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『トマトスライス』

 七時の待ち合わせだったから、ぼくはそれまでに出来る限りのことをやろうと奔走していた。

 本当ならもっと周到に準備を済ませているはずだったのに、後一歩踏み出せないまま昨日、なかばやけっぱちに彼女を誘ったせいだった。

 同じ職場にいても、なかなか二人きりにはなれない。年末だから仕事も溜まってくるし、次々に上乗せされていくそれを毎年やっているよう少しずつ着実に片付けていく。

 この時期に六時退社なんて自分でも無謀をやれたのは、こんな人生の唯一の救いが、今のところ彼女しかなかったからだとも理解している。恋にうまく酔いきれない不器用さがもどかしいのは、半分諦めもしているためだ。

 今更ながらに自分の服装と周りのそれを比べ見劣りしてはいないか不安になる。それだけは前もって用意しておいたものだったから、間違いはないはずだ。全体的に落ち着いた色を選んでいたし、ぼくには三色以上の配列は難しすぎるから、同系色で揃えておけば安全だろうという貧困な発想しかなかった。

 スーツが一番だな、と服を選ぶ手間がどれほど大変な作業かが再確認できる。ファッションに深い興味も持たないぼくは、いつも無難なところに落ち着くしかなかった。

 待ち合わせで混雑している繁華街には、浮き足立った笑顔が印象的で、皆それぞれ相手を見つけ駆け寄っていく。建物から放射される明かりは最高潮で、デコレーションツリーのカラフルな点滅が闇夜にぼやけ溶け、滲み込むように消え、しばらくするとまた一瞬の輝きをみせる。

 人の熱気で繁華街の温度は上がり、夜風の通りも遮られ、寒さに弱いぼくには好都合だった。ジャケットの内ポケットに忍ばせたプレゼントの包みを手で確かめ、彼女を探しているのだけど、七時を過ぎてもまだ姿を見つけられない。先ほどからぼくは、無性に急かされる自分を感じていた。焦りは不本意なもので、じれったくなればなるほど冷静でいられなくなる。早くこい。心の中で呟き彼女がどんな服装で来るのか訊いておけばよかったと後悔する。その場を離れ建物の反対側に回ってみることにした。

 待ち合わせた場所は繁華街の入り口付近だった。その繁華街を先に進み反対側の出口へ向かい、人の多さに先を急ぐぼくは邪魔をされ、なかなか前には進ませてはもらえず、すっぽかされたのでは、という不安も煽り、強引に人の波に割って入っていった。

携帯を使えば簡単なことだったことを思い出し、早歩きで携帯を開く。電波は混雑してはいないのだろうかといらぬ心配をしつつ、発信ボタンを押す。

 あ、と前方にこちらを指差す女性の姿が見慣れない格好をした彼女だとはしばらく気づかずに、それでも近寄っていくにしたがいラフなジャケットとジーンズ姿の彼女が、少し申し訳なさそうにはにかんでいるのが視界にはっきりと映る距離まで来て、

「こっちじゃなかったっけ? 場所間違えてた?」

 ぼくは、自宅から近い繁華街の出入り口を入り口だと勝手に思い込んでいて、彼女にそう言われ、どちらも入り口で、出口であるということに、説明不足だったぼくのミスだと謝った。

 七時半を過ぎ、困ったことに突然の食事の誘いと了解を得たぼくは、お店の予約をしていなく、でも、彼女を連れていくのはそこに決めていたから、それ以外の選択肢が浮かんで来ないために、三階建ての、吹き抜けの中華料理店へ向かうことにした。

 そこは、一階が中華、二階はイタリアン、三階がフレンチとなっていて、三階のテーブルから吹き抜けの階下を覗けるようになっていて、一階の中華料理店で食事をする人達を眺めながらの告白をするつもりだったけど、そういう見晴らしの良さから三階は人気があり、こんな日に予約なしで入れるような空きは当然なく、彼女の服装もフレンチという格好ではなかったから、中華のカウンターに予約なしで食事が出来るか訊いてみた。

