アルデナの森の戦い(1)
夜明けの薄光が塹壕の縁を照らし、冷たい空気が肺を刺す。
朝靄が白い霧となって草原の視界を塞いでいた。
アデーレは中央指揮所を出て、塹壕の外に地図卓を置いて、その前に立っていた。
その横には、擦り切れた法衣を風に流すエルダーリッチ、マクシムス。
昨夜の演説で得た自信を胸に、静かに息を整える少女。そこへ、ペガサスを降りたアーシェが駆け寄ってきた。彼女の目の下には隈ができている。
肩から下げた革鞄には、深夜に出発し、夜明け前に撮影した写真――エーテルを封入したガラス製の乾板がぎっしりと詰まっていた。
「少尉、偵察結果です。……見てください、これ」
アーシェは写真を数枚、地図の上に並べた。
マクシムスが炎の眼窩を細め、写真を覗き込む。
「む、なんと細やかな……。この距離で、兵の向きまで分かるとはのう」
アーシェは得意げに鼻を鳴らした。
「記者の道具は、戦場でも役に立つんですよ。本当は皆さんの勇姿を撮影するための乾板だったんですけどね……」
「お疲れ様です。見させていただきます」
革鞄から乾板を取り出し、並べるアデーレ。
すると、ある一枚を手に取った彼女の手が、ゆっくりと止まった。
「その写真は、アルデナの森の西端。フロレンヌから三十リーグ東の場所です。普通なら大軍は通れないはずの丘陵地帯ですが……」
写真を手に取ったアデーレが、眉を寄せた。
「……パワーアーマー兵。歩兵。そして軽量トラクター。きっと弾薬運搬車ですね。機械化された歩兵部隊がアルデナの森を通過している?」
「アデーレさん、こちらの写真を見てください」
「これは――」
アーシェが回した写真には、パワーアーマー兵が森の木々を拳を使ってなぎ倒している様子が写っていた。鉤爪のような五指の生えた拳には青い光が纏っている。
間違いなくエーテルを使った兵器だ。
「木々をなぎ倒して伐開作業をしている? ということは……」
「はい。この後ろに、すごいのがいました」
アーシェの手から受け取った乾板を光に透かした。
その瞬間、彼女の喉がひくりと震えた。
「……マムート重戦車。」
そこに写っていたのは――
森の中に突如として現れた鋼鉄の巨獣だった。
森の木々を押し潰しながら進む威容は、まさに移動要塞と呼ぶにふさわしい。
城壁を横倒しにしたような印象を抱かせる巨体の前面装甲は60mm。側面も30mmの鋼板で覆われ、およそベリエの標準型戦車の主砲では歯が立たない重装甲だ。
主砲は75mm榴弾砲。
歩兵支援に特化した砲身が、背後の森の奥へと無造作に向けられている。
主砲の横には37mmの同軸砲が据えられ、対戦車戦闘にも対応できる設計だ。
さらに、前後の砲塔に加えて、車体側面には小型の機銃塔が突き出している。
塹壕戦を突破するために作られたことは明らかだった。
複数の砲塔が異なる方向を向き、まるで獲物を探す猛獣の眼のように森を睨んでいる。履帯は人の顔ほどもある、鋼鉄の板を連ねたもの。
地面に横たわる倒木を踏み砕きながら進むその姿は、怪物そのものだった。
「帝国は重戦車を投入してきましたか。本気で突破する気ですね」
アデーレの声は、自然と低くなった。
「ワシが若い頃に見た象よりもデカいのう……。人はもうこんな怪物を作るまでになってしもうたか」
「しみじみ言ってる場合じゃないですよ、マクシムスおじいちゃん」
「誰がおじいちゃんじゃ! わしゃこう見えても骨になった時は――」
「軍議中ですよ、マクシムスさん」
「むっ、すまなんだ」
再び地図に視線を落としたアデーレは、指で森の輪郭をなぞった。
「アルデナの森は、砂岩からなる丘陵が続いていて、盆地は湿地になっている。木々の根が深くて、戦車のような重装備は通れないはずでしたが……」
マクシムスが低く唸った。
「うむ。写真を見る限り、帝国は森を抜けるという難題をやってのけたようじゃな。木々を押し倒し、湿地を避けて丘陵の尾根を進めば通れぬことはない」
「帝国がフロレンヌを焦土化した理由がここで繋がりますね。焦土化はベリエの拠点になるのを防ぐため。後続となる主力をこのまま幹線道路に流すつもりです」
「ワシも同意じゃ。フロレンヌから連盟国境までは一本道。ここを突破すれば、帝国は連盟の喉元に刃を突きつけられる」
「――つまり、帝国は再びフロレンヌ一帯を戦場にする気です」
アーシェが並べた写真を前に、アデーレはしばらく沈黙していた。
その瞳は、地図と写真の間を行き来しながら、何かを組み立てている。
森と丘陵、湿地、道路、村落。
彼女は頭の中にすべての要素を並べ、その上に帝国とベリエ、二つの意志をもって、いくつもの動きを螺旋として描きあげる。
(帝国は森を抜ける。でも、抜けた直後の地形は狭い谷になっている。それも湿地と丘陵の波間に挟まれた一本道。これなら……)
マクシムスが腕を組み、眼窩の炎を絞って細めた。
「さて、どう見る。常道なら、陣地で敵を待ち受けるところじゃが……」
アデーレは、ふっと息を吸い込んだ。
「……いえ。〝待つ〟のではなく〝出る〟べきです」
アーシェが目を瞬いた。
「出る……って、前進するってことですか? 少尉、私たちの戦力じゃ……」
