その男、一隻眼につき。9
その姿は蛇に似て、全身は深緑の鱗に覆われている。体躯には4脚があり角が生え、目玉はぎょろっと黄色い。全長は5mほどあり、毒気を吐いて人を害す。
人々はその妖を虬竜とよんだ。または水の中に住まう妖、蛟とよんだ。
そして空を飛ぶことが叶わない、竜のなりそこない、とよんだ。
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一瞬にして化生に姿を変え、人として深岐と呼ばれていたミズチは風を切って地を駆け抜けた。灰の叫びが空気を振動させた頃には、既にその太さが1mを超えると思われる下半身の胴が勢いよく「彼」の顔面に叩き付けられていた。だが。
「ちぃっ…!」
深岐の攻撃は「彼」に届かなかった。「彼」の右手が、まるで日差しを避けるかのように「彼」の顔の前にかざされており、柔らかく深岐の攻撃を防いでいた。
「衝動的な行動はよろしくないよミズチ。分かってるだろう?簡単に倒されない自信があるから僕はここに来た」
「彼」はにっこりと笑い、深岐の鱗に爪を立てた。そして虫でも払うように軽く右手を振り下ろす。胴体をつかまれたままの深岐は「彼」の右後方に投げ飛ばされた。巨体は車が縁石にぶつかったかと聞き間違う程大きい音を立てて車道に落ちる。そしてべこりとコンクリートを凹ませた。深岐はぐぅっ…と呻ってその長い身体を引き攣らせた。
「深岐っ…!」
灰が「彼」越しに叫ぶ。「彼」は後ろを振り返ることなく、にこりと笑ったまま灰に話しかける。
「だめだ、全然ダメだよ灰。こんなレベルじゃ、打ち勝っても何の自慢にもならないだろう?そもそも君の目玉を取り返すというクエストが果たされないじゃないか」
くつくつ笑いながら「彼」は愛おしそうに灰の、今は彼の右目をなぞった。指の先が直接眼球を愛撫する。
「くそ、汚い手で直接触るんじゃない!その手は今し方深岐の鱗に爪立てた手だろう!」
「おや、仲間に向かって汚いなんてひどい物言いするものだね」
「彼」は吃驚したように目を見開いてみせ、目から指を離した。そしてその手を口元に運び、今度はえげつない笑みをこぼした。
「心配しなくていいよ。ミズチの毒なんて、今の僕には何の効果も無いから。だから」
言い終わる前に「彼」の後方から、深岐がひゅっと体勢を立て直し、がばりと口を開けて食らい付こうと四脚で地を蹴った。だがそれも彼の予想の範疇だった。「彼」もひるりと身を翻し、右手を額に、左手を口元にかざして、自分の頭に食らい付こうとした大口をずしりと受け止めた。風だけがひゅうっと「彼」の横を通り過ぎ、髪の毛をさらって行く。
「空も飛べず毒気も使えないとなると、あとは実力行使しかない。だから、いつまで経っても、なりそこない、なんだよ」
にたりと笑い、「彼」はしっかりつかまえた口を上下にじりじりと開き始める。深岐はぎろりと「彼」を睨んだまま、下半身をぐいっと捻り「彼」に叩きつけようとした。しかし「彼」の数cm手前で何かに阻まれ、ばしりという空気を叩く音だけが響いた。そして途端に深岐が苦しみ始める。
「ねぇ、こんなストーリーは面白いと思わないかい?毒気を吐いて悪を懲らしめるヒーローを、清浄な気を持った悪がやっつけるんだ」
深岐の口を押さえる手に力がこもり、「彼」の空色の左目が愉快そうに揺れる。
「清浄な気にあてられた気分を聞きたい所だけど、さよならしようミズチ。君程度じゃ僕のような悪は片付けられない」
一気に両腕を反対方向に引き裂こうとした時だった。
「ーっああぁっ!?」
「彼」は鋭い痛みに襲われ、バッと仰け反った。その反動で押さえ込んでいた手もはずれ、深岐が開放される。
「後ろにも目をつけて置いたほうがいいぞ…!」
「つぅっ…」
背中に走る激痛に身を屈ませ、「彼」は肩越しに灰を睨みつけた。その手にもたれていたのは、
「清浄な気だかなんだか知らないが、元を辿ればどうせ妖だろう」
「符、ね…。君、何時の間に陰陽術なんて習ったんだい?」
ゆっくり身体を反転させ、「彼」は灰に向き直る。「彼」の背中は服も肌も焼け焦げていた。
「習ってる暇なんて無かったのでな。得意な奴から譲り受けた。首から下だけ殺したいほど嫌いな奴がいるから、どんな妖にも一撃くれてやれる符をくれってな。お前が車ふっ飛ばしてくれたおかげで探すのに手間取ったがな、お陰様で!!!」
「だから、どうしてそこでちょっとふざけちゃうのかな…その役目あたしのはずだったんだけど」
「っ!」
何時の間にか人型を取り戻していた深岐が灰の横に陣取っていた。今度は深岐がにっこり笑う。
「なりそこない?結構結構。あたしは龍になりたいだなんて願ったことないもの。飛べないことを悔いたことはあれど、それを恥じたことは無いわ。ミズチばかにしくさって。ケツの穴から手ぇ突っ込んで、目玉ガタガタ言わせたるからな!」
「左目だけにしとけよ」
咄嗟に灰が突っ込む。そのやりとりに、「彼」の目元がぴくりと揺れた。
「ははっ…ふざけやがって…。人がせっかく手抜いて相手してあげてるのに…。いいよ分かった。本気でやろうじゃないか。とっとと君らを潰して、黒須潰しの称号を頂戴しよう」
今まで痛みに呻いていたのが嘘のように、「彼」はスッと背筋を伸ばし、ギッと灰を睨んだ。そして。
「生意気な小妖をとっちめてやらないとねぇ!?」
左頬にびしりと薄水色の鱗が覆った。
携帯から見ると「きゅうりょう」の「きゅう」の漢字が変換されず?で表示されているようです。?マークの意味ではありません。読みづらくて申し訳ありません。