 三十分以上は待ってもらうことになりますが、と言われ彼女を振り返る。大丈夫、いいよ。彼女は店内を見回し、興味深そうな眼差しをおくっている。

 待ち合い用の席に誘導され、彼女と対面でテーブルにつく。別の店員がワイングラスにちょっぴり注いだ赤ワインをサービスですと差し出した。

 普段こんなことされたことがない。今日だけの特別なのだろう。せこいなぁ、と彼女がグラスを回し、口をつける。ふちについた彼女の唇がほんのり滲み、白い跡になってグラスに残った。

 隣に座っている空き待ちのカップルが、待ち時間にいらだち喧嘩を始め、しまいには二人して出て行くのを確かめた後、「なら、予約しとけって話だよねぇ」と言われ、脈拍が上がる。

 この店、照明が暗いね。落ち着いた感じがいいね。彼女は不機嫌ではないらしく、少なくともぼくはそう願うのだが、ワインのお代わりを定員に勧められ歓んで彼女は受ける。

 ぼくもグラスに注いでもらい、彼女より遅れて飲み干す。喉の渇きが通りの悪さで感じられ、喉元にワインがつっかえているみたいに味がいつまでもこびりついているので、二、三回咳きをしてみた。その際に胸にそっと手を当て、感触を確かめる。さっきから、それがなくなっていないか心配で、何度も同じ動作を繰り返していたらしく、彼女が気分でも悪いのかと、顔を近づけ眉を細める。

 あわてて弁解するぼくの滑舌は、自分でも笑ってしまうくらいにたどたどしい。

 もう酔ったの、とにやける彼女につられぼくも笑顔になる。暗めの照明はこんな時便利で都合が良い。なるべく表情を読まれないよう懸命に自分を偽る。待ち時間に焦らされ今すぐなにもかもぶちまけてしまいたい衝動を抑えることに精一杯で、ぼくは彼女との会話を楽しむ余裕をなくし無口になっていた。

 四十分過ぎてようやく席に通されることになり、ぼく達は並んで、中央にある大階段の下辺りの席に案内される。歩きながら他の席を見渡すとさすがに同性で食事をしている者は見られない。

 木製の、ニスがしっかり塗られた部分が照かり、曲線の多い造りの、変わった形の椅子に触れ、本当に雰囲気がいい店だと彼女が繰り返す。

「キャンドルで服が燃えたりしないかな」

 自分の冗談で彼女は笑い、ぼくも調子を合わせ、無理に笑顔をつくる。

 テーブルの中央に置かれた、厚めのガラスで模られたイルカ型の器に、ゼリー状のキャンドルから、微かに桃のような香りがしてくる。微香じゃないと料理の匂いが消されるからじゃないか、と彼女の意見を求める。

「中華って香りを楽しむようなもの、あったっけ?」

「あるでしょ、そりゃあ……」

 なんだろう。二人して顔を見合わせ互いの、料理に対する関心の薄さを笑い、おいしければそれでいいんじゃなかろうかという結論に至り、ようやく捉まえた店員に一気に飲み物と料理を頼み、日も日だし、時間もそうだから注文には時間がかかり、飲み物ばかりが先に届き、最初は赤ワインがまだ飲み足りない彼女に付き合い、ぼくも同じものを頼み、二杯目からはめいめい好きなものを探し、メニューを目でさらう。

 ようやく最初の皿が来た。豆腐のサラダと生春巻きに包まれたエビやキュウリをおかずにぼく達はジントニックとレッドアイをそれぞれ順調に減らしていく。

「いいかげん次持って来いよな」

「エビマヨ食いたい」

 食いたいって、口悪いなとぼくが咎める。彼女は箸を口にくわえ、さらにお下品なマネをしてみせる。

 職場で見る彼女とは違い、お互いの間にあった壁がいくらか透けているようにぼくは感じ、いつものように苗字で呼ぶのを止めてみようかと迂闊な誘惑に駆られ、いや、なれなれしすぎる、と思いなおす。

「ほくん」

「稔だよ。ミ・ノ・リ」それに“ほ”なんて読み方しないよ。それは穂でしょう。

 そっか、エビチリはまだか。彼女はやけに明るくて、それがぼくにはどちらともとれず、胸にしまっているものを抜くタイミングを計りかねていた。彼女が急に名前でぼくのことを呼んだことに驚きを隠しきれずそれ以上会話をつなぐことができなかった自分に腹が立った。そのタイミングを利用し、ぼくも彼女を名前で呼べばよかったのに。

