散髪屋で見た笑顔
月に一度髪を切りに行く馴染みの散髪屋がある。昔ながらの商店街の中にあり、いつもそこそこ混んでいる。席は6つ。客層は子どもからおじいさんまでと幅広い。料金は良心的で、サービスの質も申し分ない。
これは私が先週その散髪屋に髪を切りに行った時の話だ。
昼過ぎに散髪屋に行くと満席だった。順番を待つ人は誰もおらず、私は待合席で漫画を読んで時間を潰すことにした。
10分ほどした頃、一番奥の席にいたおじさんの散髪が終わった。何度か見かけたことがある人で、確か名前は岸さんだったと思う。色白でひょろっとしていて、優しそうな雰囲気のおじさんだ。
「岸さん、いつもありがとうございます。またお願いします」
会計後、おじさんに対してオーナーが声をかけた。やっぱりおじさんの名前は岸さんだった。オーナーは色黒で少しぽっちゃりしているので、岸さんと並ぶと対照的で少し面白い。
「ああ、また来るよ」
岸さんは笑顔でそう言うと、足取り軽く帰っていった。オーナーは岸さんを見送ると、店の奥の席を一瞥し、それから私のそばにやってきた。
「お待たせしました。一番奥の席へどうぞ」
オーナーが岸さんの会計をしている間に他のスタッフが片付けを済ませていたようだ。私は促されるまま、綺麗に掃除された一番奥の席へ向かった。
「今日はどんな感じにしますか?」
オーナーが私にそう声をかけたのと同時に、後ろで「うわっ!」と大きな声がした。
何事だろうと鏡越しに後ろを見る。すると私の後ろで片付けをしていた男性スタッフが、床に向かって目を見開きながら固まっていた。
「どうした?」
私に「少しお待ちください」と声をかけてから、オーナーは後ろに振り返り男性スタッフに尋ねた。私だけでなく他のお客さんやスタッフも気になったのだろう。店内から会話が消え、ハサミの軽やかな音だけが静かに響いている。
「失礼しました。あの、でも、片付けをしていたら、ここに集めていたお客さまの髪がいきなり消えたんです」
男性スタッフは自分が見た出来事が信じられないのか、困惑した顔で首を傾げている。
「それは岸さんの髪か?」
オーナーは少し間を開けてから言った。鏡越しなので後ろ姿しか見えず、オーナーの表情はわからない。でも、なんだかひどく暗い雰囲気だった。
「はい、そうです」
「そうか……気にせず片付けを済ませてくれ」
相変わらずオーナーの声は暗い。暗いだけでなくどこか悲しそうな雰囲気も感じる。私はオーナーが今どんな表情をしているのかが少し気になった。
「承知しました」
男性スタッフがそう返事をすると、タイミングを見計らったかのように店のガラス扉が開きベルが鳴った。見ると近所のコンビニでよく見かけるメガネのおじいさんだった。
「なあ、今さっき岸さんがここに来なかったか?」
メガネのおじいさんはお店の人たちが「いらっしゃいませ」と言うのを遮りながら店に入ってきた。
「ええ、いらっしゃいましたよ。ここで髪を切らせていただきました」
少し驚いた表情のオーナーが、私の座る席を指しながら答えた。するとおじいさんは「やっぱりなあ」と言いながら私の後ろに立ち、鏡に向かってスマートフォンを向け写真を撮った。
誰一人状況が読めず、オーナーすらおじいさんに声がかけられないでいた。おじいさんはそんな空気を気にすることもなく、「ほら」と言うとオーナーと側にいた男性スタッフにスマートフォンを見せた。
画面を見せられた男性スタッフは、見た途端口をぽかんと開けて固まった。しかし、その一方でオーナーは悲しそうな表情で画面をじっと見つめている。
「やはりそうだったんですね……」
力なくオーナーが呟く。
私は一体何が写っていたのか気になって仕方がなかった。鏡越しに目が合い、そんな私に気がついたおじいさんが、「ほらな」と言って私にもスマートフォンを見せてくれた。
写真の中には鏡越しに映る私とおじいさん、それからオーナーがいた。そして私の右肩のすぐ隣に白くて丸い何かが写り込んでいた。最初、私は照明の反射だろうかと思った。でも、なんだか違うような気がして、よく見てみるとそれは光なんかではなかった。
写真に写っていたのは、真っ白に染まった岸さんの顔だった。
私は驚いて、思わず腹の底から変な声を出してしまった。おじいさんはそんな私を見て、「まあまあ落ち着きな」と言って肩を軽く叩いてくれた。
「ほら、よく見てみろ。怖い顔をしていないだろう?」
おじいさんに優しく声をかけられ、私はもう一度スマートフォンを見た。確かに岸さんは笑顔だった。明るく素敵な笑顔だった。
「本当ですね。優しい顔だ」
「だろう? だからそんなに怖がらなくて大丈夫だ」
おじいさんはそう言って、再びぽんぽんと私の肩を優しく叩く。
「山田さんはどうしてご存知だったんですか?」
オーナーがおじいさんに聞いた。オーナーは私と違い、少しも怖がっている気配はない。ただ、とても辛くて悲しそうな顔をしている。
「岸さん、先週亡くなったんだ。病気だったんだと。でも、さっき妻が岸さんにそっくりな人が散髪屋に入るのを見たって言うから気になってな」
おじいさんは少し俯き、暗い顔をして言った。
再び店内から会話が消え、髪を切るハサミの音だけが店内に響く。
「それじゃあ、おれはこれで。いきなり来て申し訳ない。また来させてもらうよ」
おじいさんはオーナーに言うと、出入り口に向かおうとした。私は一つどうしても気になることがあったので、帰ろうとするおじいさんを見て、慌てて声をかけた。
「あの、すみません。さっきの写真って大丈夫なんですか? 私……」
慌てて声をかけたので、なんだか失礼な言い方になってしまった。でも、咄嗟にはそれしか出てこなかったのだ。私は自分の横に幽霊が写っていたのを見て、取り憑かれてやしないかと怖くなっていた。
そんな私を見て、おじいさんは何かを察してくれたのか温かい眼差しで「ああ、大丈夫。明るい笑顔だからな」と言ってくれた。
私はそれを聞いてほっとした。いつの間にか緊張していたらしく、一気に体中の筋肉が緩むのを感じた。ああ、本当によかった。そう思った時だった。
「まあ、一番厄介になるのもこういうやつなんだけどな」
ざらりとしたものを感じて慌てておじいさんを見ると、おじいさんはニヤニヤとしながらじっとりと私を見ていた。おじいさんにさっきまでの優しい雰囲気はどこにもない。
戸惑う私を見ながら、おじいさんはそのまま店を出ていった。私はすぐにおじいさんの言葉の意味が理解できず、発言に対して何もリアクションをすることができなかった。
髪を切ってから一週間が経つ。でも、最後のおじいさんの一言が頭に貼り付いて離れない。