#04 炎と血
「ごめんなさい、ベイリル……本当にごめんね──でも、必ず戻ってくる。絶対に帰ってくるから、それまで待っていて」
それが──"最後に聞いた母の言葉"だった。
深く被ったフードで涙を覆い隠しているのが明らかで……震える声で絞り出されたその言の葉。
何か事情があることは明白で、俺はその尋常ならざる様子に、聞き返すことができなかった。
振り返ることなく目の前から去る母の双眸には、何か使命のようなものを――強く、深く、宿していた。
見捨てられたとは思っていない、変わらず愛してくれていたことは理解できている。
ただ息子であった自分と同等か、それ以上の理由があったからこそヴェリリアは集落を出たのだと……。
◆
「っ――ぐぁ、ゴホッ……うぅ、ぅぁああガアアアアッ!!」
夢から覚めて意識を取り戻した俺は、咳き込みながら反射的にわけもわからず混濁した状態で叫んでいた。
そして大きく息を吸い込んだところで熱気が肺を満たし、ようやくわずかに意識が明瞭になったところで困惑する。
「なっ……あ、なんだこりゃ――」
眼に映ったのは赤色と赤色だった。
"血"溜まりの上に俺の足が浸かっていて、服には鮮血が滲んでいる。
思わずバッと体中を触って自分の状態を確認するが、さしあたって擦過傷くらいで怪我らしい怪我はない。
この血が俺の血じゃなかったことに、とりあえず安堵する。
(いや安心してもいられない……)
血ではないもう一つの赤色が、視界を埋め尽くしているのだから。
動画などとは違う、現実の"炎"を瞳に映しながら――
聴覚も戻ってきたのか、燃えて崩れる音と、喉が枯れんばかりの怒号や痛烈な悲鳴が聞こえてくる。
対岸の火事であったなら、どれだけ良かっただろうか。
しかし熱さと息苦しさは、明晰夢でもない紛れもない本物だった。
もしも地獄というものがあれば……きっとこの光景はその一つなのだろうかなどと、頭のどこかで──上の空な心地で考える。
(いや、あぁそうだ……)
――少しずつ思い出す。
唐突だった。あまりにも突然だった。完全な不意打ちであると言えた。
母の欠けた俺の生きている世界は……脆くも、粉々と言えるほどに崩れ去った。
いつものように朝に起床し、フラウを迎えに行こうとして家を出て――いきなり爆発音と衝撃波に襲われ、たちまち炎に焼かれたような気がする。
「フラウ……探さ、ないと。おばさんやおじさんは無事なのか――それにラディーアも、どこかで……」
母がいなくなってから一人になった俺は、リーネ家の支援を受けつつ──子供には広すぎる家での、1人暮らしに慣れていった。
ヴェリリアの目的も行方も誰も知らない。便りが無いのは良い便り、などとは露ほどにも思わなかった。
だからと言って、自立して世界へと旅立つにはまだまだ力のない子供だった。
いまいち身の振り方を決められないまま、新たな変わらぬ日々を送りながら……今この瞬間、死中に活を見出そうと足掻いている。
「っはァ……ふゥ……――」
不完全燃焼によって生じた一酸化炭素を取り込まないよう姿勢を低くし、炎から逃げるように移動する。
もしも屋内で遭遇していたなら、たちまち命が失われてたに違いない。
亜人の住むここ【アイヘル】の集落は、広い森の中に作られたような立地である。
ひとたび山火事となってしまえば、その被害は拡大し続け、たちまち逃げ場も喪失してしまう。
「うぅ……くっ、そ――」
体温調節が効いている気がしないし、まともな呼吸にも喘ぐ状況。
俺の異世界人生はこんな場所で、こんな形で終焉を迎えてしまうのかと……自然と零れてきた涙は、熱によってすぐに乾いてしまう。
(また、死ぬのか……俺は)
そもそも前世で死んでいたかどうかもわからないが、今ここで死んだらまたどこかに転生できるのだろうか。
果たして転生できたとしてもまた人型であるのか、それとも動物か虫か草花か。
あるいは今度こそ死んで無となるか、便宜的に魂と呼ばれるものが異次元を彷徨いはしないか、などと恐ろしい想像すら浮かんでくる。
「ッあ──うっ」
朦朧としてきた意識と、煙に巻かれた状況で俺は何かに引っかかってしまい、転んで膝をつく。
思わず視線を向けるとそこには、胴体が真っ二つにされて焼け焦げた死体と……寄り添うように炭化しボロボロになった死体があった。
「死にたく、ない……」
心の底から出た言葉だった。己の無力さを痛感する。
人生においてこれほど間近に死を感じたことはなく、同時に考えさせられるようなこともなかった。
前世の現代地球においても、どこかの国では直面していた悲劇の一つだったに違いない。
