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男の人の語る、この不思議な物語は、トーシャの夢の中を、色鮮やかな映像となって流れてゆきました。
物語の最後に、男の人に手を引かれてどこかへ去ってゆこうとする小さな女の子の後ろ姿が現れました。その少女が、ふと振り返り、顔が見えたら、それは妹のミヤなのでした。
それでびっくりして、いっぺんに目が醒めました。トーシャは息を飲んで目を見開き、いつの間にか男の人の胴体にもたれかかっていた身体をがばっと起こしました。
「……ミヤ?」
悲鳴のように叫んだと思ったけれど、口から出たのは、まだ寝ぼけたような頼りない問いかけでした。
見れば、ミヤはちゃんと、男の人の胴体を挟んだ向こう側に座っていて、さっきまでの自分がそうしていただろうように、うつらうつらと船を漕ぎながら男の人にもたれかかっていました。
トーシャの声に、ミヤはぽかんと目を開けてトーシャを見、それからすぐに男の人を見上げて、うれしそうに微笑みました。
トーシャにはぼんやりと目をくれただけで、何の関心もないように、すぐに視線を男の人に移したのです。
その目はもうすっかり、うっとりとした崇拝に輝いていました。
この人が、美味しい物をくれたから? 温かいマントにくるんで優しく抱き寄せてくれたから? 聞いたこともないような不思議な物語を聞かせてくれたから? それとも、この人自身がとても不思議だから? 綺麗だから?
……吸い寄せられるような眼差しの熱さに、トーシャは考えました。
こんな小さな子供でも、女の子というものは、働き者のワジャルを捨て、親や生まれた村を捨てていったフィーナのように、こういう綺麗な男の人には簡単に心を奪われてしまうものなんだろうか――。
この人はトーシャにもミヤにも優しくしてくれたけれど、妹が、得体のしれない男の人を、こんなにうっとりと思慕を顕わに信じきった様子で見つめているのを見て、トーシャはやっぱりなんだか不安になりました。何だか良くないことのような気がしました。
さっきの、ミヤが連れ去られる場面はただの夢だったとしても、まるで本当にこの人に妹を遠くに連れ去られてしまいそうな気がしたのです。
この人はやっぱり、人を惑わす魔物か、危険な精霊か何かなのでは? こんなふうに突然現れるなんて、最初からそもそもおかしい。食べ物だって、どこから取り出したのかもわからなかった……。
そこまで考えて、トーシャはぞっとしました。だとしたら自分たちは、精霊の差し出す食べ物を食べ、水を飲んでしまったのです。物語の中で、精霊の食べ物を食べたり飲み物を飲むことは、必ず、彼らの世界に取り込まれることを意味しています。
けれど、と、トーシャは思い直しました。
魔物や精霊なんて、物語の中のものだ。
でも、もしも魔物でなくても、この人は実は人さらいかもしれない……。
子供、とくに女の子を攫って遠くに売り飛ばす悪い大人がいると、だから知らない人にはついていってはいけないと、ミヤにも気をつけていてやらねばいけないと、トーシャはいつも言い聞かされていたのです。
そんなトーシャの疑いを知ってか知らずか、男の人は自分の左右に抱えたミヤとトーシャを順番に見下ろし、等しく優しい笑顔を投げかけました。
「起きたかい、トーシャ、ミヤ」
トーシャはしぶしぶ頷きました。
ミヤは男の人から一瞬でも視線を外したら損だと言わんばかりにじっとその顔を見上げたまま、こくりと頷きます。
「お話は面白かったかい?」
トーシャがまたしぶしぶと頷くと、男の人はなおさら優しく笑みを深めました。
そうして、急に真面目な顔になって言いました。
「今のお話は、ただのお話じゃないんだ。全部本当のことなんだよ。この私、エルドローイが、本当に体験してきたことだ」
その声にふいに宿った重みが、わけもわからずトーシャをひるませました。トーシャは、急に、自分がこんな得体のしれない大人に近々と寄り添っているということが怖くなって、男の人の胴を押しのけ、マントを払いのけて立ち上がりました。
男の人は、もう、そんなトーシャに構いもせず、今度はミヤにだけ向き直って、じっとその目を見つめて言いました。
「ミヤ。私がなんでここへ来たか、もうわかっただろう?」
ミヤが黙ったまま男の人をじっと見返して頷くのを、トーシャはひやひやしながら見ていました。
案の定、男の人はこう言いました。
「そう、ミヤ、君を迎えに来たんだよ。私は、新しく夢見乙女となるべき、見えないものを見る力を持った女の子を、ずっと探してきたんだ。幾つもの世界を経巡って、やっと君を見つけたよ」
ミヤは、男の人を見上げて、静かに言いました。
