古代文字の研究(日本語の渡来:疑問擬答)
9月20日、「問5」の末尾、日ユ同祖論について、加筆修正しました。
7月27日、「問8」に、万葉仮名と呉音の話を追加。
7月26日、「問2」の末尾の「結論」に加筆修正。
問1.「古代のクレタ島、キプロス、更にインダス文明で使用された文字は、日本語として解読可能であり、従って、それぞれ、日本語民族の遺した文字である」との主張に関し、何故、これまで同様の指摘や主張が、行われていないのか?
(1)遠隔地に対する偏見
一つの大きな問題は、「古代文字の背景言語は、原典の出土する国か近隣地域の言語であり、その古い形態だろう」との予断が働く事である。過去の解読の成功例に鑑み、古代文字に関しては、今日の国境線の枠内や近隣地域で背景言語を探すべしとする「常識論」だろう。
エジプトの聖刻文字の場合、同国で発見された2か国語原典「ロゼッタ・ストーン」が解読の鍵となったが、エジプト国内のコプト語と関係が深い由。またメソポタミアの楔型文字の場合、イランで発見された「ベヒストゥンの碑文」(楔型文字による3か国語原典)が解読の鍵となったが、古代ペルシャ語の原典が先ず解読され、続いてエラム語及びアッカド語の原典が解読された。何れもイラン及び近隣地域の言葉である。更に線文字Bの場合、原典はクレタ島やピュロスとギリシャ領内で発見され、背景言語は、古代のギリシャ語と判明している。
従って、線文字Aの場合、クレタ島等、ギリシャ領内で発見されたので、背景言語は、ギリシャや近隣諸国の言語。キプロスの古代文字の場合、同様の理由から、キプロス等、地中海東部か沿岸地域の言語。インダス文字の場合、原典がパキスタンやインドで発見されるので、背景言語は、パキスタンやインドの諸言語の一つ、とのバイアスが働くだろう。
この様な「常識論」に反する場合、当初より反対論が働きがちとなる。大野晋が、日本語のルーツにタミル語を推挙した際にも作用した可能性があろう。
然るに、古代文字の研究者には、原典の出土した国や、周辺地域の古代言語を勉強する必要があるが、遠隔地の言語まで習う必要はない、とのバイアスが働くだろう。(仮に、自分の勉強していない言語が、研究する古代文字の背景言語であると発覚した場合、最先端で研究する資格を失うのも事実)
(2)第二次大戦の歴史問題
20世紀に、古代文字の解読に当たった研究者には、第二次大戦中、枢軸国の暗号解読に携わり、そのため日本語を勉強した経験者も多かった。線文字Bの解読に貢献した、J.チャドウィックもその一人で、キプロスの古代文字と日本語のカナ文字の間には、類似性がある旨指摘している。しかし、それ以上、踏み込もうとはしていない。(出典:Linear B and Related Scripts)
第二次大戦の結果、欧州諸国は、対日戦で多くの犠牲者を出し、またこれがアジアで植民地帝国を失うきっかけとなり、対日感情が大幅に悪化した。然るに、地中海の古代文字に関し、例え日本語の表記システムに似ていても、日本語の可能性を探る空気はなく、終戦後の日本が、1952年4月、サンフランシスコ平和条約が発効するまで、GHQの施政下にあった事もあり、日本語は、古代文字の背景言語の候補から、排除されたに違いない。
然るに、地中海やエーゲ海に関心を向ける日本の考古学者も、時代の空気を察知し、対日感情への配慮から、日本語民族が、同地域にいた事を示す試みには慎重となり、控えた可能性があろう。
(注)第二次大戦中、ギリシャは、枢軸国に占領され、多くの犠牲者が出た。キプロス、またインド、パキスタンは英国の植民地だった。
(3)古代言語のナショナリズム
古代文字とその背景言語の研究する場合、どこの国でも「こうあって欲しい」との心理学が「親は選べないけれど、先祖は選べる」との乗りで働くだろう。この様な心理学は、未解読文字の使用された地域、すなわちギリシャ、キプロスなど地中海東部や、パキスタン・インドでも働くだろうから、「地理的に遠いが、日本語である」と主張し、沢山の根拠を示しても、希望的観測や「我田引水」が働く結果、すぐに受け入れられるとは限らない。
しかし日本人にとって、古代文明で使われた文字が、日本語と解明されれば、有利に働く事が多いのは明白であり、忍耐強く研究を続け、うまく発表していく必要があろう。つまり、日本語を背景言語とする古代文字は、日本人が解明せざるを得ない。戦後、80年も経つのに、海外の研究者に任せているだけでは、古い時代の空気が定着し、いつまでも日本語の可能性が排除されていよう。
最近の常識では、全ての人類は元々、アフリカで発生し、そこからヨーロッパやアジア、オセアニア、そして北米、中南米へと広がった由。言語の発生も同様にアフリカとすれば、同様の経路で、多様化しながら広がった筈であり、斬新な切り口も探るべきだろう。
問2.世界的に見て、日本が文明発祥の地ではないのか?
