銀の手
いつかわからない時刻
どこかわからない場所
古い図書館の奥、誰も足を踏み入ようとしない一室にカリウスはいた。
空気は湿り気を帯び、紙と革と時間の匂いが重たく沈殿している。
高い天井まで届く書棚は、まるで黒ずんだ森の木立のように部屋を埋め尽くし、ところどころで傾き、悲鳴のような軋みを漏らしていた。
月明かりを部屋に投げかける高い窓は、厚い埃のヴェールに覆われ、それでもなお、冷たく青白い月光だけが辛うじて隙間をすり抜けてくる。
窓から伸びる細い光の帯は床に落ちて、長い年月そこに留まっていた埃を静かに照らし出す。まるで沈黙そのものを可視化したかのように、そこで揺らめいていた。
書棚の狭い通路のあちこちに、ふわりと、音もなく透明なシャボン玉のような球体が浮かんでいる。大きさは掌に収まるものから、人の頭ほどもあるものまで。
時折、淡い虹色の膜が月光を捉えてきらめき、次の瞬間にはまた透明に戻る。
そして床。
古い薪の残り火のように、赤黒い熾火がゆっくりと渦を巻いている。
炎というにはあまりに弱く、熱もほとんど感じられないのに、その中心だけは異様なまでの深さで赤く燃えている。
見つめていると、どこか吸い込まれそうな錯覚を覚える。
時が止まったような静寂の中、シャボン玉は漂い、熾火は回り続ける。月だけが、冷たく、無関心に、この忘れられた部屋を眺め下ろしていた。
これを成しているのは、部屋の奥、月明かりに浮かび上がる一人の女性。
銀魔女、あるいは銀の手と呼ばれる魔法使いだった。
銀の手――シャルロッテはその強大な魔力がゆえに、世界の現実を陥没させてしまう。そこにいるだけで魔法を発動させてしまうように見えるが、それは違う。
――彼女自身が魔法なのだ。
銀魔女は精霊銀の義手で古い書物をめくる。向かいで背もたれの片方の飾りが取れた椅子に座るカリウスは、緊張した面持ちで彼女を見つめていた。
「おはようございます」
「おはよう、カリウス。」
「えっと……」
「ここに来たっていうことは、そうなんでしょう?」
「まぁ……はい。単刀直入にいうと、助けてくれませんか?」
「いいけど駄目。」
「どっちですか」
「小さな奇跡くらいなら起こしてあげる。例えば……私が気まぐれにも、貴方の質問に完璧かつ嘘なく答えるとか」
「…………たしかに奇跡だ」
「で、どうかしら」
カリウスは膝の前で手を握る。
そして、堰を切ったかのように銀魔女に自身の疑問を投げかけた。
「師匠、あの力は――エーテルって何なんですか。何で世界をメチャクチャにできる力が水のようにどこにでも存在して、それでいて世界はその形を保ってるんですか? どう考えてもおかしいです」
書物を捲る手を止めず、彼女は甘い声で囁いた。
「それは視点――いえ、視座が違うからよ」
「視座?」
「見ようとしているうちは見えない。そういった類のものなの」
「僕は……エーテルを魔法を使うための燃料と考えてます。これがそもそも違う?」
「そう。そこが根本的に違うのよ。カリウス、あなたはエーテルを『燃料』と呼んだ。便利な比喩ではあるけれど、それは人間が都合よく作った枠組みに過ぎない。エーテルは燃料なんかじゃない。この世界が『在る』という事実そのものなの。」
書物に視線を沈めたまま、彼女は文字をなぞるように義手の指を空中に滑らせた。
「想像してみなさい。今あなたが立っているこの部屋、窓から差し込む月光、私のこの義手も……すべてが、エーテルという『布』の上に描かれた模様だとしたら?」
「……」
「布自体は、ただそこにある。何も考えず、何も意図せず、ただ『在る』。ところが人間は、その布の上に模様を描きながら生きている。そして時々、その模様を強く握りしめて、布を引っ張ってしまう。引っ張れば布は伸びる。強く引っ張れば、破れる。破れたところからは、布の下側――つまり、常識が成立していない『何か』が、這い出してくる。それが、あなたたちがエーテル災害と呼んでいるもの」
「……じゃあ、エーテルは世界の『素材』みたいなものなんですか? 布そのものがエーテルで、俺たちの現実はその上に描かれた絵……?」
「近いけれど、一歩足りない。素材の本質は『可能性』でしょ? エーテルは、無限の可能性を湛えた水。今私たちが見ているものは、そうだったかも知れない世界」
「そうだったかもしれない、世界……?」
カリウスの言葉を受け、彼女は《こちらに向かって》視線を送る。
「その水が静まっているとき、そこに映る影が『現実』になる。人間は、その水面に石を投げて波紋を作ることで、意図的に影を変える。それがあなた達がただの技術と思い込んでいるものの正体」
魔女は銀の義手をゆるくひろげ、人差し指の先に明かりを灯らせた。
「小さな石なら、ただの波紋。ランプが灯る。戦車が動く。傷が癒える。でも、大きな石を――あるいは、爆薬を投げ込んだら?」
「水面は砕け、底が見えてしまう?」
「水底には、形も名前もない、私も知らない『何か』が蠢いている。それが漏れ出てきたとき、世界は先のような『わからない』状態になるの」
彼女はようやく顔を上げ、カリウスの目を真正面から見つめる。
銀の瞳に、月の光が冷たく反射している。
美しい。と、カリウスは思った。
「だからエーテルは、世界を支えているのに、世界を壊す力でもある。矛盾しているように見えるのは、人間の視座が狭いからよ。私たちは、布の上に描かれた模様に過ぎない。布そのものを見ることは決してできない。」
「……」
「ただ……布が破れかかるときだけ、ほんの一瞬、その下の『何か』を覗き見ることができる。それが、私の知っている、エーテルというもの」
「……シャルロッテさんは、その『何か』を見たんですか?」
彼女はくつくつと、小さく笑う。その笑い声はほとんど音にならない。
「私がその『何か』よ。だから私は、そこにいるだけで少しずつ、世界を歪めてしまう。それは言うなれば、私自身が誰かの幻想なのかもね」
「……よくわかりません。シャルロッテさんはここにいます」
「カリウス。あなたはまだ布の上に立つ側にいる。でも、それでいい。……そのままでいて。それが、私があなたに望む、たった一つのことよ」
「あ、後は――《あのこと》って、みんなに言ったほうがいいと思いますか?」
「それは私が決めることじゃないわね。貴方の思うようになさい」
「そうですか……」
「少し無責任に聞こえるかも知れないけど、きっと大丈夫よ。だって――」
「?」
「貴方はそこにいる。同じことが彼らにはできない。そう思ってるの?」
「あー……」
「そんなに貴方は特別かしら? 思い上がりも甚だしいわ」
「――はい」
「ふふ。じゃあね。――魔王」