 小エビのマヨネーズ和えがきた。彼女は一皿をすぐに食べ終え、馬髭蛇酒ってなんだろね、薬草酒って書いてあるから体にはいいんだろうし、「頼んでみよっか?」

 不味かったらぼくにも飲ますからと、企んだ笑みをしてみせる。自分の注文には責任持てよな、と突き放してみた。

「口こじ開けてでも飲ましてやるから」

 引き笑いになった彼女の表情でやけになっていることがようやく分かった。でも、いまさらぼくは退くわけにはいかない、と自分を後押しする。

 次いで、彼女が北京ダックを食べたいと言い出した。値段を見ると一羽で八千円もするのに気勢をそがれ、でも、こんな時に躊躇ってどうする、思いっきり金を使ってやれ、とやけぱっちに頼む。

 残りを炒め物にするか、スープにするか訊ねられ、彼女はぼくにまかせると言い、スープにすることにした。

 カオヤーピンという包餅にパリパリの皮を挟んで食べる。ぼくは味噌のようなものを塗り、細切りのキュウリと葱を巻いて、、包み手づかみでほおばる。

 味おんちのぼくはふつうという感想しかなかった。彼女は美味いを連発していた。それを食べ終えるとお腹も限界をむかえてきた。

 注文もようやく止まった頃には九時半にさしかかるくらいで、彼女の支離滅裂な話声も弱まり、ぼくはここしかないと腹をくくった。

 暑くて途中から椅子に掛けていたジャケットの内側を探り、中身を彼女の前に置き、

「それ、あげる。プレゼント」

「……なに、なんの?」

「今日はそうだろう。だから……」

 最初の彼女の言葉で出鼻を挫かれ気落ちしたぼくは弱気に戻ってしまった。酔いの効き目も薄れてきたみたいだ。

 彼女は受け取れない、と細長い包みに手をつけようとはしない。たまらず、樫山さんのことが好きだから、受け取ってほしい、と付け加えた。下手だ、とすぐにしょげる。 

 それなら、なおさら貰えない。彼女は酔いを振り払ったしらふの顔をしていた。後付けで、付き合ってほしいというせいふを吐くつもりだったけど、引っ込めざるを得ない。

「でも、それおれがつけるわけにもいかないし、他の人にあげるつもりもないから、拾い物した気持ちで貰ってよ」

 彼女は首を横に振る。高野先輩のことが好きだって知ってるよ、それでも告白したかったから。そういうと彼女は、俯いていた顔を上げ、じっとぼくを見つめたまま、ありがとう、とネックレスの入ったケースを掴み、ぼくのテーブルの前にそっと置いた。

「でも、やっぱり受け取れない」

 稔くんの言ったようにわたしは高野先輩が好きだから。

 彼女の言葉はもう結論を告げていたけど、今のぼくにはいまひとつこたえないのだ。もっと強くはっきりとした言葉がほしくて、

「ちゃんと答えてほしいんだ。このままだと未練が残るから」

 そう前置きしてから、ぼくとは付き合う気がないと彼女の口から言ってほしい、そうしたらこれはさげるから。

「わかった。わたしは稔くんとは付き合うつもりはありません」

 ぼくは目の前の包みを掴み、ジャケットの内ポケットへ押し込む。

 時間が来て、席を立ち会計の場で、彼女がさらに追い討ちをかけるように、割り勘にしようと言う。ぼくはせめてこれくらいはさせてもらわないと、立つ瀬がないと訴えた。

「そんなおおげさな……」

 おおげさでもなんでもなく、それくらいしないと、もう傷ついてしまった“男”をもっと下げることになるから、これはレジの係りが嫌がるくらい粘り、呆れたようにため息をついた後、ようやく彼女は承諾してくれた。

 もうやることは済んだ。見事な、分かりきっていた玉砕劇だった。あとは傷心を自宅へ帰り癒すために飲み直そう。

「次、行かない? わたしが奢るから」

 振り返り、もう一度聞き返す。同じ答えが返ってきた。彼女には悪いがもうそんな気にはなれない。振られたばかりの相手を、振った相手が飲みに誘う。振られたすぐ後に。ぼくはバカにされているのだろうかと疑わしく、返事を渋っていた。

