ジークフリート隊
中隊長執務室へ向かう途中、兵営の中庭を横切ったときだった。
兵士たちが、喫煙所の脇で固まって話しているのが耳に入った。
「……あれがスタインドルフ将軍の娘か?」
「本物かよ。もっと背が高いと思ってたけどな」
「いや、ああいう華奢なほうが絵になるんだろ。どうせ宣伝用さ」
「英雄の娘が来たってよ。俺らの士気を上げるためだとさ。はは、上は暇なんだな」
「でもまあ……あの子が前線に立つなら、俺らも逃げられねぇよな」
ひそひそ声のつもりなのだろうが、距離が近すぎた。
アデーレの肩がわずかに跳ね、歩幅が小さくなる。
カリウスは横目で妹を見たが、彼女は表情を固くしたまま前を向いていた。
兵士たちの視線が、背中に刺さる。
好奇心、期待、そして――重荷を押しつけるような無責任な熱。
(……これが、これから僕たちが向き合う現実か)
カリウスは無意識にアデーレの前へ半歩出た。
守るように、遮るように。
だが、噂話は二人の背後から追いかけてくる。
「兄妹で来たんだってよ。あの男のほうは……なんだ? ナイトメアか?」
「へぇ、珍しいな。まあ、英雄の娘の〝付属品〟だろ」
「おい、聞こえるぞ」
「いいんだよ。どうせ俺らのために英雄ごっこしてくれるんだろ?」
アデーレの拳が、そっと震えた。
カリウスはその震えを見て、胸の奥がじりじりと焼けるように熱くなる。
「……行こう、アデーレ」
「……うん」
二人は何も言わず、ただ足早に執務室へ向かった。扉の前に立ったとき、アデーレは小さく息を吸い、震えを押し殺すように背筋を伸ばす。
その横顔は、もう〝英雄の娘〟の仮面をかぶっていた。
◆◆◆
中隊長の執務室に出頭したアデーレとカリウスの二人は、部屋の中に入るとブーツの踵をぴしっと揃えて背筋を伸ばし、部屋の中央に向かって敬礼した。
「本日付で予備兵団に配属になりました、アデーレ・スタインドルフ少尉です!」
「同じく、フランツ・カリウス少尉であります!」
「……兄妹と聞いたが、スタインドルフ少尉と苗字が違うな。養子か?」
「はい、閣下。10年前に実の両親を交通事故で亡くし、それ以来スタインドルフ家に養子として迎え入れていただきました。以後、アデーレの兄として育てていただいております。血は繋がっておりませんが、家族として何の変わりもございません!」
「私はヴィクトール・ルクレール。大尉だ。私は正規軍の所属だが、今後は予備兵団の中隊長ということになるのもしれない。一応ね。」
「「はっ!」」
敬礼しながらカリウスはこれから上司となるヴィクトールを見た。服装は規定通りだが、襟元が少し緩み、袖口が擦り切れ気味で、長年の前線経験を物語っている。
(なるほど。メリナさんの言ってたことが、なんとなくわかったかも)
ヴィクトール中隊長は、円座の中央に置かれた簡素な木製テーブルに肘を突き、煙草の煙をゆっくり吐きながら言った。灰色がかった黒髪は短く整えられているが、こめかみあたりに白髪が混じり始め、年相応以上のくたびれようを表していた。
「そう固くなるな。まぁ座って。出頭とはいうが、これは顔見せで、お互い腹を割って話す集まりだから」
出頭先は中隊長執務室だったが、普段は報告や事務に使う狭い空間を椅子で囲んだだけの臨時サロンに姿を変えていた。窓から差し込む陽が、埃っぽい空気を黄金色に染めている。円座にはすでに四人の小隊長が座っていた。
二人は促されるままに空いた椅子に腰を下ろした。アデーレは背筋をぴんと伸ばし、カリウスは少し緊張しながらも周囲を見回す。
すると円座を囲んでいた将校のうちのひとり、足を組んでリラックスした様子の若い金髪の少尉が手を上げた。
「よっ! カリウス久しぶり!」