「縄文人の一派が、大陸に渡航し、インダス河流域に到達して、インダス文明を構築した。しかし紀元前1900年頃、干ばつや水害等の環境変化のため、メソポタミア経由でクレタ島に移住し、ミノア文明を築いたと考えては如何?」
(1)インダス文字が、日本語として読める事が判明してきたので、もし縄文人の一派が、インダス文明を構築したとすれば、そもそも縄文人が、「日本語」あるいは日琉祖語を話していた筈であり、縄文語=日琉祖語との構図が成立する。ついては、その是非につき論じる必要があろう。(例えば日本列島に、漢字以前の文字が存在しなかったとすれば、何故なのか等、説明が求められよう)
(2)インダス文明と古代オリエント
インダス文明が日本語文明であるとすれば、「インダス文明の最盛期は、紀元前2600年-前1900年頃なので、初期のギリシャ語文明たる、ミケーネ文明(前1450年-前1200年頃)より遥かに古い」と言えそうだが、他方、インダス文明は、メソポタミア文明等の恩恵を受けた筈なので、文明発祥地の議論は複雑と言えよう。
(3)クレタ島、キプロス、インダス河流域の古代遺跡から発見された未解読文字につき、全て日本語として解読可能なので、「日本語民族は、日琉祖語の成立した、Zランドから、いくつかの地域に分散し、定住して文明を発達させた。そしてその後、長い年月を経て日本列島に五月雨式に帰還し、再会・糾合した」と推定される。
そして各グループが、次々と日本列島を目指した背景には、先達の日琉祖語の集団が、他民族の支配や干渉を受けずに生活している、との噂が介在しただろう。
(4)従って「日本語民族は、世界の各地で文明を築いたが、元々の出発点は、日本列島」と議論する場合、日本語の成立した『Zランド』は、日本列島であり、日琉祖語の集団が、ここから出発し、戻ってきた、とのブーメラン的な軌跡が想定される。しかし、これでは人類のアフリカ発祥説に基づく通説のラインと異なる点がありそうである。
Zランドに関し、例えば中国等、近隣地域に設定すれば、ブーメランに近い軌跡が想定されるが、インダス文明で日本語を使っていたとすれば、それより遥か西方で、メソポタミア寄りの地域に求めざるを得ない。
(5)古代ギリシャの文化と日本文化
弥生時代以降、古代の日本文化と古代ギリシャの文化を比較すれば、例えば次の通りであり「どちらが古いか」につき簡単に結論は出ないだろう。
(ア)古墳の築造
日本の古墳時代が西暦300年代から始まるのに対し、ギリシャのトロス墳墓(ハチの巣型墳墓)は、紀元前16世紀から前12世紀のミケーネ時代から知られ、ギリシャの方が遥かに古い。日本列島の古墳をもたらしたのが渡来人とすれば、この様な墳墓は、ギリシャ等、西方から日本に伝播したもの。
(イ)埴輪
日本の埴輪に酷似する、テラコッタの人形や動物が、クレタ島やキプロスの古代遺跡から発見されており、クレタ島ではヘラクリオン考古学博物館、キプロスでは、ニコシアのキプロス博物館の展示が有名である。更に、1929年、スウェーデンの発掘隊が、キプロスのアギア・エイリニ(Agia Eirni。紀元前650年~前500年の出土品の多い遺跡)で、2000体ほどの埴輪を発見したが、これらはストックホルムの博物館で展示されている。何れも、弥生時代や古墳時代の埴輪よりも、古いだろう。
(ウ)神話の比較
河合隼雄の論じる様に、日本の神話には、ギリシャ神話と多くの共通点があるが、ギリシャ神話は、古くは紀元前8世紀のホメロス由来とされる叙事詩「イリアス」や「オデュッセイ」に登場し、また前5世紀の歴史家ヘロドトスも論じているので、8世紀の古事記や日本書紀に基づく日本の神話より古いと見られる。
他方、インダス文字の背景言語を日琉祖語に設定すれば、A.パルポラの編纂した、インダスの印章の写真集「Corpus:第1巻 (インド)」に掲載の印章M-7Aは、日本語として解読可能であり、「オデュッセイ」の一場面と判明する。
すなわちオデュッセウスが、美女の顔の怪鳥「セイレーン」の声を聴くため、自分をマストに縛り付け、自分以外は耳栓をするよう、部下に命じる場面である。また印章を横に倒すと、マストに縛り付けられた彼の姿が、漫画として登場する。従ってこの逸話は、ホメロスよりも遥かに古く、インダス文明の時代から語り継がれていた事が窺われる。
この様な事例もあるので、ギリシャと日本では何れの神話が古いか、との議論は、インダス文字の解読により、大前提を見直して考察せざるを得ない。
(6)結論
約1万2千年前に、石器時代の人類が遺したとされるギョベクリ・テペ遺跡が、トルコで発見され、2018年に世界遺産に登録されている。この様な進展に鑑み「日本が文明発祥の地」との命題は、少し限定すべき事が理解できる。
他方、ギョベクリ・テペ遺跡から土器は発見されておらず、世界の土器文明・文化だけで比較すると、青森県津軽半島の大平山元遺跡から出土した土器が、16500年前に遡るので「縄文土器は、世界最古級の土器」と言えよう。更に「日本語民族は、世界各地で、多くの古代文明を築いた」とも議論出来るだろう。
加えて重要なのは、この時代の「常識」には反するが「今も生きる世界の言語の中で、最も古く遡る記録を残すのは、日本語である」との結論だろう。(インダス文字の背景言語が日本語なら、尚更である)
問3.日本語の成立した「Zランド」とは、如何に?
(1)現生人類は、30万年前にアフリカ大陸の大地溝帯で発生し、そこからユーラシア大陸へと拡散した。アフリカ大陸では、エジプトまで北上し、シナイ半島経由でレバント地方へ移動。あるいは「アフリカの角」付近から紅海を渡り、アラビア半島へと移動した筈である。そして更に、アナトリア(トルコ)、地中海東部やメソポタミア(イラク)やペルシャ湾沿岸地域、イラン高原、インダス河流域などへと拡散した。
(2)ニュージーランドの生物学者・統計学者のクエンティン・アトキンソンによれば、言語の音素の平均的な多様性は、アフリカ南西部から離れるにつれて徐々に、着実に減少する。その帰結として、言語は、現生人類が約6万年前、最後にアフリカを離れ、多数の集団に分裂すると共に、音素を次第に減らしながら、地球上に伝播した可能性がある由。
出典:テルモ・ピエバニ、バレリー・ゼトゥン「人類史マップ」(日経ナショナル・ジオグラフィック社。2021年)。
(177頁の図を見ると、世界地図上で、音素の多様性が、帯状に色分けされており、アフリカ南西部で最も豊富。音素の豊富さは、北東に進むにつれて次第に減るが、特にカスピ海東岸とペルシャ湾を結ぶ斜線を越えた後、東方に進むにつれて急激に減り、インド亜大陸の西岸を超える辺りから、最も音素の少ない地帯に入る)
(3)先ず、日本語の祖語として、弥生時代に、水田耕作の稲と共に九州に入り、琉球諸島や日本列島へ広まった「日琉祖語」とし、その誕生地をZランドとする。この集団も、元々、アフリカ大陸から、ユーラシア大陸へ渡った筈である。
但し言語の無い状態から、特定地域で、突然、日本語を使い始める事はないので、Zランドは、あくまでも議論を単純化し、平易にする為の概念である。むしろ日琉祖語を話す集団が、いつ、どこで他言語を話す集団と分岐したのかにつき考察すべきだろう。
(4)Zランドが、アフリカから離れていると想定した場合、アフリカ⇒ Zランド⇒ 日本列島。日本語族は、その途中、様々な地域で足跡を残しており、インダス河流域や地中海東部から、日本語を記した文字が発見されている。
2021年11月、ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心とする中国、日本、韓国、ロシア、NZ、米国を含む国際チームが、言語学、考古学、遺伝学の3分野から検証した結果、日本語を含むトランスユーラシア言語(アルタイ語族)のルーツは、中国東北地方の西遼河の流域で、内モンゴル自治区に住む、キビ・アワ栽培の農耕民だったとして、英科学誌ネイチャーに論文を発表した。従って、西遼河の流域は、Zランド、あるいは日本語族の通過地点の候補地と考えられる。
(5)漢語
クレタ島やキプロス、またインダス河流域から出土する古代文字の原典が、何れも日本語として解読される中で、しばしば「漢語」が登場するが、「日琉祖語の誕生した頃、Zランドに隣接して、中国語の集団が居住していた。そこで両者間の交流・交易や婚姻を通じ、多くの言葉の貸し借りが行われ、極めて早い段階で『漢語』が生まれた」とのラインで説明可能である。
例えばインダスの印章は日本語として解読可能であり、短い縦棒4本が3列に整然と並ぶ記号は、「しさん」(資産)と読む。中国語でも「資産」は、ZICHANであり、共通する。
問4.古代ギリシャの線文字Aやインダス文字が日本語として解読できるとしたら、日本語民族は、如何なる経緯で地理的に分かれたのか?