少なくとも自分の周りは平和だった日本では無縁、自覚することなく他人事だった理不尽と不幸が自身に降り掛かって初めて認識できた。
五体満足健康のありがたみを、病気や骨折などをして理解できるように……死を目の当たりにして、生というものをようやく実感できる。
自分の命も守れず、幼馴染を見つけることもできず、何もできないまま燃え尽きるのか。
新たに得た人生──何一つ成せず、為そうともしないまま──ただただ果てるのか。
「否だ。まだ何も見てない、何も試せてないんだ……諦めてたまるか」
立ち上がろうとした、その時だった。
俺の首根っこが掴まれたかと思うと、そのままズリズリと引きずられる
「……!? ラディーア、よかった無事だったか」
顔を上げると、暗い桃色髪がそばかすが顔に残る鬼人族の少女がいた。
俺はグッと力を入れて自らの足で立ち、少しだけ楽になった気持ちで無理して笑みを作る。
「わざわざ探しにきた……のか?」
「うん別に、どうしてるかなって思っただけ。わたし、親いないし」
「孤児院のほうは……?」
「もう無い。わたしはなんとかまぬがれた。フラウは?」
「わからない、探すのを手伝ってくれるか?」
母ヴェリリアがいなくなって、より身近でかけがえのない存在となった幼馴染を見つけなくちゃならない。
「聞くまでもない。なめないで」
「くっはは、そうだな……ありがとう」
火と煙で現在位置がわからない、だが俺がその場から動いてないのであれば……そう遠くはないはずなのだ。
「ラディーア、姿勢を低くするんだ」
「歩きにくい。急がないとなのに、なぜ?」
「"毒の空気"ってのは上へ向かうからだ、屋外でも吸い続ければ気を失う危険がある」
すると渋々といった様子でラディーアは腰を低くする。
俺はフラウ共々ラディーアにも色々と教えたりしていたので、とりあえずは納得してくれたようだった。
多少の有毒ガスをものともしないのは、種族としての強度があるゆえだろうか。
「煙もヤバいが……熱さも死ねるな。さしずめ電子レンジか,、オーブントースターで焼かれている気分だ」
「なにそれ。たまに言う、変なこと」
「電磁波で水分子を振動させたり、電熱線の抵抗を利用したり、赤外線による放射熱──って、無事生き延びれたらいくらでも説明してやる」
「そ。とっとと見つけて、生き残る」
火事の恐ろしさというものが、真に迫って体に刻まれていく。
(急が、ないと……)
その時だった。
パチッパチッ――と、最初は枝か何かが弾ける音かと思ったが、それが一定のリズムのまま近付いてくる。
「ほっほぉ~、これはこれは……素晴らしい! いまだ逞しく生きている亜人の子が二人も!!」
男の声――煙の中から現れたその人物は、中肉中背でベレー帽のようなものを被り、表情無い仮面を顔に着けていた。
そしてその明らかな怪しい風体に対し――本能で危機感を覚えたのか――ラディーアは思考するよりも早く、大地を蹴って殴り掛かる。
しかし拳が届くよりも先に、いつの間にか高く上がった状態から弧を描いた"踵落とし"が、ラディーアの肩を打った。
「ッガ――ぅ……」
「おっと、これはしたり。演者に手を……いや足を出してしまった」
ラディーアは衝撃で地面に縫い付けられるように、背中を踏みつけにされたまま動かなくなる。
「転じてこれも妙というやつだな。今は我輩も舞台を彩る一人ゆえ」
眼前の明確な敵。
言動と態度から類推すれば──恐怖と絶望、憎悪と憤怒……俺の中で綯い交ぜに感情が渦巻いていく。
「……お前が、引き起こしたのか」
「ふっ、ふっふふふフフフフフッ! 詮索は実に無粋というものだ」
「さっさと、その汚い足をどけろ」
「んん? おっと、確かにいつまでも足蹴にしたままでは画も止まる。しかし行き場をなくしてしまう、となれば──」
次の瞬間、俺は明滅する視界とままならない呼吸に、顔面を蹴り飛ばされたのだと理解する。
「はっハハ!! さてさて"幕引き"までは……もう少し掛かるかな。いつまでもかかずらってもいられまいね」
「ッはァ……このっ、殺す。殺してやるッ!!」
そう口に出すも、到底無理なのはわかっている。それでも感情のままに絞り、吐き出すしかなかった。
「復讐劇か、そういえば最近は書いてなかったなあ。もし生きることができたら是非とも励んでくれたまえ、我輩が演出してやろうぞ」
仮面の男はすぐに俺への興味を失ったように、トドメを刺すことなく炎と煙の中へと消えてしまった。
(力が……欲しい。もし、次……が──)
そうして俺の意識は、深淵にまで落ちて、完全に途切れたのだった──