予兆
ズワルフは、朝の終わり頃、少し暖かくなり始めた空気の中を駆けていった。
軽快なエンジンの音が、草の間を通り抜けていく。
そうしてツバメが小さくなっていき、音の名残も消えた後。
こんもりとしていた草地の一部が僅かに持ち上がった。
浮き上がった草の下からは土の壁が現われ、横に広いのぞき穴が掘られている。
穴の中、奥まった向こうには2つの白い光――目が光っていた。
「将校がフロレンヌに向かってます。やっぱり妙ですよ、シーナ少尉」
目がものを言うと、もう一組の細い光が横から現われた。顔をドーランで黒く塗り潰したそれは、輪郭から察するにどうやら女性のようだ。
「先日から始まった陣地構築といい……住民を避難させる気かしら」
「ベリエに作戦を察知されたと思いますか?」
「わかりません。しかし、念を入れてこの監視拠点は放棄します」
「後方に下がりますか?」
「Ne、任務は続けます。 《《あれ》》は場所を変えて設置します」
草の中から起き上がった彼らの格好は、非常に独特なものだった。
まず足。彼らは鋲打ちされたブーツや軍靴ではなく、ゴム底のテニスシューズを履いていた。頭にはヘルメットは被らず、ニットのキャップにウールの上着を着込んでいる。軍人というよりは、日曜日のお父さんと言った風体だ。
しかし、草と同化するような迷彩ネットを被った父親はいないだろう。
彼らは偵察・敵地侵入を専門にする帝国軍の斥候部隊の者だった。
彼らの服装には全て意味がある。この時代、軍用靴は革底が標準で、地面のグリップ力を高めるために鋲を打っていた。
金属の鋲は硬いものを踏むと音をさせるため、斥候として動くには都合が悪い。そこで、偵察を専門とする兵たちは、民間のテニスシューズを求めた。
テニスシューズはこの時代、静粛性を売りにして発売されたばかりであった。
軍用靴にゴム底が導入されるのは、もう少し後になる。
また、ヘルメットを被っていないのも、静粛性とシルエットを崩すという2つの意味があってそうしている。ウールの上着はコットンに比べて音を立てないのと、地面に長時間寝そべっていても温かく、水を吸いづらいために偵察兵に好まれた。
ウールの上着の前は、バックルを横にずらしたベルト、あるいはロープで留められている。彼らの腰には細長いキャンバス地の弾帯が下がっている。長方形をしているのは、それがライフル用ではなく、短機関銃のものであることを示唆していた。
短機関銃を杖にして立ち上がった彼女は、穴の中から何かを引っ張り出す。
円柱状をした3つの機械だ。それぞれの筒には番号がかかれ、底に定置用の折りたたみ式の足がついていた。
「ずいぶん小さいですが……本当にこいつが『門』になるんですか?」
線の細い、髪の黒い女は、何かを考え込むように黙って眉を動かした。
「そういうことになってるわ。さ、持って」
女は穴の中からもう一組の3つの機械を引き出す。
ふた組、合計6つの筒を背負い、小さな影が草地の中に姿を消していった。
◆◆◆
フロレンヌの街は、まだ戦火を感じさせない穏やかな朝の光に包まれていた。
石畳の隙間から立ちのぼる朝露の匂いに混じって、どこかの家から焼きたてのパンの香りが漂ってくる。バターを溶かす甘い匂い、鉄鍋で炒められた玉ねぎの香気、スープの湯気に乗ったハーブの香り――それらが食器の音と共に、ゆっくりと街路に流れ込んでいた。
アデーレが運転する自動車が速度を落とし、朝露の湿り気を残す石畳の道にゆっくりと滑り込む。自動車の揺れが収まったのを見たカリウスは、助手席のシートに片手をやって、それを支えに立ち上がった。
緋色の髪が風に吹かれ、二対の角が朝日に輪郭を照らされる。
「さて、どこだ……」
彼は目を細め、左右に視線を走らせた。
目的はただ一つ。機械工の看板だ。
「あ、あったよ、アデーレ――わわっ!?」
カリウスが小さく呟いた瞬間、妹も看板に気づいたらしい。
彼女は自動車のブレーキを踏み込み、同時にハンドルを鋭く切ってドリフトさせると、トタン製の屋根を持つ、長い家屋の前にツバメを滑り込ませた。
(ドリフトなんて、どこで覚えたんだ……)
工房の軒先を見上げると、歯車とスパナが交差した素朴な看板が、鋼線に吊られて揺れている。ここなら求めているものが見つかるだろう。
アデーレはエンジンを切り、必要な資材を記載したメモを手に降りた。
小柄な体を包む戦車将校用のジャケットの裾が風を切る。工房に向かってつかつかと歩くたびに、彼女の金髪のショートボブが左右に揺れる。
その堂々とした様子は、普段、兄の影になっているアデーレとはまるで違う。
今の彼女の体には、修羅でも宿っているのだろうか。
メガネの奥の彼女の瞳は、すでに工房の奥に置かれた旋盤や工具棚を値踏みし、その技術力を推し量るように動いている。
「よし、ここなら……兄さん、ここで待っててください。在庫を確認してきます」
「うん。頼んだよ」
カリウスは気楽に頷くと、自動車から降りた。その理由は、小さなシートの居心地が悪かったのが一つ。もう一つは、カメラの被写体を探すためだ。
首から下げていたカメラに手をやったまま、カリウスの視線が泳ぐ。
その時、工房の扉が開いて、エプロン姿の女性が顔を出した。
アデーレの軍服を見た瞬間、彼女は驚いたように目を丸くしたが、すぐに背筋を伸ばして丁寧に会釈した。
「お、おはようございます、軍人さん。こんな朝早くに……どうぞ中へ」
