二:聖女の力
私の心からの願いを聞いたユフィさんは、キョトンとした様子だった。
「そ、そんなことでいいのですか?」
「はい……」
むしろ今、それ以上の望みはない。
一秒でも早くこのわけのわからない場所から帰りたい。
家に帰ってお父さんとお母さんと一緒にご飯を食べて、あったかいお布団で寝たい。
「……わかりました」
「えっ、いいんですか!?」
「はい。それではお体を楽にしてください――」
そう言うとユフィさんは、大きな杖を床に打ち付けた。
「『朱き獣に泥を、地を抱く鳥に空を』」
彼女が呪文のようなものを唱え始めた瞬間、私の足元が発光し始めた。
「お、おぉ……っ」
どうやら本当に元の場所へ帰してくれるみたいだ。
ユフィさんに言われたとおりに体の力を抜く。
「『白き亀が器を満たし、黒き女王が虚空に憂う』
『不遜なる黄龍。千手の影。小人が首に陽を差し込む』
『相生せよ。相克せよ。七曜巡りて輪を満たせ――聖痕』」
眩い光が溢れ出し、私が目を開けるとそこは――さっきと何も変わらない高台の上だった。
「……あれ?」
呆然とする私に対して、ユフィさんはホッと胸を撫で下ろした。
「ありがとうございます、これで契約成立です」
そうして彼女は、自身の右手の甲を見せてきた。
そこには真紅の紋様が描かれていた。
「あ痛っ!?」
同時に、静電気のようなバチッとした衝撃が私の手を襲った。
見れば右手の甲に――ユフィさんのと同じ真紅の紋様が浮かび上がっていた。
「こ、これは……?」
「それは聖痕。ティア様と召喚士である私が契約により結ばれた証です」
「え、えーっと……なるほ、ど……?」
全く何も理解していないのに、勢いに飲まれて頷いてしまった。
(つまり……まだ帰してはくれないってこと……?)
そんなことよりもこの紋様の辺りが無性に痒い。虫にでも刺されたようなヒリヒリ感がある。
私が無意識のうちにカリカリと右手の甲を掻いていると――。
「あっ」
真紅の紋様は、シールのようにペリペリと剥がれてしまった。
「……えっ!?」
「あれ、取っちゃダメな奴でしたか……?」
ヒラヒラと床に落ちていった紋様は、まるで空気に溶けるように消えてしまった。
それを見たユフィさんは顔を真っ青に染め、呆然と立ち尽くしていた。
「そ、そんな……っ。どうして、何で……っ!?」
「す、すみません……っ。そんなに大事なものだとは知らずに……」
勝手にあのシールを剥がしてしまったことを謝っていると――。
「……どうしよう。聖女の契約が破棄された……」
ユフィさんは、年相応の少女の顔でそう呟いた。
その直後、高台の下の方から緊迫した声が聞こえてきた。
「ユフィ様っ!? 契約はまだなのですかっ!?」
見れば髭モジャは、額から血を流しながらたった一人で十人もの敵と戦っていた。
「す、すみません……っ。契約が破棄されてしまいました……っ」
「な、何ですとぉ!? ――がはっ!?」
一瞬こちらに目をやった髭モジャの頭を、黒いメイスが殴りつけた。
「爺やっ!?」
「髭モジャ!?」
それに勢いづいたのか、黒い甲冑はより攻勢を強めた。
「勝機っ! ――聖女と契約を結ぶ前に、一気に攻め落とせっ!」
「「「うぅおおおおおおおおおおっ!」」」
髭モジャはあっという間に黒い甲冑の群れに飲み込まれてしまった。あんな大勢の人たちに踏まれたら……ただでは済まないだろう。
するとユフィさんはもはやなりふり構わずといった様子で、私に詰め寄った。
「お、お願いします、ティア様! どうか、どうかこの国をお救いください……っ!」
「そ、そんなこと私に言われても……っ」
いきなりこんなわけのわからないところに連れて来られた挙句、『国を救ってほしい』?
いや、無理無理無理っ!
