僕が学んだこと
闇の中は、まるで世界そのものが腐り落ちたかのようだった。
視界を覆い隠す黒い霧はただの霧ではない。
触れれば皮膚の下にまで染み込み、思考を鈍らせ、心の奥底に沈んでいた絶望を引きずり出す。そういった類の魔法だった。
その濃密な闇の中を、二つの影が迷いなく進んでいた。
一人は、黒い日傘を肩にかけた少女。
白磁のような肌に、夜の王を自称する吸血鬼の気品をまとい、闇の中でもその姿は異様なほど鮮明だった。
もう一人は、擦り切れた法衣をまとった長身の骸骨――エルダーリッチ。
眼窩に揺らめく青白い炎が、闇を拒むように明滅している。
「……来たわね」
少女が足を止めると、霧の奥から呻き声が響いた。
焼け焦げた皮膚、炭化した骨、ねじれた金属。
フロレンヌの住民だったものと、帝国のパワーアーマー兵だったものが、闇に操られるように這い出してくる。
その動きはぎこちなく、しかし執念だけは生者のそれを凌駕していた。
「闇の中心にいる“誰か”の絶望が、彼らを縛っているのね。ふふ……素敵」
彼女の足元から、影が液体のように広がった。
闇は触手のように伸び、死霊たちの足を絡め取る。
そして――握りつぶした。
骨が砕け、肉片が霧に吸い込まれる音が、湿った闇に溶けていく。
「お見事じゃな。だが後ろががら空きじゃぞ」
リッチの声に、少女は振り返りもせず右手を払った。
その瞬間、彼女の美しい顔が一瞬だけ獣のように歪む。
牙が覗き、右手の指が剣のように長く伸びた。
焼け焦げたゾンビが迫るが、彼女の一閃は傘を持ったままの優雅な動作で、ゾンビの胴体を紙のように切り裂いた。
地面には深い鉤爪の跡が刻まれ、闇の中で赤黒く光る。
「フフ……夜の王に触れようなんて、身の程知らずね」
「相変わらず容赦がないのう。では、ワシも見せてやろう」
リッチが杖を掲げると、闇の底から二つの影が立ち上がった。
漆黒の甲冑をまとい、青い炎を瞳に宿したデスナイト。
彼らが振るう巨剣は、氷海を割る砕氷船のように前方の死霊を薙ぎ払っていく。
骨が砕け、金属がねじれ、闇が悲鳴を上げる。
「ほれ、道は開いたぞ」
「ありがと。さすが私の従者ね」
「だからワシは従者では――」
言い終える前に、二人はそれを見た。
闇の中心。
黒い卵の殻のような構造物が、上部だけ割れて口を開けている。
その内部、廃墟の瓦礫の上にぼんやりと腰掛ける影があった。
赤い髪。
血のように濃い瞳。
そして、世界の理を歪めるほどの魔力。
「……まさか」
「こんなところで会えるなんて……!」
少女とリッチは、まるで予想もしなかったものを見たように息を呑んだ。
カリウスが、伏せていたその顔をゆっくりと上げる。
すると、深い闇の中で、彼の口元がわずかに曲がった。
「死神が二人も来るなんてね……」
その声は、どこか遠く、どこか寂しく、そして――底知れない力を孕んでいた。
2つの影が、カリウスに近づく。
黒い卵の殻のような空間の内部は、外の闇よりもさらに静かだった。
音も、風も、時間すらも沈んだような、異様な静寂。
その中心で、カリウスは片膝を抱えるように座っていた。
ぼんやりとした瞳は焦点を結ばず、ただ闇の揺らぎを見つめている。
少女が日傘を閉じ、軽やかに殻の縁から内部に降り立つ。
エルダーリッチは杖をつきながら、慎重にその後に続いた。
「……御主」
カリウスを呼ぶ彼女の声は、驚きと歓喜と、ほんの少しの畏怖が混じっていた。
「まさか、本当に……この時代に再びお目にかかれるとは」
リッチも少女に続いて、頭上のカリウスに深く頭を垂れ、骨の指を胸に当てる。
「姿は違えど、間違いなく『御主』の気配。千年の時を越えてなお、我らの王よ」
カリウスの片眉が歪む。
疑わしげな表情には、明らかに困惑の色が浮かんでいる。
「……やめてくれよ。僕は君たちの王なんかじゃない」
しかし、少女はカリウスに柔らかい微笑を向ける。
その微笑みは、夜の闇よりも深く、確信に満ちていた。
「いえ、我らにはわかります。この闇、この魔力、この世界の震え……すべてが、御主の帰還を告げている」
カリウスは息を絞り出し、肺の中の空気を追い出した。
深い嘆息。だがそれは、彼らへの嫌悪ではない。
もっと別の、胸の奥に刺さったトゲのような違和感。
(……この感じ。知っている。でも、思い出せない。何を……誰を、僕は……?)
