袋に鼠
「きゃははは! なあ、どこ隠れるー?」
「お、こことかよくね?」
――来るな。
「えー、微妙じゃね?」
「てか、公園の外に隠れるのあり?」
――こっちに来るな。
「いいだろ。ダメって、ルールねーし」
「でも、あいつキレるとめんどくせーからな」
――行け。向こうに行け。
「戻るか」
「オッケー」
よかった……。もしこっちに来ていたら、おれは終わりだった。おれが殺してしまった、この男のせいで……。
数十分前のことだ。
『はい、どちらさ……あ、あんた』
『失礼するよ。おっと、彼女かな? へへへ』
『そ、外で話しましょう。ちょっと、出てくるよ』
アパートの部屋で彼女と過ごしていたところ、突然この男が訪ねてきた。おれは彼女を部屋に残し、慌てて男を外へ連れ出した。行き先は決めず、適当に道を歩きながら話を始めた。
『なんだよ、紹介してくれてもよかったじゃないか』
『できませんよ……何の用ですか』
『何の用ですか? はあ? お前、ふざけてんのか!』
『あ、いや、すみません……お金の件ですよね』
『わかってるじゃねえか。あんまり大きな声出させるなよ。どこで誰が聞いてるか、わからねえからな。まあ、聞かれて困るのはお前のほうだろうけどな』
『あ、あの、もう少し待っていただけたら、必ず……』
『彼女は知ってんのか?』
『え?』
『お前が借金抱えてることを、だよ』
『い、いや……言えるわけがありません。彼女の両親の耳に入れば、別れさせられるだろうから……』
『お堅い家ってわけだな。確かに、あのボロアパートには似合わねえお嬢様って感じだったな』
『ええ、おれが名の通った大学の学生ということで、今はなんとか付き合えている状態です』
『じゃあ、ギャンブルに嵌って留年が決まったことも、まだ知らないわけか。へへへへ』
奴はそう言いながら、醜悪な笑みを浮かべた。学歴にコンプレックスでもあるのか、明らかにおれの苦しむ様子を楽しんでいた。
おれは下手に出て、奴の機嫌を取ろうと考えた。情けない表情を作り、へりくだったのだ。しかし、それが奴の嗜虐心を煽ってしまった。あるいは、最初からおれを痛めつけるつもりだったのかもしれない。
奴は突然、おれの首を掴むと、近くの路地へ押し込んだ。
そこは袋小路だった。L字に曲がった狭い路地で、両脇の塀に肩が触れそうなくらいの幅しかない。奥に行くほど薄暗く、空気が淀んでいた。地面にはゴミが散乱し、鼻を突く悪臭が漂っていた。最初はこの男の口臭かと思ったが、奴も鼻をすすり、顔をしかめていた。
『きったねえ……。服ばっか落ちてんなあ……あ、おい、じいさん』
『あ、ひひ、あ、ひ』
『へへっ、あんたの縄張りか? 悪いが出てってくれるか? ほら、行けよ』
奥の壁際に、ホームレスと思しき老人が蹲っていた。ここにあるゴミは、彼が持ち込んだものだろう。老人は悲鳴とも笑いともつかない奇妙な声を上げ、四つん這いでおれたちの足元をすり抜けていった。
『へへへ、びびらせちまったかな? ああ、くっせえ、くっせえ』
『あ、あの、ここで何を……』
おれが問いかけると、奴の顔がにやりと歪んだ。今までで一番、醜い表情だった。路地の薄闇の中で、奴の目だけが鋭く光ったように見えた。
『俺も上から言われてんだ。爪を二、三枚剥がしてこいってな』
『そ、そんな、やめてくださいよ! 彼女が見たらなんて思うか……』
『ちょうどいいじゃねえか。全部話して金を工面してもらえよ』
『無理です……彼女、お金を自由に使えないんです』
『親に頼めば引っ張ってこれるだろ? 娘が風俗に落ちたあとなら確実にな。今から戻って紹介してやろうか?』
『な! なんてこと言うんだ!』
『いて! てめえ、調子乗ってんじゃねえぞ!』
おれは反射的に奴に掴みかかった。そして――そのときの記憶は曖昧だ。ただ、誓ってわざとじゃない。無我夢中だったのだ。気づけば、おれは奴の頭を塀に何度も叩きつけていた。
奴の体が地面に崩れ落ち、ぴくりとも動かなくなった。死んでいた。
幸い、目撃者はいなかった。とにかく、この場を離れなければ。そう考え、路地を出ようとした。だがそのとき、外から子供たちの声が聞こえてきた。おれは慌てて引き返し、死体のそばに身を縮めた。今、誰かに姿を見られたら、すべてが終わる。
だが、助かった。この強烈な臭いが、子供たちを遠ざけてくれたのかもしれない。声はもう十分、遠い。そろそろ出よう――。
「あ、大下さん。そっちは行き止まりよお」
「あら? 近道かと思ったわ。うふふ」
……まずい。今度は近所の主婦か。今、一番見られたくない相手だ。ここを出るところを見られたら、後に死体が発見されたとき、すぐに目撃証言として警察に寄せられるだろう。
おれは再びしゃがみ、息を殺した。
早く行け……行けよ……立ち止まるな。
主婦たちの笑い声がやけに甲高く耳に刺さった。心臓の鼓動が激しくなり、頭の中にまで響く。この音が向こうに聞こえてしまうのではないかと恐ろしくなった。
静まれ……静かに……静まれ……うるさい……!
