表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

袋に鼠

作者: 雉白書屋

「きゃははは! なあ、どこ隠れるー?」

「お、こことかよくね?」


 ――来るな。


「えー、微妙じゃね?」

「てか、公園の外に隠れるのあり?」


 ――こっちに来るな。


「いいだろ。ダメって、ルールねーし」

「でも、あいつキレるとめんどくせーからな」


 ――行け。向こうに行け。


「戻るか」

「オッケー」


 よかった……。もしこっちに来ていたら、おれは終わりだった。おれが殺してしまった、この男のせいで……。

 数十分前のことだ。


『はい、どちらさ……あ、あんた』

『失礼するよ。おっと、彼女かな? へへへ』


『そ、外で話しましょう。ちょっと、出てくるよ』


 アパートの部屋で彼女と過ごしていたところ、突然この男が訪ねてきた。おれは彼女を部屋に残し、慌てて男を外へ連れ出した。行き先は決めず、適当に道を歩きながら話を始めた。


『なんだよ、紹介してくれてもよかったじゃないか』

『できませんよ……何の用ですか』


『何の用ですか? はあ? お前、ふざけてんのか!』

『あ、いや、すみません……お金の件ですよね』


『わかってるじゃねえか。あんまり大きな声出させるなよ。どこで誰が聞いてるか、わからねえからな。まあ、聞かれて困るのはお前のほうだろうけどな』

『あ、あの、もう少し待っていただけたら、必ず……』


『彼女は知ってんのか?』

『え?』


『お前が借金抱えてることを、だよ』

『い、いや……言えるわけがありません。彼女の両親の耳に入れば、別れさせられるだろうから……』


『お堅い家ってわけだな。確かに、あのボロアパートには似合わねえお嬢様って感じだったな』

『ええ、おれが名の通った大学の学生ということで、今はなんとか付き合えている状態です』


『じゃあ、ギャンブルに嵌って留年が決まったことも、まだ知らないわけか。へへへへ』


 奴はそう言いながら、醜悪な笑みを浮かべた。学歴にコンプレックスでもあるのか、明らかにおれの苦しむ様子を楽しんでいた。

 おれは下手に出て、奴の機嫌を取ろうと考えた。情けない表情を作り、へりくだったのだ。しかし、それが奴の嗜虐心を煽ってしまった。あるいは、最初からおれを痛めつけるつもりだったのかもしれない。

 奴は突然、おれの首を掴むと、近くの路地へ押し込んだ。

 そこは袋小路だった。L字に曲がった狭い路地で、両脇の塀に肩が触れそうなくらいの幅しかない。奥に行くほど薄暗く、空気が淀んでいた。地面にはゴミが散乱し、鼻を突く悪臭が漂っていた。最初はこの男の口臭かと思ったが、奴も鼻をすすり、顔をしかめていた。


『きったねえ……。服ばっか落ちてんなあ……あ、おい、じいさん』

『あ、ひひ、あ、ひ』


『へへっ、あんたの縄張りか? 悪いが出てってくれるか? ほら、行けよ』


 奥の壁際に、ホームレスと思しき老人が蹲っていた。ここにあるゴミは、彼が持ち込んだものだろう。老人は悲鳴とも笑いともつかない奇妙な声を上げ、四つん這いでおれたちの足元をすり抜けていった。


『へへへ、びびらせちまったかな? ああ、くっせえ、くっせえ』

『あ、あの、ここで何を……』


 おれが問いかけると、奴の顔がにやりと歪んだ。今までで一番、醜い表情だった。路地の薄闇の中で、奴の目だけが鋭く光ったように見えた。


『俺も上から言われてんだ。爪を二、三枚剥がしてこいってな』

『そ、そんな、やめてくださいよ! 彼女が見たらなんて思うか……』


『ちょうどいいじゃねえか。全部話して金を工面してもらえよ』

『無理です……彼女、お金を自由に使えないんです』


『親に頼めば引っ張ってこれるだろ? 娘が風俗に落ちたあとなら確実にな。今から戻って紹介してやろうか?』

『な! なんてこと言うんだ!』


『いて! てめえ、調子乗ってんじゃねえぞ!』


 おれは反射的に奴に掴みかかった。そして――そのときの記憶は曖昧だ。ただ、誓ってわざとじゃない。無我夢中だったのだ。気づけば、おれは奴の頭を塀に何度も叩きつけていた。

 奴の体が地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。死んでいた。

 幸い、目撃者はいなかった。とにかく、この場を離れなければ。そう考え、路地を出ようとした。だがそのとき、外から子供たちの声が聞こえてきた。おれは慌てて引き返し、死体のそばに身を縮めた。今、誰かに姿を見られたら、すべてが終わる。

 だが、助かった。この強烈な臭いが、子供たちを遠ざけてくれたのかもしれない。声はもう十分、遠い。そろそろ出よう――。


「あ、大下さん。そっちは行き止まりよお」

「あら? 近道かと思ったわ。うふふ」


 ……まずい。今度は近所の主婦か。今、一番見られたくない相手だ。ここを出るところを見られたら、後に死体が発見されたとき、すぐに目撃証言として警察に寄せられるだろう。

 おれは再びしゃがみ、息を殺した。

 早く行け……行けよ……立ち止まるな。

 主婦たちの笑い声がやけに甲高く耳に刺さった。心臓の鼓動が激しくなり、頭の中にまで響く。この音が向こうに聞こえてしまうのではないかと恐ろしくなった。

 静まれ……静かに……静まれ……うるさい……!

