13 瓦解
盤上の生き延びた灰色の駒が、おのおのの歪んだ武器を空へと掲げて無言の歓声を上げた。
ソウがよろよろと立ち上がり、勝ち誇る灰色の王将をガツンと蹴飛ばした。だが、それはびくともせず、ソウに痛みを与えただけのようだ。
「畜生、なぜ勝てなかった?」
「敵を過小評価してしまったのさ。誰もがよく犯す失敗だ。俺は本物の戦場ならそんな間違いはやりはしないが、どうもこういうゲームは不慣れでな」
アメフは言い訳の口を閉ざした。
ひどくくたびれていた。こんなにくたびれたのは久しぶりだ。煙草が吸いたくなった。
「いや、まだだ」
ソウは断固とした口調で言うと、再び水晶盤の前にかがんだ。
「水晶盤が一回限りしか使えない物だと決まっているわけじゃないんだ。六百年前の日本は事実、二度の侵攻を受けた。この水晶盤にももう一度、手駒を呼び出す機能があっていいはずだ」
「おいおい、そんな都合良く――」
アメフは固まった。勝利を喜んでいた灰色の駒が再び武器を構えている。そして、それらは間違いなく赤と青の王将を目指していた。
「来るぞ!」
アメフは跳ねるように立ち上がった。
ソウも一瞬遅れて事態を察知した。その目に恐怖が浮かび、彼は灰色の駒から後ずさった。
「このゲームを強制終了する機能がどこかにあるはずだ……」
「寝ぼけんなソウ! 日本軍が俺達を狩りにくるんだ! ゲームのことは忘れろ! 逃げるぞ!」
アメフは叫んだ。だが、ソウは首を振るだけで立ち上がろうとしない。
そして、アメフもソウが感じていることを理解した。
水晶盤の青い王将へと目が吸い寄せられる。
カマクラ将軍は覚醒だとかのおかげで水晶盤を手に入れたのだろうか。状況から考えれば、おそらくこちらと同等の力を彼はすでに手に入れているようだ。
だとすれば、二人はどこへ逃げようとも、カマクラ将軍側の水晶盤の上の王将が二人の居場所を示すだろう。
問題は逃げ切れるかどうか、ではなく死ぬまでどれくらい逃げれるかということになっているのだ。
アメフは絶望に打ちのめされそうになった。
「いや、手はあるはずだ!」
アメフはあきらめない。
秘密基地の裏の武器庫へと急ぐ。水晶盤によって二人の居場所が示されるのならば、カマクラ将軍よりも水晶盤の方を敵と見なした方が良さそうだ。
ソウは喜ばないだろうが、もうあんな物、持っていても得などない。
ソウの水晶盤が二人を王将に決めたのだから、それを破壊すればカマクラ将軍の水晶盤も標的の駒を見失うかもしれない。
武器庫からありったけの爆薬を持ち出して――
アメフをとてつもない衝撃が襲った。
秘密基地の入り口でのことだった。彼は扉に叩き付けられ、転がった。体から血が吹き出るのが分かった。
撃たれた?
顔を上げる。
たくみな迷彩を施した兵士が視界をよぎった。
うなりをあげて銃弾は飛んできた。
アメフは息を吐いた。だが、それでも彼は生きて秘密基地の中へと転がり込んだ。
日本兵? もう来たのか? 早過ぎる。
敵は哨戒していた一部隊だろう。アメフがゲーム中にとるに足らない存在だと放っておいたものの一部に違いない。
それがいまやカマクラ将軍の命で、そのアメフを処刑しようとしている。
アメフは壁に立てかけてあった短機関銃を引っ掴むと、秘密基地の入り口へ向けて連射した。突入してきた兵が一人、蜂の巣のように穴だらけになった。
アメフはきびすを返したが、もうまっすぐ立つことができなかった。
彼の動いたあとには血が川のような跡を残した。これではいよいよ日本軍から逃げ切るのは難しい、とアメフはいまいましげに思った。
水晶盤の横ではソウが凍り付いていた。
こんな状況ではなんの役にも立たない発掘屋。
だが、こいつが生き延びれば、こいつはいつの日か解放派にとって価値のある物を掘り出すかもしれない。かすかな望みだ。
「ソウ、早く逃げろ!」
「でも――」
アメフはソウをつかむと、明かり取りの窓を覆う防弾ガラスを短機関銃の一連射で撃ち抜いた。そこへソウを押し込む。
小柄なこいつなら通れるはずだ。ソウが視界から消えると、アメフは苦労して振り向きさらに発砲した。
敵が一人、あわてて物陰に隠れるのが見えた。
アメフは崩れるようにして水晶盤にもたれかかった。のろのろと弾倉を交換しながら、猛烈な寒さに気付いた。
樺太の寒さだった。
隙間風の入るノボシビルスクの自宅でさえ、今の寒さと比べれば太陽から吹き寄せる風のような暑さだろう。
どうやら産まれてからずっと血管を流れていたヤークト人の血がほとんど流れ出てしまったようだ。
水晶盤の上では相変わらず灰色の駒が忙しく移動していた。はるか頭上から彼らを見下ろす巨大な人間の存在など気付いてもいないように見えた。だが、もうそんなことはどうでもいいことだった。
どんなゲームにだって終わりはやってくる。
「ゲームオーバーだ」
アメフはつぶやくと一つだけ残っていた手榴弾のピンを抜き、水晶盤の黒い波面へとねじ込んだ。
ソウは地上へ這い出ることに成功した。水晶のように輝く、鋭利なガラスに傷つけられて手は血にまみれた。つまずきながら立ち上がる。逃げなければならなかった。
森へ。
森の中へ。
ソウは荒野を駆け出した。地面は恐ろしくでこぼこしていた。背後で鋭い声が上がって、銃弾がソウをかすめる。
灼熱の鉛弾に追われ、ソウはかつてないほど速く走る。
そのとき、背後でくぐもった爆音が聞こえた。悲鳴や怒声がそれに続く。
だが、ソウには振り向く暇なんかなかった。ただひたすら走り続ける。眼前に広がる森へ向かって。