断章 生と死の間で
フロレンヌの空気には、まだ炎の匂いが染み付いて残っていた。
焼け落ちた家々の間に、避難民たちが肩を寄せ合っている。
その中を、無言のアンデッドたちが荷物を運び、瓦礫をどかしていた。
だが、その光景は、生存者の心をさらに抉った。
「……あれは……俺たちの……」
誰かが呟く。
死者を使役する魔王軍――その中心に立つのは、ナイトメアの青年カリウス。
そして、その隣には、彼を止めようともしないアデーレ。
フロレンヌの虐殺の生存者たちは歯噛みする。
彼らの目には、アデーレとカリウスの二人が、「戦争で全てを奪い、さらに死者まで利用する怪物」と映ってもおかしくなかった。
その時だった。
「おい……おい、あんた……!」
ひとりの男が、ふらつく足取りでカリウスに近づき、胸倉を掴んだ。
涙と煤でぐしゃぐしゃになった顔が、カリウスの鼻先まで突きつけられた。
「畜生……! なんで……なんでこんなことになった……!」
どん、どん、と何度も硬く握りしめられた拳がカリウスの胸に叩きつけられる。
「俺は……ただ家族を幸せにしたかっただけなんだよ……! 新しい家を建てて、娘に綺麗なドレスを着せて、せがれを大学に行かせてやるはずだった……! 俺の行けなかった大学によ……!」
男の声が震え、涙が地面に落ちる。
「それを……全部……全部奪われて……!」
そして、男の視線がアンデッドへ向いた。
だが、瓦礫を運ぶ彼らは男に何の注意を払おうともしない。
「なのに……! なんで……なんで死んだ家族が使われてんだよ……! 返せよ……! 俺の家族を……返せよ……!」
カリウスは言葉を失った。男の叫びが、胸の奥を鋭く刺す。自分が死者を使役しているという事実が、今ほど重く感じられたことはない。
「…………っ」
カリウスは喉まで出かかった謝罪を飲み込んだ。
自分の力が、こんな苦しみを生んでいる現実が、耐えがたかった。
その瞬間――乾いた音とともに、一本の剣が男の足元に突き刺さった。
「……!」
男もカリウスも驚いて振り向く。
そこには、擦り切れた法衣を風に揺らすエルダーリッチ――
マクシムスが立っていた。
「お前は責めるべき相手を間違えている。」
眼窩に灯った青い炎が激しく燃え上がり、男を射抜く。
「ここがどこで、お前が誰であろうとも――
死者の尊厳を守るのは、生者であるお前の務めじゃ。」
男は呆然と剣を見下ろした。
マクシムスは続ける。
「お前の家族は帝国に奪われた。だが――泣き崩れ、奪われたままにしておくのは、お前自身の選択じゃ。それでは死者の無念は晴れまい。彷徨いもするはずよ」
その声は冷たく、しかしどこか厳しい父親のようでもあった。
「怒りを忘れ、悲しみに沈むな。鉄火に踏みしだかれたお前の家族の想いを取り戻せ。それが、残った者の務めというものだ。」
男は震える手で剣の柄に触れた。
涙がぽたぽたと刃に落ちる。
その時――ふわり、と冷たい風が吹いた。
男の背後に、淡い光が揺らめいた。
「え……?」
光はゆっくりと形を取り、やがて、透き通った人影となった。
男の妻だった。
レイスとなった彼女は、静かに男の手に触れた。
冷たいはずのその手は、不思議なほど優しかった。
「……っ!」
男の喉が震え、声にならない声が漏れる。
レイスは、ゆっくりと首を振った。
〝自分は恨んでいない〟
〝あなたを責めていない〟
〝――生きて〟
そんな想いが、言葉ではなく、直接胸に流れ込んでくるようだった。
そして――レイスは男の手を、そっと剣の柄へ導いた。
それは復讐のためではない。
自分の尊厳を取り戻すため。
家族の誇りを、彼の心を奪われたままにしないため。
男は嗚咽を漏らしながら、剣を握りしめた。
「……ごめん……ごめんな……俺……俺は……!」
レイスは微笑むように光を揺らし、やがて、静かに消えていった。
カリウスは目の前の光景に、胸を押しつぶされるような痛みを覚えていた。
「……兄さん、行きましょう」
アデーレが兄の手を取り、そっと言った。
「ここにいても、あの人の心は癒せません」
二人は少し離れた場所へ歩いた。
その後ろを、マクシムスが飄々とした足取りでついてくる。
まるで口笛でも吹きそうな雰囲気だ。
アデーレが振り返った。
「マクシムスさん。どうして……あんな言い方をしたんですか」
カリウスも苦しげに言う。
「彼は、家族を失って、苦しくて……。
あんなふうに突き放す必要は、なかったんじゃないか?」
マクシムスは二人を見て、眼窩の炎を細めた。
「……そう思うか?」
その声音は、いつもの軽さとは違っていた。
「千七百年前、わしが独裁官として君臨した時、帝国は常に戦の中にあった。市民は皆、剣を取ったよ。家族を守るため、そして、死者の尊厳を守るためにな」
アデーレはマクシムスが見せた別の一面に息を呑んだ。
「死者の、尊厳……」
「そうじゃ。死者を彷徨わせることは、わしの時代では最大の恥だった。だからこそ、あの男には『立て』と言ったのだ。家族の誇りを奪われたままにするな、と。」
「でも、僕には……できません。誰かを突き放すなんて……」
「それでよいのではないか?」
「えっ……」
「主上は魔王である前に、今この時代を生きた、ただの人じゃろう。
その優しさは武器。わしのような古い亡霊が持つべきものではない。」
アデーレは兄の肩に手を置き、マクシムスを見つめた。
「マクシムスさん。あなたの言葉は理解できない部分もあります。でも、あなたが彼を突き放した理由は分かりました」
マクシムスは肩をすくめた。
「わしはただ、古い時代のやり方をしただけよ。後はお前たちが、今の時代のやり方で救ってやれ。……む」
「?」
「いや何。死者が己が尊厳を語るのは実に滑稽。そう思っただけのことよ」
マクシムスはそう言って、またいつもの飄々とした雰囲気をまとった。
だが、その言葉の奥に潜む時の重さは、誰の胸にも静かに沈んでいく。
ふと、カリウスは思った。
(彼のいうことが本当なら、アンデッドは未練がないと生まれない。
なら、マクシムスの――彼の未練は何なんだろう。)
灰混じりの風が吹き抜ける。泣き崩れた男の嗚咽も、消えていったレイスの光も、まだ空気のどこかに残っているようだった。
アデーレはそっと兄の手を握り、カリウスはその温もりにわずかに息をつく。
マクシムスはただ、遠くの空を見上げていた。
きっと、この戦いは、まだまだ終わらないだろう。
奪われた未来も、死者の尊厳も、そして生者の心も。
どれひとつとして、まだ取り戻されてはいないのだから。
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