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その時、隣でいつのまにか眠ってしまったかと思っていた妹が、ふいに空を指さしてぽつりと言いました。
「兄ちゃん、見て。あそこにお船が……」
「船?」
トーシャは驚いて空を見上げましたが、そこには、たしかに小舟のような形をした、上弦の半月が浮かんでいるだけでした。
「うん、お船。お空に浮かんでる。お月様みたく。ほら、どんどん降りてくる」
月はだいぶ空低くまで傾いて、そういえば、まるで空から降りてきた小舟が水平線に着水しようとしているようにも見えます。
(やっぱりミヤは、あの月を見ているんだ。空腹で目が霞んで、月が船のように見えているのだろうか。可哀想に……)と、トーシャは思いました。
「ミヤ、あれは月だよ」
トーシャが言い聞かせると、ミヤは、空の二点を順に指さして言い張しました。
「違うってば。お月様は、あっちにあるでしょ。お船は、こっち。ほら、三日月みたいな形の小さな船よ。半分、透き通ってる。だから兄ちゃんには見えないのね。あっ、人が乗ってる。それともあれは、精霊かしら」
トーシャには、ミヤが二度目に指さした場所には、何も見えませんでした。
やがてミヤが、落胆の声をあげました。
「……消えちゃった」
「ほらみろ、やっぱり見間違いだったんだよ」
トーシャの言葉に、ミヤはかぶりを振りました。
「違うもん、絶対に見たもん。とっても不思議で、とっても綺麗だった……」
妹は腹が空き過ぎて幻覚を見たんだろうか、と、トーシャは心配しました。大人でも、空腹や孤独の極限状態――たとえば、船が流されて何日も一人で漂流した時など――では、そういうことがままあると聞きます。
それでなくとも、ミヤには、昔からそういう、ちょっとおかしなところがありました。
ミヤは、ときどき、変なことを言うことがあるのです。他の人に見えないものを見たと言い張ったり、そこに無いものを『ある』と言って、触ったり持ち歩くふりをしていたり。
小さな子供はよく、そういう空想やごっこ遊びをするけれど、ミヤのそれは、少々常軌を逸しているように思えました。ミヤは、時々、なかば自分の空想の中に住んでいるかのように見えたのです。
トーシャは以前、ミヤが目に見えない空想の食べ物をあまりにも本当らしく食べるふりをしているのを見て、なぜだかカッとして、そんなことはやめろと、口元に運ばれるミヤの手を自分の手で払いのけたことがあります。
ミヤは、まるで本当に手の中の食べ物を叩き落されたかのような顔をしました。
その顔を見たら、トーシャの心は後悔と罪悪感でいっぱいになりました。その頃はもう、ふたりともいつもお腹を空かせていたから、ミヤは空想で空腹を紛らわせようとしていたのだろうと、そんなささやかな慰めをいくら無意味なこととはいえ邪魔しては可哀想だったと思ったのです。
お腹を空かせた妹が哀れで、トーシャはミヤを抱きしめて泣きました。ごめんね、ごめんね、兄ちゃんが大きくなったら、そんなうそっこの食べ物なんか食べなくてもいいように、たくさん魚を獲ってきて腹いっぱい食べさせてやるから、と。
後で、トーシャは、なんで自分があの時あんなにカッとしたのかと考えました。
一つは、ミヤがそんなおかしなふるまいをすることで、みんなから変に思われたりバカにされたりするのが嫌だったからです。
ミヤは、本当は、同じ年の子供たちと比べても賢い子なのに、そういう幼稚なごっこ遊びのせいで、歳の割に幼いとか頭が弱いと思われがちでした。トーシャは、そんなミヤを、周囲の目から守ってやりたかったのです。だから、そんな兄の気持ちも知らずにまた奇矯なふるまいをするミヤに、筋違いとは知りつつ、一瞬、腹が立ったのです。