少女が一歩近づく。
「御主、なぜこのような場所に留まっておいでなのです?」
カリウスはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……僕のせいだ。あの時、力が暴走して……エーテル災害が起きた。死んだ人たちが、アンデッドになり始めて……」
彼は自分の手を見つめる。
その手は、まだ震えていた。
「このままじゃ、アデーレや……みんなを巻き込む。だから、空間を閉じたんだ。僕の力が外に漏れないように」
少女とリッチは、互いに視線を交わした。
そして――同時に膝をついた。
「御主の仁心、確かに授かりましたわ」
「ならば、その憂い……我らが取り除きましょう」
リッチが杖を掲げると、外で彷徨っていたアンデッドたちが、まるで糸を引かれるように彼の足元へ集まり始めた。
少女も影を伸ばし、死霊たちを絡め取っては、その魂を静かに鎮め、従属の印を刻んでいく。
「我らが御主が封じようとしたもの……我らが引き受けましょう。御主の手を汚す必要はありません」
「千年ぶりに……お命じください」
カリウスは、二人が自分の前に拝跪する姿を見つめた。
胸の奥で、何かがざわりと揺れる。
(……僕の中で何かが反発してる。
彼らを嫌ってるわけじゃない。何か別の……)
少女が顔を上げる。
そこには、はっきりとした意志が宿っている。
「御主。どうか、我らに命じてください。この世界を、再び御主の御心のままに」
カリウスは目を閉じた。
闇の中で、アデーレの笑顔が浮かぶ。
(……僕は、どうすればいい?)
その問いは、誰にも届かない。
ただ、彼を取り囲む闇だけが静かに揺れていた。
「……」
闇の殻の中心で、カリウスはゆっくりと立ち上がった。
その動きはぎこちなく、しかし確実に〝何か〟が戻ってきている。
アルマとマクシムスは膝をついたまま、息を呑んで見上げた。
「…………」
カリウスはしばらく黙っていた。
闇が彼の周囲で揺れ、まるで呼吸するように脈動する。
そして――
「……きっと、僕が学んだのは、死だ。」
その声は低く、静かで、しかし世界の底を震わせるような響きを持っていた。
「死を与える方法。死を命じる方法。死を受け入れさせる方法。
……そうした死の連環を続ける方法だ。」
アルマの肩が震え、マクシムスの眼窩の炎が強く揺らめく。
「千年の間、僕はそればかりを見てきた。人が互いに向き合わされ、追い立てられ、
愚鈍に、従順に、罪もなく殺し合うのを。」
カリウスは拳を握った。
「僕らが信じたものは……何一つ、この光景を止められなかった。フロレンヌの、この街の光景は――僕らが信じた幻想が生み出した現実だ」
闇が、彼の背後でゆっくりと広がる。
「だから、僕はここにいる。僕の力が、また僕の大切な誰かを殺さないように。」
その言葉に、アルマはそっと顔を上げた。
「御主……それでも、御主は御主です。その慈悲、その憂い……千年前と、何一つ変わっておりません」
マクシムスも深く頭を垂れる。
「ならばこそ、我らをお使いください。御主が守りたきものを守らんがために」
アルマは日傘を閉じ、胸の前で両手を重ねた。
その姿は、まるで古の王に仕える姫騎士のようだった。
「夜の王にして、我らが主。アルマ・ウァルプルギス、ここに魂を捧げます。」
マクシムスは杖を地に突き、骨の膝を折る。
「不死者の王マクシムス、千年の誓いを再び。御主の剣となりましょう」
二人の周囲に、従属の魔法陣が淡く浮かび上がる。
闇が静かに震え、死霊たちがひれ伏すように沈んだ。
カリウスはその光景を見つめながら、胸の奥にざらりとした違和感を覚えた。
(……嫌だ。
この光景を、僕は……嫌だと感じている。
でも、それは彼らのせいじゃない。
もっと古い……もっと深い記憶が……)
思い出せない。
だが、確かに何かがある。
闇の中心で、カリウスは二人を見下ろした。
「……僕は、君たちを従えたり、使うつもりはなかった。」
アルマとマクシムスは顔を上げる。
「でも……アデーレがいる。仲間がいる。帝国は、彼らを殺すために進んでくる。」
カリウスはゆっくりと手を差し出した。
「だから、君たちの力を借りる。アデーレを守るために。帝国を止めるために。」
アルマの瞳が輝き、マクシムスの眼窩に灯った炎が強く燃え上がる。
「御主の御言葉、確かに心得ました」
「千年ぶりの……魔王軍の再誕ですわ」
闇が震え、死霊たちが一斉に頭を垂れた。
カリウスはその中心に立ち、この場の全ての者に傅かれる。
しかし胸の奥のざらつきは消えなかった。
……この感覚。
僕は、かつて……『魔王』と呼ばれることを――
思い出せない。
だが、確かに〝嫌っていた〟。