しばらく経ち、笑い声も足音も遠ざかり、ようやく周囲に静寂が戻った。
おれは耳を澄ませ、人の声がしないことを確認すると、ゆっくりと立ち上がった。
「あっ!? クソ! どけっ!」
「な、なんだ、お前! やめろ!」
おれは驚いた。路地を出ようとしたそのとき、突然、出口から帽子を深くかぶった男が飛び込んできたのだ。
男の手に鈍い光が走った――ナイフだ。この男、ナイフを持っている! しかも、迷いなくおれに突き出してきた。
おれは咄嗟に男の襟を掴み、全身の力を込めて引き寄せた。反動をつけて、そのまま塀へ叩きつける。男が呻き声を上げ、手からナイフが地面に落ちた。
おれは間髪入れず、膝で男の顔面を蹴り上げた。骨の手応えが鈍く迸る。さらに繰り返し塀に頭を叩きつけた。何度も、何度も。どこか既視感を覚えた。
男が壁にもたれ、ゆっくりと崩れ落ちていった。おれはナイフを拾い上げ、そしてそれを――。
……また、やってしまった。どうしておれはこうなのだ。ギャンブルで金を突っ込んでいるときと同じだ。頭が熱くなり、何も考えられなくなるのだ。ただ『黙らせないと』という焦燥だけが、全身を駆け回っていた。
いや、反省はあとだ。今はとにかく、ここから出ないと……待て、声がする。誰かが近づいてきている。
「――さん? ――さん? こっちかな……?」
嘘だろ。まさか……馬鹿な! 彼女だ。おれを心配して探しに来たのか? 頼む、通り過ぎてくれ。頼む……。
「どこ行ったの……」
……よかった。彼女の声が遠ざかっていく。ああ、助かった……ほんとうに助かった……。
しかし、どうする? 追いかけて何食わぬ顔で合流するか? いや、まずは家に戻ろう。とりあえず、シャワーを浴びたい……。
「こっちか? おい、ここじゃねえか……?」
「ああ、かもしれん。気をつけろ。前にニュースで見たんだ。ひったくり犯が追いかけてきた人をナイフで刺したって」
誰だ? ひったくり……? ナイフ……。まさか、さっきおれが殺した男を追ってきたのか? 頼む、来るな、来るな……。
「なんか、ここくせえな」
「ああ、やめとこう。俺、喘息もちなんだ」
よし……遠ざかっていく……。
「俺が見てきてやるよ」
よせ、やめろ。来るな、来るな、あああああ――
「おーい、まだか……? おい……うわっ、なんだお前――」
何かが、おれの中で弾けた。いや、何度目だ。気づけばまた、おれの足元には死体が転がっていた。
おれは笑った。笑うしかなかった。血と汗と悪臭が混じり合ったこの袋小路で、おれは一人、声を上げて笑った。その笑い声に誘われたのか、足音が近づいてきた。
彼女だった。彼女はおそるおそる路地へ入ってきた。おれの姿を見ると、ぱっと顔を明るくしたが、次の瞬間には跡形もなく消え去り、その顔からみるみる血の気が引いていった。
おれには彼女の次の行動が手に取るようにわかった。姿勢をわずかに低くし、肺が膨らむのが見える。
おれは彼女の口を塞ごうとした。今はパニックになっているだけだ。落ち着いて話せば、彼女もきっとわかってくれる。彼女は賢く、優しい。きっと理解してくれる。
馬乗りになって、手で口を覆った。だが、彼女は激しく抵抗し、噛みついてきた。だから、喉を押さえた。やがて、彼女は動かなくなった。
おれは、すべての死体を路地の奥へ引きずっていった。壁際に寄せ、地面に散らばっていた服をかぶせて隠した。
その後、何度もここを抜け出そうとしたが、そのたびに外の通りから人の声が聞こえ、影に身を潜めた。
塀を乗り越えることも考えたが、家主に見つかれば終わりだ。この袋小路を囲む三軒のうち、こちら側に窓があるのは一軒だけ。しかも雨戸が閉じられている。他の家は無窓の壁で、うち一軒は低い平屋。このままここにいても、上から見られる心配はない。
念のため、おれも服をかぶり、ここを出るチャンスをじっと待った。
夜になれば人通りは減るはずだ。そう考えた。だが、深夜になっても自転車の音や誰かの足音、話し声が途切れることはなかった。そのいくつかは幻聴だったのかもしれない。
疲れが限界に達したのだろう。おれはいつしか眠りに落ち、朝を迎えていた。
状況はいつまでも変わらなかった。人の気配は絶えず、また、時折この路地に誰かが入り込んできた。近道だと勘違いしたフードデリバリーの男、ゴミの不法投棄に来た男、理由のわからない者数名。他にも彼女の父親、行方不明者の関係者とおぼしき者たちなど、彼らはちょうど“食料”が尽きかけた頃にやってきた。
誰一人として、ここから出られなかった。
食料が不要な時は、服やゴミを積み重ねて壁を築いた。すると、誰もそれ以上進むことはなかった。
もはや、おれはここを出ようとは思わなかった。少なくとも、食らい、砕き、削り、すべてを処理し終えるまでは。
あるいは、出られないのかもしれない。
誰かが、「出ておいで」と声をかける、そのときまでは……。