「レオン! レオン・ブラントじゃないか! 無事だったのか!!」
「おや、二人は知り合いかね?」
「はい。自分とレオンは大学の史学科で一緒で、寮のルームメイトでした。君も予備兵団に招集されたのか」
「あぁ。大学で高等軍事を受けてたやつは、みんな片っ端から少尉に任官されたよ。ったく、始まったそばから末期戦みたいなことしてるよな」
「違いない。わしはガストン。ガストン・デュボワ。再招集された予備役少尉だ。ナイトメアの小僧。同じ嫌われ者同士、仲良くしようじゃないか」
「は、はは……よろしくです」
ガストンと名乗ったのは、石を擬人化したような、いかにも頑固そうな初老の男性だ。彼は背筋を伸ばしつつ煙草をくゆらせる。だが、背を伸ばしてもその背丈はカリウスの胸に足りるかどうかといったところだった。
ガストンはドワーフだった。
「シャバじゃ自動車整備会社をやっとったからなぁ。仕事がありゃ声を掛けとくれ」
「アデーレと気が合うかもですね。彼女も機械が大好きなんです」
「はい!」
「ほう、そいつぁ楽しみだ」
「………………。」
「えっと……」
「あ、あのー」
「あ、お、オイラに話しかけてるんですか!? す、すみません、無視したわけじゃなくって……! マルク、マルク・グリンストンです!」
カリウスが恐る恐る見上げたマルクは、巨体をさらに縮こまらせ、両手を膝の上でぎゅっと握りしめた。牙のせいで言葉が少しもごもごするが、声は予想外に高めで震えている。
「わ、わ、わたくし、マルクと申すもので……。じゃない、えっと、予備役少尉の……。あ、あの、みんなみたいに強くないんですけど……よろしくだす……」
彼は視線を床に落とし、肩を震わせながら小さく頭を下げた。
子犬のように震える熊のような巨体は、まるで椅子に収まっていない。
「すみません。こんなんだから、みんなには……戦いの役に立たないなら、せめてその、会議とか面倒くさいことはお前がやれって言われてて……」
レオンが吹き出し、ガストンがオークのくせにと呟く中、カリウスとアデーレは穏やかに微笑んで手を差し出した。オークの大きな手では握手と言うよりは握指だが。
「よろしく。僕もナイトメアだから、気持ちはわかりますよ」
「皆のためにここに居るなら、マルクさんは十分立派ですよ」
アデーレのその言葉にマルクの大きな目がぱっと上がり、わずかに潤む。
「……ほ、本当ですか? ……仲良く……できそうだす……」
ヴィクトールは煙草を灰皿に押しつけて消し、ゆっくりと口を開いた。
「さて、本題だ。諸君らも知っての通り、帝国の侵攻は予想以上に速い。予備兵団はまだ訓練も不十分、士気も低い。国民皆兵とはいえ、農民や商人、学生上がりの連中が急に銃を持たされても、戦意が湧くはずがない」
彼はそこで一呼吸置き、アデーレの方に視線を移した。
「そこで作戦本部が決めた。――『英雄の娘が前線に立つ』という、シンプルで強力なプロパガンダの発行を。アデーレ・スタインドルフ少尉。君はスタインドルフ将軍の娘だ。前大戦で帝国軍を何度も打ち破った、あの伝説の将軍の。君がいるだけで、兵たちは『スタインドルフの娘が戦っている』と感じ、希望の象徴になる」
アデーレの指先が、膝の上でわずかに震えた。
ヴィクトールはその心持ちを察したように、穏やかに続けた。
「心配するな。君たちを死地へ突っ込ませる気はない」
(……そうじゃない! エマールのあの死体が焼ける臭い、折り重なって誰にも看取られずに死んだ人たち。あの現実を隠して、笑顔で演じろって言うの? 戦えというならまだしも、そんなのって――)
