#153 戦域潮流 III
男は憔悴しきっていた――目の下の隈は日毎に濃くなり、全身から疲労感が溢れている。
動悸も安定した状態とは言えず、優先的に摂取する食事だけが体をなんとか保たせる。
"総大将"という責務と、部下を殺させてしまった後悔が……彼を今なお辛うじて支えていたのだった。
「っむぅ……」
グッと両眼を親指と人差し指で抑えながら、目眩の頻度も多くなってきたことを自覚する。
不倒不退転の決意でもって目の前の状況に臨みたいが、状況がそれを許さない。
休むべきなのは重々承知していても、まともに眠ることができる精神状態ではなかった。
「くっ、ふはっ――」
呆れを通り越した自嘲が漏れる。自身がこれほどまでに逆境に弱いとは思っていなかった。
これでは後方の各拠点に置いてきた、モノの役にも立たぬ貴族将校らをバカにできない。
上に立つ以前であれば苦境は幾度かあったものの……それでもあまりにもあんまりな惨状。
ここ十数年で良くも悪くも、"一方的な戦争行為"というものがなくなってしまった。
それゆえに自身が指揮官として立つようになってから、拮抗こそあれ追い詰められることなどなかった。
(本来であれば……)
実際的な直接戦争行為としては、帝国の援軍のみが想定されていた。
しかして帝国軍が到着してもいないのに、当初の計画から外れすぎた大劣勢。
経験不足の兵士の練兵を兼ねていた部分もあったし、自身の引き出しの中にこうした奇襲対応もなかった。
仕方ない面も確かにあったが、事この場にあっては決して言い訳にはならない。
王国軍兵士達の命を預かる立場。散っていた犠牲を無駄にせぬ為にも、諦めることなどできはしない。
「一体どこで間違った、か」
インメル領を襲った災禍の機を利用し、その領土の一部を切り取り、王国領として奪う為の大侵攻。
弱っている領地兵を蹴散らした後に、帝国軍が到着してからの防衛戦こそが本番という戦略構想。
数年単位の守備を保った上で、王国領として根付かせて帝国版図の一部を削り取る。
だからこそ守勢に定評のある自分が、こたびの遠征軍の総大将に選ばれたのだ。
(それがこんな形で……)
己の采配と技量が防衛としてではなく、単に王国軍を"延命する手段"になるとは思ってはいなかった。
もしも他の大将軍の多くであったなら――最初の一撃で軍を再編できぬまま、全滅の憂き目に遭っていたやも知れぬ。
そう好意的に解釈して自己肯定でもしなければ、正直どうにかなってしまいそうであった。
「失礼――以前よりも疲労の色が濃くなったようですね、"ゴダール"卿」
そう最上階の私室に入ってきたのは、火傷痕の残る男であった。
「"火葬士"……なぜここにいる」
「形だけの短い謹慎が解けましたので」
「知っている。だが喚んだ覚えはない」
王国軍総大将"岩徹"のゴダールは、魔術部隊の隊長である"火葬士"に「出ていけ」と続けようとする……。
が、言葉がそれ以上出てこなかった。王国三大公爵家の1つ――"フォルス"家の傍系血族。
しかしながら家柄でなく軍内にて実力で成り上がった。戦場でも何度か共にしたこともある仲。
さらに今は彼に対して負い目もあり……、なによりも現況において話せる相手が欲しかった。
そんな葛藤を知ってか知らずか、火葬士は悠長な物言いで喋りだす。
「いやはや……それにしても美事な部屋ですな」
そこは"岩によって構成された部屋"であり、家具などは置いてはいない。
しかし構築する際に、机や椅子や簡易ベッドまでも造形されて配置されていた。
「もっとも貴方の性分からすれば本意ではないのでしょうが……それでも大将たるもの見栄を張らねば」
上に立つ者の義務と権利。下の者に示す為に、甘んじて受け入れねばならぬものがある。
そうした総大将の機微までも理解している火葬士に、ゴダールも沈黙せざるをえなかった。
「もちろん魔術部隊や残存した魔術騎士による補助もあったとはいえ、それでも貴方だからこそできたことでしょう。
"大地の愛娘"とは比べるべくもないですが、さすがは王国軍きっての地属魔術士です。わたくしにはできない芸当だ」
火葬士はわかりやすい持ち上げ弁舌をしてから、石造りの窓へと歩いていくとそのまま外を眺める。
壁の向こう側では、騎獣民族が巡回するように大地を駆け回っていた。
「はてさて、いつまでも一人言ばかりだと、いささか辛くなってきたのですが……まだ気にしているのですか?
