5
男の人は、前触れもなく、すいと動いて、ごく無造作に岩から飛び降りました。ほんの階段数段分を飛び降りるような、いとも気楽な軽やかさで。
トーシャは驚いて声をあげかけました。岩の真下は渦巻く海です。
けれど、悲鳴は、喉から出る前に凍りつきました。
飛び降りたと思ったとたん、男の人は、もう、ふたりの目の前に、当たり前のようにすとんと降り立っていたのです。ワジャル岩からこの浜までの距離は、人が飛び越えられるほど近くはないはずなのに、まるで、その岩が実は目の前にあって、膝ほどの高さしかなくて、そこからひょいと飛び降りただけであるかのように。
男の人の身体の回りで風をはらんでふわりと広がった長いマントが、遅れて落ちてきて背中に垂れました。
マントの下から現れた細身の身体は、とても奇妙な服を纏っていました。
マントとおなじ真っ赤な袖なし胴着は派手派手しい金糸銀糸の刺繍で飾られ、その下のシャツは空色、妙にひらひらした袖口には金糸の縁取り。腰は鮮やかな黄色の飾り帯を結んで片側に長く垂らし、そしてズボンは、紫と橙と緑、その他ありとあらゆるけばけばしい色のまだら模様です。
それは、夜目にも色鮮やかな、極彩色の競演でした。こんな珍妙で奇天烈で楽しげな衣装は、見たことがありません。
ふたりは、悲鳴をあげかけた口をそのままぽかんと開けっぱなして、男の人の不思議な姿を見あげていました。
男の人は、そんなふたりに、にっこりと笑いかけました。
さっき岩の上で見せた、どこか残酷さを秘めたような笑みとは違う、ごく気さくで、当たり前のように親しげな笑顔で、そんなふうに笑うと、同じ人間と思えなかったやけに綺麗な顔が、急に、親切そうで親しみやすい普通のお兄さんの顔に見えました。近くで見ると、その人の鼻の上のあたりには、うっすらとソバカスが浮いていたりもするのでした。
ソバカスがあったって相変わらず綺麗な顔には違いないし、その上いかにも怪しげな風体ではあるけれど、でも、もう、精霊のようには見えません。まるで、地面に足が付いたとたん、半分透き通って重さがないように見えていたその人が急に手で触れられる普通の人になったかのようです。
そうしてみると、それまで遠くにいたのにあんなによく見え、会話ができていたことが、あらためて不思議に思えました。
こんなけばけばしい服を着ているということは、やっぱり、この人も、伝説の中の歌うたいと同じ旅芸人なのだろうか。衣装は道化のようだけれど、笛を持っているから楽師なのかもしれない。こんなに綺麗な顔をしているから、二枚目役者なのかもしれない。それにしても綺麗な人だ。このへんの男たちとは全く違う。行ったこともない遠い都会には、こういうほっそりした綺麗な男の人が、普通にいるのだろうか――。
そんなことを思いながらトーシャが黙っていると、男の人は、からかうようにくすくすと笑って言いました。
「今のは嘘だよ、当たり前だろ」
すっかり心を奪われてぼうっとしていたので、とっさに『今の』というのが何のことだかわかりませんでしたが、一瞬遅れて、直前の『ワジャルの恋人を連れ去ったのは自分だ』という告白のことだと気づきました。
男の人は、自分がひどく奇妙な現れ方をしたことなど全く無視して、まるでそこらの道ばたで行き会った知り合い同士であるかのように、何気なく尋ねてきました。
「ところで君たち、お腹が空いてるんじゃないかい?」
トーシャはとっさに、
「空いてないよ!」と答えて、男の人を睨みつけました。
本当はとてもお腹が空いているのに、なぜそんなことを言ってしまったのか、なぜ何も悪いことを言ったわけでもない相手を睨んでいるのか、自分でもよくわかりませんでした。お腹が空いているかと聞いて悪いことなんか、何もないはずなのに。
でも、トーシャは、この、一度もお腹を空かせたことなんかなさそうな、華やかな衣装の綺麗な人に、自分たちが腹を空かせてへたり込んでいたのだなどと、なぜか思われたくなかったのです。
男の人はトーシャの生意気な態度など意にも介さない様子で、のんきそうに続けました。
「そうかい。残念だなあ。私は小腹が空いてるから、今からここで弁当でもと思っているんだ。一人で食べるのもつまらないから、一緒に食べてくれる連れが欲しいと思ったんだが。良かったら、軽い夜食に付き合ってくれないか。お腹が空いてなくても、ちょっとしたものくらい食べられるだろう?」