「ずっと、待っていたの。あなたが迎えに来てくれるって、知ってたの」
ああ、やっぱり……。トーシャは小さく身を震わせました。
妹が見知らぬ男に連れ去られてしまうのではという心配と恐怖。妹を守らなくてはという焦りと使命感。
それらと同時に、トーシャは、どこか取り残されたような寂しさと悲しみを感じてもいるのでした。
男の人が迎えに来たのは、トーシャではなく、ミヤのほうなのです。ミヤ一人だけなのです。もはや、この不思議で美しい特別な男の人は、トーシャのほうなど向きもせず、ミヤ一人に向かって話しかけているのです。
ミヤはこの人に選ばれたのだ、自分は選ばれていないのだ、自分はこの人に一緒に連れて行ってはもらえないのだ、一人でここに、この凍える浜辺に、腹を空かせた現実の中に残されるのだ……。
そう思うと、不思議な喪失感で胸が一杯になる気がするのでした。……まだ得てもいないものを失うことも、喪失といえるのなら。
この人の話が本当だとしたら、この人に選ばれたからといって何か良いことがあるわけではなく、それはむしろ恐ろしい運命のように思えたし、そもそもその話が本当に実際にあったことだなんて信じられなかったのですが、それでも、自分がこの謎めいた使者に選ばれなかったということ、自分はこの世界を離れて別の世界に旅立つ資格を与えられなかったのだという想いは、なぜだかトーシャの胸を掻き乱したのです。
「ミヤ、私と一緒に来るかい?」
男の人の問いかけにミヤがためらいもなくこくりと頷くのを見たトーシャは、あわててミヤに飛びついて、男の人から引き剥がそうとしました。妹の身を心配する気持ちと微かな嫉妬が混じりあって、トーシャを突き動かしたのです。
「ミヤ、ミヤ、だめだよ、知らない人についていっちゃいけないんだ! この人はきっと、悪い人攫いだよ!」
この人が悪い人だなんてやっぱり思えなかったし、人攫いだとも思えなかったけれど、トーシャは、むしろ、そうであって欲しかったのでした。この人に、ただの、普通の、人間の人攫いであって欲しいと、なぜか思ったのです。
だから、この言葉は、ミヤにだけではなく、自分に言い聞かせようとする言葉でもありました。
ミヤはトーシャの手を無造作に振り払い、男の人の胴に、引き剥がされてたまるかとばかりにぎゅっとしがみつきました。
そうして男の人は、ミヤを引き剥がそうとしているトーシャに、もう、何の関心も向けてくれませんでした。
ただ、ミヤを見下ろして、余裕たっぷりな様子で問いかけました。
「君の兄さんがこう言っているが、どうする?」
「あなたと一緒に行く。連れて行って」
ミヤは一瞬もためらわず、トーシャのほうを見ようともせず、即座にきっぱりと答えました。
男の人は、優しく頷いてから、あらためて真剣な面持ちでミヤの目を覗き込みました。
「私と来ると、もう、ここへは帰れないよ。そこの兄さんや、村の家族や友だちとも、もう二度と会えなくなるんだ。それでもいいかい?」
「うん」
ミヤはきっぱりと頷きました。
「ミヤ、ミヤ、そんなのだめだ!」
トーシャは焦って、またミヤを引っ張りましたが、ミヤはトーシャのほうを振り向こうともしませんでした。
男の人は、胴体にミヤをしがみつかせたまま、ふいと立ち上がりました。
立ち上がったその姿を見て、トーシャは、この人がけっして『悪い人攫い』なんかではないのを知りました。
ただの人攫いなんかでは、あるはずがありません。だって、この人は、やっぱり『人』ではないのです。
軽々と立ち上がり、マントを払って背筋を伸ばしたとたん、その人は、今しがたまでの『綺麗な顔をしているけど普通の親切そうなお兄さん』から、さっきワジャル岩の上で見た時の、精霊か魔物か、とにかく人間とは思えない、異質な気配をまとった遠い存在に戻っていました。ただでさえとても高い背丈まで、更に少し高くなったように思えました。
さっきまで間近に見ていた――今は立ち上がって少し遠くなったその顔は、同じ顔立ちのままなのに、さっきまでとは全く違う、月明かりのように冴え冴えとした近寄りがたい美しさを湛えていました。
トーシャは、ミヤに向けて伸ばしかけた手を、だらりと下ろしました。
自分にはミヤを引き止められないことが、わかってしまったのでした。
男の人が急に人間ではない別のものになってしまったのと同じように、並んで立つミヤも、もう、半分、人間ではない別のものになってしまったかのように見えました。
「じゃあ、行こうか」
「うん」
男の人がミヤの手を取りました。さっき、夢の中で見た通りに。
トーシャの心が、悲鳴をあげました。
いつも一緒だった妹がいなくなる。去ってゆく。父母亡き後、たった一人残っていた、血を分けた家族が。