その声に反応して、奥から職人らしき男性が慌てて手を拭きながら出てくる。彼もまたアデーレの肩章に気づくと、慌てて帽子を脱ぎ、胸に手を当てて敬意を示した。
「これは……少尉殿。どういったご用命でしょうか?」
アデーレは工房の主人の丁寧さに恐縮したのか、深く頭を下げる。
工房の家族は、早朝の訪問を煙たがるどころか、彼女を歓迎してくれた。
帝国が迫る中でも、彼らは軍人を敬い、礼を尽くすことを忘れていないようだ。
工房の家族は、ただ礼儀正しいというだけではなかった。
アデーレが口を開くたび、彼らの視線も、呼吸も、思考のすべてが彼女に向かっていくのがわかった。
普通なら、挨拶をしながらも「朝食が焦げていないか」「仕事の段取りはどうするか」そんな別の考えが頭のどこかを占めているものだ。
だが、この家族は違った。
まるでアデーレの一挙手一投足を見逃すまいとするように、彼女の言葉を一語一句すくい取ろうとするように、全身でアデーレを迎えようとしていた。
その真っ直ぐさが、カリウスには妙に胸に響いた。尊敬というより、信頼を預ける覚悟のようなものを感じたのだ。
(……この人たちは、本当にアデーレを頼りにしてるんだろうな)
カリウスは妹のことを誇らしく思うと同時に、どこかくすぐったいような気持ちが胸の奥に広がった。
「……うん?」
軒先に近寄った、そのときだった。工房の開け放たれた扉の影から、小さな人影がひょっこりと顔を出した。扉の向こうで栗色の短い髪を傾けているのは、まだ六つか七つくらいだろうか。白色のワンピースを着た少女だった。
頬にそばかすが散っている少女は、大事そうに両手で何かを握っている。
「……あ」
少女は恐る恐るカリウスを見つめた。
軍服、それも知らない人がいたことでびっくりしたのだろう。
カリウスは屈み込んで少女と同じ目線になり、にこりと笑った。
柔和と言うには浮つきすぎている――しかし、嘘のない笑顔だ。
「ん? どうしたんだい?」
少女は両手を差し出す。
掌の上には、小さな白い欠片。乳歯だった。
「うんとね、昨日、歯医者さん行って……抜いてもらったの。」
「おおー、立派に抜けたじゃないか!」
カリウスは大げさに目を丸くしてみせた。
「これ、ちゃんと枕の下に置いたかい?」
「うぅん。どうして?」
「枕の下にして寝ると、お金もちの妖精さんが来て、コインと取り替えるんだ」
「妖精さん!? ほんとに来るの?」
「来るさ。俺が保証する。だからちゃんと歯を磨くんだよ」
「えぇ~、なんで?」
「それはね、きれいな歯だと妖精さんはコインを置いていくけど、虫歯で穴の空いた歯があると、コインの代わりに石炭を置いていくんだ。」
「だめー! そんなことされたら、枕が真っ黒になっちゃう!」
「うん。だから、ちゃんと毎日歯を磨くんだよ」
彼は少女の頭をくしゃりと撫でた。
角の生えた青年の手は意外に優しく、少女はくすぐったそうに肩をすくめる。
そのとき、工房の中からアデーレの声が飛んできた。
「兄さん! 資材は大丈夫そうです! 工具も貸してくださるそうです!」
「よし、今積めるぶんだけ積み込んで、残りはトラックを回してもらおう」
建物の窓から顔を出したアデーレは、胡乱な表情で彼の足元を見る。
「了解です、兄さん。ところでその子は……?」
「ここの子みたいだ。昨日、歯医者さんで乳歯を抜いてもらったばかりなんだって」
視線を感じたカリウスは、再び少女に向き直る。
彼女の視線は彼の胸元のカメラに向いていた。
「写真、撮ってほしいのかい?」
「うん」
「よーし、君のその立派な乳歯と、今日という日を残しておこう」
カリウスが大げさに言うと、少女は少し恥ずかしそうに頷いた。
カリウスは、少女を工房の看板の下に立たせ、カメラを構える。
少女が照れ笑いを浮かべると、そばかすだらけの頰がりんごのように光った。
かしゃり。
シャッター音が、朝の優しい光の中に小さく響いた。
「……ありがとう、お兄ちゃん」
少女がぽつりと言った。
カリウスは一瞬だけ目を細め、それからいつもの調子で笑った。
「こちらこそ。いい写真が撮れたよ」
カリウスは少女の小さな頭をもう一度撫でてやった。
はにかむような笑顔をした彼女は、くすぐったそうにしていた。
カリウスはアデーレと手分けして、資材と工具をツバメの前部トランクと後部座席に押し込んでいった。沈み込んだタイヤが、積み込んだ資材の重みを物語る。
「急いで戻りましょう。まずはエーテル機関を使えるようにしないと」
「ああ」
カリウスは少女に手を振った。
「また会えたら、今度は生えたての歯を見せてくれよー!」
少女は大きく頷き、乳歯を大事そうに握りしめて工房の中へと駆け戻っていった。ツバメが再び動き出すと、カリウスはシートに深く腰を下ろし、首から下げたカメラをそっと胸に押し当てた。
「……」
隣でハンドルを握るアデーレは、ちらりと兄を見た。
「兄さん、いつもそうやってみんなに優しくするんですよね……」
「えっ!?」
「……なんでもないです」
小さく呟いたアデーレの横顔は、ほんの少しだけ赤らんでいる。
その頬の熱は、兄に気づかれたくない種類のものだった。
フロレンヌの街は、二人の背中を見送るように、陽光で輝いていた。
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