「そ、そもそも私、聖女様じゃありませんよ!?」
しかし、彼女の耳にはそれも届いていないようだった。
「私の魔力でも体でも――何でも好きに使ってくれて構いませんっ! ですから、どうか――どうかお願いです。この国を救ってくださいっ!」
涙目になりながら懇願するユフィさん。
力になってあげたい……とは思うけど、一介の村娘である私にはどうすることもできない。
何と言ったらいいものかと混乱していると、彼女の背後に鋭い刀のようなもの見えた。
「……っ! あ、危ないっ!?」
「きゃっ!?」
私が咄嗟にユフィさんを押し倒した次の瞬間、鋭い刀は空を切った。
「ちっ、外したか!」
見れば黒い甲冑を着た一人の男が、この高台にまで登ってきていた。
(今のは間違いなく彼女の首元を狙っていた……本当に殺すつもりで……っ)
サッと血の気が引いていくのを感じる。
「へへへ、『聖女を殺すにゃ召喚士から』ってのは定石だからな」
「ど、どうしてこんなひどいことをするんですか!?」
「ははっ、聖女様よぉ? お前の首さえ獲れば、俺は貴族にしてもらえるんだぜぇ……? 地位も金も女も名誉もっ! たった一日で全てが手に入んだっ! 殺らねぇわけねぇよなぁ!?」
私欲にまみれた顔で「ゲヒャヒャヒャ!」と高笑いする男。
そうこう話しをしているうちに、黒い甲冑に囲まれてしまった。逃げ場はもうどこにもない。
「ティア様、どうか……どうかお力を……っ」
「そ、そんなこと言われても……っ」
ユフィさんがすがりついてくるが、私にはどうすることもできない。
そんなとき。
いつの日かお父さんとお母さんが言っていた言葉が脳裏をよぎった。
「いいか、ティア? 力こそがパワー。どんな時も最後に自分を救ってくれるのは腕力だ。もしどうしようもなくなった時は、ただ全力で前に進め。お前は父さんと母さんの子だ。どんな壁だってきっとぶち破れるさ」
「ティア。この先、あなたにはいくつもの苦難が押し寄せることでしょう。そんな時は――斬りかかるのです。切って斬って絶って断って――全てをなぎ倒しなさい。大丈夫、あなたにならきっとできるわ」
(お父さん、お母さん……ありがとう)
逃げ場はない?
――違う。
道は自分で――自分の力で切り開くものなんだ。
「――やぁあああああああーっ!」
私は手に持っていたバケツを振り上げ、目の前の黒い甲冑目掛けて走り出す。周りは一切気にしない。ただ前へ、ひたすら前へとぶつかっていく。
しかし――。
「……きゃっ!?」
足がもつれてしまい、無様にもすっ転んでしまった。
「はっ、どこを狙ってやがる!」
見当違いの方向へ振り下ろしたバケツが、床にぶつかった次の瞬間。
ドォオオオオオオオオンンッ!
凄まじい破砕音と共に、巨大な亀裂が床を走った。
まるで隕石が落下したかのような巨大なクレーターができ、建物全体がグラグラと激しく揺れる。
「うぉっ!?」
「何だ、これ!?」
「馬鹿な!?」
あまりに大きな揺れだったので、黒い甲冑の人たちは高台から転がり落ちていった。
私はユフィさんと手を繋ぎ、床に伏せたまま目を閉じた。
少しして揺れが収まった頃に立ち上がると――。
「……うそ?」
ここの地盤がとても緩かったのか。たまたま当たりどころが悪かったのか。床だけでなく壁にも幾多の亀裂が走り、今にも建物全体が崩壊しそうだった。
「ふ、ふふふ……っ。ふぅははははははははっ!」
するとどこからか喜色に満ちた髭モジャの声が聞こえた。
「さすがは異物、何という圧倒的なパワーッ! 十重二十重と結界の張られた聖殿を、たったの一撃で粉砕するとはっ! まさに規格外! ……ふふふふふ、はーはっはっはっはっはっはっ!」
頭から血を流した彼が、狂ったように笑い始めた。
あれだけたくさんの人に踏まれたのに、目立った傷はあまりない。やっぱりアレは危ない人だ。
「この力……聖女との契約が結ばれたか……っ。くそっ、撤退だっ!」
黒い甲冑の人たちは、統率のとれた動きで空中に浮かぶ黒いもやもやの中に飛び込んで行き――姿を消した。
「助か……った……?」
ぼんやりとそんなことを呟くと――。
「ありがとうございます、本当にありがとうございます……ティア様!」
私の両手を取り、ユフィさんは何度も何度も頭を下げた。
「え、い、いや……私は何も……」
どういう反応をしたらいいのかわからずに、その場で困惑していると。
「さすがは聖女様! まさに圧巻の一言でございますっ!」
いつの間にか高台まで登ってきていた髭モジャが、いっそ気持ちいいぐらいの手のひら返しを見せた。
続けて彼は、高台の中央に立っている一本の旗を手渡してきた。多分この国の国旗だと思うんだけど、今まで一度も見たことがないものだった。
「さぁ、聖女様! 勝利の雄叫びを――勝鬨をあげてくださいませっ!」
「いや、だから私は聖女様じゃ――」
「――さぁっ! さぁさぁさぁっ!」
髭モジャがあまりに押してくるので、半ばやけくそになった私は言われるがままに声をあげた。
「え、えーっと……。や、やーっ!」
すると次の瞬間。
「「「うぅおおおおおおおおおおっ!」」」
割れんばかりの大歓声が巻き上がり、周囲は熱狂の渦に包まれた。
「もぅ……何なのこれ……」
どうやら私は、とんでもないところに来てしまったようだ。
果たして無事に、家に帰ることができるのだろうか……。