【1-3 奴が来た】
「キャアアア!!!」
耳を劈く女の声が異常事態だと身体を硬直させた。瞬間的に場がピリピリと緊張する。
「なんだ!?」
「食堂の方からです!」
シュシュに手を引かれ、赤面する暇もなく駆けていくと、食堂らしき看板が掲げられた大きな建物が見えた。看板の文字に目もくれず、木製の扉を押してくぐり抜ける。
「どうしましたか!?」
「歪みだ! 歪みが出たんだ!」
「口の化け物よ! 口が浮いてたの!」
「俺たちを食い殺さんばかりに悍ましく蠢いていたんだ!」
昼時の大衆食堂は賑わっている。老若男女、大小様々、ざっと20人は客がいるようだ。シュシュは看板娘なのだろう。顔が広いのか、たちまちに騒ぎの中へ溶けていった。口の化け物と聞こえるが、見渡してもそれらしきものはどこにも見当たらない。逃げたのだろうか。
聴取を終えたシュシュが人に揉まれながら隣へと戻ってくる。
「アラン様、歪みです。これまでにも多数報告がある口の怪異が現れていたようです」
「もういないんだな?」
問いに対して、シュシュは深刻そうにゆるゆると首を振る。
「いいえ。歪みは一度発生すると虫のようにわいて出ます」
「魔物じゃなかったのか?」
「魔物と考えられていますが、姿を見たものはいないんです。ですから歴戦の勇者も敵いません」
つまり幽霊みたいなものだ。そんな実態のないものをどうにか出来るとは思えない。なんだって俺じゃなくちゃいけなかったんだ。フレームは時間に追われて俺を送り込んだだけだったのか? あの世すら人材不足とは嘆かわしい。
「アラン様、仰っていた創成魔法は使えませんか?」
「や、やってみる」
でも、魔法ってどう使うんだ?
焦りを察したのかシュシュが緊張で震える俺の情けない手を握る。シュシュの手は俺より二回りも小さくて滑らかな手触りだ。日焼けのあとはなく白い。それと、やっぱり照れている暇はない。
「ご自分の体温を感じますか?」
「ああ」
「目を閉じて」
「わかった」
「その熱を手と手の間に集めるイメージをするんです。集めた熱には色があります。それはアラン様のご自身の色です」
まるで催眠術だ。徹夜で締め切りをやり過ごした後の妙なテンションで眠れない早朝に、よく動画サイトで催眠誘導を聞いていた。あれは疑り深くて性根の悪い俺には効き辛くて、結局動画の寿命が切れるのが先だった。そのあと俺の寿命も切れたわけだけど。
「熱は形になります。思った通りの形です。それは手に馴染みます」
「手に馴染む……」
鈴のように清らかな、しかし抑揚のない声が暗闇に光を灯す。無意識に右手の人差し指が触れた中指の側面に、覚えのある感触がする。分厚い皮膚。新たな肉体であるアラン・スミシマにはあるはずのない俺の証明。
「言葉が浮かんできます。唱えて」
──は、呪いの言葉。時間を盗んで命を枯らす。先輩が茶色の封筒に書かれた指示を見て項垂れる。何の具体性もない人任せなRマーク。誰かが投げ出した重荷を背負わされて潰される。
白昼夢ではない、フラッシュバックだ。熱を集めろという指示も虚しく、みるみる俺の手は体温を失い、僅かに震えた。異変を感じとった少女の手がパッと離れていく。
「……ごめん、何も浮かんでこない」
「アラン様……」
目を開けた。わずか1分ちょっとぶりの太陽光が眩しい。だが何も変わっていない。魔法は失敗したのだろう。シュシュの純粋な期待に応えられなかった。創成魔法が使えると聞いていたのに、居た堪れない。
「あんた、顔、顔が!!」
「き、奇病だ! 早く医者に連れて行くんだ!」
「バカ! 医者だって直せるもんか!」
それどころかまた歪みが出たようだ。騒ぎの中心の男性の顔が人混みからチラリと覗いた。鼻は曲がり、カッと開かれた目の中心で輝く瞳は左右で大きさが極端違う。輪郭もグニャグニャと歪んでいる。まさしく歪みである。
「みんな落ち着いて! 歪みは近くにいます!」
場を宥めようと混乱の真っ只中に歩み寄っていくシュシュの掛け声は、客たちを落ち着かせるどころか一層不安を煽った。そうして慌てる人々が、目に見えない恐怖に安全地帯を求めて我先にと逃げ惑う。テーブルの下、部屋の隅、食堂の外、カウンター付近に身を隠そうとしてシュシュに近づいた数人の顔が全てぐちゃりと歪む。