 奢られっぱなしじゃわたしの気がすまない、と彼女は先に歩き出し、仕方なくぼくはその後を追う。後ろ髪を引かれている自分をなじりながら。

 彼女は後ろからついて来たぼくに、

「稔くんのいつも行く店にいってみたい」と言い出した。職場の会話で話してくれたことがある、と彼女は強調し、ぼくはどの店のことだと考え、ああ、そういうことか、とこのしたたかな女の思惑に沿ってことを進めてあげようかどうか迷う間もなく、了承した。

 高野先輩達とよく行く店。本当は先輩が彼女とよく行く店になっていた。先輩に付き合わされて下見に行った店だ。

 チカチカと寿命間近の蛍光灯を目にうるさく感じながら、ビル街の一画にある、質屋の隣の階段をあがっていく。

 扉を開けるとすぐにカウンター席があって、その右奥にテーブル席がある。ぼくは二度この店に来たことがある。二度目はこの店のしっとりとした感じに惚れ、友達を誘い訪れた。

 前に座った、奥の壁側の席がいいと思ったが、あいにく席は他の客にとられていたので、その隣の席についた。テーブルは六席だけで、店内全体も狭い造りだったが、かえって客を選んでいるような雰囲気を引き立てていた。

 彼女は、この店も大人だな。そういって、ぼくの店の趣味がいいと褒める。冷静にそれを聞き、カクテルを頼む。さっきの店でも一通りのカクテルは飲んだけど、この店のほうが味は良いことをぼくは知っていた。果実の味がしっかり効いていて、カシス系は彼女のお気に入りになり、ソーダとオレンジを立て続けに二杯飲み干した。ぼくはジントニックをまた頼み、軽く小腹が減ってきたので、それでも油ものは勘弁だったから、トマトスライスを頼むことにした。彼女は前の店でレッドアイを飲んでいたから、大丈夫だろうと思ってのことだった。

 薄くスライスされたトマトに細い線を幾重にも重ねるようにマヨネーズがかけられていて、小皿に取り分けるもの面倒だと彼女がいうので、そのままつつき合うことにした。

「稔くんもトマト好きなんだ」

「お袋が、腹の中におれがいた頃よくトマトを食ってたらしいんだよ。それの影響じゃないかな。プチトマトをおやつ代わりに食ったりしてるよ、今でも」

「フルーツトマトも美味しいよね。でも基本は桃太郎でしょ」

 当然。あっという間に完食し、またトマトスライスを頼む。それもすぐに食いつくし、彼女は白桃のカクテルを注文した。

 注文は思ったよりもスムーズで、定員の手際のよさに感心し、またトマトスライスを頼む。

「いい加減しつこいかな。どうしようか? この店のトマト全部食いつくそうか」

まだ腹は大丈夫、ぼくらはうんざり気味のボーイを捉まえると、カクテルと一緒にトマトスライスの追加をする。

申し訳ありませんが本日材料がなくなったもので終わりにさせていただきたいのですが、と店員が侘びを入れる。

「コンビニでも行って買ってくればいいじゃん」と納得しかねる彼女に、

「素材にこだわりがあるんだろ。美麗さんはわがままだな。いいじゃんもう充分だよ。それより、そろそろ店出ないか」

「え、まだ話したりないんだけど。先輩の愚痴も聞いてもらいたいし、そういえばこないだ高速に乗ってドライブにいったんだ。わたしが強引に誘ったんだけどね」

「高野先輩がよく許可したね。美代子先輩は知ってんの? ばれたら不味いことになるんじゃないのかよ」

「お墨付きだよ。わたしの気持ちはもう伝えてあるから……」少しペースを落とそうとカルアミルクで調整する。

 彼女が先輩のいたらなさを嘆いている。全然振り向いてくれないし、まだ彼女とわたしを両天秤にかけているような態度が癪に障ると告げる。

「先輩は美麗さんには思い入れはないと思うよ。だって美代子先輩ひとすじだし、よく飲み会の席で、のろけられるんだよね」

 そんなことない。付け入る隙はあるはずよ、と彼女が怒りをあらわにする。まだ先輩の援護をするほどに気持ちは揺れ動いているのだろう。先輩だって男なんだ、したたかな気持ちを持っていないわけがない。だからこそ、恋人がいるのに二人きりのドライブなんて危険な状況に進んでいったのだ。あんなさわやかそうな人を演じているけど内面は分かったもんじゃない、とさらに悪態をついてみせる。

