天使みたいに
「天使みたいに、なりたいよなあ」
それが咲夜の口ぐせだった。その口ぐせを聞くたびに、優司は「なんで?」と訊き返した。
「なんでって、天使は自由じゃん……知ってるか? 天使って性別がないんだぜ」
「……そうなの?」
「そう、無性別……もしくは、男のと女の、両方持ってるって説もあってさ。自由じゃん、そんなの、めっちゃ自由」
いつも同じやりとりをした。そのことを話すのは、その時が初めてというみたいに。そこから先に、行けなかった。お互いの黒髪、お互いの深い栗色の目、お互いの柔らかそうなくちびる、お互いの肌を自分のものより深く見つめて、触ってみたい、なでてみたいと思いながら、そこから先には行けなかった。
――怖かった。世間が、何かが、自分たちの友情がそれで壊れてしまうことが、取り返しのつかなくなるのが、怖かった。
ふたりは大きくなって、地元を離れてそれぞれ別の大学に行って、地元に戻らず就職し、やがて結婚し、子どもが出来て……十年ぶりの同窓会の知らせにも『欠席します』に丸をつけた。
『欠席します』『欠席します』『欠席します』……知らせが来るたび、ふたりはお互いに知っているかのように、同じところへ丸をつけた。逢う気はなかった。逢えば、何かが変わって、何かが終わる気がしていた。
……やがてお互いに孫が出来た。遠い昔の甘い記憶は甘いまま、ゆっくり薄れていこうとしていた。そんなある日、咲夜から手紙が届いた。手紙にはがたつくペン文字で、たったひと言、書かれていた。
『会いたい』
優司は夜どおし眠れず悩み続け、十一日目に手紙に書かれた住所を目ざして家を出た。〇〇大学病院と、住所の末尾に示されていた。
「はげたな、優司……つるつるだ……」
そう言って微笑う咲夜のほおには深い深いしわが刻まれ、あのつやつやの黒髪は嘘のように白くなり、細い目もとを塩からいものが濡らしていた。
声もなく咲夜の手を握り、優司はお互いの枯れ木のような手のひらを、その感触を感じていた。咲夜は二三度せき込んで、かさついた声でつぶやくようにこう告げた。
「……天国で、逢おうな……そんで、天使に……天使になって……」
その言葉に応えるように、続く言葉を封じるように、優司は咲夜の乾いたくちびるに口づけた。かさかさとドライフラワーのように、お互いのくちびるが触れ合った。
咲夜は、その晩、天に召された。優司は何も話さなかった。誰にも、何も話さなかった。葬式でも涙の一粒も見せず、ただ『仲の良かった古い友人』として、墓前に花を供えて帰った。
半年が過ぎた。水色の空の下、秋晴れのある日、日曜日におじいちゃん家を訪ねてきた幼い孫が、物置きをあさって一枚の写真をほじくり返して持ってきた。
「ねーねー、この男の子、じいちゃん? となりで笑ってる子はだーれ?」
友だちだよ、と答えようとして、優司はちょっと黙り込んだ。ひとつ大きく息を吸って、ありったけの思いを込めてこう応えた。
「おじいちゃんの……大事なひとだよ」
それだけつぶやき、優司は秋の日に射られて潤んだ目を上げた。水色の空は透明水彩で描いたように澄みきって、天使の舞いそうに清らかだった。
(完)