日本語として解読できる、最も時代の遡る古代文字が、インダス文字であるとすれば、インダス文明を築き、支えたグループは、紀元前1900年頃、気候変動のため生活が困難になり、インダス河流域から移動を余儀なくされたと見られる。その際、幾つかのルートに分かれて移動した可能性があろう。
(ア)北方ルート(チベット方面へ)
インダス文明の遺跡から出土する細長いビーズは、弥生時代の遺跡から発見される管玉に酷似するが、チベットのジービーズに酷似する。またチベット語の数詞は、日本語に酷似。
(イ)南方ルート(南インドへ)
大野晋は、古代の日本語と南インドのタミル語が酷似するとして、「クレオール・タミル語」説を提唱。古代のタミル語民族が、縄文時代の晩期(前1000年頃)までに日本列島に到達し、弥生時代への転換のきっかけとして論じた。その中で、弥生時代の甕棺が、南インドのタミルナード州で発見される、古代の甕棺に酷似する旨指摘。
またインダスの「座る甲冑男」の印章では、登場人物が、両腕に無数の貝の腕輪(貝輪)を付けているが、この様な貝輪は、縄文・弥生・古墳時代にかけて、日本の古代遺跡からも発見されている。
(ウ)地中海ルート(キプロスやクレタ島へ)
インダス文明に先立つ、バロチスタン(パキスタン)のメヘルガル遺跡から出土する土偶は、両目の異常に大きな「女神」等、キプロスの古代遺跡から発見される土偶と酷似するので、文化的な繋がりが感じられる。
またインダスの印章の中には、ギリシャ神話を語る事例があり、例えば印章(M-7A)は、ホメロスの叙事詩「オデュッセイ」中の、女性の姿をした海の怪鳥「セイレーン」の話、また印章(M-8A)は、テーセウスのミノタウロス退治に続く「白い帆と黒い帆」の話を文字と漫画で語っている。従って日本語族が、インダス河流域からキプロスやクレタ島へ移動する前から、これらの地に先行の日本語族が定住し、相互に交易が成立し、文化交流があった可能性があろう。
因みにクレタ島のミノア文明の年表を見ると、インダス文明が衰退期に入る頃、旧宮殿時代が始まり、線文字Aの使用が始まっている。
紀元前3000年~ クレタ島の前宮殿時代(前2600年~1900年 インダス文明の最盛期)
前1900年~ クレタ島の旧宮殿時代(前1800年頃 線文字Aの使用が始まる)
問5.青銅器時代のクレタ島は、現代と異なり、日本列島から想像を絶するほど遠く、ミノア人が日本列島まで到達したとは考えにくい。そもそも彼らは、何故、地中海東部から移動したのか?
(1)古代人の行動半径を過小評価すべきでない
クレタ島と日本列島との間に隔絶感はあろうが、人類は有史以前にアフリカから各大陸に広がった由である。従って次の様な事情や類例もあり、青銅器時代の末期にミノア人がクレタ島から日本列島に渡来した可能性は十分あろう。移動の所要年数を多めに、途中滞在の年数を含め、例えば10年単位で想定すれば達成可能である。
(ア)人類の起源は、東アフリカを南北に走る地溝帯とされている。人類はそこで直立歩行する様になり、北上して地中海東部に近いアフリカ・ユーラシア大陸の接合部分(中近東)を経由してヨーロッパやアジアへと居住地域を広げ、伝播していった。
人類が初めて到達した頃、日本列島は大陸と繋がっていたが、ミノア人は船で日本海を渡る必要があった。しかし先例もあり、渡来が不可能とは思われない。
(イ)ミノア人は、文明圏が地中海東部からエジプト、メソポタミア、更にインダス河流域に至る事を知っていた。
紀元前2900-前1759年、現シリアの内陸でユーフラテス河上流沿いにMARIと言う国があり、大量に発掘された粘土板の記録から、紀元前18世紀当時のアフガニスタンからクレタ島に至る交易ルートの存在が確認され、銅に錫を混ぜて青銅を作る必要からクレタ島でもアフガニスタン産の錫の需要があったと推測される。またアフガニスタン産のラピスラズリを使った装飾品がメソポタミアから発見されている。
(ウ) 紀元前2000年頃、インド・ヨーロッパ語族のアーリア人は原住地の黒海北方から移動・拡散を開始し、このうち東方に向かった一部が前1500年頃、インダス河流域まで到達した由。
中国と西域を結ぶ楼蘭で発見された女性のミイラ「楼蘭の美女」は、炭素14による年代測定の結果、紀元前1800年前後の古代人と推定されており、当時から東西を結ぶルートが存在した可能性があろう。なお「シルクロード」は、漢の武帝が、張騫を大月氏に送った紀元前130年頃に成立し、紀元1世紀には、ローマから中国に至る東西交易が盛んだった由。
時代は下るが、マルコ・ポーロが、ヴェネチアから大都(元の都。今の北京)まで4年(1271年~1275年)、帰路にやはり4年(1291年~1295年)かけて旅している。
(2)移動のきっかけ
下記経緯から、ミノア人は地中海東部地域を離れ、新天地を求めてクレタ島から脱出した。彼らは移動に際し、親近感の持てる土地を探したが、星座を含む天体の動き、気候や環境・植生が重要であり、大きな規定要因が緯度だった。そこでクレタ島と同様、海岸に面した北緯35~36度の土地を求め続けた。
(ア)テラ/サントリ-ニ島の火山大爆発
