裂かれた想い
アデーレは、丘の上に座り込み、フロレンヌを覆う闇を見下ろしていた。
夕日が沈みきる直前の空は息を呑むほどに赤い。
しかし、鮮烈な赤色も、黒い霧を前にすると色を失っていく。
まるでフロレンヌを中心に、世界がゆっくりと息を止めていくようだった。
小さな背中を丸める彼女の背後に、ガルムとメリナが立つ。
日が沈みかけた今、風はいっそう冷たくなっている。
足元をすくうような空気の流れに、草がざわりと揺れた。
「嬢ちゃん……そろそろ帰ろうや。これ以上ここにいたら狙撃されかねんぞ」
ガルムの声は低く、しかしどこか落ち着かない。
彼の耳は風の音に敏感に反応し、毛が逆立っていた。
「そうだよアデーレちゃん。風邪引いちゃうし……ね、戻ろ?」
メリナも不安げに袖を握る。
「……もう少しだけ」
地面に座り込んだアデーレは、じっと闇の底を見つめている。
兄がいるはずの場所。
あの炎の中で消えたはずの影。
「メリナさん。聞いてくれますか?」
「……?」
「こうして兄さんのこと待つの、初めてじゃないんです。兄さんが初めて学校に行った時、帰ってくるまでずっと家の前で待ってたんです。ミアさんと一緒に」
「……うん」
メリナはアデーレの横顔を見つめた。
夕日の赤が彼女の頬を照らし、その瞳の奥に沈む揺らぎを浮かび上がらせる。
「兄さん、こんな夕方の時にちゃんと帰ってきたんです。教科書が重いって文句言いながら……でも、笑ってて」
アデーレは小さく息を吸った。
胸の奥が冷たい空気で痛むような、でも懐かしい痛み。
「だから……今回も、きっと……」
言葉がそこで途切れた。
〝きっと〟の先に続く言葉が、どうしても出てこない。
メリナは汚れるのも構わず地面に膝をつき、そっとアデーレの肩に手を置いた。
その仕草は、どこかぎこちなく、でも温かかった。
「アデーレちゃん。……私ね、家族ってものがよくわからないんだ」
アデーレは驚いたように振り向く。
「小さい頃から施設で育って……誰かを『待つ』って気持ち、ずっと知らなかった。
帰ってくる人も、迎えに来てくれる人もいなかったから」
メリナは少し笑った。それは寂しさを隠すための笑みではなく、自分の過去を静かに受け入れた人間の笑みだった。
「だからね、アデーレちゃんが兄さんを待ってる姿を見ると……すごく、羨ましいんだ。そんなふうに誰かを想えるって、すごいことだよ」
彼女の微笑みに、アデーレの胸がきゅっと締めつけられた。
「……羨ましい、ですか?」
「うん。だって、帰ってきてほしいって思える人がいるんだよ。その人のために震えたり、泣きそうになったり……そんな気持ち、待つ人の居ない私にはわからないかも知れない……でも、すごく大事なものだってことは、わかる」
メリナは彼女の隣に腰を下ろし、アデーレの手をそっと握った。
「だから、待っていいんだよ。怖くても、信じても、泣きたくても。家族って、きっとそういうものなんだと思う」
アデーレの喉が震えた。
涙が出そうになるのを、必死にこらえる。
「……メリナさん」
「うん」
「兄さん……帰ってきてくれますよね」
「うん。帰ってくるよ。だって、アデーレちゃんが待ってるんだもん」
アデーレは唇を噛んだ。
胸の奥に押し込めていた感情が、少しだけ溢れそうになる。
「……はい。兄さんは……私の、たった一人の……」
その瞬間――黒い霧が、ゆっくりと割れた。
アデーレの言葉は風にさらわれ、丘の上の三人は息を呑んだ。
霧の亀裂が大きくなる。
何の光も届かない深海の底が押しのけられるように、静かに、重たく。
霧の裂け目から、冷たい風が吹き上がる。
それは夜の帳が落ちるよりも早く、世界の色を奪っていく。
そして――その向こうに立っていたのは
アデーレが知っている兄の姿ではなかった。
二対の角。
穴の空いた血染めの軍服を覆う、青白いエーテルの鎧。
背後にひれ伏す、エーテルの輝きをたたえた死霊たち。
そして、始祖吸血鬼の少女と、不死者の王。
「嘘だろ……リッチじゃねぇか。隣の小娘もどう見ても普通じゃねぇ」
ガルムの声が震えた。
彼の喉の奥から、獣の本能が警鐘を鳴らすような低い唸りが漏れる。
それでも、アデーレは息を呑んだまま動けなかった。
兄の瞳だけは、昔と同じ色をしていたからだ。
「……兄さん?」
その声は、風に溶けるほど小さかった。
カリウスはゆっくりと振り返り、アデーレを見つめた。
その瞬間だけ、彼の表情が、ほんのわずかに緩んだ。
「アデーレ……」
その声は、確かに兄のものだった。
だが次の瞬間、アデーレの肩が、身体が震えた。
黒い霧の向こうから、焼け焦げた腕が伸びる。
フロレンヌの住民だったもの。
帝国のパワーアーマー兵だったもの。
彼らは、いやに整った動きで操られるように、カリウスの背後に整列していく。
アデーレの背筋に、冷たいものが走った。
(嘘……兄さんが……これを……?)
