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開戦当日

 聖暦1936年、春。

 ベリエ王国、東部国境にほど近い、港町エマール。



 春の朝だった。


 本来なら市場の喧騒が川沿いの通りを満たしているはずなのに、今日は違った。


 市場はまるで息を殺したように静まり返り、屋台の前に中身のない木箱が打ち捨てられていた。声を上げる商人の姿もなく、市場そのものがすっかり空になっていた。


 空の籠が風に運ばれて転がっていく。いつもならレストランから香ばしい魚の匂いが漂うはずの通りは、今はただ静かに、潮の香りだけを運んでいた。


「ねぇ、お母さん。お店は? 今日はパン屋さん寄らないの?」


 少女は、まだ何も分かっていない声で言った。


 母親は返事をしない。

 行列はほとんど進まず、背後からは荷物を抱えた人々のため息が重く流れてくる。


 街路に列をなす人々の足取りは重い。誰もがパンパンに膨れ上がった旅行鞄や荷物を抱え、家族の手を引いて街の外に続く西の鉄橋を目指していた。


 少女は続ける。


「だって、明日ね、学校で——」


「いいから歩きなさい!」


 思わず強い声が出た。


 少女の肩がびくりと震える。母親は自分の声にハッとし、唇を噛んだ。


(どうして怒鳴ったの……この子は悪くないのに)


 母親の胸の奥で、怒鳴り声への後悔が、じくじくと疼く。

 少女は不安げに母親の顔を見上げていた。


「……ごめんね。ちょっと疲れてるだけよ。大丈夫、すぐに落ち着くから」


 母親は震える手で少女の頭を撫でた。


 少女はまだ状況を理解していない。

 今はただ、母親の手の温度だけを頼りに歩いている。


 列の先では、馬車の車輪が石畳を軋ませ、潮風が避難民の背中を押していた。


 自動車を持つ住人はすでに街を出て、残ったのは馬や徒歩で街を出ようとする住民たちだった。


 少女が街の中央にある時計台の方へ目を向けると、そこからも長い行列が伸びてきて、自分たちの行列に混じっていた。


「……お母さん、なんでみんな、こんなに急いでるの?」


 少女の問いに、母親は答えられなかった。


 だが、誰もが知っていた。


 この街で迎える朝は、もうこれが最後だということを。

 静けさの向こうに、抗いようのない嵐が迫っていることを。



 行列は少し進んでは、また止まるということを繰り返す。

 止まるその度に、立ち止まった少女は、退屈そうに周囲を見回した。


「ねぇ、お母さん……あそこ、まだ開いてるよ」


 少女が指さした先に、小さなカフェがあった。


 軒先の黄色い看板には「サンフラワー」と書かれている。

 扉は半分開いていて、薄暗い店内からラジオのノイズが漏れていた。


 母親はちらりと視線を向けただけで、少女の手を引き直した。


 「寄らないわ。いいから前を見て歩きなさい」


 その声は、さっきよりも少しだけ強かった。

 少女はしゅんと肩を落とし、母親の後ろに隠れるように歩き出す。


 母親は怒りたいわけではない。

 ただ、進まない行列への焦りと恐怖が、彼女の言葉を荒くしてしまうのだ。


「……ごめんね。あとで何か温かいものを飲もう。ね?」


 少女は小さくうなずいた。

 その視線はまだ、カフェの半開きの扉に向けられていた。


 風が吹き、扉がきしむ。


 少女の目には、店内の薄闇の奥で何かが動いたように見えた。

 尻尾のある灰色のシルエットが揺れた。


「…………? ワンちゃん?」



 カフェの中では、灰色の毛並みをした狼獣人(ライカン)のガルムが、カウンターの内側に入り込み、棚を漁っていた。


 店主の姿はない。

 カウンターには、湯気の立つコーヒーカップだけが取り残されていた。


 苦みのある香気が漂う中、点けっぱなしになったラジオのノイズが静まり返った店内に響いていた。


 ガルムは灰色の分厚い綿入れを着込み、革製のハーネスを肩から腰にかけて巻いていた。棚に突っ込んだ手には、軍用の厚手のグローブをはめ、まくった袖とグローブの間からは第一次ヨーロッパ大戦の古傷が、白い線として覗いていた。