もう一つは、心のどこかで、ミヤのふるまいを当て付けがましいと感じてしまったからでしょう。その頃、父は既に亡く、トーシャには、本当なら父にかわって漁をして一家を支えなければいけないはずの自分がまだ子供で船に乗れず、母や妹のために魚を獲ってきてやることができずにいるという自責の念がありました。だから、ミヤのふるまいを、そんなことはないと知りつつ自分への当て付けのように感じてしまったのです。本当に腹を立てたのは、ミヤに対してではありません。本当は、お腹を空かせた妹にうそっこ遊びではない本物の食べ物を食べさせてやれない自分に腹が立ったのでした。
そして、もう一つ。
たぶん、トーシャは怖かったのです。
ミヤが目の前のものを食べるふりをしている姿が、あまりにも真に迫っていたので、トーシャは、本当は妹の手の中には何も無いのだと気づく前に、一瞬、本当に妹が何か食べていると――何か食べている妹が羨ましい、自分も食べたいと思ってしまったのです。しかも、本当に一瞬だけれど、トーシャにも、そこに食べ物が見えたような気さえしたのです。それが、なぜだか怖かったのでした。
――ミヤはどうしてこんなふうなのだろう。どうして他の子供と違うんだろう。ミヤはこんな風だから、ぼくがしっかりして、ミヤを守ってあげなくちゃいけないんだ。守ってあげたかったんだ。でも、ぼくも、もう疲れたんだ……。
トーシャはもう、ミヤの虚言をたしなめる気力もなく、ふたりはそのまま黙り込みました。
その時、突然、笛の音が響きました。
ふたりは驚いてあたりを見回しました。浜辺には、ふたりの他に誰もいません。
と、今度は、どこか高いところから、声が降ってきました。
「やあ。いい月夜だね」
よく通る、明るい声でした。若い男の人の声のように思えます。
声のほうを追って目を上げたトーシャは、海中にそそり立つワジャル岩の、巨人の肩にあたるところに背の高い人影が立っているのに気がつきました。同時にミヤもその人を見つけ、呆気にとられたふたりは、ぽかんと口を開けて人影を見上げました。
あんなところに、人がいるわけがありません。あの大岩は、すぐ近くに見えるけれど、海の中に立っているのです。あそこまで伝って歩けるような岩場もないし、周囲には大小の岩がごつごつと顔を出して、その間で水流が渦を巻いているから小舟も付けられないし、泳いで寄り付くこともできないはずの場所です。
それなのに、見知らぬ若い男が、その長身に悠然と月明かりを浴びて、岩の上に立っているのです。
それは、不思議な人でした。その人は見上げるほど高い岩の上にいるのに、なぜかはっきりと姿形が見て取れました。夜目にも鮮やかな深紅のマントをまとったその人は、とても背が高く、とても痩せていて、ちょっと女の人かと思うような、とても綺麗な顔をしています。
本当に綺麗な人だ。男の人で綺麗な人がいるなんて、信じられない。男の人で綺麗な人なんて、今まで見たことがない――。
トーシャは不思議な男の姿に目を奪われて、誰何することも忘れ、ただまじまじと見つめていました。
この人は、もしかして、人間ではなく精霊なのだろうか。精霊がこんなふうに人間の姿で現れることが、もしかするとあり得るのだろうか――。
そう思ったのは、その男の人が、ただ綺麗なだけではなく、何かすごく特別な気配をまとっている気がしたからです。
ちゃんと目に見えるのだけれど、なぜか半分透き通っているかのような、不思議な空気が、その人にはありました。
そして、その人には、何か、顔かたちの美しさ以上に人を魅了する力があるように思えました。
そんな力を持つものは、きっと人間ではありません。
精霊は乙女の姿をしているとみんなが言っているけれど、考えてみれば、男の精霊だって、いて良いはずです。それに、自分が守護している若い漁師に恋してしまった精霊が人間の娘に成り済ましてその男と契ったという昔話もあることだから、精霊は、そうしようと思えば目に見えるようになることも、人間と同じ大きさになることもできるのでしょう。
でも、その人は、よく見れば足にはごく普通の頑丈そうな靴を履いていて、ワジャル岩の肩の上に立ち、顔の部分に肘をついて、行儀悪くもたれかかっているのでした。精霊が、あんなに人間臭い、行儀の悪い仕草をするものでしょうか。
けれどその、怠惰そうで投げやりでしどけない仕草は、にもかかわらずどこか典雅でもありました。
