『ラッフルズセセリ』
図書館へと続いている下り坂にある公園を素通りして歩き、ベンチでお昼をとっている、制服姿の女子社員だろう三人組から、楽しそうなおしゃべりの内容までこちらに届いているのを彼女達は知らず、わたしからすればとてもそんな場所で話せないような内容まで聞かれ、わたしと同い年くらいの女にはありがちな、浮ついた華やかさがあった。
平日に会社をずる休みしての読書には、多少抵抗を感じないわけではなかったが、時々起こる、この発作的な行動は仕事よりも優先され、わたしは風邪を引いて寝込んでいるはずの、自宅にいる自分を演じ、車内から会社に電話を入れ、午前中をちょっとした生活用品の買い物に当て、今こうしてずる休みした本来の目的を果たすため図書館へ向かう途中だった。
もう草木の繁りも最盛を過ぎ、これから気温も下がり調子になっていく、季候の谷間に似合わぬ温かさで、今日は脇の下にじんわり汗ばんだ感触があるほどの好天気だった。
すこし早めの秋物で出かけたこともあり、アーガイル模様のセーターに、ギャザーなタイトスカート、ショートブーツといういでたちを台無しにさせた季節外れの暖かさがうらめしい。
今日はどうしても流行のアーガイル柄が着たかったので、本当は派手な配色のミニスカートを合わせるつもりだったのを、グレイの地味なものに変更した。それでも、周りと見比べるとわたしは充分見栄えのするほうだと信じていた。
けれど、会社の制服を着ると、途端にわたしは地味になる。あの制服がわたしをそう見せるのか、本来のわたしが地味なのか、わたしには判断がつかなかったが、大学時代の友人には一度として地味だなんていわれたことはなかった。奔放な恋愛歴もあって、それに似合う自分を演出するような派手で際どい格好もしてみたりもした。
平日の公園や図書館は年寄りのたまり場みたいになっていて、駐車場に車を停めた際に、身障者用のスペースに停めてあった車の持ち主がやってきて、どうみても健康体そのもので、どこが悪いのやらと、きっとなんでもないくせに図書館に近い場所を選んだのだ。
そう推量し、迷惑なやつだと足どりも怒り気味になり、地面を蹴りつけるような歩き方になる。勝手な憶測だったが、訝しさは消せない。
公園をランニングする老夫婦の健やかな笑顔や、図書館の入り口でタバコをフカす、小汚いおじさま達が、キツイ表情に変ったわたしの方を振り返り、図書館に来るのに、わたしは場違いな人なのだろうかと、自意識過剰な自分を見つけ、それでもやっぱり他人に見られることを意識しないわけにはいかなかった。
図書館に来るだけなのに、こんなに気合入れておしゃれするのはどうかしていると自分でも不思議でしょうがない。男を意識しているといえば確かにそれもある。でも自分自身の満足のためというのが大部分を占めていた。
好きな服装で街を歩くと機嫌は頗る壮快で、他人のずうずうしい根拠のない中傷にはなれていたから、わたしは他人のわたしに抱くイメージにはあきらめを決めていた。
入り口の自動ドアが開くと、いつもの案内係のおばさんと軽く会釈を交わす。あちらもついにわたしの顔を覚えたらしく、久しぶりですね、と話しかけられた。無言でさらに会釈して、二階の第二閲覧室へ上がる。
ロッカーにバックを入れ、手ぶらで室内のカウンターを突っ切り、いつもの生物棚にある昆虫図鑑を手にする。
わたしは怖いもの見たさで、グロテスクな虫達の写真を眺め、心の中で気持ち悪さを感じながらもページをめくるのが趣味だった。
チャバネゴキブリの薄茶色は気味が悪くてスリリングな気持ちにさせるし、蜘蛛の足に生えた毛に鳥肌の立つ、底気味のわるさを感じることも愉しみのひとつだった。
微生物の図鑑を眺めるのも好きだった。奇形な生き物を見ていると、初めのうちは顔をしかめ、しだいにその形になれてくると、図鑑の写真に写る生き物達に手で触れてみるという行為に走り出す。