「……それはあるよ、たぶん。浮気が出来るほど器用な人じゃないから……」

 俯き、トマトスライスの中身が抜けて輪切り状になったそれを箸で回し皿の上に円を描く彼女の物憂い表情がぼくの胸までしめつける。

 早く忘れてしまえ。心の中で繰り返し唱える。ふっ切れてしまえばもう過去のことになるんだから、この場で宣言してしまえ。

 まだ僅かに残る彼女への想いが増長され膨らんでいくのを胸の内に確かめながら、ぼくはもう一皿トマトスライスを注文した。

 驚いたことに本当に店員はトマトを買ってきていて、注文した後品切れだったことに気がついたけど、何も言わず店員が戻っていったので、彼女と不思議がっていたら、「そこのコンビニで買ってきたんです」と皮肉を言われ、もう本当におしまいですから。

 男性店員には恋人はいないのだろうか、それともこんな行事には興味がないのか、仕事でやむなくキャンセルでもしたのかな、と彼女とひそひそ話し、

「ほんとに無くなるまで食べちゃうことになったね」

 彼女がほんの少し笑顔を見せた。

「お前も手伝え。トマトスライス完食するぞーおー」

 彼女がぼくに続いて右手を上げ小さくおーと言ってみせる。


 三軒目に入ったバーではほとんど注文もせずに会社の上司や同僚、後輩の嫌いな奴の教えあいっこになり、いくらか機嫌を取り戻した彼女は、次々とぼくの知らない、女の世界の執念深さや恐ろしさを口にし、ついでに誰かれが不倫しているとかの際どい会話が始まると、ぼくは知らないほうがよかったと思えるほど、自分の勤める会社の乱れた交友関係に耳を塞ぎたくなった。

 そんな調子で店を出て、彼女がケーキを食べたいと言い出し、

「どこか売ってる店ないかな? 」

「今何時だと思ってんだ。三時だぞ。店なんかみんな閉まってるよ」

「コンビニので我慢するか……」

 彼女の思惑ははずれ、コンビニのケーキも品切れで、同じようなことを考える人はいくらでもいるものだと、彼女が、「きっとわたし達みたいな人たちが買い占めていったに違いないわね。嫌がらせよ、ある種の」

「被害妄想もそこまでいくと笑えるな」

「じゃあ、なんで売ってないのよ。今日に限って」

 突然怒り出した彼女をなだめながら、内心もう面倒くさくなってきていたぼくは、タクシーを拾いこんな酔っ払い女は早く自宅に運んでもらおう。

 タクシー乗り場まで来て、彼女は途中まで歩いて帰ろうと言い出す始末。もう振り回されるのはうんざりだったけど、千鳥足の彼女を一人にはさせておけないので、しぶしぶ後を歩きついていく。

 三軒目の支払いをぼくに譲ってくれたことから、もうそういう気づかいを忘れるくらいに酔っているのだろう。

 彼女は星が見えないのは、電線のせいだとわめき、ぼくは道行く人たちに申し訳なくなり、縮こまりながら彼女の口を手で塞ぎ、静にしろよと叱ってみる。

 歩いて帰るといっても到底無理な距離で、ぼくはどこでタクシーを拾おうか、その機会を窺い、車道と彼女、両方に目を配り歩いていく。

 二十分ちかく歩きっぱなしで、彼女も酔いが醒めたらしく、しんみりとした雰囲気がまた彼女を傷つけやしないか心配になり、ぼくはできるだけ楽しい話題をと頭の中のおもしろ話を探そうと掻き回すが何も出てこない。