……それだけじゃない。
ミヤは、この美しい不思議な人に選ばれた。けれど自分は選ばれなかった。ミヤはここでないどこかへ行くけれど、自分はここに取り残される――。
「待って!」
トーシャは立ち去ろうとする男の人のマントの裾を掴みました。
男の人は立ち止まって振り向き、無感情な目でトーシャを見下ろしました。
さっきまでの優しさとは打って変わったその冷淡な眼差しに怯みながらも、トーシャは必死で訴えました。
「待って。ミヤが行くなら、ぼくも行く! ぼくも一緒に行くよ!」
男の人は、はじめて見るかのようにしげしげとトーシャを眺め、それからふと、さっきまでの優しいお兄さんの顔に戻って、すまなさそうに眉を下げて微笑みました。
「ごめんよ、トーシャ……。君は駄目なんだ。君を連れては行かれない」
「なんで!? ぼくのほうがミヤより大きいから、ミヤより早く、たくさん歩けるよ! だから、旅の邪魔にはならないよ。旅の間、ぼくがミヤの面倒を見られるよ。それに、ぼくはまだこんなにチビだから、ご飯もそんなに食べないよ。ミヤよりちょっとでいいよ。だから、ミヤがゆく場所まで、一緒に連れて行って。ねえ、いいでしょう?」
男の人は、黙ってかぶりをふりました。
「……どうして駄目なの?」
トーシャがしょんぼりと尋ねると、男の人は穏やかに言いました。
「君は、私が乗って来た船が見えなかっただろう? 私が連れていくのは、それが見える子だけなんだよ。船が見える人間だけが、その船に乗れる。私たちが乗る船に、君は乗ることができないんだ」
口調は優しげでしたが、容赦のない、残酷な言葉でした。
きっと、ミヤは特別な子供だけれど、自分はそうでないのです。
選ばれた特別な子供だけが、この人と一緒に不思議な世界へ旅立てるのです……。
惨めな思いでミヤを見れば、ミヤは、もう何の感情も表さずに、知らない人を見るような無関心な目でトーシャを見ているのでした。その目を見て、ミヤに口添えを期待しても無駄だと悟りました。
男の人は宥めるように口元を緩め、トーシャの頭を撫でました。
「トーシャ、良い子だ。君は今までとても頑張った。偉かったね。でも、もう頑張らなくていいんだよ。もう、休んでいいんだ。夜も更けた。眠るといいよ」
男の人は、トーシャの両肩をそっと掴んで、さっきの岩の上に座らせました。
トーシャはもう逆らう気力もなく、そのまま座り込みました。
男の人がマントを外して、トーシャの背中にかけました。
それから屈み込んで、マントをトーシャに巻きつけながら、ふわりと抱きしめてくれました。
マントは温かかったけれど、間近に寄せられた男の人の身体には、温度がありませんでした。頬に当たる服の布地がちくちくすることもなく、胸のあたりに顔を押し当てられているのに、心臓の鼓動も感じませんでした。そうして、その人には一切匂いというものがないことに、今さらながら気がつきました。汗の臭いも、着ている衣服の匂いも、何一つ。
まるで、空気に抱かれているようでした。
やっぱり、この人は、精霊だったんだ。目に見えているこの姿は、きっと幻なんだ。もしかしたら、この人は本当はここにはいないのかもしれない。精霊の妖術で幻を見せられているだけなのかもしれない――。
けれど、マントにくるまれていると、たちまちさっきの夢の中の温もりが戻ってきて、トーシャは急に眠くなり、そんなことはどうでもよくなってしまいました。
まぶたが重くなって、自然と下ってゆきました。
「おやすみ、トーシャ。よい夢を……」
優しい声音とともに、男の人の温度のない唇が両のまぶたにかわるがわるそっと触れました。
そのとたん、トーシャの閉ざされたまぶたの裏に、両親が生きていた頃の幸せな食卓の光景が浮かび上がりました。
そこはもう寒い浜辺ではなく、竈で炎が踊る暖かな部屋で、トーシャは、父や母やミヤと、美味しい料理をお腹いっぱい食べながら楽しく笑いあっているのでした。
父が生きていた頃はミヤはまだほんの赤ん坊だったはずなのに、幻の中では、今より少し小さいだけのミヤと父が一緒にいて、楽しげに言葉をかわしており、食卓には好物の揚げフリカが山と盛られ、魚のぶつ切りと香草のたっぷり入った熱いスープが良い匂いの湯気を上げていました。
楽しい夢を見ながら、トーシャは微笑んで眠りにつきました。
翌朝、入江を訪れた村人が、冷たくなったトーシャの亡骸を見つけました。
痩せた小さな亡骸は、見たこともないような上等のマントにくるまれて、心地良く眠っているかのように、目を閉じて岩の上に横たわっていました。そのあどけない顔には、幸せそうな微笑が浮かんでいました。
そうして、ミヤの姿は、どこにもありませんでした。