なんでこんな生き物が存在するのだろうか、その存在意義を考えるのがわたしは好きだった。
その図鑑はもう何度も読み返していたから、今日はもう一冊、珍虫図鑑も手にしてみた。いくつかページをめくり、手の止まったところの名前を口に出さずに読んでみた。
そこには『ラッフルズセセリ』というセセリ科の蝶の写真が乗っていた。写真の彼は全体が紫を深くしたような色で、黄色と白が羽根に混じり、それほど派手な印象を受けなかった。とても地味な、その蝶のなにが珍虫たらしめているのかと解説を読む。
思わず吹出しそうになったのは、解説文にわたしの感想と同じようなことが書かれていたからだ。
日本では比較的地味な蝶という扱いで、しかも分類状では、学者によって異なる見解があり、蝶と蛾の中間というふうな位置づけがなされていた。
翅棘とよばれる棘があるものを一般的に蛾と分類するそうで、しかしこの蝶の後翅にそれがあるために、専門家の意見の異なる原因となっているらしい。他にも蝶と蛾の違いが書かれていたけど、決定的なものは未だないそうだ。
オーストラリアに棲息するその、地味な色合いのものが多いセセリ科にしては珍しく極彩色な、蝶か蛾か分からないものの写真は、どう見たって極彩色という印象は受けなかったし、それが蝶なのか蛾なのかさえ怪しく、カブトムシの雌とゴキブリの境界さえあやふやにさせてしまいそうな、どっちつかずの生き物は、わたしの心を落ち着けなくさせる。 昆虫に対するわたしの恐怖心は、さらに深まったようで、払拭できる可能性の芽をいっさいにつまれてしまった気がした。
図鑑の写真にある蝶はとても地味で、一般受けするようなものではないし、それ以上眺めるには退屈な対象でしかないと思いつつも、名前の持つ響きの魅力に惹かれ、その本をカンウンターにもっていくことにした。
受付まで来て、図書カードを忘れていたことに気がつき、面倒だったので無くしたことにし、再発行をお願いする。免許証を渡し、受付の女性が、わたしの名前を読みかねていたので、
「樫山美麗です。ミライと読みます」そう教えてあげると、パソコンの端末で名前を検索し、ああ、そうですねと、キーボードをまた叩き、なにか入力をしている。
わたしの目の前で図書カードの再発行の手続きをしている女性は、黒の制服姿でスカートの丈が膝上まで短く、まるで男を誘うためにそんな図書館に不釣合いな服装をしているに違いない、と勝手にわたしは決め付け、図鑑を受け取るとそのまま階段を降り、また受付の女性に会釈をし、図書館をでる。
ガラスに透けてわずかに映る自分の姿を見て、他人のことをいえたものではなかったと自省する。
先ほどまでいた三人組の女子社員は業務にもどったらしく、その空いているベンチで、珍虫図鑑を広げ、まっさきに地味な蝶のページをめくり、再びその写真を眺める。
名前負けしているのはわたしも同じだ、と急に先輩のことが思い出され、恋しさから、物思いに耽り始める。
入社一年目のわたしが先輩のことを慕うようになったのは、最初の業務を教えてくれる、新人の教育係だったのもあり、しだいに打ち解けて、今はちょっとした漫才みたいなリズムで会話を交わし、それから周りのうわさで、わたしは美代子先輩と、高野先輩が今年で付き合い始めて三年が経っていることを知り、それでも諦めきれず、なりふり構わず、妹のような態度で彼を攻め落とそうとやっきになっていた。
しかし、ふたりの正統派カップルの絆は固く難攻不落で、うす汚れたわたしには、二人の誠実な交際は目が眩むような純粋さだった。
二人の間に入り込む隙は無いように思えたが、元々同性にも好かれるわたしだったから、美代子先輩は、おそらくわたしの気持ちを知った上で、時々わたしと高野先輩が食事にいったりドライブしたりするのを黙認しているに違いない。