 灰色の毛並みに覆われた鋭い耳が何かを探すようにピクピクと動き、長い尾が苛立たしげに揺れる。


 すると、人狼は棚から缶詰を二つ掴んだ。

 肉詰めをポケットに押し込み、もう片方のコンデンスミルクをその場で開けた。


 フォークも缶切りも使わず、牙を剥いてコン、コン、と上下に穴を空ける。


 そして缶を傾け、下の穴に口をつけて中身を啜った。鉄の味と甘ったるいミルクの味が、細長い彼の口の中に広がった。


 ミルクを数口吸った彼は、次に水の入ったケトルを手に取る。


 コンロにケトルを乗せ、ツマミを回す。

 青い炎が年季が入って黒ずんだ薬缶(やかん)の底を包みこんだ。


 しかし、コンロにはガスを通すホースがない。その代わり、青白く輝く液体の入ったカートリッジがコンロの前面に挿入されていた。


 エーテル機関。この世界では広く用いられている「技術化された魔法」だ。


 この世界で「魔法」と呼べるものは、かつては極めて稀有な才だった。


 選ばれた血筋、異常な精神力、あるいは神の気まぐれともいうべき天賦の才——それらが揃わなければ、人の身でエーテルを意のままに操ることなどできなかった。


 空を裂き、炎を呼び、地を震わせる力は、数えるほどしか存在しなかったのだ。


 だが、今から200年前。ルネサンス(技術復興)と言われる時代に全てが変わった。


 ある錬金術師が——歴史書に「狂える天才」とだけ記される男が——エーテルを「封じ込め」「燃焼させ」「制御する」機械を生み出した。


 それがエーテル機関の始まりだった。


 最初は玩具(オモチャ)のようなものだった。

 小さなランプを灯すだけ。


 やがてそれは蒸気機関を凌駕し、鉄の船を動かし、工場を回し、街に光を灯した。


 産業革命の嵐の中で、エーテル機関は爆発的に普及した。


 今や馬車の代わりに青光(しょうこう)を灯した自動車が走り、家庭のコンロは青白い炎を上げ、時計さえエーテルの脈動で時を刻む。


 誰もが使う。

 誰もが当たり前だと思っている。


 ――だからこそ、ほとんどの者は忘れてしまった。


 この便利で、静かで、清潔な青い炎が、かつては「魔法」と呼ばれ、畏怖と羨望の対象だったことを。


 今や世界の基盤となったもの。

 それが、かつて神の領域とされた力の、薄く広くばらまかれた欠片であることを。


 ガルムは空になった缶詰を床に放り、グローブの甲で口元を拭った。


 ケトルがカタカタと音を立て、湯が湧いたことを知らせていた。


 勝手知ったる様子で湯を沸かした彼は、白錫釉(はくしゃくゆう)のポットからコーヒーを注ぐ。


「ほらよ」


「ん、ありがとう。」


 出来上がったカップを受け取るのは、ボルトアクション式の旧式の短小銃を背負った民警隊のメリナだ。彼女の制服はベリエ王国の旧式のグリーンのジャケットで、肩章に民警隊の徽章が通されている。腰のベルトには予備の弾をいれた弾薬盒が2つ下がり、その間に柄付の手榴弾と短いシャベルが突っ込まれていた。


 ジャケットの裾は砂で汚れ、ブーツは泥だらけだ。栗色の長い髪を後ろで束ね、顔には疲労の影が濃いが、目は鋭く周囲を警戒していた。


 木製のカウンターに肘を突いたメリナは、コーヒーの湯気を眺めながら、ラジオの音に静かに耳を傾けていた。すると、ノイズ混じりの放送がカフェの中に響いた。


「——国境付近で軍事演習を続けるゲルマニア帝国軍ですが、前進を始めたとの報告が入りました。帝国に対し中立を宣言したベリエ政府は、不測の事態に備えるよう警戒を呼びかけています。国民の皆さんは、冷静に行動を……」


 放送の声は淡々としていたが、カフェ内の雰囲気は異様だった。誰もが言葉少なに顔を見合わせ、ため息をつく。ガルムは空になったボトルをカウンターに並べながら呟いた。


「何が演習だ……。第一次の時と同じだ。帝国の奴ら、間違いなく来るぞ」


 隣に座る人間の女性、メリナは、黙ってコーヒーをかき回していた。


 メリナは民警隊の隊員だが、普段は花屋の仕事をしている看板娘。ガルムは大工だ。しかし有事の際は銃を取り、街の平和を守る立場にあった。


 そうした立場にあるのは彼女だけではない。カフェの隅では、民警隊の父親についてきた二人の子供が、不安げな表情で父の顔を見上げていた。


 年端も行かない少年少女は、つい先日最後の授業を終えたばかりだ。ベリエ王国では義務教育で戦闘の基礎を学んでいる。そのはずだが、本当の戦いが迫る中、彼らの目は怯えていた。


 彼らは学校指定の紺色の制服を着ており、袖には軍事教練を終了したことを示すワッペンが縫い付けられている。少年の方は小さなバックパックを背負い、中には教科書と一緒に簡易のサバイバルキットが入っているようだ。


 少女が、袖に赤いリボンを巻いた父の軍服の袖を引っ張る。粗末なコートを羽織った少女はしっかりと袖を掴むが、握りしめた少女の小さな拳は震えていた。


「お父さん、本当に行っちゃうの?」


「心配するな。お母さんの言うことを聞くんだぞ。お前がお兄ちゃんだ。妹とお母さんのことをちゃんと見てやってくれ」


「うん!」


「……よし、いい返事だ!」


 そのとき、ドカドカと音を立ててスコップを持った男たちが入ってきた。


 湿った土の匂いをさせる男たちはカフェの中を見渡すと、カフェの奥にあった年季の入った白のアップライトピアノを指さした。


「それ、使っていいか?」


「オレのじゃないが、かまわんだろう。持っていけよ」


「よし、誰か手を貸してくれ!」


 彼らは街に残ることを選んだ数人の住民だった。手近なものを使って街の各所に急ごしらえのバリケードを築き始めていたのだ。


 カフェから運び出されたピアノはタンスやベッドと言った仲間たちと一緒に街路の中央に陣取った。街路の石畳はそこかしこで剥がされ、土嚢と一緒に積み上げられて塀に姿を変えていた。


 住人が避難した家々の扉は開け放たれ、中には弾薬箱や手榴弾の備蓄が運び込まれていた。国民皆兵のベリエでは、各家庭が武器弾薬の隠し場所を持っている。


 ある家の二階では、床に土嚢を積み上げ、窓枠に砂袋を並べて即席の狙撃陣地を作っていた。ガラス窓は立て板で塞がれ、わずかな隙間から銃口を覗かせるための穴が開けられている。


 また別の家屋では、地下室にエーテル燃料の缶が積まれ、瓶に詰めて爆発物として使えるよう準備されていた。空き家となった建物からは、かすかな金属音が響く——誰かが最後の備えを整えている音だ。


 街全体が息を潜め、望まぬ客人を待ち構えていた。

 帝国の影がすぐそこまで迫っていることを、誰もが肌で感じていた。

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