「だからこそ、です」
アデーレは地図の一点を指で叩いた。
フロレンヌから東へ伸びる街道――
その途中にある、丘陵と湿地に挟まれた狭い峠道。
「帝国軍はアルデナの森を抜けた後、必ずこの狭隘部を通らざるを得ません。ここは幅が狭く、車両は一列でしか進めない。援護のパワーアーマー兵が展開しても、周囲の丘陵が邪魔をして機銃の射線が塞がれる」
マクシムスが写真を見返しながら頷く。
「……確かに。森を抜けた直後のこの地形は、帝国にとって一刻も早く抜けたい場所になる。補給も、隊列の整理も、全部この場所を抜けた後にやるはずじゃ」
「そう。だから――この場所での帝国軍は、確実に統制が取れていない」
帝国軍はアルデナの森を抜けた直後は、伐開作業で隊列が伸びる。
車両は一列縦隊。パワーアーマー兵も作業の直後は武装を持たず展開しづらい。
つまり、戦闘能力が一時的に皆無になる「軍事行動上もっとも脆い瞬間」に入る。
この瞬間を叩くのは、古代から現代まで変わらぬ鉄則。
マクシムスが頷くのも当然だった。
アデーレは地図の上に手を置き、そのまま前へ押し出すように動かした。
「私たちは陣地を出て、この峠を先んじて封鎖します。我々ベリエが負け戦にある今だからこそ、心理的な虚を突ける」
マクシムスの眼窩の炎が楽しげに揺れた。
「……ほう。劣勢であることを逆手に取るか。敵はこちらが逃げ腰だと思っておる。そこへ逆に前へ出るとは……大胆よのう」
アデーレは続けた。
「そもそも、陣地に籠もったとして、対戦車砲もなくティーゲル一両しかない私たちは、野砲、歩兵、戦車からなる帝国軍の正面攻撃を受け止められません」
「そっか……」
「帝国軍は『門』を使ってベリエの拠点となる地点を潰し、後続となる装甲兵力を国境まで流し込むつもりだった。ですが、そうはさせません。ここで足止めすれば帝国に再考の余地が生まれ、陣地で待ち受けるよりも長い時間を稼げます」
アーシェが息を呑む。
「……心理戦、ですね。帝国は自分たちが主導権を握っていると思っている。そこに予想外の抵抗をぶつける……」
マクシムスはゆっくりと頷いた。
「うむ……。古代の戦でも、寡兵が大軍を止める時は、心を突くのが常道じゃった。そなたの発想は、理に適っておる。が――」
古代の軍師は、地図上に置いた骨の指を、ゆっくりと狭隘部に滑らせた。
「この策、ひとつ間違えば『全滅』もあり得る」
マクシムスの言葉にアーシェが息を呑む。
「……全滅、ですか」
「うむ。まず第一に――」
リッチは眼窩に灯った炎を熾火のように細め、アデーレを見た。
「陣地を捨てるということは、守りを捨てるということじゃ。身を守る壁も、※逆茂木、堀も、すべて置いていく。寡兵が野戦に出るのは、本来なら愚策よ」
※逆茂木:古代に使われた軍事障害物のこと。木の根を敵に向け、接近を防ぐ。
アデーレは黙って聞くが、その目に宿った意志は揺らいでいない。
それは承知の上、ということだろう。
「第二に――」
マクシムスは写真のマムート重戦車を「こつり」と、指で叩いた。
「あの怪物が、そなたの想定通り止まる保証はない。森を抜けた勢いのまま、湿地を越えて突っ込んでくるやもしれん。歩兵に突撃してくれば、逃げ場を失う」
アーシェが不安げにアデーレを見る。
「……確かに。撤退の確保のために陣地の機材からエーテルプリズムを拝借しましょう。ダミーの兵士を出してカカシにします」
「第三に――」
マクシムスは地図の後方を指した。
「補給線が伸びる。弾薬は手持ちだけ。重症者の治療もできんじゃろう。敵が反撃してきた時、そなたらは、自分たちの力だけで対処せねばならん」
アデーレの唇が引き締められ、力で白くなる。
「……分かっています」
「そして最後に――」
マクシムスは静かに言った。
「この策は、そなた自身が最前線に立つことを意味する。指揮官が倒れれば、士気は崩れる。昨夜そなたが灯した火が、一瞬で消えるやもしれん」
マクシムスの冷徹な言葉に、アーシェが思わず口を開いた。
「アデーレさん……やっぱり危険すぎますよ」
しかし魔王の妹は、迷いのない瞳で二人を見返した。
「いえ、マムートに対抗できるのは、父さんが遺したティーゲル号だけです。ティーゲルはマムートの装甲を貫ける唯一の戦力。マクシムスさんの言う通り、私が最前線に立つ必要があります」
「そんなことしたら、敵から狙われるんじゃ……?」
「もちろん。ですが、私が狙われれば、ガルムさんたち歩兵が動きやすくなる」
「…………ふむ。」
「危険ですが、やる価値はあります。ここで帝国の出鼻をくじければ、時間が稼げる。その時間がベリエを救うんです」
「確認するぞ。撃破ではなく、足止めが目的じゃな?」
「はい。戦いに勝つ必要はありません。時間を奪えればいい」
マクシムスはしばらく黙り、やがて、深く頷いた。
「ならば良し。危険ゆえに価値がある策というものも、この世にはある。そなたが覚悟を持つなら、ワシも軍師として支えよう」
朝靄が陽光の熱に払われていく。
決戦の気配が大地に静かに満ちていった。
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