ずきんずきんと頭が痛む。恐怖で身体は硬直し呼吸は激しくなっていく。
「うわぁああ! 指がぁ!!」
6本も指が生えた手を気持ち悪いと男性が激しく振り回すと指は7本に増えた。
ざわりと予感が背筋を駆けのぼり、思考を停止していた脳まで到達した。
「歪みの正体は──」
拳を握りしめると、くしゃりと嫌な音がした。俺の手にはいつのまにか、上の部分に3つ穴が空いたレモン色の紙がぐしゃぐしゃに握られている。いきなり現れた紙切れにゾッとして小さな悲鳴と共に投げ捨てた。
恐る恐る床に叩きつけられたそれを拾い上げると、ただの汚れたテーブルナプキンでしかなかった。
「作画崩壊だ……!!」
食堂の壁が伸びたり縮んだりしている。テーブルもだ。椅子は粘土のように歪む。空間のパースが狂う。それは全てシュシュの延長線上にあるものだ。
俺はたまらず食堂から飛び出した。
「アラン様!?」
食堂の騒ぎをよそに、外では何も起きていない。建物の伸び縮みもない。歩く人の顔もそのままだ。
仮説を裏付ける為に、食堂の外の通りから、店の中でしゃがみこんだ悲壮な表情のシュシュへと呼びかける。
「シュシュ、落ち着いて言うことを聞いてくれ。動かないで。」
「はい」
コクコクと繰り返し頷くのが癖のはずの彼女は瞬きだけで合図を送った。横のおばちゃんの乱れた髪がゆらりと戻っていく。
「歪みの正体がわかったんだ。こっちへ。一度外に出よう。人の少ない路地で話そう」
「はい」
手招きをすると、シュシュは「動くな」の命令と「外へ行く」のコマンドとの板挟みになり、ロボットのようにガクガクと動き出した。また壁がグニャと揺れる。
「大丈夫だから! 普通に、普通に歩いて。中4枚くらいで」
「中?」
歪みが忌まわしき作画崩壊だというなら、彼女の近くにあるはずなのだ。アレが。
「人一人通れるくらいの壁と壁に挟まれる路地の裏。先は行き止まり。素晴らしい」
「アラン様は狭いところがお好きなんですね」
「あと白いだけの空間と、空と地面しかない自然も愛してるよ」
設計図の背景描くのにカメラの計算がいらないからだ。そう、少し丁寧に説明をしてみたが、シュシュは困った顔をした。結局狭いところと無駄に広いところの両極端を愛する変人というレッテルが貼られてしまったようだ。自業自得である。
「それでアラン様。歪みの正体とは一体」
「ああ。俺の世界では作画崩壊と呼ばれていたものだ。そして俺はそれを防ぐ仕事をしていた」
「それは、歪みに対するプロフェッショナルということでしょうか!? だからフレーム様はアラン様を呼ばれたのですね!」
シュシュが金の瞳をこれでもかと輝かせ、わあっと興奮したように捲し立てた。
さっき呪文に失敗した男によく期待ができるものだ。あまり期待されるのは好きじゃない。居心地の悪さに俺は浮かれた黄金から目を逸らした。
「だけど上には上が、底辺には腐るほど上がいるはずだ。丁度死んだとはいえ、よっぽど人がいないんだな」
あの業界の人の足りなさはよく知っているつもりだが、死んでも働かされるなんてあんまりじゃないか。一つ溜め息を吐くと思いの外澱んだ空気で肺が満たされていた。
「これは仮説だが、この世界は異世界もののアニメなんだ。そして、その主人公はシュシュ、君だ」
「主人公……?」
この世界に来てから目にした人間の中でも圧倒的に華やかな外見に、手の込んだ造形の衣、鈴の美しい声。どう見ても周囲とは一線を画すデザインだ。
そこまで考えたところで、ふと気になった。異世界ものへの知識は仕事で関わった作品以外ほとんどない。この物語はどんな話なのだろう。
「宿命とかあるのか?」
「いえ、私はしがない食堂の娘です。ただ、昔から冒険者に憧れていたので、隠れて生態を崩すような育ち過ぎた魔物を討伐してるんです。食材集めを兼ねて。そして世界各地でレシピを集めるついでに……」
「な、なるほど」
「食堂でも各地のレア食材をふんだんに使った究極のレシピを……」
「料理作画の、欲張りセット……」
また頭が痛くなってきた。あんなガタガタに崩れるほどスケジュールがなくなった作品に料理専用の作画監督なんて絶対用意されない。未知の食材の調理シーンまであったらどうしよう。まともな食事を取れないアニメーターになぜまともな食事が描けると思っているんだ!
