、ファストフード店で遅い夕飯を取っていた。今時ファストフード店も24時間営業とは便利になったものだ。時計の針が12時を超えた店内には客はまばらで、2人はボックス席に腰掛ける。深岐はポテトを頬張り、灰は薄いコーヒーを不味そうに啜っている。
「今本家の奴等に死ぬ気で探させているところだ。大体の見当は俺がつけているから、すぐに見つかるだろう」
「そうだねぇ…」
生返事だった。たまに思い出したようにポテトを頬張る以外、深岐の意識がこちらに払われている様子は無い。灰は訝しく思い、彼女の手中からポテトをひょいっと奪って自分の口に運んだ。そして「…しょっぱい」とぼやく。だが当の深岐は「あー」としか言わない。灰は指についた塩を舐めながら、今度は手元の新しいポテトに手を伸ばした。と、深岐にペシッと手を叩かれた。
「…なんだ、きちんと意識があったのか」
「これはあたしのポテトですよ。食いたかったら注文するか原材料から掘って来い」
「金を払ったのは俺だっての…。
あのな、俺だって不安や心配が無いわけではない」
さっきは迷いなく戦うことを選んだ深岐は「うぅ…」と呻った。
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10数年前のこと。街の外れにどっしりと構えた大きな日本家屋には、不気味なほどの静寂が流れていた。
「この子、死ぬの?」
ひっそり静まった小さい部屋の中で、小さい声が反響した。その部屋の中には、まだ幼さを残す、青年に成り立てと思しき人間と、それを見つめる老齢の女性が居た。虫の息の青年は、右顔面がぐるぐると包帯に巻かれている。その包帯も血に塗れ、どす黒く滲んでいた。
その青年の姿を、心配そうに見下ろしていたのはミズチだった。ミズチは全身が室内に入りきらず、窓から上半身だけを窮屈そうに部屋にねじ込んでいる。そのミズチに視線を移した女性は、首を横に振ってミズチの言葉に答えた。
「わからない」
女性は難しそうな顔をして青年を見つめる。死に掛けているのは黒須家の次期当主、黒須灰だった。やれるだけのことをやった今、死ぬかどうかは彼の生命力次第で、彼女達に出来ることはない。女性はため息を吐いて、またミズチに視線を移す。
「お前が運んできてくれたから、まだ死なずに居る。感謝しよう」
弱弱しく笑う女性に、ミズチは頭を垂れた。
昨日、ミズチは山の中で死に掛けていた青年を見つけた。人間に敵意を持たないミズチは、すぐに黒須家まで運んだ。守護八家の黒須家ならば、ミズチが突如現れても驚かないだろうと思ったからだ。まさかその人間の子供が黒須家次期当主当人だとは思わなかったのだが。
「空でも飛べれば、もっと早く運べた…」
ミズチは悔しそうに呟く。ミズチは普段水の中に住まう妖。空など飛べない。ただ地をかけるしかなかった。
「気になさるな」
女性は首を振った。そしてしっかりとした口調で、ミズチに話しかける。
「もしこの子が峠を越えられたなら、お前を紹介したい。一緒に祈ってくれ。この子が生き残り、当主の座を継ぎ、自分の目を取り戻すことを。いつかあの、人間から」
そう、次期当主の灰を負かし、生死の境をさ迷わせたのは、「人間」だった。
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深岐が考え込むのはそういうことだった。
灰は妖を従者とすることも、その妖を討伐することも可能な守護八家本家の人間だ。いくら当主を継ぐ前とはいえ、その灰を、「人間」の少年が負かした。地に膝を付かせ、命を奪いかけ、屈辱を味あわせた。そんな「人間」、深岐は今まで出会ったことが無い。そんな「人間」に、たかがミズチ風情の自分が勝てるのだろうか。灰を守れるのだろうか。不安に思わずにはいられない。「彼」の片鱗であろう先ほどの少年は大したことは無かった。だが「彼」本体は未知の世界だった。
考え込む深岐に、灰は迷いの無い一言を放った。
「負けたらそれこそ、俺の力がそこまでだったということだ。もう十数年経っている。これ以上年月を重ねたからと言って、必ずしも勝ち目があるとは限らない。そろそろ潮時だ」
強い意志が表れたその言葉に、深岐はすっぱり諦めた。
そうだ、「目」を取り返そうとする限り、どういつか「彼」と接触する日は来るのだ。灰の言うとおり、これ以上悪戯に年月を重ねても、更に力をつけられるとは限らない。深岐の命はまだまだ続くとは言え、灰はもう30歳を超えている。人間なら身体的に衰え始める年代だろう。深岐は降参したかのように万歳をしてみせた。
「わかった、わかったよ灰ちゃん。あたしも出向くことに賛成したんだもん、二言は無いよ。頑張りますよー、打倒変態!死ぬ時は一緒だよ!」
「…逃げるとか言ってた時よりは進歩したが、心中はごめんだな…」
灰は呆れたようにまたポテトに手を伸ばしたが、その表情はひどく柔らかいものだった。