 しばらく経ち、笑い声も足音も遠ざかり、ようやく周囲に静寂が戻った。

 おれは耳を澄ませ、人の声がしないことを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。


「あっ!? クソ! どけっ!」

「な、なんだ、お前! やめろ!」


 おれは驚いた。路地を出ようとしたそのとき、突然、出口から帽子を深くかぶった男が飛び込んできたのだ。

 男の手に鈍い光が走った――ナイフだ。この男、ナイフを持っている! しかも、迷いなくおれに突き出してきた。

 おれは咄嗟に男の襟を掴み、全身の力を込めて引き寄せた。反動をつけて、そのまま塀へ叩きつける。男が呻き声を上げ、手からナイフが地面に落ちた。

 おれは間髪入れず、膝で男の顔面を蹴り上げた。骨の手応えが鈍く迸る。さらに繰り返し塀に頭を叩きつけた。何度も、何度も。どこか既視感を覚えた。

 男が壁にもたれ、ゆっくりと崩れ落ちていった。おれはナイフを拾い上げ、そしてそれを――。

 ……また、やってしまった。どうしておれはこうなのだ。ギャンブルで金を突っ込んでいるときと同じだ。頭が熱くなり、何も考えられなくなるのだ。ただ『黙らせないと』という焦燥だけが、全身を駆け回っていた。

 いや、反省はあとだ。今はとにかく、ここから出ないと……待て、声がする。誰かが近づいてきている。


「――さん? ――さん? こっちかな……?」


 嘘だろ。まさか……馬鹿な! 彼女だ。おれを心配して探しに来たのか? 頼む、通り過ぎてくれ。頼む……。


「どこ行ったの……」


 ……よかった。彼女の声が遠ざかっていく。ああ、助かった……ほんとうに助かった……。

 しかし、どうする? 追いかけて何食わぬ顔で合流するか? いや、まずは家に戻ろう。とりあえず、シャワーを浴びたい……。


「こっちか? おい、ここじゃねえか……?」

「ああ、かもしれん。気をつけろ。前にニュースで見たんだ。ひったくり犯が追いかけてきた人をナイフで刺したって」


 誰だ? ひったくり……? ナイフ……。まさか、さっきおれが殺した男を追ってきたのか? 頼む、来るな、来るな……。


「なんか、ここくせえな」

「ああ、やめとこう。俺、喘息もちなんだ」


 よし……遠ざかっていく……。


「俺が見てきてやるよ」


 よせ、やめろ。来るな、来るな、あああああ――




「おーい、まだか……? おい……うわっ、なんだお前――」


 何かが、おれの中で弾けた。いや、何度目だ。気づけばまた、おれの足元には死体が転がっていた。

 おれは笑った。笑うしかなかった。血と汗と悪臭が混じり合ったこの袋小路で、おれは一人、声を上げて笑った。その笑い声に誘われたのか、足音が近づいてきた。

 彼女だった。彼女はおそるおそる路地へ入ってきた。おれの姿を見ると、ぱっと顔を明るくしたが、次の瞬間には跡形もなく消え去り、その顔からみるみる血の気が引いていった。

 おれには彼女の次の行動が手に取るようにわかった。姿勢をわずかに低くし、肺が膨らむのが見える。

 おれは彼女の口を塞ごうとした。今はパニックになっているだけだ。落ち着いて話せば、彼女もきっとわかってくれる。彼女は賢く、優しい。きっと理解してくれる。

 馬乗りになって、手で口を覆った。だが、彼女は激しく抵抗し、噛みついてきた。だから、喉を押さえた。やがて、彼女は動かなくなった。


 おれは、すべての死体を路地の奥へ引きずっていった。壁際に寄せ、地面に散らばっていた服をかぶせて隠した。

 その後、何度もここを抜け出そうとしたが、そのたびに外の通りから人の声が聞こえ、影に身を潜めた。

 塀を乗り越えることも考えたが、家主に見つかれば終わりだ。この袋小路を囲む三軒のうち、こちら側に窓があるのは一軒だけ。しかも雨戸が閉じられている。他の家は無窓の壁で、うち一軒は低い平屋。このままここにいても、上から見られる心配はない。

 念のため、おれも服をかぶり、ここを出るチャンスをじっと待った。

 夜になれば人通りは減るはずだ。そう考えた。だが、深夜になっても自転車の音や誰かの足音、話し声が途切れることはなかった。そのいくつかは幻聴だったのかもしれない。

 疲れが限界に達したのだろう。おれはいつしか眠りに落ち、朝を迎えていた。

 状況はいつまでも変わらなかった。人の気配は絶えず、また、時折この路地に誰かが入り込んできた。近道だと勘違いしたフードデリバリーの男、ゴミの不法投棄に来た男、理由のわからない者数名。他にも彼女の父親、行方不明者の関係者とおぼしき者たちなど、彼らはちょうど“食料”が尽きかけた頃にやってきた。

 誰一人として、ここから出られなかった。

 食料が不要な時は、服やゴミを積み重ねて壁を築いた。すると、誰もそれ以上進むことはなかった。

 もはや、おれはここを出ようとは思わなかった。少なくとも、食らい、砕き、削り、すべてを処理し終えるまでは。


 あるいは、出られないのかもしれない。

 誰かが、「出ておいで」と声をかける、そのときまでは……。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