そう言いながら男の人は、二人の座っている岩に歩み寄り、
「ちょっとそこに座らせてもらってもいいかな?」と、強引にふたりの間に割り込んで、腰を下ろしてしまいました。
それから、どこからともなく油紙の包みを取り出し、いきなり膝の上で包みを開き始めました。
とたんに、香ばしいパンと油の匂いがあたりに広がりました。
油紙の中から現れたのは、雲のようにふわふわとした白いパンの大きな塊でした。あんなに白くて柔らかそうなパンは、これまで、見たこともありません。しかも、そのパンには、揚げた魚と、今さっき朝露の輝く畑で摘んできたかのような、みずみずしく柔らかそうな青菜が挟んであるのです。
男の人がどこからそれを取り出したのだろうといぶかることも忘れて、トーシャの目は、その豪華な食べ物に釘付けになりました。
ああ、きっとフリカ魚だ。小麦の粉をはたいてカラリと揚げた熱々のところに、ミージの種で風味を付けたちょっぴり辛いタレを染み込ませた――
トーシャは思わず唾を飲み込みました。
フリカ魚の揚げ物は、昔、フリカの季節に母さんがよく作ってくれた、もう何年も食べていないトーシャの大好物なのです。
おぼろな記憶の中の母の手料理の味が、漂ってくる香りにつられて口の中に広がる気がしました。
もう、男の人が手に持っているパンから、目を逸らすことができません。油紙の中には、その白いパンが、どうやら、ちょうど、もう二つ入っているように見えます……。
気づくと、トーシャは、固唾を飲んで、食い入るようにパンを見ているのでした。
その眼差しに気づいたらしい男の人が、包みの中のパンをひとつ手に取り、差し出してきました。
「ひとつ食べるかい?」
ほとんど手の中に押しこむように渡されたそれを、トーシャは思わず受け取っていました。
「ほら、君も」
そう言って、男の人は、ミヤにもパンを差し出しました。
見ればミヤは、パンには目もくれずに、魅入られたように男の人の横顔を見つめていたのでした。
こんな小さな子でも、女の子はみんな、こういう綺麗な男の人にはこんなふうに見とれてしまうものなんだろうか……と、トーシャは上の空で考えました。
そんなミヤも、さすがに目の前にパンをつきつけられれば、そちらに目を移し、反射的にパンを受け取りました。
男の人は、膝の上の包みから最後のひとつのパンを取り上げ、綺麗な顔に似合わない無造作さで躊躇なく大きな口を開けて、がぶりとパンにかぶりつきました。その気取りのない仕草は、村の男の人たちと、何も変わりありません。
トーシャが呆然とそれを眺めていると、男の人は、唇の端についたタレを舌先でぺろりと舐めとって、
「うん、旨い」と、にっこり笑いました。
「どうしたんだい、君たちもお食べよ」
男の人に顔を覗き込まれ、優しく促されて、ミヤがおずおずとパンにかじりついた途端、その瞳が大きく見開かれました。そのまま、もぐもぐと咀嚼してパンを飲み込むと、それはそれは幸せそうに笑いました。
「美味しい……!」
ミヤは栗鼠のように両手でパンを抱えこんで、夢中で食べ続けます。
それは美味しいだろう、美味しいに決まってる……。トーシャは、お母さんの作ってくれた揚げフリカの味を思い描きました。
ミヤにとっては、揚げフリカは、初めて食べるごちそうなのかもしれません。もしずっと前に食べたことがあったとしても、とても小さい頃のことで、もう覚えていないでしょうから。
妹がパンを噛むたびに、揚げた魚の香ばしい香りが漂って、それを嗅ぐと口の中にまた唾が湧いてきて、トーシャも、もう我慢出来ずに、自分もパンにかぶりつきました。食べたこともない、夢のようにふわふわと柔らかい白いパンのほのかな甘みと、懐かしい揚げフリカの素朴な香ばしさが口いっぱいに広がり、その後を、柔らかな青菜の少しぴりっとする風味と爽やかな香りが追ってきました。
あとはもう、夢中でした。揚げフリカのタレの染みたパンの柔らかさと、噛み砕かれる小骨の香ばしさ。飢えた身体に染み渡るような重たく甘い油の風味。トーシャは何もかも忘れて、一心不乱に食べ続けました。
