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1 寒い国

■1984年■

■PCO日本共和国の北方に位置する島 樺太■





 北海道のさらなる北、樺太の地。


 日は沈んだ。

 だが、世界は眠っていない。

 空気は叫んでいる。

 戦いは続いている。


 樹木に寄りかかる人間の姿があった。針葉樹の幹の、とげとげした感触も気にならないのか、まるで木と一体化したように、微動だにしない。

 くたびれ果てた男だった。目を閉じている。

 名はアメフといった。

 手入れしていない髭をぼうぼうと生やし、服は泥にまみれて元の色が分からない。

 ちょっと見ただけでは、アメフは敗残兵に見えるだろう。

 事実、その通りだ。

 だが、正規の敗残兵とは違う。アメフは傭兵だ。血も涙もないしたたかさ、という点で、正規兵は傭兵に遠く及ばない。

 樺太。ひどい世界だ。

 腹は減っているし、痛みも去らない。煙草一本くれるのなら、喜んで悪魔に魂でもくれてやりたい。

 だが、ここ数日、物事が改善することはなかった。

 幸い、敵はいくらでもいる。この惨めな状況を作り出した奴らに、代価を支払わせてやる。

 ささやかな抵抗だ。

 前方の茂みで、かすかな音がした。

 見事に気配を消していやがる。

 アメフはゆっくりと目を開いた。平らな瞳が、どんよりと夜を映し出す。

 両腕が持ち上がり、鉄砲の筒先が茂みを向いた。

 出てこい、日本兵。PCOの手先。同志の殺害者。

 アメフの牙は鋭いぞ。

 アメフの顔には、文字通り刻まれた傷があり、片耳はもはやない。

 だが、それらは古い傷で、射撃の障害にはならない。

 問題は、先日、大円筋と三角筋の間に撃ち込まれた奴で、まだ弾も入っている。

 嫌な感触が腕を伝う。歯を食いしばって、それを無視した。

 さあ、出てこい。

 ゆっくりと引き金に指を当てる。殺気を悟られないように、意識を拡散させてある。

 撃った後、すぐに反撃が来るだろう。動き出せるように、足の筋肉を緊張させる。

 のそりと、目標が歩み出てくる。大柄だ。

 こちらに気付いた。

 もう遅い。指は引き金を――


 引かなかった。

 敵ではない。

 それは黒い瞳でアメフを睥睨していた。

 そして、堂々と元来た道を帰っていく。

 アメフは深々と息を吐いた。

 ヘラジカとは。

 北海道では狩り尽くされて、もういない大型獣。

 だが、ここは樺太。世界の果て。文明世界の常識は通用しない。

 俺はそのことを肝に銘じなければならない。アメフは思った。常識は通用しない。


 背後で草むらが、ばりばり音をたてた。静寂に慣れたアメフの耳には、雷音のように聞こえた。

 さっと振り向き、鉄砲を構える。

「アメフ? 傭兵アメフ、どこにいる?」

 アメフは舌打ちして、鉄砲を下ろした。

「俺はここだ。口を閉じろ、ソウ。樺太中の日本軍を呼び寄せるつもりか?」

 小柄な少年が歩み出てきた。軍人ではない、華奢な見た目だ。

「何かいたのか、アメフ?」

 アメフは首を振った。

 まだ、日本兵はここまで追ってきていない。

 時間はある。わずかだが。


 野外に関して経験豊かで、多くの国について見聞きしているアメフにとっても、うっそうたる森と岩の転がる荒れ地に覆われしこの地は、過酷な世界との言葉で表現するにふさわしかった。

「だめだな」

 アメフはとがった声で言った。森は青紫色の闇に包まれ、湿気が冷たくべたついた。

 二つのランタンが弱々しくあたりを照らしている。アメフは明かりに反対だったが、ソウは発掘に必要だと主張した。

 素晴らしい。森のどこからでも、敵は俺たちを狙撃できるわけだ。

 母方から受け継いだヤークト人の血のおかげで、寒さは気にならなかった。それでも肩に背負った鉄砲が重く、傷にひびいた。歩く度に、まるで目に見えないかぎ爪に掴まれでもしているかのように痛みが走る。