「我らが中隊は――古の英雄の名を取って『ジークフリート隊』と呼ぼう。これを新設する。君たちはその中核だ。各地の訓練場を巡り、演習を指揮し、それを記者やカメラマンが撮影する。出来上がったフィルムは全国の映画館で上映され、ラジオでもニュースとして流れる。『スタインドルフの娘が前線で指揮を執る』。それだけで、予備兵団の士気は跳ね上がる」
レオンが、ぷっと小さく吹き出した。
「へぇ、つまりアデーレちゃんはベリエの大スターってわけか。撮影して映画化? 俺らも出たいなあ。エキストラでいいから映してくれない?」
軽口だが、その声の端には棘がある。
ヴィクトールは苦笑した。
「レオン、君の小隊もちゃんと映すさ。だが主役は決まっている」
ガストンが煙草を灰皿に押しつけながら、低く呟いた。
「……上層部のお遊びか」
部屋が一瞬静まり返った。
ガストンは顔を上げず、ただ煙の残りを睨むように言った。
「前大戦の時も似たようなことがあったな。後方で作られた『英雄の物語』を前線に押しつけて士気を上げようとした。だが、塹壕の中で弾道学の神様に祈ったことがある奴なら誰でも知っている。泥の中で死んで、何も言えなくなった連中が本当の英雄だった」
ヴィクトールは目を細めたが、すぐに表情を緩めた。
「ガストン、君の経験は貴重だ。だからこそ、君のような古参にこそ、この中隊を支えてほしい。宣伝は手段だ。我々が生き残るための手段だ」
「この嬢ちゃんを出世の道具にしようとしてるとしか思えんがね」
マルクは黙ったままだった。ただ、膝の上で拳を握りしめ、視線を床に落としている。言葉を発しない代わりに、沈黙が彼の不満を雄弁に語っていた。
(ガストンさんの言う通りだ。生き残るための手段でも、それがみんなの信じるものを捻じ曲げるなら、それに何の意味があるんだ。この作戦は嘘の英雄を作ろうとしてる。間違ってるのに、皆が求めるもの……アデーレをそんなものの中心にさせるなんて、俺は絶対に許せない)
カリウスが、隣で小さく息を吐いた。
「……アデーレは、ただの道具じゃないです」
声は静かだが、はっきりした拒絶。
ヴィクトールはそんなカリウスを見て、わずかに頷いた。
「わかっているとも。君もこの中隊の大事な一部だ。兄妹で指揮する姿は、家族の絆を象徴する。観る者はそれに心を動かされる。――それが戦争の現実だ」
(この人は何も見えてない。いや、自分の見たいものしか、見ようとしていない。兄さんのことも、私のことも、全然わかっていない)
アデーレは唇を噛み、ようやく口を開いた。
「わかりました。中隊長。私にできることがあれば、します。ただ……兵士たちの命を、ただの――絵空事の一部のように使わないでください」
ヴィクトールは一瞬目を伏せ、それからゆっくり立ち上がった。
「約束しよう。アデーレ少尉、君は生きて帰る。それに君の存在は兵士たちを死なせるためのものじゃない。生き残らせるためのものだ」
「生き残らせるため……?」
カリウスは思わず椅子を蹴って立ち上がった。
「……それは自分たちが生き残るための手段じゃないんですか?! じゃあ、エマールで先に逃げた正規軍は、何だったっていうんですか!? 街を捨てて、市民を置き去りにして。『生き残るため』に撤退したんですか?」
「君の言う通りだ。エマールは捨て石だった。そのために正規軍は難民を残して先に撤退した。作戦本部はそうすべきだと判断したんだ」
「――ッ!!」
「だが、それが現実だ!!! 我々に残されているのは、武器でも兵でもない。全てが崩壊するまでの僅かな『残り時間』だけだ!! その残り時間を少しでも長くするために、士気を上げる必要があるんだ!!!」
ヴィクトールの声は力強かったが、どこか疲れた響きがあった。
