あの丘に、消えない白夜
眠れない。
俺は普段寝つきが良い方だ。いつもなら目を閉じて十五分も経たずに寝てしまうはず……なんだけれど、鼻の下まで布団をかぶって、無理やり目を閉じて数十分。眠気が全く来ない。
「…………。はぁ」
眠れないなら仕方ない。布団をいっそ勢いよく跳ね除けて立ち上がり、少しカーテンの向こうを覗いた。
外は暗く、もう夏だが六月なので、曇っていて空気がどんよりとしている。ついでに窓も開けてみる。うーん、けっこう寒い。
壁掛け時計は十一時半というところだった。
……まぁ、でもこれも何かの暗示だろう。
両親は出張でいないし、幼い妹はとっくの昔に寝ている時間だ。つまり、僕が何をしようと咎める人はいない。せっかく起きたんだし、軽めのランニングでもしてこようかな。
「うぅ、思ったより寒い……こんな時間なんだから当然かぁ」
いつもの近所のランニングコースを走る。
住宅街は静まりかえって、俺の規則的な足音だけが響いていく。寒いだけだった空気は、息が上がるにつれ鋭く澄んだ風となって頬を撫でていく。
折り返し地点にしようと思っていた公園にたどり着いた。中に入り、少し汚れたベンチに座って星空を見上げる。
「ベガ……」
夏の夜空を代表する、一際輝く三角を目印にして、俺が一番好きな星を見つけた。
ベガは3つの中でも特に大きく、強く輝いている星。他の星を寄せ付けないような光に、しばし見惚れる。
昔から夜空や星が好きだった。空を見上げて、遠い遠い星をただ眺めていると、とても爽やかな気持ちになれるのだ。
いつか、最高の星空を求めて旅をしたいという、ささやかな夢もあった。
まるで、世界に自分しかいなくなったような感覚。静まりかえった公園とベガが、俺にそう感じさせた。
キィ……
そんなささやかな全能感は、金属が軋む音にいとも簡単に打ち砕かれることとなる。ブランコに、誰かが揺られていたのだ。
目を凝らしてみると、小学校低学年くらいの女の子。
こんなに小さな子が夜遅くに一人きりなんて……迷子? もしかして家出? 警察に連絡したほうがいいだろうか。
「こんばんは!」
「うぉ!? こ、こんばんは」
いきなり満面の笑みで挨拶され、だいぶ動揺してしまった。
恥ずかしい。相手はかなり年下の女の子なのに。
「おにーちゃん、だれ? 知らないひと?」
「そ、そうだね。知らない人……かも。あはは」
「なんでここに来たのー?」
「と、特に理由があるわけじゃないんだ。ただ、なんとなく目が覚めたからで」
「ふーん」
子どもらしいたどたどしさを残しつつ、それでいてすっと通る声だった。よく見ると、俺が幼稚園くらいの頃に流行っていたキャラクターもののTシャツを着ている。お下がりなのだろうか。
それに。そういえばこの子、近所で見かけた記憶がない。小さな団地だから、登下校の時に見たことがあってもいいはずなのに……。
どこまでも不思議な女の子だった。
『すっごい! 星! 星! 星だよ!』
「……え?」
「どうしたの? おにーちゃん」
「え、あ、いや……今なんか言った?」
「ううん、なーんにも」
今、確実に聞こえた。幼い女の子の声……しかも、今目の前にいるこの子にとてもよく似た声。
でも、頭の中に直接響いてきたような、耳から聞いたわけじゃないような気がした。
……誰の声?
いや、とりあえず置いておこう。この女の子のことを聞かないと。
「えっと、……君、名前は?」
「蒼井サキ!」
サキちゃんは、足を勢いよく伸ばしてブランコの揺れを大きくさせた。
ひと漕ぎするたびに、小さく軋む音がして、だんだん高度が上がっていく。
「サキちゃんね。親はどこにいるの?」
「親? パパとママ? ——いないよ?」
途端、サキちゃんの目がワントーン、暗くなった。
もしかして亡くなっていたりするのだろうか……? 俺はまずいことを聞いたのかもしれない。
「サキはずっと一人でここにいるの。だれかきたのはおにーちゃんがはじめてだよ」
は? ずっと一人?
