#19 交渉 I
テーブルの上に立つ犬人族の女は一言も発しない。
それでも「動くな」と訴えていることだけは、頭ではなく心が理解できていた。
獲物の喉笛を狙う狩猟犬のような侵入者。しかし正体も目的もわからない以上に問題なのは──
(重圧の主はコイツじゃないっ……)
眼前の女はあくまでこちらを牽制しているだけで、敷地内を覆う意圧は彼女のものでしかなかった。
五感を鈍らせるほどの害意で包んでいるのは、女とは違う別の──
「相変わらずせっかちだねぇ、クロアーネちゃん」
新たに割られた窓からのんびりと入ってきたのは、やや年を食った人族の男。
わずかにハゲ上がった金髪を七三に分けて、ポケットに手を突っ込んでいる。
がっしりとした体格に、一癖二癖どころか十癖もありそうな彫りの深い顔。
「"オーラム"様、わざわざ割れた窓から入って来ずとも……」
「せっかく丁度いいトコにあるからねぇ……、それと平時はゲイル様でいいって言ってるだろぅ?」
「応対の最中ですが?」
「……? オォ~ウ、そうだった」
日常のような軽口でもって"オーラム"と呼ばれた主人と思しき男が、こちらへと視線を向ける。
ただ意識を向けられるだけで、威は一層のしかかる。魔術の発動はおろか、イメージすることも不可能なほどに──
倒れることも座り込むことも許さない。全てを封殺する重圧。
そんなものを放ちながらも、今の状況はこの男にとって言葉通り"平時"であるに違いないのだ。
「んん~む、幼い子供が四人ねぇ。でも他には大した気配も感じんしなぁ……まっ素質はあるようだけどネ」
七三分けの前髪を指先で整えながら、オーラムは何かを考えているようだった。
「まぁいいや、ん~で……だ。表に埋まってるアレらは君らがやったのかな?」
わずかにでも敵意を見せれば、クロアーネとかいう女は襲ってくるだろう。
そちらのほうはどうにかできても、オーラムのほうは抗しようがない。
オーラムの質問に対して腹の底から絞り出すように、蛇どころか竜に睨まれた蛙のような心地で俺は絞り出す。
「っ……あぁ、俺だ。俺が連中を全員殺した」
故郷を焼いた地獄は、どこか他人事のように感じられた光景だった。
奴隷として檻の中にいた時は、少なくともすぐに殺される心配はなかった。
大トカゲと相対した時も、半端な永劫魔剣を目の前にした時とも違う。
転生前後の人生全てで……初めて体感する、今までの生温く感じるほどの絶対的絶望。
心臓を直で握られている感覚。どうしようもないほど圧倒的な強者による命の被掌握。
これが異世界の現実──なんのかんのどうにかなるだろうと、今まで自分が楽観視してていたのかを痛感させられる。
宗道団内のぬるま湯に慣れきってしまっていたことに後悔しても時既に遅い。
(俺の知っている世界など恐ろしく狭かった──)
世の中にはこれほど化物がいるのだ、今までは本当に運が良かっただけなのだと。
「う……埋めたのは、ウチだから」
3人を庇うように前に出ていたはずだが、いつの間にかリーティアが物怖じながらも前に出る。
震える末妹の姿を見て、さらにジェーンとヘリオが揃って歩を進めて盾となる。
ああそうだ、みんな家族の為なら命なんて惜しくないんだ。だからこそ俺がすべきなのは──
「"交渉"を希望します」
一言、はっきりと強固な意思をもって告げていた。
それが嘘ではないと。相応の対価があるのだと思わせる真剣な眼差しで。
「おんやぁ~……ははぁ、この状況でそんな口を利けるとはねぇ。どうしよっかなァ」
動悸が激しくなり、呼吸が一層苦しくなる。
しかしてもはや身じろぎ一つ取れない、下手な動きをしたら息絶えてしまうような予感が全身を打っている。
「ふーん、ふんふん。いやはや有望そうな子供のようだ」
フッと、それまで濃密だった害意が消える。
するとリーティアは床にへたり込み、ジェーンは目の前の机につかまり、ヘリオは片膝をついた。
俺はどうにか堪えてしっかり地に足をつけたまま、毅然とした態度で視線を外さずにいた。
「まあまあ悪くない。それじゃっ少しだけ聞いてあげよっかナ」
「っふゥー……感謝します、私はベイリルと申します。ゲイル・オーラム殿でよろしいでしょうか」