この大爆発の起きた年代が問題となるが、放射性炭素による年代測定の結果が、エジプトの考古学等、他の方法による推定年代と比べて100年ほど早く、議論の対象となってきたが、最近では青銅器時代の晩期、後期ミノア(LM IA)時代の紀元前1600年前後が有力視されている。
因みに中国の魏の時代に編纂された「竹書紀年」によれば、夏が滅び、殷が勃興する頃、「黄色い霧、暗めの太陽、次いで3つの太陽、7月の霜、飢饉、五穀全てがしおれる」との異常気象が起きており、火山爆発に原因を求める説がある由。紀元前1450年には、クノッソスから線文字Aが消えて線文字B(古代ギリシャ語)に替わっている。
(イ)ミケーネ人のクレタ島支配
紀元前1450年頃から、日本語の祖語を記録する線文字Aが消え、古代ギリシャ語を記録する線文字Bに代替されたので、ミケーネ人がクレタ島を支配したものと見られる。従って異民族支配を嫌い、クレタ島を脱出したミノア人もいただろうし、留まる選択をした場合は、ミケーネ人に協力した筈である。
因みにクノッソス宮殿から、二匹のヘビを持ち、頭上にネコのいる女神像や、三匹のヘビの絡む女神像が発見されているが、ヘビ(巳)はミケーネの象徴で、しかも頭上のネコをミケ猫と考えれば、ミケーネに虐げられた、ミノア人の姿を象徴していよう。しかもミケーネ人に対して「伝統的な女神」だと言って「ネコを被る」事が出来る様になっている。
クノッソス宮殿の壁画には「牛跳び」(bull leaping)のシーンが描かれ、ミノア人の競技として有名だが、スペインやポルトガルには、これと酷似するレコルタド(recortado)と呼ばれる伝統的な競技があり、ミノア人が古代に移民した形跡と見られる。ミケーネ人から逃げる事が目的なら、地中海沿岸では西方移動も十分考えらよう。
(ウ)クノッソス宮殿の最終的な破壊(紀元前1350年頃)
(エ)青銅器文明の同時崩壊
(a)紀元前1200年頃、地中海東部では「海の民」が襲来し、ミケーネ、トロイ、ヒッタイト、キプロス等、青銅器文明の同時崩壊をもたらし、その後、100年単位で記録が作成されなくなったとされる。原因として干ばつ、飢饉、地震、「海の民」の襲来等が挙げられているが、加えて疫病の流行の可能性もあろう。
「海の民」には、ミノア系など日本語民族が参加していた。彼らは、エジプトで敗れ、レバント地方に移住させられたが、聖書で「ペリシテ人」として描かれている。そこでヘブライ語から多くの単語が日本語に入り、逆の現象も起きた。
(b)エジプトのMedinet Habu遺跡のラムセス3世神殿の壁画に、エジプトに襲来した「海の民」を撃退する様子が描かれ、紀元前1177年頃と推定されている。「海の民」は多民族構成と見られ、ミケーネ風の兜を被ったグループも含まれ、このうちTjeker及びPelesetはクレタ島出身と見られている。
ラムセス3世は、撃退した「海の民」をレバント地方に移住させた由。旧約聖書はユダヤ人と対峙した「ペリシテ人」に関し、カフトル(クレタ島)から渡来したと記述。これが「海の民」の中のPelesetと推測されている。
「海の民」に関しては、外来のグループがクレタ島に襲来し、多くのミノア人やミケーネ人を殺戮し、避難民として逃亡させ、クノッソス宮殿を破壊した可能性があろう。他方、飢饉等に見舞われてクレタ島の住民が「海の民」に参加した可能性も排除されない。
(オ)新バビロニア(ネブカドネザル II世)
レバント地方でユダヤ人と対峙していたペリシテ人は、紀元前8世紀半ば、新アッシリア帝国に従う様になった。しかし帝国の一部から新バビロニアが勃興、新アッシリアを征服した。ペリシテ人が、この新バビロニアの支配に反旗を翻すと、紀元前604年、新バビロニアのネブカドネザル II世に征服され、国を失った。(ユダヤ人は同王に征服され、バビロン捕囚へ)紀元前5世紀末以降、ペリシテ人の記録は残されておらず、大規模に移動した可能性があろう。
弥生時代中期以降の墳丘墓から出土する、壺、甕、皿などの器物を載せる特殊器台や特殊壺は、ペリシテ人の拠点とされる、イスラエルのAshdod等から出土する、香を焚く皿や、それを載せる器台と酷似する。仮にペリシテ人が日本語民族ならば、この征服(紀元前604年)をきっかけに移動し、弥生時代に日本列島に到達した可能性があろう。
(注)「日ユダヤ同祖論」の根拠として、日本語とヘブライ語の多数の類似の語彙(ソーラ、ダマレ、ドシン、ノコッタ、ハッケヨイ等)、またモーゼの十戒を収めた「契約の箱」を運ぶ器が、神輿に酷似する等の点が挙げられている。
もし日本語民族が暫くレバント地方に滞在し、ユダヤ人と交流・交易したならば、国際結婚の事例も多かったと推察され、ヘブライ語/日本語の言葉が、日本語/ヘブライ語に多数流入して定着し、相互の風俗習慣に類似性が生じても不思議ではない。
今のユダヤ教徒ならば、世界のどこに移動しても、一神教たるユダヤ教に強くこだわり、移動先で多神教に組みする事は考えにくいが、例えば、北イスラエル王国を構成した10支族については、ヤハウェに加え、レバント地方の土着の神々を取り入れたと言われる。
しかし仮に、ヘブライ人の一部が、ペリシテ人と行動を共にし、日本列島に渡来したとしても、日本では豚肉を忌避しない事から見ても、ペリシテ人にすっかり同化しただろう。
問6.キプロスにいた日本語族に関し、東方移動のきっかけ如何?