「あなた達が見捨てた人たちは折り重なって焼けていったんですよ! その臭いが、まだ鼻に残ってるんです! あんたたちはいつもそうやって、誰かの死を、誰かの絶望を、物語に変えて、きれいに塗りつぶそうとする! でも塗りつぶせないんだよ! あの臭いは消えない! 僕も、アデーレも、一生消えないんだよ!!」
「君がエマールを忘れられないように、兵士たちも敗北を忘れられないでいる!! だからこそ、希望が必要なんだ!! たとえそれが、作り物の希望であっても、中身のない『嘘』であっても!! 君はそれを『欺瞞』と言うかもしれない。だが私は、それを『生き残るための手段』と呼ぶよ」
それは、命令を遂行する者として、自分自身をも欺いているような、微かな自己嫌悪の色だった。カリウスは拳を握りしめ、言葉を続けようとするが、アデーレがそっと兄の袖を強く握った。
「……中隊長の言う通りかもしれん。わしも前の大戦で、同じような『希望』を押しつけられた。その気になったヤツは大体死んだわけだが……」
ガストンはそういって白くなった灰を皿に落とした。
「だがな小僧。ベリエの状況は最悪だ。エマールのように『捨て石』になるか、少しでも長く生き延びて、次の戦場で死ぬかの二択しかない。中隊長は……少なくとも、俺たちを『捨て石』にはしたくないと思ってる節がある。それが本心か、出世のためかは知らんがな」
ガストンは煙草を深く吸い込み、溜息をつくかのように煙を吐き出した。
窓から差し込む陽に紫煙がほどけて消えていく。
マルクはまだ震えていたが、大きな体を少し起こし、か細い声で呟く。
「……あの、カリウスさん、アデーレさん! ……も、もし、この作戦で、みんなが少しでも、怖くなくなったら、オイラみたいな、役立たずでも、す、少しは役に立てたかなって……思うんだす」
マルクの大きな目から、一粒の涙がぽろりと落ちた。
それは、巨体に似合わない、子どものような涙だった。
ヴィクトールは再び口を開く。今度は、わずかに声を低くして。
「フランツ君。君の怒りは正しい。俺も……そう思う。だが戦争は、正しさだけで終わらないんだ! たとえそれが作り物の希望で、嘘に塗り固められた英雄でも、少しでも多くの命が残るなら……俺は、それをやる!」
ヴィクトールは目を背けるカリウスの肩を両手で抱いた。
「君が許せないと思う気持ちは、よくわかる。だが、許してくれとは言わない。ただ、見ていてくれ。この戦争には本当に『嘘』しかなかったのか、それとも――少しでも、後ろに続く何かを変えられたのか、それを見届けてほしい」
ヴィクトールの目は、初めて真正面からカリウスを捉えた。
そこには、命令を遂行する将校の顔ではなく、
ただの一人の人間の、疲れた顔があった。
部屋に重い沈黙が落ちた。陽が陰り、円座の全員を長い影が包み込む。
レオンが気まずさを払うように、わざとらしく大きな音を立てて手を叩いた。
「ま、みんな言いたいことをいって腹は割ったな! じゃあ今夜は訓練後に一杯やるか? アデーレちゃんも来てくれよ!」
「そんな気分のやつがいればな。」
ガストンは小さく鼻を鳴らし、マルクはようやく顔を上げて小さく頷いた。
一方で部屋の中央に立ち尽くしたヴィクトールは、憔悴しきっている様子だった。
「2時間後に詳細な作戦の説明をする。それまでに兵営内を見回ってきたほうが良い。今後君たちが世話になる場所が多いはずだ。以上、解散」
全員が立ち上がり敬礼して部屋を出る中、アデーレはカリウスの手をそっと握った。カリウスはひどく冷たくなった妹の手を握り返し、静かに囁いた。
「……大丈夫だよ、アデーレ。俺がいる」
その言葉に、アデーレは小さく、けれど確かに頷いた。




