#169 不折極鋼 I
その男は――流星が如く、空から降って現れた。
その瞬間、ありとあらゆる者が……心臓の鼓動以外の、全ての動きを止めざるを得なかった。
攻撃も、魔術も、防御も、回避も、移動も、まばたきも、呼吸も、思考すら。
現出した男以外の全てが静止する――
曰く、絶対正義の審判者。
曰く、聖騎士の中の聖騎士。
曰く、真なる英雄。
曰く、戦場荒らし。
曰く、人の形をした魔法。
曰く、無法の救世人。
曰く、曰く、曰く、曰く――
彼を形容する二つ名は、枚挙に暇がない。
彼には名前がない。誰も知らないし、本人も知らない。
ただ彼を呼ぶのであれば、たった一つだけ……普遍の呼び名が存在する。
――"折れぬ鋼の"――
「戦はこれまでだ――」
それは決して大きい声ではなかった。しかし誰の耳にもしっかりと届かせる"芯"が存在した。
心胆に直接叩き込むような暴力性すら感じ入る言葉は……彼を知る者も、知らぬ者にも、有象無象の区別なく。
さながら世界そのものを制してしまうかのようであった。
その言葉によって止まっていた時間は動き出し、その場の全員が武器をあっさりと捨て、また納める。
たった一人の男の存在によって、戦争はいともあっさりと終結してしまった。
政治的にはともかく、戦場に限っては――もはや勝負ナシ。
盤面を破壊した男はただ静かに戦場だった場所に立ち続けるのだった。
◇
「――そう、あれが五英傑の一人。"折れぬ鋼の"」
上空のシールフに追いすがったところで放たれた言葉。
彼女は"折れぬ鋼の"が来たことを誰よりも早く感知し、俺と会話を興じる為に飛行してきたのだった。
固化空気で作った足場に立った俺は、"遠視"を使って改めて男をよくよく凝視する。
灰じみた白髪に、痩躯にも見える長身。体中に幾重にも巻かれたベルトに"聖騎士"のサーコート。
見た目だけであればそこまで強そうには見えない。ただし本能がわかりやすくヤバいと訴えかけていた。
覆い尽くすようなそれでありながら、どこまでも研ぎ澄まされた――矛盾したかのような圧力。
「どの国でも正規の軍人なら最初に学ぶことよ。"折れぬ鋼の"が出たら逆らうな」
「あれを見たら、言われずとも逆らわんと思うが。なんにせよ"無二たる"カエジウスとは違うな……」
ワーム迷宮を管理していた爺さんとは、まったく方向性が異なる。
「アレは言うなれば"主人公補正の塊"ってのが一番しっくり来るのかも」
わざわざ地球の現代娯楽言葉で例えてきたシールフに俺は苦笑する。
「つまり最後の最後には勝つ――ってか」
「彼は絶対に挫けない、屈しない、諦めない……それゆえに負けない――人類にとっての奉仕者なの。
弱者を助けるのが自身の義務と信じ、微塵にも疑わない。だから無益となった戦争には必ず介入する。
それ以上の哀しみを生まない為に、そして彼は自分にとって徹頭徹尾やりたいことをやってるだけ」
俺は肩をすくめつつ、穏やかでない表情を浮かべた。
「独善的なことだ。彼自身が勝手に無益と断じることも含めてな」
「かもね――それでも五英傑の中で彼だけは正真正銘、"英雄"と呼ぶべき人間の到達点」
「一般的見地からは好ましい人物、なのは……まぁわかるが」
「その気質は、正義の味方にして悪の敵。でも敵対者を殺すようなことも、決してしない。
きっと彼は人間がどうしようもなく好きなんでしょうね。誰にも死んでほしくないのよ、きっと」
「"不殺"か、それも圧倒的な強者ゆえの特権とも言えるか」
「彼はあまねく悲劇を看過しない。彼が力を振るうことで治められることは、全て見過ごせない」
「世の理不尽に対するカウンターみたいな存在、と」
(風説だけでも、"折れぬ鋼の"が善性であることには……恐らく疑いがない)
それがたとえ独善であろうと偽善であろうと、彼は不断の意志とその力で争いを止める。
しかし――である。
「まぁつまるところだ、もしも俺たちが戦争で文明を発展させていこうとしたなら――」
「確実に立ちはだかる最大の敵ね」
ここ20年以上――決定的な戦争が停滞しているのは、全て"折れぬ鋼の"が原因であるとすら聞く。
彼が過度な侵略戦争の助長を防ぎ、各国の武闘派の頭を間接的に抑え込んでいるのだと。
それゆえに各国軍は、不必要に残虐な戦争をすることができていない。
(異世界文明を発展させていくにあたって、最も厄介な存在――"五英傑")
"無二たる"カエジウスにしても、そう……たった1人で国家を相手にしてしまう存在。
世界のパワーバランスから逸脱し、同時に破壊しかねない超常生命体。
