婚約破棄の夜
春の夜会は、いつも残酷だとリースは思っていた。
シャンデリアの光が令嬢たちのドレスを宝石のように輝かせ、甘い音楽が空気に溶けて、誰もが幸福そうに見える。
けれど十六歳のリース・エヴァンズにとって、今夜は人生で一番つらい夜になるはずだった。
「リース、少し話がある」
婚約者であるオスカー・ロスクレア王子が近づいてきたのは、夜会も佳境に差し掛かった頃だった。
整った顔立ちに浮かぶ表情は、どこか決意めいていて、リースは静かに息を飲んだ。
——ああ、やっぱり今夜なのね。
薄々感づいていた。王子の視線は侯爵家の令嬢、セシリア・モンローの方へ……向かった、ように見えた。
けれど本当は、私を見ないために逸らしただけかもしれない
「婚約を、解消させてほしい」
王子の言葉は、思ったよりも静かだった。
「セシリアのことを、愛している。彼女と共に生きていきたいんだ」
リースはしばらく黙って、それからゆっくりと微笑んだ。
「……わかりました」
「リース」
「でも殿下。一つだけ聞かせてください」
声が、わずかに震えた。
「わたくしは、この二年間、何か至らないことがありましたか。大切にしようと、していただけましたか」
王子は答えられなかった。
それで十分だった。リースはドレスの裾を翻して、人気のない廊下へと歩き出した。
扉を抜けた瞬間、ずっと堪えていたものが、目の端からこぼれ落ちた。
「……っ」
涙を手の甲で拭おうとした時、廊下の奥に人影があった。
黒い騎士服。肩に金の飾緒。シャウン・カルヴァートが、窓の外を眺めながら立っていた。
「シャウン様……」
声に気づいた彼が振り返った瞬間、リースは思わず俯いた。
よりにもよって、今夜、この人に見られたくなかった。
「……泣いているのか」
「泣いていません」
「目が赤い」
「気のせいです」
三歩の距離を詰めてきた彼の手が、そっとリースの顎を持ち上げた。
十年前から変わらない、あの鳶色の瞳が、まっすぐにこちらを見下ろしていた。
リースとシャウンが出会ったのは、彼女が六歳の時だった。
父の屋敷に新しく着任した若い騎士を見て、リースは「この人が好きです」と言い切った。
今思えば恥ずかしい話だが、その気持ちは十年経っても少しも変わらなかった。
好きだと伝えるたびに、シャウンは困ったように笑って「お嬢様はまだ子どもですから」とかわした。
年が離れすぎている、立場が違う、自分には過ぎた話だと、言葉の端々に滲ませながら。
だからリースは王子との婚約を受け入れた時、胸の中で一度、シャウンへの気持ちに蓋をした。
これ以上想い続けるのは、みっともないと思ったから。
「婚約が、解消されました」
シャウンの手の温もりを感じながら、リースは静かに告げた。
「殿下には、好きな方がいらっしゃるそうで」
「……そうか」
「わたくし、これからどうすればいいのかしら」
笑おうとしたのに、うまくいかなかった。
「十六にもなって、泣いているなんて、みっともないですよね。シャウン様はいつも、わたくしのことを子ども扱いするから——」
「リース」
名前を、呼ばれた。
様付けではなく。
いつものように令嬢でも、お嬢様でもなく。
「俺は、ずっとおまえが怖かった。」
低い声が、廊下に溶けた。
「六歳のくせに、まっすぐ俺を選んだ。あの瞬間から、俺は逃げ道を探し続けた。年の差だ、身分だ、騎士風情だって」
シャウンの指が、リースの頬の涙をぬぐった。
「でも今夜、おまえが泣いてるのを見て——やっと分かった。逃げ道を作るのをやめる」
「……シャウン、様」
「俺と、共に来てくれるか」
リースは二秒だけ呆然として、それから十年分の感情が一気に溢れ出した。
声を出さずに泣きながら、彼の胸に額を押し当てると、大きな腕がゆっくりと背中に回ってきた。
「……ずるいです」
「ああ」
「十年、待たせて」
「すまなかった」
「謝って済む話じゃ——」
「一生かけて、詫びる」
その言葉に、リースはもう何も言えなくなった。
一方その頃、夜会の会場では。
オスカー王子がセシリア・モンローの元へと歩み寄っていた。
「殿下」
「セシリア、すまない……僕は君を——」
セシリアが、眉を下げて口を開いた。
「本当に、不器用なお方。あんな嫌われる態度をとり、嘘をつくほどにリース様をお好きなのに」
「……あぁ……」
「それでもわたくし、殿下のこと好きなんです」
「……うん」
「わたくしも、殿下の嘘に乗っかっても良いですか?」
「それは……」
「大丈夫ですわ。わたくし、気は長いんですの」
セシリアは真剣な顔で続けた。
王子は、今夜二度目の沈黙に落ちた。
そうして踵を返した背中に、セシリアはそっとつぶやいた。
「ちゃんと好きって言わせてみせますので、お覚悟をしてくださいませ」
「……君には、敵わないな」
夜会が終わる頃、テラスに出たリースの隣に、シャウンが静かに並んだ。星が出ていた。
「ねえシャウン様」
「なんだ」
「六歳の時から好きでした」
「知ってる」
「十年越しに告白してもらえるなんて思っていませんでした」
「俺もそう思っていた」
「これからは、かわしたりしませんか」
シャウンは少し間を置いて、それからリースの手を取った。
「しない。——もう、逃げない」
春の夜会は残酷だと、ずっと思っていた。
けれど今夜だけは——少しだけ、優しい。
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