「そーそー。いわゆる裏の仕事をやってる、しがない組織の長さ。本当は自ら出向くまでもない商談だったはずなんだが……思わぬ余興、少しだけ興味が湧いた」
さしあたって宗道団の直接の関係者ではなく、なんらかの取引していた立場にいる男のようだった。
どの程度の規模の組織かはわからないが、ゲイル・オーラム本人の暴力性があまりに異常すぎる。
受け答えは慎重にやるべきで、あらゆるものを差し出す覚悟も必要であろう。
「ご期待に添えるよう、精一杯やらせていただきます」
「ところでベイリルぅ、キミらは教団の人間なのかい?」
「はいこちらのジェーン、ヘリオ、リーティア。我々四人は……この教団で育てられていた、工作員とでも言えばいいのでしょうか」
俺は3人を紹介しつつ、「ここは任せろ」とそれとなく目配せする。
「ほうほうなるほどぉ。ここの関係者だったわけだネ。んでは、皆殺しにしたのは復讐かな?」
「いいえ違います。彼らは"洗礼"と称して最後の洗脳と教育を行おうとしてました。が、それに自分達は逆らった結果……殺される前に先手を打って殲滅したまでです」
警戒されている今は一切嘘を言うつもりはない。誠実さのみが現段階で唯一示せるものだ。
今この場の支配者はゲイル・オーラムという男である。彼のご機嫌一つで、今からでも皆殺しにもされかねない危ういバランス。
「ちょぉおっとだけ似たような話だねぇ? クロアーネ」
「……いえ、こいつらはさぞヌクヌク育ったんでしょう、顔に書いてあります」
「はははっ手厳しいねぇ、ちゃんクロ」
「クロアーネです」
犬人族のクロアーネは、オーラムが殺意を収めた後も変わらず山刀をこちらへ向けている。
今は魔術使おうと思えば使えるだろう。だが今持ち得る全ての魔術は、少なくともオーラムには届くまい。
音も無くどんな化物も殺せる武器があっても……それを実行に移す段階で、血気立てたところを悟られ制される。
ほんの僅かな機微も見逃さない。否、強者にとっては意識せずとも自然に見て、聞いて、感じ取って当然の領域。
「まずは教団へ何かしらの取引の為に赴いたようですので、勝手な一存ではありますが主なき今……可能な限り補填したいと思います。
閉鎖環境で育てられましたので、お名前も組織名も今初めて存じ上げましたが、差し当たり物資類はほぼ手付かずで残っていますから何なりとお申し付けください」
「子供の割にはつらつらと並び立てて、しかも殺した組織の物資を奪って渡そうとは……面の皮が厚いねぇベイリル」
「必死ですから。そもお渡しせずとも力尽くで奪われてもどうしようもありません。ですので何卒我々の処遇を取り計らって頂きたく、誠意を見せているに過ぎません」
猛禽類のような鋭い目つきでもって、ゲイル・オーラムは唇の端を上げる。
「たとえばぁ……物資じゃなくって、キミらが殺した人材を欲していたとしたらどうするね」
「先程オーラム殿も仰っていただいた、我らの素質と有望性を御身に捧げましょう。なにぶんまだ年若くお役に立てるには、些少の時間を頂戴することになるかも知れませんが……」
「ふっはっ、はははあはははっはは、聞いたかクロアーネ、本当に子供の皮を被った計算高い大人のようだよ」
まさに核心を突いた言葉と共に、堰を切ったように笑い出すオーラム。
一方でクロアーネは嫌悪と侮蔑の表情を向けてくる。
「そうですね、気取っていて……とてもいけすかないです」
クロアーネの心象はこの際はどうでもよかった。
主でもあるゲイル・オーラムにさえ認められれば、この場は切り抜けられる。
「それと──私はまだ交渉の机に何も出していません。できればオーラム殿とお二人だけで話したいのですが……」
「ほう……?」
クロアーネは今までよりもさらにギロリとこちらを睨みつけ、オーラムはピタリと笑いを止める。
ともすると、真意を確かめるようにこちらを覗き込む。
「そこに置いてある、連中が信仰していた"魔法具"の話、かなあ?」
「いえ……そんなものよりさらに価値あるものです」
その言葉に対してオーラムは目をわずかに見開くと、反芻するように考える。
高度な交渉術なんてものは身につけていない。己にできることは今ある札を曝け出すことだけだった。
「折れているようだが……価値はわかってるよねェ?」
「わたしの知る限りで、ですが」