 じっと黙って彼女の後ろ姿を眺めるだけだった。

「そろそろ捕まえようか、タクシー」

 彼女は完全に平静を取り戻している様子だ。ぼくは捕まえたタクシーに彼女を乗せ、自分は友達の家に寄ってから帰ると嘘をつき、彼女と別れた。

 ひとりになると今日起きた数時間の出来事がいろいろと断片的に浮かんできて、やっぱり振られたことに予想外の痛手を受けている自分の心を知る。

 振られることは承知の上でも実際に結果を知らされると辛いもので、様々な後悔が起こり始める。

 彼女との会話での一言一言が間違いを犯しているような気がして、もし的確な言葉を選んでいたら別の展開があったような気がしてくる。気のせいだ――

 まだ現実を受け入れられないのか、と自分を恥じた。胸ポケットからネックレスの包みを取り出し、包装紙を破りケースを開く。

 暗闇の中、街路灯に照らし出された銀色の鎖にかかる蝶の形をしたネックレスが憎らしくなり、その場にケースごと叩きつけた。

 カポン、と気の抜けた音に気勢をそがれ、傷つき角がへこんだケースを拾い上げる。ゴミ箱はないかと裏路地に入っていく。

 住宅街のど真ん中に小さなすべり台とブランコ、ベンチが一台、それに影を落とす公衆トイレがあるだけの、公園と呼んでいいのか迷うくらいの敷地にカップルが二人でいる。

 ベンチに当たる僅かな照明に見え隠れするカップルの動きでキスの最中だと分かった。

 ケースからネックレスを取り出し、「こら、なにしてんだ」と叫び二人に向って投げつけた。

 始めは男の方が睨みつけ立ち上がろうとしたが、投げつけられたものがそれとわかり、

「それ、やるよ。バカップル――」

 ぼくのその言葉に男は、ありがとう、と陽気に頭を下げ、彼女に手の中のものを見せている。彼女も微笑んで、落ち込むなよ、と励まされ、恥ずかしさから走ってそこを立ち去った。 おまえらのために勝ったわけではないクリスマスプレゼントを受け取り、あの二人は何がありがとうなのだろうか。ぼくならすぐに訝しさが勝って捨ててしまうだろう。質にでも入れて金にするのだろうか。そんな下卑た考えまでが浮かんでくる。

 

 自宅に着いて、風呂に入っていると、携帯が鳴っている音が聴こえてきた。あせりもせずにそのままシャワーを流しつづける。

 風呂から上がると、また鳴った。開くと彼女の名前がでてきた。

「あ、稔くん。ごめん寝てた? 」

「いまから寝るところ」

「……そう、ちょっとだけいい? 」

 なに、とぼくは迷惑そうに訊く。もう済んだことなのに、今日のお礼でも言われるのだろうか。お礼を言われるようなこともしてはいなかったけど。

「なんか飲みすぎたみたいで頭がクラクラするんだけど……」

「そうとう飲んでたぞ。最後はちゃんぽんまでしてたから当然だろう」

「そうかも……」

 彼女はそれから今日のことを話し、久しぶりに内心をさらけ出せたこと、ぼくが告白してくれたことが嬉しかったことを、舌がもつれそうなほど早口で話し、ぼくがいいかげんな相槌を打っているのが分かったのか、眠いの、と訊いてくる。

「明日も仕事だぞ。もうすぐ五時になるよ。大丈夫なの、そっちは」

「このまま起きて出社しようと思ってる」

「おれを付き合わせるつもりか、断わるぞ」

 風呂上りで意識がはっきりとしていたし、目も覚めていたけど、ぼくは、どうしても眠りたい理由があった。

 このままだと昨日と今日が繋がって一つの記憶になってしまうためだ。この気持ちのまま会社に行って彼女と会うのがいやだった。

眠って一度今日の出来事を昨日のことにしてしまいたかった。過去のものにするためには日の繋がりを断つしかない。そのために無理にでも眠る必要があった。

「……それじゃあ、切るね。明日、いや今日か、会社で……、おやすみ……」

 通話を切ろうとした瞬間、割って入るように彼女が言った。

「時々、電話してもいい? 」

「眠くなるまでなら、途中で寝てもかまわないならいいよ」

「それでもいい。じゃあまた」

 他人に話せばまた咲きそうな花じゃないかと言われそうだが、そんなに早く気持ちの切り替えができるほど、ぼくの彼女への想いは軽くはなかった。気持ちの移行には時間がかかる。だからあえてその花を咲かせようなどとは考えないようにした。

 仮に彼女が先輩に対する感情のいくらかをぼくに向け始めているとしたら、ぼく達の関係の主導権がこちらにあることになるではないか。ならばなおさら急くこともない。振り回された分は仕返ししてやろう。それが悪い結果を生むことになっても、今のぼくには縋りつきたいほどの魅力は失せて、その輝きはもう取り戻せそうにもないように思われていたから。


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