キプロス音節文字が、紀元前4世紀まで使われ、ギリシャ語と共に「キプロス祖語」(日本語)を記録するのに用いられた事から、日本語族が、その時代まで、特にキプロスの南岸、アマサスに残っていた事が窺われる。彼等は、アケメネス朝ペルシャへの忠誠心が強く、ペルシャに対する反乱が起きた際も、加わる事を拒んだ。
しかし紀元前330年、アレクサンドロス大王の東征により、アケメネス朝ペルシャは滅亡した。そしてアレクサンドロス大王の死後(前323年~)、ヘレニズムの時代に入ると、キプロスは、エジプト(プトレマイオス朝)の領域となった。そしてギリシャ語 (コイネー)を含め、ギリシャ文化が広がる中で、キプロス音節文字は失われ、ギリシャ文字が残った。
この時代に、日本語族は、キプロスを離れ、東方移動したに違いない。そして、ヘレニズム世界の東方、セレウコス朝の領域から、更に東方のチベット高原や南インド方面を目指し、移動したのだろう。
この後、ローマが地中海東部を制圧し、クレタ島(前67年)やキプロス(前58年)を属州として併合。エジプトの女王クレオパトラは、紀元前30年にローマと戦って敗れ、これがヘレニズム終焉の節目とされる。紀元4世紀には、ローマの支配する領域で、キリスト教が国家的な宗教となり、他の宗教が弾圧された。
(ア)ペルシャの滅亡とヘレニズム
アケメネス朝ペルシャ(紀元前550年~前330年)は、中央集権制だったが、寛容な帝国支配が行われ、貢納と軍役を果たせば、被征服民の伝統や言語が尊重された。
因みに「Murasu」文書(1893年、イラクのNippurで発見)には、アケメネス朝ペルシャの時代(紀元前400年代)の、Murasu一家の農業取引に関し、バビロニア語(楔形文字)で記録されているが、Harima、Tubyama、Abi、Mari、Nuri、Hannatani等の単語が登場し、日本語族が、ペルシャの領域にもいた事が窺われる。
しかしマケドニア王アレクサンドロス(前356-前323)は、このペルシャを征服し、更に東に進み、アフガニスタンまで広がる大帝国を築いた。これは彼の死後、ヘレニズム諸国に分裂したが、この領域ではギリシャ語が使われ、ギリシャ人の入植が奨励され、ギリシャ文化圏が大きく拡大した。キプロスでは「キプロス祖語」(日本語)やフェニキア語が消えた。従ってこの時代に、日本語族がキプロスから脱出し、移動した可能性があり、キプロス音節文字の喪失自体、その兆候と言えよう。
(イ)ローマの支配
紀元前67年、ローマが地中海東部の海賊を制圧し、クレタ島を属州に併合。ローマの支配下では、紀元313年、ミラノの勅令により、キリスト教が容認され、他の宗教の弾圧が始まった。キリスト教は、380年に、ローマの国家的な宗教となり、テオドシウス帝は391-392に一連の布告を出して他の宗教を弾圧した。この中で日本語族が、独自の多神教を崇拝していたとすれば、自らの信仰を守るためにも、ローマ帝国の領域から脱出する事を企て、実行に移しただろう。
問7.ギリシャ系やキプロス系の日本語族は、いつ頃、日本列島に到達したのか?
斎藤成也は「日本人の源流」(河出書房新社。2017年)の中で、日本人のDNAのY染色体の分析を踏まえ、3段階渡来モデル(3つの波)説を提唱した。第1波の渡来民が約4万年前~約4400年前(旧石器時代から縄文中期まで)、第2波が約4400年前~約3000年前(縄文時代の後期と晩期)、第3波が約3000年前~約1700年前(弥生時代)に渡来。
このうち日本語の祖語をもたらしたのは第2波の渡来民「海の民」であり、九州北部から中国四国地方に広まっていった。そして第2波「海の民」は、第1波よりも第3波の渡来民に近いとの考え方を披露している。この「3つの波」説に沿って考えれば、次の通り。
(1)弥生時代の遺跡から、中国「新」王朝の貨幣が出土し、紀元前1世紀から西暦1世紀にかけて、九州の甕棺墓から出土する鏡に、日本語族の神話「北のタコ」の図柄の「内行花文鏡」が含まれる事に鑑み、第3波は、中国の「新」の時代の前後と推定される。
安本美典は「日本民族の誕生」(2013年)(248頁)で、服部四郎が「日本言語の系統」で「琉球諸方言を含む、現代日本語方言の言語的核心部の源となった日本祖語は、紀元前後に北九州に栄えた弥生式文化の言語ではないか。そして紀元二、三世紀の頃、北九州から大和や琉球へかなり大きな住民移動があったのではないか」と述べた旨紹介し、大略において支持する旨言及している。
(2)魏志倭人伝によれば、2世紀後半には倭に内乱が続き、邪馬台国の女王、卑弥呼が29の小国を支配する様になった。この内乱が、キプロス系とギリシャ系の確執による場合、両者とも、それ以前に渡来しており、両者を合わせて第3波と位置づけられよう。
(3)銅鐸(弥生時代)を上下、逆さまにすると、新羅風の王冠を被る人物の頭に酷似する。特に鐘の部分が、両目から上へと、シルクハット状に伸びるが、太い縞模様が「王」あるいは「出」の字型に走り、新羅(前57-935年)の「出の字」型の冠に通じる。従って新羅からの渡来も想定されよう。
紀元300年頃から古墳時代に入るが、古墳は、ギリシャのミケーネ時代の墳墓(Tholos tomb)に由来する文化だろう。
(関係年表)
前492-449年 ペルシャ戦争。
前334-前323年 マケドニアの大王アレクサンドロスによる東方遠征。(その後、ヘレニズム時代)
前57年 新羅の成立。
前30年 クレオパトラの死。(ヘレニズム時代の終焉→ ローマによる支配)
西暦8年-23年 中国の「新」王朝(貨幣が弥生時代の遺跡から出土)
⇒ ギリシャ系/キプロス系の渡来は、この時代の前後。
37年 後漢の成立。
57年 倭の奴国王、後漢の光武帝より「漢倭奴国王」の金印を賜る。
2世紀後半 倭国大乱の時代。
239年 邪馬台国の女王卑弥呼、魏の都に使いを送る。
346年 百済の近肖古王、即位。(中央集権的国家の成立)