男の人は長い脚を交差させ、軽く膝を曲げて持ち上げた片足を退屈そうにぶらぶらさせており、その靴の踵が、ときおり、ワジャルの顎のあたりにぶつかります。
それに気づいたトーシャは、とっさに悲鳴を上げていました。
「ワジャルを蹴らないで!」
なぜ自分がそんなことを言い出さねばならないのか、自分でもわかりませんでした。こんな不思議な人が、こんな不思議な現れ方をして、普通ならありえない場所に立っているというのに、なぜ、よりによって第一声で、そんなどうでもいいようなことを言いださねばならないのか――。
けれど、そんな、自分でも思いがけないことを、とっさに言ってしまったのです。
男の人は、面白がるような視線をトーシャに投げて言いました。決して大声を出している感じではないのだけれど、その伸びやかで明瞭な声は、距離と潮騒を隔てても、不思議なほどはっきりと聞き取れました。
「ああ? こんなのはただの岩だよ。人間がこんなに大きいわけないだろ」
それはそうです。いくらワジャルが大柄な男だったとしても、人間がそのまま変化したにしては、ワジャル岩は大きすぎます。ワジャルは逞しく力自慢なだけのただの人間だったはずなのに、この岩はあきらかに巨人の大きさですから。だいたい、本当に人間が石になったりするわけがありません。そんなのは、ただのお話です。それくらいは、トーシャにだってわかっています。
けれど、それでもやはり、深い共感を覚えていた昔話の主人公ワジャルの姿をした岩が――海の中にあって切り立っているので誰も登ったりしないはずの特別な岩が、見知らぬよそものに足蹴にされているのは、気になりました。こんな不思議な出来事の中では、どうでもいいことなのに……。
でも、それ以上は何も言えずに、トーシャはまた、感嘆の念を抑えきれずに男の人に見とれてしまいました。
その人から、目が離せませんでした。あまりに不思議で、あまりに美しくて、まるで、奇跡のようで。
男の人は、ふっと妖しい微笑を浮かべて身を起こし、トーシャを見下ろしてきました。ひたと目が合っているのが、こんなに遠いのに、はっきりとわかりました。
そうして、唐突にこう言いました。
「教えてやろうか。むかしむかし、ワジャルの恋人を連れ去った旅の歌うたいというのは、実は私だよ」
うそに決まっている、伝説が本当だったとしても、それは何十年も、もしかすると何百年も前のことのはずだ……。
そう思いつつ、トーシャは、もしかすると本当にそうかもしれないと想像せずにはいられませんでした。働き者のワジャルのもとから美しい許婚を連れ去った蝶々のような歌うたいというのは、たしかにこういう男だったのかもしれない、と。
岩の上に立つ男の人の、見たこともないような色鮮やかなマント。力仕事など一度もしたことのないようなほっそりした身体に、夜目にも白く細い指。その手の中の、瀟洒な銀の笛。長いまつげ、涼やかな目もと、細く通った鼻筋、額に垂れかかる茶色い癖毛。そして、普通にしゃべっているだけなのにまるで音楽のように聞こえる甘やかな声、華やかで軽やかな気配、何気ない端々まで気取った仕草……。どこを取っても、物語の中の美貌の歌うたいに似つかわしく思えたのでした。
男の人は、トーシャの目をじっと覗き込みながら、もう一度、悪戯っぽくニッと口角を釣り上げて、ワジャルの顔をわざと足蹴にしてみせました。その目の中に、猫のような残酷さが瞬間ひらめくのを、見たように思いました。そんな気紛れな意地悪も、その人の妖しい美しさや不思議さにはひどく似つかわしく思われて、あっけにとられるほど魅力的で、なんとなく気圧されたトーシャは、ただぽかんとその人を見ていました。
一途で誠実な働き者の男の恋人を無造作に横取りして、さっさと連れて逃げてしまうような身勝手な色男にふさわしい、投げやりで無頓着な酷薄さが、その人には妙に似合っていました。そういう男だからよけい魅力的だったのかもしれない――と、トーシャは今まで全く理解できなかったフィーナの気持ちが少しわかったような気がしました。