#342 領都ゲアッセブルク III
「ふむ、それで──その水をなみなみと注いだ赤い洗濯桶を頭に乗せた男とやらの方はどうしたんかね」
「えぇえぇはいはい実はそこからがさらに面白い話で、なんとですねぇ……」
"龍水の庵"の敷地に設置された休憩スポットには、年齢が顔に出始めた女性と、帽子を目深にかぶった老婆が話していた。
その少し離れた脇には黒髪を流す若い男が立っていて、大きな声で話している女性が、話し途中で一行に気付く。
「あら? あらアララっおーいちょっとぉ、ここよココ~!」
特に約束をしていたわけでもなく、たまたま遭遇したにすぎなかったが……女性はまるで最初からそのつもりだったように手を振る。
そうしてプラタが軽やかにステップを踏むように数歩先んじ、距離を詰めてピタッと止まる。
「"アマーリ"さん、どーもですー!」
「昨日も今日も、きっと明日もプラタは元気が良いわねぇ。うちの子たちやエウロくんにも見習わせたいわぁ」
座ったまま喋るのはセミロングの茶髪に、やや丸みのある体型を帯びた……サイジック領"司法尚書"アマーリ。
彼女はサイジック領の運営と、シップスクラーク財団とフリーマギエンスにまつわる、多種多様で独自な新領法の制定に関わる人材であった。
帝国法に精通し、サイジック領内における法を取り仕切る"法務官"も兼任している。
「アマーリさんは誰とお話してたんで──って、"フリーダ"おばあちゃん!?」
「おう、プラタや。久し振りよの」
はたして老婆の方は、帝国東部総督たる"フリーダ・ユーバシャール"その人であった。
実務の上では帝国宰相よりも位は下になるものの、東部方面の軍事をも司る為、実効権力は帝王に次ぐとされる四総督の一人。
その中でも特に領域が広い東部と北部の総督は、発言一つで他国に大きな影響を与える存在でもある。
「ふんふんなるほど……アマーリさんって、フリーダおばあちゃんと仲良かったんだ?」
「そうなのよぉ、最初は領地法のすり合わせの為に会ったのだけど……聞けばうちの曾お爺ちゃんと昔イロイロとあったらしくってねぇ。それから仲良くさせてもらってるのよ」
「あたしゃもゆったりと本音を話せる相手が欲しかったから、彼女は丁度良かったんね」
「そっかぁ、じゃあ今度は女三人でどこか行きたいね!」
「あらっいいわねぇ」
「悪くないのう」
ニコニコと笑顔を絶やさないアマーリに、フリーダもまんざらでもない様子を見せる。
「ところでお婆ちゃん、来るのは明日の朝って聞いてたけど……もしかして早めの査察とか?」
「ははっそんなところよ、この瞳で見んことには始まらんからのう。一応軽く顔を隠しとったんじゃが、アマーリには目ざとく見つかってしまってな」
「言ってくれてれば、わたしも案内したのにぃ」
「それでは抜き打ちにならん。プラタはあれからちゃんと励んでおるかいね」
「うん!」
プラタはそんな帝国における大人物にも、人懐っこく──まるで祖母と孫であるかのように接する。
体面上は旧インメル領主が認知していなかった庶子という設定で──新サイジック領の当主として、上に立っているプラタ・インメル。
ゆえに東部総督フリーダとは政務上、席を交えることが何度もあり、その際に領地運営に関しても様々な助言や教えを受けていたのだった。
「総督補佐もお久し振りです」
脇に控えていた男に対して、プラタはフリーダ相手とは違ってしっかりとした所作でもって一礼する。
やや細身に見えるが引き締まった長身に、帝王の血族たる特徴の一つである混じり気のない黒髪。
しかし東部総督補佐"アレクシス・レーヴェンタール"は一瞥し、聞こえるか聞こえないかほどにフンッと鼻を鳴らすだけであった。
「これ、アレクシスや」
「公の席でなく私的な用の場にて、落とし子相手に尽くす礼などありません」
フリーダが嗜めてくることを予期していたアレクシスは、みなまで言われる前に抗弁するかのように述べた。
「まったく、いつまでも融通の利かぬ男よのう」
「ですから私などを連れてくる必要はなかったのです」
「護衛がわりじゃよ」
「護衛などいらないでしょうに」
「そりゃ口実よ、おんしも上に立つ者として今少し世間を知るべきじゃて」
「陛下を見るにその必要性を感じえません」
「ふむ……それは道理よの」
市井のことなど気にせず戦争を繰り返しながらも──統治ができている戦帝を引き合いに出されては、フリーダとて前言をあっさりと翻さざるをえなかった。
「とにかく私のことなど構われず、総督は自由になされよ」
「そうさせてもらおう。で、そちらさんらはプラタの学友かい」
「あっちのケイ・ボルドとカッファはそうだよ。こちらのナイアブさんとニアさんは卒業した先輩なの」
紹介された名前の一つにわずかに眉を動かしたフリーダは、その人物を見つめる。
「ほう……ナイアブと言うんは聞きし名よ──評判の芸術家だったのう」
「東部総督さまのお耳に入っているとは光栄です」
ナイアブは雅やかさを内包した所作と共に、プラタよりも完璧な一礼をしてみせる。
「ふむ、どこに行けばおんしの作品が見られる? なんでもこの街には"美術館"もあると聞いたが」
「美術館であればココからそう遠くはありませんが、ワタシの作品は収蔵されておりません」
「そうなんかい、あたしゃが知る限り美術家っちゅーもんは偏屈なのも多い……おんしも何かしら信条でもあるんかいの?」
「ワタシは、人の持ち得るありとあらゆる欲求を享受しますから、特に強いこだわりと言ったものは持ち合わせていません」
「ではなにゆえか? まさか音に聞こえるおんしが創る作品よりも、美術館にはさらに素晴らしい作品で溢れているというわけかい?」
詰問でもしているかのようなやや強い口調に対し、ナイアブは何一つ臆することなく──威風堂々といった様子で答える。
「いいえ、違います。端的に申し上げますと──このゲアッセブルクそのものが私の作品だからです」
その一言に数秒ほど呆気にとられたフリーダは、フッと笑って得心する。
「なるほどのう……ほんに驚かされることばかりじゃて。一日ぽっちじゃ到底見きれんわい」
ゆっくりと立ち上がったフリーダは、ぐるりと首を回して凝りをほぐす。
「食休みは十分、そろそろ行こうかいね。若い者らの邪魔をしてもいかん、あたしゃらがいるだけでどうしたって気は休まらんじゃろう」
「あらぁ、あたしはまだまだ若いですよぉ?」
「抜かせぃアマーリ、あと数年も経てばおんしもお婆ちゃんじゃ」
「いやですわもう、孫の顔は早く見たいですけどねぇ──」
「プラタや、また明日にな。わかっちょると思うがそん時は弁えるよう」
「はい!」
快活を全面に返事をしたプラタに満足気に頷いたフリーダは、アマーリと共に歩いて行く。
アレクシスも少し離れてそれに続き……そして去り際の男の視線が一人の少女──ケイ・ボルド──へと向けられた。
ほんの刹那の内にのみ目と目が合ったケイは……アレクシスが視線を外し、その姿が消えるまで、追う瞳を逸らすことができなかった。
「……? どうしたよケイ?」
「う~ん──なんでもない、多分」
「はあ? な~に言ってんだ」
「あの人……うん、なんとなくね」
「惚れた?」
「そういうんじゃなくて──まぁいいや」
カッファは首をかしげたまま、ケイは一抹の思いを飲み込み──二人は店の入口で手を振っているプラタの元へと合流するのだった。