サキちゃんがブランコを漕ぐのをやめた。揺れる勢いがゆっくりとなくなっていく。軋む音の間隔が、どんどん短くなる。
サキちゃんが俺の方まで歩いてきた。至近距離で顔を見上げてくる。
「ねぇ……おにーちゃん。夜空にひかってる星は、好き?」
「え、あ、うん。まぁ、好きだよ」
色々な疑問を飲み込んだままそう答えた。小さな頭は向きを変え、俺に背を見せた。
「そっか。じゃあダメだね」
「ダメ? 何が?」
「夜空の星が好きなうちは、おにーちゃんは、私の知らないひとだもん」
どういう理由かは分からないが、星が好きだと、サキちゃんと仲良くなれない。そういうことらしい。
「夜空の」というのがよく分からないけど……星なんて夜にしか見えないのに。
「……どうして?」
「えーと、どうしても!」
サキちゃんは理由を言おうとしない。俺もしばらく何も言わなかったからか、またくるんと俺の方に向き直った。
「じゃあ、ヒントね」
「ヒント?」
「うん。サキと仲良くするためのヒント。おにーちゃんは、どの星が一番好き?」
「一番? ……強いていうならベガ、かな。ほら、あの一番明るいやつだよ」
俺は夜空を指差して言った。鋭く強いまたたきが俺とサキちゃんを照らす。
「そっか、ベガね。じゃあ……おにーちゃんは、どうしてベガが好きなの?」
「え? それは……えっと……」
……あれ?
どうしてだっけ。
俺は何年もベガが好きだ。大抵、何年も好きでい続けているからには何らかの理由があるものだろう。でも。
「俺、何でベガが好きなんだっけ? どうして自分のことなのに、理由が分からないんだ……?」
「それはね」
サキちゃんは人差し指を自分の口に当てた。
一瞬、すごく大人っぽい雰囲気がした。
「それはね、ナツキくんが——」
ナツキくんが、私のことを忘れているから。
ひゅしゅっ。ひしゅっ。
しゅん、しゅんっ。
突然だった。
突然、静かだった空は無数の煌めきに覆われた。流星群というものだろうか。次から次へと光る星の筋。
なぜだか、温かい。この温かさは、何?
「えっ」
ふと周りを見渡して固まった。ブランコがない。滑り台がない。
公園じゃ、ない。
周りの遊具は忽然と消え、俺は小高い丘のてっぺんに立っていた。
サキちゃんは俺の隣で、芝生の上にちょこん、と座っていた。まるで、至極当然のように。
何がどうなってるんだ?
わけがわからない。わけがわからない。ここはどこだ?
『サキちゃん』は、誰だ?
『そうだ。流れ星に願いごとをすると叶うんだよ、ナツキくん! 消えちゃう前に、何かお願いしないと』
今ここにいるサキちゃんは、流星群が降る直前、確かに俺の名前を呼んだ。
頭の中に響く声が、完全に彼女と一致して——。
『ずーっと、サキちゃんと楽しく仲良くいられますように』
また声がした。でも、違う。
……今のは、俺の声だ。
ふ、と。俺の脳裏に、こことよく似た、いや、全く同じ丘が映る。
そのてっぺんに寝転んで、夜空に手をかざして笑う女の子がよぎった。
「き、君は……」
「……思い出して」
しゅん。
しゅっ、ひしゅっ。
「…………!!」
女の子。
幼稚園。
幼なじみ。
夜。
丘。
流星群。
流星群。
「僕」とサキちゃん……!
そうだ。
そうだ!
あの日、僕は確かにこの丘で、サキちゃんと流星群を見ていた!
抜け落ちていた記憶が蘇ってくる。パズルのピースがどんどん嵌っていく感覚。
サキちゃんと僕は幼なじみで、幼稚園の時に流星群を見に行ったんだ。二人で丘のてっぺんに寝転んで、流星群をただただ眺めて。
流れてしまう前に願いごとをしなきゃと焦る彼女に、僕はこんなことを言った。
『ねぇ、サキちゃん。流れ星って、消えちゃうんだよ?
僕には、せっかく願ったことが消えちゃって、なんだか叶わない気がするんだ。向こうからきて、また反対に行っちゃうもん。普通に光ってる星もそうだよ。朝になったら消えちゃうでしょ?
だから、僕は願うなら、ずーっと消えない星に願いごとがしたいんだ』
それで、北極圏などで観測できる、一日中太陽を見れる現象「白夜」を説明したんだっけ。
そこで一日中太陽にお願いした方が、願いごとが叶いそうだよって。だから僕は、白夜を見に行きたくて。
もし白夜を見ることができたら……。
『ずーっと、サキちゃんと楽しく仲良くいられますように』
こんな願いごとをしたかったんだ。
そうか。だから、俺は空が好きで、天体が好きで。昔からを無性に旅をしたかったのも、白夜が見たかったのが原因だったんだ。
記憶に乗っ取られていた一人称を戻し、したり顔で頷いていた俺の脳内に、疑問が湧いた。
あれ、それなら、俺が好きな星は太陽ってことになりそうだけど……?