350年頃 古墳時代の幕開け。
384年 百済に仏教伝来。
(4)渡来のルートに関し、中国と西域を結ぶ西域南道の楼蘭で発見された女性のミイラ「楼蘭の美女」は、炭素14による年代測定の結果、紀元前1800年前後の古代人と推定されており、既にその頃から東西を結ぶ経路があった可能性があろう
シルクロードは、漢の武帝が、匈奴対策で連携を呼びかけるべく、張騫を大月氏に送った紀元前130年頃に成立した由。また「詳説 世界史B」(山川出版社。2019年)では、次の通り、紀元1世紀には、ローマから中国に至る東西交易が盛んだった旨記述している。
「インドと西方との交易は、ローマの発展に呼応してギリシャ系商人が活動を始める1世紀頃から盛んであった。同じ頃、インドと東方の中国を結ぶ航路もひらけていた」
仮に第3波の移動・渡来が、中国「新」王朝の前後ならば、東西を結ぶルートとして、この様なルートを辿れば良かった筈である。
(5)その後、仏教の尊重と共に、殺生禁断思想が広まり、牛馬を生贄とする習慣も変容を迫られたが、渡来人や帰化人の生活習慣を意識したのだろう。
(飛鳥時代)
603年 聖徳太子、冠位12階を取り入れる。(紫が最高位の色)
604年 十七条の憲法(仏教の尊重)。
600年 第1回遣隋使の派遣。
645年 大化の改新。
663年 百済、滅亡。
668年 高句麗、滅亡。
672年 壬申の乱。(大海人皇子、天武天皇に)
675年 天武天皇、牛、馬、犬、猿、鶏の肉食を禁じる。(日本書紀。天武天皇4年4月17日条)
701年 大宝律令。
(奈良時代)
710年 奈良に平城京がつくられた。
791年 殺牛祭神が禁じられた。(続日本紀)
935年 新羅の滅亡。
(出典)平林章仁「神々と肉食の古代史」(吉川弘文館。2007年第1刷)
(参考)古典ギリシャ語より
έταιρεία : companionship, association, brotherhood
έταϊρος : a comrade, companion, mate
(6)「3つの波」説との対応
(ア)第3波には、地中海東部の青銅器文化を受け継ぐ、キプロス系やギリシャ系が該当し、第2波と同様、日本語の祖語を話しただろう。
(イ)日本列島に初めて日本語の祖語を伝えたとされる、第2波「海の民」は、水田耕作や弥生式土器を伝え、縄文・弥生の時代転換のきっかけを作った。ここで弥生式土器まで勘案すると、精巧な土器製作の経験者たる、インダス文明の派生グループの可能性が高いだろう。
(ウ)「3つの波」説は、古代史の流れを大きく捉えるために単純化されており、実際は各時代に、様々なグループが五月雨式に渡来したと考えられる。
(7)金沢大学等のチームが取り纏め、2021年9月、米科学誌「サイエンス・アドバンシズ」(Science Advances)に掲載された論文「Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations」によれば、縄文人や古墳人など古代人12体のDNAを解析し、弥生人のデータ等と比較した結果、古墳時代のDNAが現代人に近い。このため大陸からの集団の渡来は、縄文時代と弥生時代に加え、古墳時代の文化をもたらした第3の集団の渡来があり、それ以降は少なかったと推測される由。但し古墳時代のDNAサンプルが3体と少ないので、更なる検証が必要。
問8.古代の日本語族が、中国に滞在した形跡はあるのか?
(1)稲作に着目すれば、その起源は、インドのアッサム地方から中国の雲南省にかけてとの説が有力で、中国の長江(揚子江)中流の遺跡から、約6500年前の水田跡や灌漑設備が発見されている。
他方、九州の遺跡から、約3000年前の稲作の痕跡が発見された由で、日琉祖語は、稲作と共に大陸から日本列島に伝来したとされ、古代の日本語族は、渡来前に、中国などで水田耕作の経験を積んだと考えられる。
(2)古代の日本語族は、インダス河流域や地中海東部で文明を築いているが、インド亜大陸では、早くから稲作を経験していよう。
稲作をもたらした弥生人は、骨格の特徴から長身で面長、彫りが浅く、鼻が低いが、原因は「北方適応」とされ、中国から日本への経路には諸説ある。
(3)日本語族は、中国の殷王朝で、東・西・南・北や12支の漢字を考案し、シャーマンの役割を果たした形跡がある。紀元前1050年頃、殷が滅亡し周が覇権を掌握した後、この日本語族については不明だが、時期は日本の縄文晩期で、ちょうど稲作の始まる時代。「彼らは、殷の滅亡を機に、周を逃れて渡来し、稲作をもたらした」とも観測できようが、他方、漢字の伝来は、その後、千年経過した1世紀頃とされるので、単純ではなかろう。
(4)「万葉仮名」として使用された漢字の読み方は「呉音」と呼ばれ、5~6世紀頃に伝わった最古の漢字音とされる。他方、これは南方の中国語の発音と関係が深く、今の福建省の方言と似ている。然るに、この時代、中国から大量に移民が渡来したとすれば、福健省を含む南方から、とも考えられる。
(関係の年表)
紀元前3000年~ クレタ島の前宮殿時代
前1900年~ 旧宮殿時代
前1800年 線文字Aの使用が始まる。
前1700年~ 新宮殿時代
前1600年 テラ/サントリ-ニ島で火山の大爆発。
〇 前1500年 殷王朝の建国。
前1450~ 最終宮殿時代(ミケーネ時代)。線文字AからBへ移行。
クノッソス以外の宮殿が破壊される。
前1400年~ 殷代後期(12支など、甲骨文字の記録 ←日本語族の貢献)
前1350年 クノッソス宮殿が最終的に破壊される。
前1050年頃 周王朝の建国。
前1000年~ 弥生時代の始まり(早めに見積もった場合)
(偽書との見方はあるも)契丹古伝によれば、日本に住む民族は、殷王朝の担い手と同じ民族の由。
問9.日本列島に渡来した日本語グループの中に、インダス文明を伝える者は、いたのか?