ずっとお腹を空かせていたために胃が小さくなっていたのでしょうか、手に持てばふわりと軽かったはずのそのパンは、いくら食べても食べ終わらないほど食べでがある気がして、やっと食べ終わった時には、もう何も入らないというくらい、すっかりお腹がいっぱいになっていました。
食べ終わってタレと油のついた指を舐めていると、男の人が、筒に入った飲み物を手渡してくれました。たった今、どこか森の奥の泉から汲んだばかりのような、澄んだ冷たい水でした。
目が覚めるように冷たい水だったけれど、お腹が膨らんだトーシャは、眠くなってきました。ただでさえ、朝の早い漁師の村の子供としては普段ならとっくに寝ているはずの夜半過ぎです。しかも、これまで長い道のりをずっと歩き続けてきた後で、疲れ果ててなすすべもなく空腹を抱えたままここに座りこんでいたのですから。
いつのまにか、こっくりと首を垂れてしまったようでした。
そんなトーシャの耳に、優しい声がそっと忍びこんできました。
「よしよし、疲れたんだね、トーシャ。君がどんなに頑張ってきたか、私は知っているよ。君はよくやった。小さな妹を守って、ここまで頑張ってきたんだ。君はお兄ちゃんだからね。本当に立派なお兄ちゃんだ。でも、君だってまだ子供なんだから、こんなに頑張ったら疲れて当たり前だろう……」
半ば夢うつつで、びろうどのようなその声を聞きながら、なんでこの人は自分の名前を知っているのだろう、と思いました。でも、こんな奇妙で謎めいた特別な人ならば、自分の名前くらい知っていても今さら不思議はないような気もしました。
そして、そういえば、この人は自分の名前を知っているけれど自分はこの人の名前を知らないのだとふいに思い当たって、今にも眠りこみそうになるのを我慢して何とか口を開け、尋ねて見ました。
「……おじさん、なんて名前?」
「おじさんはないだろう。お兄さんと言っておくれよ」
そう言って軽く笑いながら、その人は名前を教えてくれました。
「私はエルドローイ」
なんて不思議な、綺麗な、立派な名前でしょう。どこか昔風の響きで、まるで、昔々の物語の王様の宮殿に居並ぶ英雄たち賢臣たち、偉大な詩人や楽師たちの名前のようです。この辺の村には、そんな仰々しい名前の人は、一人もいません。みんな、トーシャとかミヤとかリドとかビエルとか、そういう、短く平凡な名前を持っています。この人は、やっぱり、この辺の人ではないのでしょう。華やかな都には、こんな美しい、立派な名前を持った人も大勢いるのでしょうか……。
そんなことを思いながら、半分眠りかけていると、男の人は言いました。
「ほらほら、トーシャもミヤも、上のまぶたと下の、まぶたがくっつきそうだ。眠かったら寝てもいいよ」
重たくなったまぶたを無理やり上げて隣を見れば、ミヤももうパンを食べ終わって、やっぱり眠そうに、うっとりと男の人にもたれているのでした。
男の人が自分のマントをふたりの上に広げて、包みこんでくれました。そうすると、たったマント一枚のおかげとは思えないほど、とても暖かくなりました。まるで、暖かな部屋の中にいるように。……そう、竈の上で美味しいスープの入った鍋がことこと煮えていて、スープのいい匂いがする、暖かく安全で幸せな部屋――父と母がまだ生きていて海では魚がたくさん獲れていたあの頃の、懐かしい我が家にいるような……。
男の人が、大きな手で頭を撫でてくれているのを感じました。自分はもう大きいのに、しかも全然知らないよその人に頭を撫でられるなんて恥ずかしい……と思いながらも、あんまり眠くて、うとうとと気持ちが良くて、抗議する気にはなれませんでした。
「さて、寝ながらでいいから、ちょっと話を聞いておくれ」
頭の上で男の人が言い、心地良い声で何か話しはじめました。
寝ながら話なんて聞けるわけがない、話があるのなら起きて聞いていなくちゃ、とは思いましたが、もう、今さら目を開けたり、遠くなりかけた意識を引き戻そうとするのはおっくうで、トーシャはそのまま、曖昧な眠りの中に落ちてゆきました。
眠りの中でも、男の人の声が聞こえていました。
声は、不思議な物語を語っていました。
遠い遠い昔、こことは別の世界で吟遊詩人であった彼、エルドローイが体験したという、それは不思議な物語を――。