こちらの双眸と声音、一挙手一投足を精査するオーラムの反応を待つ。
その状況はさながら死刑執行を待つ囚人のような感覚を思い起こさせる。
「まっねェ、元々ワタシは人員の渡りを付ける為にやって来ただけだから、はっきり言ってどうでもいいんだけど」
「それはつまり、我々のことでしょうか?」
「そうだろうネ、なにやら子供に国籍と移動手段を用意してくれってことだったしィ」
「儀式の後は早々に間諜として使うつもりだったのは、こちらの資料でも確認しています」
「気の早いことだ、人生なんて焦ってもつまらんとは思わんかね」
「……」
俺は敢えて沈黙を貫いてオーラムの次の言葉を待った。
その問いに対して、自分は真実も嘘も言えない。
「でも……熱中できるものがあるのは──ある意味羨ましいことなのかも知れんな」
「──同感です」
どこか遠くを眺めるような表情を浮かべ、心の底から吐き出したようなオーラムの本音。
そこに関しては同意せざるを得なかった。嫌でも前世の人生を振り返ってしまうのだ。
だからこそ……この新たな人生では、脱却を図る為に動いているのだから。
ゲイル・オーラム。彼は──きっと昔の俺と同じような、無感動さの一端を心のどこかに抱えている。
組織の長でありながら、わざわざこんな僻地へ自ら足を運んだ。こうして話に興じているのも、彼なりの暇潰しなのだ。
それは甚だ勝手な想像でしかない。
しかし同類だからこそ感じ取れる嗅覚は……肌感覚は間違っていないと信じたい。
「私には全てを開示する用意があります。どうでしょう、お茶の一杯でも飲みながら──」
「調子に乗るなよクソガキ」
今にもこちらの心臓目掛け、斬り付けに来そうな気勢でクロアーネは俺に恫喝する。
とはいえオーラムの害意の後では、そんな殺意もそよ風のようなものであったのだが……。
「クロアーネ、汚い言葉を遣うんじゃないよぉ」
「申し訳ありませんオーラム様……ですが──」
ゲイル・オーラムはスッと手を上げ、クロアーネの言葉を制した後に口を開く。
「二人きりだろうと、罠を張っていようと、どうこうできないことは彼もよくわかっている。ワタシもそれなりに修羅場は楽しんできてるからねぇ。なにより感じ入るところがある。
これは直感というより予感に近い。それに魔法具をそんなものと断じた交渉内容に……少しだけ心が踊っている自分がいる。もっともこの淡い期待を裏切られたら、何をするかはわからんけど?」
「──滅相もありません。絶対に満足させられるとは申しませんが、きっと何がしか琴線に触れるはずです」
「クチではなんとでも言えるねぇ、だからもっと聞かせてもらおうかい」
「ありがとうございます。では……部屋を変えましょう、そうですね──元教主の部屋でよろしいでしょうか」
「構わんよ、あそこでいつも契約事をしていたしね。クロアーネは屋敷内の隠匿物でも探してなさい」
「っ……かしこまりました、オーラム様」
表情には出すのは堪えたようだが、一瞬詰まった声にクロアーネの渦巻く感情が込められているようだった。
「隠し扉や隠し財産に関しては、既にこちらで確認していますが……」
「クロアーネは鼻が利くからサ、一応だよ一応」
「なるほど、それは頼もしい。それと別の部屋にこちらで保護した少女が一人いますので、うちの三人はそちらの様子を見ててもらってよろしいでしょうか」
「いいヨ」
「ありがとうございます。ジェーン、ヘリオ、リーティア──くれぐれも安全に、よろしく頼むぞ」
姉兄妹に頼んでいる間に、オーラムは勝手知ったる我が家のように先立って歩いていき、俺もすぐに続いていく。
(もしかしたらこれが……"回華"の為の最初の種蒔き──)
文明を発展させるのに最も必要なのは……人脈だ。
より質と量に富んだ人的資源を有機的に運用すること。
下地作りとはつまるところそれに尽きる。
裏社会に生きるゲイル・オーラムをこちらに取り込むこと。
不興を買えばこの身がどうなるかもわからないリスクも多く孕んでいる。
しかしてこれは大きな近道となり得るかも知れないのだ。
種子ごと潰されるのか──
咲くことができず枯れて終わるのか──
時を経て結実するのか──
(無為に終わるのはもう沢山だからな……やぁってやるさ)