インダス文字が日本語として解読出来るので、ミノア文明よりも遥かに古いインダス文明でも日本語を話していた事になる。因みにインダス文明は、紀元前2600~前1900年頃に栄え、その後、衰退。紀元前1500年頃にはアーリア人がインド北部から侵入したが、この頃には、既に滅亡していた由。
(1)インダス文明の神話では、「北のタコ」が8本の足で天空を包み込み、北極星を中心に旋回させる。また人が死ぬと、その魂が、宇宙船の様な「北のタコ」の一部になる模様で、「北のタコ」をテーマとした印章が散見される。
ミノア文明でも、タコは壺のデザインに好んで用いられ、ミケーネ文明においてタコは権威の象徴だった。日本でも、8は縁起の良い聖数とされ、ヤマタノオロチ、ヤタガラス、八幡様、八紘一宇等、多用されるが、元を質せばタコの足が8本である事に由来し、インダス文明の神話が源流だろう。
また奈良県の弥生時代の「唐古・鍵遺跡」には、絵画土器の図から復元した楼閣が池の畔にあり、屋根の四隅が、巨匠ダリの口髭の様にスパイラルに伸びているが、おそらく(北の)タコを表現したもの。
(2)七福神は、基本的にインド由来の神々とされるが、中でも弁財天は、ヒンドゥー教の女神サラスヴァティー由来で、もともとインダス文明の栄えた地域の主要な河川で、伝説的なサラスヴァティー河を神格化したもの。
インダスの印章で、モヘンジョ・ダロ出土のA.パルポラ(第2巻:パキスタン)の14頁に掲載の M-631Aには、同河を指す「サラタワチ」との文字列が読み取れ、この河を船で渡り、対岸の古都コート・ディジーを訪問する観光旅行が謳われている。従って弁財天は、インダス文明の由来として、日本語族から伝わった可能性があろう。
また四国讃岐で信仰される金毘羅は、インダス河のワニ信仰まで遡るとされる。
(3)大野晋の指摘する様に、弥生時代の甕棺は、南インドのタミルナード州の古代の甕棺と酷似する。またモヘンジョ・ダロ出土のインダスの印章(四大文明展:336)の、台座に座る甲冑男は、両腕に無数の貝の腕輪(貝輪)を付けているが、この様な貝輪は、日本で縄文・弥生・古墳時代の遺跡から発見されている。従ってインダス文明を築いたグループの末裔が、南インドから「南方ルート」で渡来した可能性があろう。
(4)他方、弥生人は、長身で面長、彫りが浅く、鼻が低いので「北方適応」している由。チベットや中国に暫く滞在し「北方ルート」で渡来していよう。
因みにチベット語では、数詞に限り、tyii、nyii、sum、syi等、日本語の「いち、に、さん……」の体系に酷似する。またインドシナ半島や中国の山岳民族のうち、ラフ族、アカ族、リス族の言葉では、やはり数詞が「いち、に、さん……」に酷似し、しかも文の構造が、SOVで日本語と一致。これらの言葉は、チベット・ビルマ族に分類される由。
(出典)戸部実之「タイ山岳民俗言語入門」(泰流社。1994年)
(5)大野晋は、南インドのタミル語と日本語に、顕著な類似性があるとして、古代の日本語と南インドやスリランカのタミル語に関し、文法(膠着語、SOVの語順など)や語彙の共通点につき論じた。単語について例示すれば次の通り。
(概念) (タミル語) (日本語) (朝鮮語)
畠 pat-ukar fat-ake pat
稲 nel ni ni
田んぼ tamp-al tamb-o
因みにYouTubeでは、日本語とタミル語では、音声と意味の一致する単語が多いとして、次の様な例が挙げられている。
居る iru
いない illai (誰もいない:Yarume illai)
下さい kadunga
聴く kelu
兄 anna (兄貴、いるかな:Anna irukane)
あり得ない arumai
名前 naman
辛い karam
くるくる kirukiru
来て kitte
タミル語など南インドのドラヴィダ系言語には、敬語があり、これも日本語との共通点。例えばタミル語で「antar」は「you」の丁寧形で、英語の「sir」や「madam」に相当する由。
(注)タミル語については、韓国語とも共通の単語が多く、その数は100から500とされる。因みに約2000年前、南インドの王女が、伽耶の王妃・許黄玉として嫁いで来た旨、「三国遺事」に記録されている由。
問10.何故、インダス文字や線文字Aは日本で発見されないのか?