「暗過ぎるし、寒さも厳しい……。うまくいくとは思えない」

「いや、そいつはどうかな」

 少し前を歩く発掘屋のソウが、彼特有の楽観的な表情で振り返った。

 逃避行の道連れである、この痩せた若い発掘屋には謎が多かった。彼の黒くてカールした髪、浅黒い肌というのはアジア南方の民のようだが、顔つきは地中海風だ。

 彼の振る舞いにはどこかの国民へのつながりといったものを感じさせない。国を奪われた民の子だろう。

 年齢は二十を越えていないようだが、妙な生意気そうな喋り方と、浮かべる笑みが気に食わなかった。

「どっちにしたって、大胆にやってのけるしか無いよ。僕の探している物を掘り出す他に、日本の軍隊から逃れる方法なんて無いのだし」

 ソウは右腕を水平に構えて、指から糸を垂らした。

 儀式的な雰囲気に満ちた重々しい動きだ。

 糸の先にぶら下がる硬貨がゆっくりと揺れる。ダウジングとかいう、発掘屋達が使う非科学的な手法らしい。

「どうやらこっちの方らしい」

 ソウは自信なげに道無き道をかき分けて進む。アメフは渋い顔でついていった。

 本当に、事態を打開するアイテムなど見つかるのだろうか。


 アメフに発掘屋の知り合いは少なく、友人に至ると皆無だ。

 理由ははっきり自覚していた。アメフの耳には発掘屋の言葉は全て戯言に聞こえるのだ。真顔で「発掘は芸術だ!」だとか言って一生を土を掘ることに費やし、古代のがらくたや化石化した機械を掘り出す男女を、正気な人間とは判別していなかった。

 だが、同行者を選べる幸運には恵まれていなく、不本意ながらこの発掘屋の力を借りないことには万事休すだ。

 日本軍はそこら中にいる。アメフは、生きて樺太を脱出する手を思いつけなかった。

 樺太の森はただただ不気味でどこまでも広がっていた。ヒュウウウと奇妙な人の心を不安にさせる音が森の奥から響いて来た。

「悪霊の声が聞こえる」

 アメフはつぶやいた。昔、中国で聞いた迷信が心に浮かぶ。

「なに、ただの風の音さ」

 ソウは平然とした声を装っている。だが、そびえ立つ樹々の節くれ立ったその姿は邪悪な天蓋のようで、彼を落ち着かない気分にさせているに違いない。

 臆病な人種だ。

 無表情にそう思うアメフの前で、ソウは気合いを入れ直してダウジングに集中し直した。

 ソウは左手に山刀を振って絡み付く草木をなぎはらっていく。アメフは鉄砲を持っているが、ソウが持つのはそれとシャベルだけだ。このうっそうとした森で現れるかもしれないオオカミやクマ、パンダ、その他凶悪な野生動物が襲ってきたときの状況をアメフはイメージしなければならなかった。

 いかにして発掘屋と自分双方を守りながら戦うか。

 残弾数は少ない。

 一昨日、防備不十分な日本軍の捜索部隊の一隊を襲って大打撃を与え、銃弾と手榴弾で死と破壊をばらまいた。だが、その代わりに野生動物に対してさえ、残弾数を気にしなければならないほど弾薬が減ってしまっていた。手榴弾に至っては残り一発。

 樺太に日本兵はあと、どれくらい残っているのだろう。一万人か。十万人か。

 補給の望めない一人の傭兵VSアジア東部の軍事国家の軍団というわけだ。

 目の前の頼りない発掘屋をなんとか利用して、この絶望的な状況を打開するしかない。

 ソウが探しているものがなんであれ、素早く目的の物を見つけなければならなかった。

 それにしても、異様な森だ。

 奥に進むにつれ闇は濃くなり、いつしかアメフでさえ落ち着かなくなっていく。

 寒さは体の奥まで入り込もうとしてくる。ソウはマントをしっかり体に巻き付け、それを阻もうと試みていた。吐息は白いもやとなってぼやけていく。ソウはその中に己の魂まで含まれていて、呼吸をする度に命が短くなっていくという幻想にとりつかれていることをつぶやいた。それは聞いたことのない迷信だ。


 だが、そのとき。

 とりとめのない考えは、ダウジングの硬貨が今までの揺れとは違う、ヒステリックな踊りを始めるに及んで忘却へと追いやられた。

「ここだ」

 ソウの黒炭の様な目が光った。二人はシャベルを握った。

「ここまで来てシャベルの先をぎざぎざにしただけとあっちゃ笑い者だぜ」

「地面が凍る程の気温じゃないだろ、アメフ。地面にはゆっくりと熱が伝わるのだから」

 二人はザクザク掘った。だがアメフにとっては慣れない動作とあって動きは鈍かった。そしてソウは非力だった。

 作業は進んでいる様子すら見せない。

 やがてソウは荒い息をついた。

「硬い土だ。疲れるものだね、こりゃ?」

「なまけんじゃねえよ、ソウ」

 ソウは聞こえないふりをして水筒の冷めたお茶を注いだ。

「ゆっくりくつろいでいて野生の――」

「野生のオラウータンが出ると脅したって無駄だぞ。僕はお茶を飲む」

「俺の知る限り樺太にオラウータンはいない。それより日本兵に見つかるかもしれない。俺が殺した連中の同僚が、血眼になってこの辺を探しまわってるはずだ」

「午前三時だぞ。日本兵は布団の中さ、傭兵」

「じゃあオオカミだ。血に飢えたオオカミがこういう森には――」

 ウォオーンと、暗黒の森を野獣の雄叫びが満たし、さらに何頭かが同様に鳴き声を上げた。アメフは舌打ちした。ソウの顔が青ざめた。二人は顔を見合わせると、次の瞬間シャベルをひっつかみ、掘りまくる。そのスピードはさっきの十倍にも匹敵した。

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