コントロール不能の極大人災。ただし当代の英傑は皆、人類に仇なす存在でないことが幸いにして救い。
しかし異世界史上にあって、不定期に出現するこうした類の人間は――
(今後も最大限の警戒をしていかなきゃならないわけだ……)
「でも今回はベイリルが呼んだんでしょ?」
「まぁ呼んだというか……今ある状況が伝わるよう、商会の力を使った」
それこそが"盤面をひっくり返す最終手段"――伝家の宝刀すら遥かに凌駕する人間兵器。
「主にカプランに任せて?」
「あぁ……俺はもうあの人に足を向けて寝れないです」
奇特揃いの五英傑の中でも最も際立っているであろう、あの英雄を利用すること。
仮に"無二たる"カエジウスに、制覇特典の残る一つを願ったところで、ここまでのことはしてくれないだろう。
しかし噂に聞いた"折れぬ鋼の"であれば、その限りではないと踏んでいた。
そもそもこの戦争に彼は来る予定がなかった。何故ならば帝国軍と王国軍にそれほど戦力差がなかった為である。
また秩序ある王国軍は道中で収奪などはしても、虐殺行為なども行わない。
トチ狂ってそんなことをすれば、まさしく"折れぬ鋼の"に叩き潰されるゆえに。
王国軍が弱ったのは、当然のことながらシップスクラーク商会の戦争介入によってである。
さらには徹底した情報操作・統制を強いたことで、外部にはほとんど漏れないようにしていた。
だからこそ……こちらから"聖騎士庁"に、さながら根回しするかのようにあらかじめ訴えたのだ。
"帝国軍によって王国軍に対する一方的な追撃・殲滅戦が始まる"――と。
「まっこれでようやく肩の荷が一つ下りたわけだ」
"番外聖騎士"という特殊な地位を持っている"折れぬ鋼の"。
彼は専門の部署を通じて連絡を受けて、もたらされた情報から己の判断で世界中を廻っている。
王国軍を叩きのめしてもらうわけにはいかないが、援軍にきた帝国軍を止めてもらうことには意義がある。
追撃する帝国軍によってインメル領内を荒らされ、また探索されることも最小限に留められるゆえに。
「利用できるものはなんでも利用する、ほんと可愛くないやーつ」
「シールフに協力を頼んだのは、本当に悪いと思っているよ」
「うん、知ってる。親しき仲でも思慮の欠片もなかったら、丁重にお断りしてからぶっ飛ばしてたよ」
「っははは……なんにせよだ。五英傑を利用するだけじゃなく……一度この眼で見てみたかった――てのもある」
戦争行動における最も厄介な障害。国家すら手を出せない単一個人戦力。
異世界における……ある種、最大の特異点。魔導と科学を極めようと、抗し得るのか定かではない存在。
文明を発展させるにあたって、頭を悩ませ続けるだろうバランスブレイカー。
それがはたして風評通りの実力と気性であるのか……実際に見て、感じてみたかった。
(まっ倒せなくても、無力化する方法なら可能だ。所詮は一人に過ぎない)
そう……"折れぬ鋼の"が人類と世界すべてにとっての英雄であるならば、その身一つということが最大の弱点である。
同時多発的に発生した戦争の全てに介入することは、彼にとっても限度がある。
まして不殺を信条にしているならば、時間を稼ぐこともそう困難なことではない。
(悲劇がお嫌いなら……俺の故郷を襲った災禍にだって、間に合えたはずなんだからな――)
あの一件がなければ俺は売られることもなく、フラウが苦難の半生を送ることもなかった。
もっとも結果的に見れば、あの一件はこれ以上ない契機であったし、今さら思うところなど――
「おいっお~い、強い気持ちが表層に出てるぞーベイリル」
「――っと、隠し事はできんな。しかしそうか……俺が"感情的"だったか」
「割とね、どっちつかずな感じだったけど」
「落ち着いたら、フラウと故郷にでも行ってみっかねぇ」
自身の出自を辿ることで、新たに見えてくるものがあるかも知れない。
ここからカエジウス特区を挟んで南西の亜人特区領、かなり近くに位置している。
「まっまっ昔はともかく、最近は彼が来た時点で戦争はおしまい。でもバカなやつもいるわけで――」
シールフの意味深な言葉に眉をひそめたが、すぐにその意味を察しえた。
戦意喪失し帝国軍も王国軍も早々に撤退の準備をしている中で、彼の前へ立つ者の姿があった。
「ここからは戦争じゃなく、"個人的な闘争"。恒例行事みたいなものね」
「うわぁ……"戦帝"じゃんアレ、大帝国の頂点様が出張るか普通」
俺は呆れ顔を隠そうともせず、乾いた笑いを漏らすのだった。