美代子先輩の余裕がわたしの自尊心を傷つける。わたしなんかでは高野先輩を誘惑することは不可能だと確信できるくらい、二人の信頼関係は出来上がっているようで、それがわたしには許せなく、美代子先輩に挑戦するつもりで、いろんなアプローチで迫ってみるが、寸でのところでやんわりとした抵抗を高野先輩は行う。
それなら、最初からわたしに冷たい態度で、思いっきり突き放してくれれば、失恋の痛手がそのうち薄れ、自然にまた別の恋愛が始まることも分かりきっているのに。
今職場で、先輩とは他に気になる同僚がいる。決して行動力のあるほうではなかったが、地味な仕事の要所でその冷静な判断力の片鱗を覗かせている。これは内密なのだが、密かに彼の昇進の話も上がっているらしい。
本人は全く気づいていないみたいだが、近いうちに人事の大幅改革が行われる予定があることを、人事部の同期から、その情報を得ていた。
あいかわらず写真に写っている、全体が黒色で若干紫が羽根に混じっているだけの、本当に地味な、蝶でもない蛾でもない珍虫を眺め、わたしはひとり憂いまじりに微笑んでいた。
ベンチに座りその図鑑をまじまじと注視していたわたしの横を若い女子高生の二人組みが通り、ちらっとわたしの眺めている図鑑を見て、こちらに聞こえる声で、あの人変なひとじゃない、昆虫図鑑なんか見て、と囁いているのが、はっきりとわたしの耳に入ってきた。
確かに、こんな女は奇異の目で見られてしかるべきだろう。
でも、今日はいつものような恐怖は図鑑からは感じられない。きっと先輩のことが頭にあって、集中しきれないからだ。ベンチにかかる影から洩れる日差しは、葉の揺られに伴い図鑑を不規則に照らす。照り返しの光にわたしの目は小刻みに刺激され、大きくまばたきをしてみた。目の奥に小さな点滅が幾つもあって、その隙間から過去の恋愛が脳裏を過ぎていく。
いままで付き合ってきた男性はみな、精神的に幼く、“俺”のナルシシズムが強い奴らばかりで、自分の未熟さもあり、そんなタイプに惹かれていたが、同じような連中とばかり付き合っていると、自然とわたしの心は、平穏を求めるようになった。だいたい自己顕示欲の強い“おこちゃま”ばかりで、世間を舐めているおつむの弱い大学生の目的はセックスと相場は決まっていて、女と寝た数を競い合うような短絡的な思考の連中ばかりがわたしの周りに寄ってきた。
大学卒業後、初めて入社した会社で、まだ学生のノリの抜け切らないわたしには、高野先輩は、今までに出会ったことのない大人の男性に見え、まだ右も左もわからないわたしに丁寧に業務の進め方を教えてくれることにも純粋に感謝することができていた。
たったそれだけの優しさにわたしは不覚にも彼を異性として意識するようになり、それと同じくして、同じ職場の美代子先輩と三年も付き合いっていることを知った。
その上でも、わたしは先輩を好きになってしまい、仕事中目で何度も彼のことを追いかけ、気がつけば話すきっかけをつかむことばかり考えていて、わたしは物覚えの悪い後輩を演じ、先輩を質問責めにした。
自分の業務もあるのに誠実に彼はわたしのつまらない質問にも丁寧に答えてくれ、気遣いの言葉を必ず最後に添え、「ゆっくり覚えていけばいいよ」と微笑んでくれる。
そんな経験は初めてのことだった。平凡なんて言葉がわたしの心に巣食うとは、大学時代のわたしには想像もつかないだろう。
いつも見慣れたはずの彼の顔立ちが、ぼんやりとしか思い浮かべられなくてもどかしい。
顔なんてみてなかったのかもしれない、と彼の飾り気のない親切心を見つめていただけに違いない。そういう風に言い聞かせないと内心の動揺は激しさを増していく一方だった。
図鑑の先を見てみる気にはなれなくて、ずっと同じところで止まっていたページが、ゆっくり開いていく。風か本の習性か、一ページ前に戻っていくそのページを目で追い、ああ見えなくなっていく、と名残惜しく、閉じていく彼の大きな瞳が寂しそうに遠くを見つめたまま消えていった。