身を守るように胸に手をやったアデーレを見て、カリウスは静かに頷いた。
「彼らは……僕が力を使うのをためらったせいで死んだ。だから、僕が責任を取る。彼らを……僕の力で使い、彼らの無念と添い遂げる」
アデーレの胸が痛んだ。
兄は命を失いかけたというのに、反逆者にも臆病者にもならなかった。
でも――彼はもう別の人間になっていた。
フロレンヌの惨劇の後、アデーレは急に〝目が見える〟ようになっていた。
自分を包んでいた幻想が消え、世界には、それまであると思っていたものが何も残っていないと理解した。いや、理解させられた。
帰ってきた兄が前にいるはずなのに、彼女は恐ろしいくらい急に孤独になった。
「違うよ。兄さんは……私を守ろうとして……」
言葉は震え、風に消えた。
カリウスは何も言わなかった。
ただ、アデーレの揺らぎを受け止めるように、静かに立っていた。
アデーレの心は、二つに裂けていた。
一つは、将軍の娘としての自分。
冷静で、現実的で、国を守るために最適解を選ぼうとする自分。
その声は言う。
兄さんの力を使うべきだ。
帝国を止めるには、これしかない。
もう一つは、16歳の少女としての自分。
兄を愛し、兄に守られ、兄を守りたいと願う自分。
兄さんを連れて逃げたい。
こんな戦争から、こんな世界から……
二人でどこか遠くへ……
胸の奥で、二つの声がぶつかり合う。
兄を守りたい少女の声。
国を守る将軍の娘の声。
どちらも本物で、どちらも嘘ではない。
しかし、どちらも同時には選べない。
そのねじれが、アデーレの息を詰まらせた。
彼女の心は鉛のように重く、自身の心の沼に沈んでいく。
兄の背後に並ぶアンデッドたち。
焼け焦げた住民。
ひしゃげたパワーアーマー兵。
彼らは、兄の力によって〝再び立たされている〟。
アデーレの下ろされた手、その指先は震えていたた。
(兄さんが……こんなことを……)
恐怖ではない。
ましてや嫌悪でもない。
兄が自分のために、ここまで変わってしまったことへの痛みだ。
兄は自分を守るために死者を使役した。
――兄は自分を守るために自分から離れ〝人〟を辞めつつある。
その事実が、アデーレの胸を締めつけた。
(私が……兄さんを……)
自分が兄を追い詰めたのではないか。
自分が兄を変えてしまったのではないか。
そんな罪悪感が、アデーレの心を曇らせる。
アデーレの揺らぎを、カリウスは静かに見つめていた。
彼は怒らない。
責めない。
ただ、アデーレの捻れを、まるで自分の痛みのように感じ取っていた。
(アデーレ……君は……)
胸の奥で、何かがざわりと揺れた。
それは記憶ではない。
ひどくおぼろげな、記憶の『影』のようなもの。
千年前、同じようなことがあった気がする。
自分の勝手な行いが、誰かの心を壊してしまった気がする。
その〝予感〟が、カリウスの胸を締めつけた。
(違う……違うはずだ。アデーレは……そんなふうになるはずがない。そんなこと、あってはならない……!)
叫びたいのに、声にならない。
喉の奥で、言葉が血のように固まっていく。
「…………。」
アデーレは、兄の姿を見つめたまま、ゆっくりと息を吸った。
少女の声が泣き叫ぶ。「兄さんを連れて逃げよう」と。
将軍の娘の声が命じる。「兄の力を使え」と。
どちらも正しくて、どちらも間違っている。
その捻れの中で、アデーレは――
少女の自分を刺し、殺した。
「兄さん……お願い。帝国を止めて。あなたの力で……みんなを守って」
その声は震えていた。
震えているのに、揺るぎない意志があった。
(アデーレ……君は……)
悲鳴をあげる胸を抑え込み、彼は悟った。
アデーレは今、自分の心を殺してまで、兄を戦争に差し出したのだ。
その決断がどれほど彼女を傷つけたか、カリウスには痛いほどわかった。
だからこそ、彼は静かに頷いた。
「……わかった。僕に任せてくれ」
その返事は、世界のすべてを差配する魔王の声ではなかった。
ただ、妹を想う兄としての声だった。
「……ごめん。アデーレ。こんな姿で、会いたくなかった。」
アデーレは、兄の返事を聞いた瞬間、何かがひび割れる音を感じた。
彼女は兄の言葉に答えられなかった。
言葉にすれば、自分と彼、そのどちらかが壊れてしまう気がして。
ただ、夕日の残光の中で、二人は静かに向き合っていた。
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