3, 死ねない少女
マヒルはいつ飛んでくるかわからないドロップキックに怯えながら百合葉の隣を歩いていると、ある違和感に気がついた。
変な臭いがする。
ただの異臭にしては、少し嗅ぎ慣れない。
血の臭いにしては、少々鉄っぽさが足りず、吐瀉物のような刺激臭が混じっている。
少なくとも、百合葉から半分こされたクレープを食す気力が失せるぐらいには、嫌な臭いだ。
「百合葉ちゃん……」
「ん? なーに?」
三枚重ねにしたクレープを口いっぱいに頬張っている百合葉は、この異臭にまだ気がついていないようだ。
「臭うね……」
「へっ!?」
マヒルは周囲の警戒にあたる。
もしかすると、昨日の男の仲間が復讐にきたのかもしれない。
昨日の今日だ。百合葉が襲われる可能性は大いにあるだろう。
マヒルはそう考えると念の為、英樹を呼ぶ準備をした。
「えっえっ、臭い?」
「うん」
「えぇ!?」
百合葉が勘違いをしているのにも気づかないまま、マヒルは新しい違和感を覚えた。
人がいない。
閑静な住宅街だったらまだしも、マヒルたちがいる場所は繁華街の一角であり、人がいないことはまずありえないだろう。
放課後のこの時間帯だったらなおさらのことだ。
普通ではない何かが起こっているのは、明らかだった。
「そ、そんなに臭いの……?」
「うん、臭い……」
百合葉はその言葉を聞いたことで、より一層ショックを受けた。
それが自分に向けられた言葉ではないことを知らず、彼女はどこが臭いのかを調べはじめた。
服? 腕? 髪? 脇?
もしかして……口臭?
次々に自分の匂いを調べて、どこが臭いのかもわからずに、百合葉は泣きそうになった。
異性から体臭のことを指摘されるのは、想像以上にダメージが大きい。
そのためだろうか。
彼女は意気消沈して、警戒心というものを喪失していた。
「──えっ」
百合葉の背中に、鋭い痛みが走る。
「百合葉ちゃん!?」
マヒルの叫び。
突然の痛みと、それまでの日常の一転のせいで、脳の処理が追いつかない。
一つでも多く状況を理解するために、百合葉は視線を四方八方へ動かす。
さっきまで自分が食べていたクレープが地面に落ちていた。
真っ白な生クリームとチョコレート、そして血が混ざりあって、変な色になっている。
「誰だお前ッッ!!」
マヒルの声が聞こえた。
どうやら、百合葉の背後に誰かがいるらしい。
「そんな怪異、存在していいはずないだろ?」
「質問に答えろっ!」
怪異、とは自分のことなのだろう。
百合葉は崩れた体勢を立て直すこともできないまま、その場に倒れ込んだ。
「……まただ」
混濁する意識の中で、そう呟く。
痛みに耐えるのは、いつぶりだろう。
最近はめっきりと減っていた気がする。
マヒルが、自分の身をいつも守ってくれていたお陰だろうか。
「うるっせぇなぁ!!」
だが、そんなマヒルも、百合葉を刺した犯人に殴られ、地面に倒れたっきり動かなくなってしまった。
「あと……少し……」
遠のいていく意識の中で、百合葉はそう呟いた。
百合葉の背中を刺した犯人が、顔を覗き込んでくる。
男だ。
どこにでもいるような、若い男。
しかし、百合葉のことを怪異と称した時点で、普通の人間ではない。
「もう死んだも確定だろうに、なんで確認なんかさせるんだか」
面倒臭そうな雰囲気を出しながら、男が言った。
男は百合葉の顔、体、足と視線を移動させて、気味の悪い笑みを浮かべた。
「人間でないにしろ、結構良いな」
下卑た表情に、百合葉は形容し難い感情を覚えた。
自分の体が、ただのものとして見られる感触。
それもただのものではなく、欲望を発散させるためのもの。
「本っ当っ、やだ……」
屈辱と一緒に、殺意が湧いた。
それと同時に、百合葉の体に、異変が生じ始めた。
──カチャン。
百合葉の背中に突き刺さっていたナイフが音を立てて落ちた。
背中からの出血は、すでに止まっていた。
「……あ?」
自身の、人間ではない部分が目に見える。
こんな体に感謝したことなど、一度もなかった。
神様はなぜ、私にこんな力をくれたんだろう。
そんな恨みが彼女の中でめぐりめぐって、暴発しそうになる。
もし、彼女が背中を刺されていなかったら。
そんな状態で、感情が暴発してしまったら。
血が足りない今、彼女は助からなかった。
だが、血が足りないからこそ、彼女は
──人間の姿でいられる。
「……はぁ」
溜息をつきながら、百合葉は立ち上がった。
「今回、早かったな」
血で染まった制服を虚ろな眼で見ながら、そう呟く。
「お、お前っ! 確かにさっき……」
畏怖。
「……あなたさ、誰なの」
冷淡とした声。
「お、教えねぇ!」
強がり。
「あっそっ……」
軽蔑の眼差し。
ここまで不快になったのはいつぶりだろうか。
これもまた、最近はめっきりと減っていた気がする。
マヒルが、いつも一緒にいてくれたからだろうか。
百合葉は、背中から腕を二本生やした。
カマキリの鎌のような形をした腕は、制服の背中を突き破り、鋭い刃を見せている。
「ひ、ひぃ……」
「相手が悪かったね」
百合葉はそんなことを言って、人間の手でスマホを触る。
後始末を英樹にお願いするためだ。
「よし。じゃあ、やるね」
血が足りない以上、今の百合葉には二本の腕を生やすのが限界だった。
だが、これでも人一人殺すことは造作でもない。
「た、助け……」
「ごめんね。私──人じゃないから」
人間の首が一つ、宙を舞う。
「……お腹、空いたな」
血を大量に失った百合葉は、血を求めた。
異形の姿になるのにも血が必要だが、人でいることにも、人の血が必要なのだ。
「あぁーっむ」
正気は残っている。
自分が今どんな行為をしているのかも、しっかりと把握している。
倫理観も普通の人間のそれである。
だが、それでも彼女は、切り落とした生首の断面から滴る血を必死に飲んだ。
喉を通る血の臭いに吐き気を催しながら。
固い首の骨が右頬に当たっているのを感じながら。
「うっっ! ……ぅう……」
彼女は特段、人である必要はない。
血が足りずとも、人間と異形が混ざりあった中途半端な姿になるだけだ。
完全な異形化と違って、正気を失うわけでもない。
身体に必要な栄養としては人肉の方が重要であるし、そのことは彼女も承知している。
ではなぜ、彼女は人の血を飲むのか。
そこまでしてなぜ、人であろうとするのか。
「うぅっ……。マヒルくん……」
百合葉は、倒れ込んだマヒルの傍に寄って、胸に耳を当てた。
ドクッ、ドクッ。
健康的な心臓の音が聞こえて、百合葉は安堵した。
生きている。
彼が、生きてくれている。
「よかったぁ……」
人は、異形に恋をしない。
だが、異形は、人に恋をした。
その違いこそが、百合葉が血を飲み続ける理由である。
「……私、そんなに臭いのかな……」
汗と血と生クリームの臭いを纏う女子高生は、そう呟いた。