(1)インダス文字等、古代文字の痕跡は疎らであり、良く探さないと見つからないが、その理由は、次の通り。
(ア)インダス河流域であれ、地中海東部であれ、出発地から日本列島までの民族移動の旅路は長く、陸路、海路の両方を想定し、携行荷物を最小限にした。従って必需品だけ持ち、残りは置いていった。当時の文字記録には、粘土板、石器、金属器、木片、パピルス等が用いられただろうが、不必要な重い物は持たず、携行した軽い物は簡単に消耗しただろう。
日本列島まで到達した場合でも、長い旅路は思い出したくない苦労や犠牲を伴い、文化程度は地に落ちた。その後、日本列島になじむのに夢中になり、先住民との関係もあり、目立つ様な形(石器、金属器等)で文字記録を残す事をやめてしまった。その中で古代文字の記憶が薄れていった。
(イ)インダス文字も線文字Aも、日本語の筆記システムとして問題が多過ぎたので、廃棄せざるを得なかった。しかもハイテク文字として漢字が開発されたため、これを用いる様になった。
〇 インダス文字や線文字Aの大きな問題は、表音文字が中心で、漢字の様な表意文字が十分発達していない事だった。日本語に同音異義語が多く、また古代では、句読点が不十分なため、一つの文章が幾通りにも解釈可能だった。このため文脈の確定には、漫画などの補助手段を動員した。
〇 インダスの印章には、印鑑、身分証明書、通行証等の役割があった。然るに、個々の記号には「め」/「ま」等、多様な読み方があり、個性的な合成記号が多く、また表意文字が殆んどないので、文脈を確定させ、正確に読むまで時間を要した。これは、持ち主を盗難や偽物詐欺から守るには便利だったが、読み手に正確・迅速に情報を伝える上では不便だった。このため日本語民族が、インダス河流域を離れた後、インダス文字は廃棄されたのだろう。
〇 線文字A/キプロス音節文字では、記号の読み方が統一され、インダス文字の問題点が一つ、解消されている。しかし表意文字や句読点は、相変わらず不十分で、しかも「・」でスペースと労力を節約し、「い・や・し・の」で補う「癒しの」ルールが残った。
(ウ)これらの古代文字は、平仮名だけのシステムと同様、読み方に多様性があり、曖昧さを排除し、正確を来たすのが困難で、実際的でなかった。掛詞を多用する余興向きで、農業・漁業・鉱工業、数学・天文学・医学等の学問、また政治向きの内容等の実際的な分野では、不便だった。伝承では不十分な、細かな知識や技術が各分野で蓄積し、正確に残す必要性が増す中で、実用性不十分となった。
(2)多くの漢字に、日本語やギリシャ語、あるいは日本語を表す古代文字の痕跡が見られる。
(ア) インダス文字
インダス文字では「目」や「木」の記号につき、今の日本語と同様に読み換える習慣があった。この事からも、インダス文字を経験した日本語グループが、中国で漢字の開発に貢献し、日本列島に渡来したと推測される。
(a)日本語には、都合に合わせて漢字を読み換える習慣があるが、インダス文字でも、「目」の形の記号には「め」/「ま」、「木」の形には「き」/「こ」、梨の形/三角形には「な」/「ね」の音価が適合する。逆に、インダス文字では「め」/「ま」等の音価ペアに関し、音価の独立した記号は見当たらない。
(b)神社に見られる、ハート型の魔除け「猪の目」は、インダス文字の痕跡と考えられる。その理由は、インダス文字には、逆さハート形の記号があり、同じ音価を付与し、「いのめ」/「いのま」の音価が適合するからである。
(注) 平仮名の古い筆記法では、文末近くに拗音が来る場合、「しう」(しゅう)、「せう」(しょう)等と表記する点で、インダス文字の表記法と酷似する。
(イ)線文字A/ キプロス音節文字
(a)線文字AでO(*61)は、真珠貝の中から真珠を採取する様子を描いた形である。貝殻の右上に描かれた印は真珠であり「貝から派生するもの」を指すだろう。従って形状・意味合い、両者相俟って「乃」の字源と考えられる。(訓読みでOSAMU、音読みではNAIと発音する)
(b)線文字Aには概念を表す記号も存在し、漢字風に他の記号と組み合わせて合成記号が作られる。例えば*131aはワインを表すとされており、多数の合成記号(A590~597)が知られている。この方法論が漢字に応用され、酒が簡略化されて酒へんとなり、酔、酢等の漢字が生まれた。
(c)線文字Aの記号を合成した漢字の例として東西南北が挙げられる。例えばSI-KA-TIと記号を組み合わせて山から陽の昇る姿を描いたのが「東」、NI-SIあるいは2つのSIを組み合わせて山に陽の沈む姿を描いたのが「西」。
問11.この他、日本語族が、インダス河流域等から大量に東方移動したとすれば、その経路に遺された痕跡、如何。
(1)インダス文明の神話では、「北のタコ」が、北極星を中心に天空を旋回させている、とされた。この思想は、インドや東南アジアのストゥーパやパゴダの建築等に反映されている。(「北のタコの伝播」に詳述)
(2)中国・雲南省のワ族
雲南省の少数民族自治区のワ族に関しては、その昔、メコン河を遡ってその地域に定住し、Cangyuan(滄源)の自治区で発見された岩絵は、3500年前のもので、ワ族由来とされる。然るに次の通り、彼らが、インダス文明を築いた民族の末裔で、倭族と関連する可能性があろう。
(ア)インダスの印章で、A. パルポラの「Corpus」第2巻に掲載の M-181Abisは、「座る甲冑男」の印章(モヘンジョ・ダロ出土)。台の上で股を開いて座る「甲冑男」が描かれ、その頭上に、上部で3方向の矢に分かれる飾りがある。文字列を右から左へ読むと「ウニタ氏・三族、ワニ/錨の、県/圏」と読めるが、「ワニ」は倭人と解釈可能。
(イ)ワ族は、自らをAWAと呼ぶ由。彼等には、水牛を生贄に捧げ、角の突き出た頭骨を木の幹などに吊るし、目立つ場所に飾る風習があるが、インダスの印章M-304A やM-1181Aには、座る首長らしき人物が登場するが、その背後には、水牛の頭骨らしき飾りが置かれている。
(ウ)公共の広場の入り口には、鳥居が置かれる。伝統的な住居は、多くの場合、高床式。三角屋根の上には、神社の「千木」と酷似する飾りがあるが、やはり水牛の角を象徴するのだろう。
公共の広場には、船のマストの様な高い柱が建てられ、電信柱状の上部に、鳥の模型がとまる。大昔、大洪水があり、ワ族の首長が船で一族を救ったとの伝説で、その事を記念する由。
(エ)お歯黒の習慣があり、これはインダスの印章にも言及されている。家族が、女系と見られる。
(オ)ワ族の音楽には、日本的な響きがあり、特に太鼓のリズムは、和太鼓に酷似する。踊りは、皆で一斉に同じ動作をする「盆踊り」風である。
太鼓は、木の素材で、丸木舟の一部の様な形である。このため大木を山で切り出し、村まで運ぶ行事が祭りとなっており、諏訪の御柱祭りに良く似ている。
(カ)ワ族の女性のスカートは、横縞模様であり、典型的には二色で、一色は黒、加えて黄色か赤が多い。このデザインは、クレタ島のクノッソス宮殿のフレスコ画に描かれた婦人のスカートに典型的であり、ヘビを両手に持つSnake Goddessのスカートも横縞模様である。
(キ)ワ族には、赤子を背負う習慣があり、日本でも同様である。因みにクレタ島のミノア文明で使われた線文字Aには、横縞模様のスカートの女性が、赤子を背負う姿の記号(AB100/AB102)もあり、赤子を背負う習慣があったと推測される。