貴方が判断を下せぬからこそ、わたくしがやったまでのこと。他に方法がなかったのはご承知でしょう。
契約を"強制"させたところで精神が崩壊すればこれも無意味。そうなれば内部から破滅するのみ。不可抗力ですよ」
「……わかっている。結果的に貴公が泥をかぶったという事実も忘れはしない」
騎獣民族の長を目の前にして無様に退却し、この"一夜要塞"の基礎部分を作り出した。
王国軍が散り散りに混乱した戦況にあって、見目わかりやすく参集させ、部隊を統合し、軍団を再編した。
糧秣が非常に限られた中で、"奴隷兵にまで食わせるほどの物資"は残っていなかった。
「構いませんよ、短期謹慎について恨んではいない……立場上わたくしも理解してやったことです」
王国ベルナール領と正規軍の騎馬隊は、自由騎士団とインメル領軍という盾に阻まれていた。
そこを横撃した後の騎獣民族が、挟撃し包囲するような形で騎馬兵を執拗に潰して回ったのだ。
さらには軍列が崩壊し、散逸した兵を狙いうちするように、交戦から一日にして"残党狩り"の様相を呈した。
結果として……緊急時に食糧とすべき馬もほとんどなく、奴隷を要塞から追い出すより他なかった。
その判断を迷っていた時に、勝手に解放の挙を実行したのが他ならぬ火葬士であった。
独断専行の件に関して総大将としては処分せざるを得ず、緊急時ということもあって配給無しの短期謹慎。
本来であれば戦争後にも裁定される事柄だが、そこは己の権限によって遡及はしないことを決定した。
なにより要塞内部にいる誰もが理解していた――火葬士がやらなければ、いずれ崩壊することは明白であると。
「わたくし個人としては燃やして灰にすべきだったと、思っているのですがね」
「そこまでは許されん。奴隷とはいえ王国軍内部での同士討ちは、いらぬ不和を呼ぶ」
軍内部に発生する疑心はもとより、奴隷も国家の財産の一部である。現場裁量はあれど戦争後に責任が生じうる。
それに解放したところで、上位命令権が健在な限りはこちらに牙を剥くこともない。
「固いですなあ……"業嵐"はともかく、"残火"や"撃氷"であれば焼却処分を選んだでしょうに」
「不服か?」
ゴダールはただ静かに目線を移し、火葬士の曇りなき眼を見据えた。
瞳には狂気の炎が映るようにも見えるが……その頭は常に冷静であることを知っている。
「滅相もない、結果で証明したでしょう」
またインメル領側とて土地がこのような惨状では、食料に余裕がある可能性は非常に低い。
逆にこちらの奴隷を吸収させることで、向こうの糧秣を圧迫する意図があった。
余裕のない敵軍が奴隷を惨殺するのであれば……奮起材料ともなり、不本意ながら好都合でもある。
それは火葬士も当然わかっていたに違いなく、その後の処分とを秤にかけて実行した計算高さ。
「なんにせよわたくしの軽挙で迷いが晴れたのなら、言うことはありません」
「貴公にしては殊勝だな」
「かはっっはははは、貴方に倒れられてはそれこそ総崩れですから」
「礼は言わん――だがいつか報いよう」
価値観が違う。生き方にも相容れぬ部分がある。心からの信用はできない。
気が狂れている面もあるが、しかし彼は同時に合理でもって行動し、身を切ることを厭わない。
部下としては有能であり、指揮官としても優秀、さらには戦友であることも否定できない。
それゆえにゴダールとしても、非常に扱いに困る節があるのだった――