頷いていた首がぎこちなく止まるのと同時に、新しい記憶が流れ込んできた。
流星群を見終えた帰り道。
親たちが丘の下まで散歩でもしようと言い出して、後ろから見守られながら二人で道路を歩く。
普段なら確実に寝ている、夜遅い時間だった。はしゃいだサキちゃんは繋いでいた俺の手を離す。
走り出した彼女は青信号の横断歩道を一人で渡り始め。
大型トラックが、そのまま、突っ込んできて。
死んだ。
サキちゃんは目の前で、数メートル吹っ飛ばされた。
何が起きたか、すぐには理解できなかった。
担架に乗せられたサキちゃんの、光を灯していない瞳。いつもキラキラと輝いていた瞳。
大好きだった。コロコロと表情を変え、キラキラと笑う彼女の存在が僕の光だった。当たり前のように隣にあった光が……消えた。
無くした。亡くなった。
永遠に。
だから、俺は、夜空を……その時、嘲るように一番煌めいたベガを見上げて……。
ちぐはぐなベガへの憧れと引き換えに。
大切な女の子との記憶に、鍵をかけたのだ。
「はっ……!!」
俺はベッドの上にいた。
夢……? 嘘だろ……?
俺は覚えている。思い出している。
サキちゃんとの記憶。
サキちゃんが……死んだ記憶。
まだ夜は明けていなかった。部屋の電気をつけて押し入れを乱暴に開ける。
息を乱しながら箱を開け、幼稚園の卒園アルバムを引っ張り出した。
「いない……」
蒼井サキの文字はなかった。亡くなったのが六月だったから、アルバムには載らなかったのかもしれない。
すぐに自室を飛び出してリビングに駆け降り、小さい頃のアルバムを開いた。
しかし、どれだけページをめくっても、それらしい女の子は見当たらない。
……一つ思い当たるところがあった。
両親の部屋に金庫がある。鍵が置いてある場所は緊急時に備えて知らされていた。
鍵を開け、中身を床にぶちまける。
その中に、半透明で長方形の小包があった。
表面には母の字で「開封厳禁」と書かれていた。
すぐに包みを破いた。
中に入っていたのは思った通り数枚の写真。
幼い俺と、さっき公園で会った女の子が笑っている……。
「サキちゃん……」
どうして今になって、サキちゃんに会ったんだろう。
どうして思い出せたんだろう。
「はっ」
違う。
今日はサキちゃんの命日だ。
亡くなって十年の命日なんだ。
亡くなった時間帯も、ちょうど夢を見ていた頃のはずだ。
「ナツキくん。そろそろトラウマなんて乗り越えて、ちゃっちゃと思い出してよ」
そんな風に眉を下げて笑うサキちゃんの顔が思い浮かんだ。
彼女はきっと、待ちくたびれて、自分から会いにきてくれたんだ。
ベランダに出た。夜空には依然ベガが輝いている。
が、今はもう、何とも思わなかった。
サキちゃん。
思い出したよ、君のこと。
あの夜のこと。
サキちゃんと約束した、白夜に願う予定の願いごと。
ずっと忘れていてごめんね。
俺はいつか必ず白夜を見に行くよ。
見に行って、一日中太陽の方を眺めていられるその時が来たら、こう願う。
「サキちゃんの未練が囚われているあの公園の世界に、もう一度行けますように」
そう。
きっとあの世界は、ただの俺の夢なんかじゃない。
サキちゃんの未練はきっとあの丘に囚われて、長い期間ずっと一人で過ごしているんだ。
次もしあの場所に行けたら、俺はもうサキちゃんの「知らない人」ではない。
もう孤独にさせない。
一人にさせない。
寂しくさせない。
あそこでずっと一人きりでいるサキちゃんと話をするんだ。
話すんだ。
絶対話すんだ。
話すんだ話すんだ話すんだ。
話をして、それで、
永遠に、あの場所で二人でいられますように。
あの場所で俺とサキちゃんはずーーーっと一緒。
俺もサキちゃんも永遠にあのまま居なくならないし一人にならないし孤独にならないしなんて素晴らしい願い事なんだろうかサキちゃんは死んでないサキちゃんは死んでないサキちゃんは死
「あは……あはははっ」