思考が暗い方へ流れていく前に首を振る。アニメの登場人物の可能性が極めて高いとはいえ、俺は目の前のシュシュの夢まで否定したくない。
「いや、とにかく、シュシュは主人公に違いない。だから歪みは主にシュシュの近くで起きるはずだ」
この世界にアニメーション作品は存在しない。突拍子もないことを言い出した俺を狂人扱いするでもなく、「アラン様の仰ることは難解ですが、言わんとすることはぼんやりとわかってきました」と理解を示してくれたシュシュは、相当にフレームのことを信頼しているらしい。
「……歪みの発生は世界各地で聞きますが、確かに私の周りで多い気がします。私自身も何度か経験がありますし」
「それから、このアニメは恐らくスケジュールが無い。打ち合わせもないかもしれない。設定も揃っているか怪しい。ものすごく現場の疲労を感じる」
「現場の疲労……?」
「俺のいた世界では実際俺が死んだ」
説得力のある言い分とジョークを兼ねていたのに、シュシュが眉を下げて悲しそうな顔をするので慌てて話を戻す。泣きの作画も面倒だし、それ以上にシュシュが俺のことで悲しむのが嫌だった。
少し沈んだ空気を誤魔化すために努めて明るい声を出す。何だからしくない。
「そこで、本題だ。この世界を俺たちにとって低コストに抑えようと思う」
「それはどういった?」
「これから歪みが発生する原因の派手な動きも魔法もイベントも戦闘も極力起こさないようにする」
「ですがそれだと色々とままならないのでは……」
動きを制限しようとしてロボット歩きになった不器用な彼女だ。それに自分の好きに動けないというのはストレスに違いない。可哀想だがやるしかない。
このアニメがワンクールで終わるなら放送分の12話ほど耐え切ればいい。歪みの発生時期から、既に途中まで進行していることがわかるので残りは12話もない。最終回を迎えれば、彼女は晴れて自由の身、のはずだ。
「もちろん、アレが側にいる時だけだ。歪みの気配が近くなったらさっきみたいに俺の指示に従ってくれればいい」
「それは頼もしいですが……。アレ、とはなんでしょう?」
どんな恐ろしい怪物の名を告げられるのかと身構え、シュシュはごくりと唾を飲み込む。なんとなく、今この瞬間、ソレは彼女の喉元を見つめていると思えてくる。
「カメラ、だ」
実態はなく、視点の設定という意味でのカメラ。目にも見えず存在しないが、実在のカメラの動きを模倣している。フレームという単語がイコールで神様に繋がってしまうシュシュにその説明で理解してもらうのは難しいだろう。
「写真を撮るカメラですか?」
「そう、でも正しくは映像だ。シュシュを取り巻く物語をビデオで撮ってる。そのレンズに映ってる画面内のものは歪む。顔も指も」
「浮いている口は?」
「あれはセリフのセルがズレたんだろ。元位置から動かしたか何かでバレたんだ。机に座ってるとき、足とか無くならなかった?」
「あっ! リューハイ共和国の酒場で遭遇しました! 隣に座っていたおじさんの足がなくなっていて立ち上がると元に戻ったんです」
「それもバレ」
「な、なるほど……?」
用語を噛み砕いて説明するには時間がかかるので、困惑しているところ申し訳ないが今はこれくらいで許してもらおう。作画関係も丸っと省いて、「カメラに映ると歪みが起きると考えてもらえればいいよ」と言うと素直に頷いてくれた。
「シュシュは主人公でまともなスケジュールなら4回ほどは修正の機会がある。まともに動いてるとは思えないが……。だから比較的被害が少ない。でも周りの人はそうじゃない。さっきのお客さんは特にだ。恐らく設定もないし原画にお任せで修正が入ってないんだろう」
いわゆるモブキャラだ。時間がないときに修正を頼まれたとき、なかなか不安な上がりだったが急いでメインキャラだけ直してアタリすら入れなかった。こうして転生し、彼らも生きていると実感すると見ないフリをしたことが心苦しい。
「じゃああの人たちの顔は」
「カメラに映らなきゃ戻る、と考えたいが、設定ないし……最悪あのままかもな」
「そんな! 私のせいで……」
半分の理解とはいえ、自分がキャラクターで、しかも主人公であると聞かされても、彼女は平気そうだった。それすら設定だと言われればどうしようもないが、精神が強いんだなと思った。
だが、自分を中心に歪みが起きる、それを自分の責任だと捉え、シュシュはその場に蹲った。俺は慌てて否定をする。こんな華奢な身体に責任を背負わせたいわけじゃない。
「シュシュのせいじゃない。これも仮説だけど、治せるんだ」
「……まさか創成魔法ですか?」
俺は近くの木の枝と、拾い上げていた黄ばんだテーブルナプキンを握りしめる。そして本当は浮かんでいた呪いの言葉を唱えようと口を開いた。嫌だ、言いたくない。だけどシュシュに悲しんで欲しくもない。俺しかいない。視線で固められた空気が喉に詰まって気持ち悪い。
「ッ……クオリティアップ」
手に持っていた木の枝が鉛筆に、テーブルナプキンはさっき見かけたレモン色の紙もとい修正用紙へと姿を変える。ファンタジー世界の魔法にしてはあまりにも地味だ。折角ならもっと大仰な魔法がよかった。が、贅沢も言えまい。
現象が伴って胸を撫で下ろすと共に、ああ、本当にこの呪文なんだなと思うと胃がキリキリ痛んだ。
「よかった。ちゃんと出来た」
「アラン様、その、顔色が良くないです。代償の大きい呪文なのかもしれません。無理はしないでください」
「大丈夫、別にどうってことないんだ。あんまり好きな呪文じゃないだけで」
シュシュは尚も心配そうに俺の様子を注意深く観察していたが、呼吸も落ち着いてしまうと異変は感じ取れなかったらしく、ようやく解放してくれた。
「それで、そちらはなんでしょう」
「鉛筆、ペンの一種。と、これは紙」
「鮮やかな黄色でとても薄いですね」
「一度やってみよう。良くなる自信はあんまりないけどな」