表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/7

 それからもトーシャと少女は乳母の目を盗んで秘密の合図を送りあい、岩陰で短く会話を交わしたりしていましたが、夏が終わると少女は町へ帰っていきました。

 少女が旅立つ日、トーシャは、道ばたの木立に隠れて、こっそり馬車を見送りました。少女は気づいて、乳母の目を盗んで窓から手だけを出して振ってくれました。ひらひらと蝶のように閃いた小さな白い手の残像が、今でもトーシャの目に焼き付いています。


 ――あの子は、たぶん、今のミヤと同い年だった。綺麗な服を着て、あんなにやわらかな、あんなに白い手をしていた。自分がもっと大きければ、きっと妹を守ってやれたのに。あんな、やわらかな白い手でいさせてやれたかもしれないのに……。

 そう思って、トーシャは胸を痛めました。


 父母が死んだ時、まだ小さかった妹は、父母のことを、ろくに憶えてもいないのです。

 トーシャは、父のことも母のことも憶えています。魚がたくさん獲れて幸せだった日々のことも、父と母のそろった暖かな食卓の団欒も憶えています。でも、妹は、自分より少し後に生まれたばっかりに父の記憶がなく、母の記憶もおぼろで、物心ついてから、ほとんどずっと飢えているのです。

 そのことで、トーシャは、なんだか自分には妹に対して何か責任があるような気がしているのでした。妹に、何か負債を負っているような。

 妹の冷たい手を両手で包んでやりながら、トーシャは、海中にそそり立つワジャル岩を見あげて思うのでした。

 ――ああ、せめて自分がワジャルのように大きく強かったなら。


 この岩には、ワジャルという名の力自慢の若者が恋人に去られた嘆きのあまり岩と化したものだという言い伝えがあるのです。トーシャのお気に入りの物語です。

 それは、こんな伝説でした。


 

 ――昔、この村に、ワジャルという、大変大柄で力持ちの若者がいた。心正しい働き者のワジャルには、フィーナという花のような恋人がおり、ふたりは結婚を誓い合っていたが、フィーナは隣村の富農の娘で、彼女の親は自慢の娘を貧しい〈風使い〉などの嫁にやるのを惜しみ、ワジャルに、とても彼には用意できないだろうと思われる高い結納金をふっかけていた。

 が、ワジャルはあきらめなかった。もとから働き者の愚直で我慢強いワジャルは、高額の結納金を用意するために、頑健な身体にものを言わせて昼も夜も必死で働き続けた。ワジャルが結納金を貯めるまではと、彼と逢うことを禁じられたフィーナは、一日も早くワジャルが自分を迎えに来てくれる日を待ちつつ、自分の村でひっそりと暮らしていた。

 けれど、そんなある日、フィーナの村に旅の歌うたいがやってきた。

 歌うたいは、女のように綺麗な顔と細く長い指を持ち、きらびやかな衣装と洗練された仕草を身をつけた美しい若者だった。

 それまで、恋人のワジャルも自分の村の男たちもみなそうであるような武骨な男しか見たことがなかったフィーナには、そういう汗臭い男たちとはまったく違うほっそりとした美貌の歌うたいが、まるで清らかな夢の世界の住人のように見えて、そんな若者に、彼女は一目で恋をしてしまった。

 歌うたいが村を去る日、フィーナはこっそり家を抜け出し、彼に、自分を連れて逃げてくれと縋った。歌うたいは美しいフィーナの願いを聞き入れ、ふたりは手に手を取って村を出た。

 驚いたのは両親だ。あわてて大量の追手を差し向け、それまで邪険にしていたワジャルにも、知らせの使者をよこした。どこの馬の骨とも知れぬ旅芸人に娘を連れて逃げられるくらいなら、多少貧しかろうとなんだろうと隣村の実直な漁師のほうがまだましだと、心を変えたのだ。

 出稼ぎ先で知らせを受けたワジャルは、手にしていた鋤を投げ捨て、使者とともに猟犬のごとくフィーナを追った。

 ワジャルと、フィーナの親の差し向けた追手たちは、意外なことに、この村のはずれでふたりを見つけた。

 追いつめられたふたりは、〈送りの浜〉に逃げ込んだのだ。

 〈風使い〉たちの神聖な墓所であるこの浜への入り口は、崖に隠されて普通は見つからないような場所にあってよそ者には秘密のはずなのに、旅の歌うたいは、なぜかその入り口を知っていたらしい。

 ワジャルたちはふたりを追って浜に駆け込んだが、ふたりは、彼らの目の前で、岩陰に舫ってあった一艘の小舟に飛び乗って海に漕ぎ出てしまった。

 なぜそこにそんな小舟があったのか、誰も知らない。村の人々はこの入り江には船を舫わないし、そもそもその船は、村の漁船ではなく、金持ちが船遊びに使うような華奢で瀟洒な手漕ぎの小舟で、誰も見たことのないものだったそうだ。

 小舟は、ほっそりとした歌うたいが漕いでいるとはとても思えない飛ぶような速さで、みるみる進んでいった。

 その一艘の他に、そこに船はなかった。怒りと悲しみで狂ったようになったワジャルは、岸辺に仁王立ちして獣のように吼え猛り、足元の岩場の岩を片っ端から力任せに抱え上げては、去ってゆく船に向かって投げつけたが、岩はどれも船に届かず、巨大な水柱を上げて海に沈んだ。フィーナを乗せた船は、岩が起こす大波にぐらぐら揺られながらも、どんどん遠ざかるばかりだった。

 それを見たワジャルは、必死の形相で、遠ざかる船を追って、そのままざぶざぶと海に入っていった。が、ふたりを乗せた船の影は、すぐに岬を回って見えなくなってしまった。

 ワジャルは海の中に胸まで漬かって立ちつくし、血を吐くような声で自分を裏切った恋人の名を呼び、呼びながら我と我が胸を打っていつまでも泣き続け、そしてそのまま、その場所で、悲しみと絶望のあまり、岩になった。

 だから今でも、この入江の底には大きな岩がごろごろしているし、フィーナが去った日と同じ強い東風が吹くと、ワジャル岩は、『フィーーナァーー、フィーーナァーー』と、世にも悲しげに泣き叫ぶのだ――



 もちろん、これはただの伝説です。ワジャル岩が強風の日に哭くのは、岩の、浜からは見えない箇所に細い隙間が開いていて、そこを風が通り抜けるからです。

 けれど、〈風使い〉の男と農村の娘の恋が悲しい結末を迎えたことは、きっと、昔からいくつもあったのでしょう。トーシャの父と母のように、その恋を成就させたのは、たぶんとても珍しいことだったのでしょう。


 父が農村の娘に恋した男であったせいか、トーシャは、伝説の若者ワジャルに、幼い頃から特に親しみを持っていました。

 大きな手にまめを作ってひたすら働く武骨で屈強なワジャルは、彼の父であり兄であり、叔父たち、従兄たちであり、つまり村の男たちすべてです。この村の男たちは、みな実直で逞しく、たいていは一生この村から離れることもなく、浮ついた楽しみなど何ひとつ知らぬまま いつでも真面目に働いて、年老いて死んでゆくのです。

 きっと自分もそのように生きるのだと、トーシャは信じていました。父たちのような海の男になりたいと、ずっと、何の疑問も持たずに待ち望んでいました。早く十五になって、自分の精霊を得て船に乗りたい、そうしたら、母や妹にも、きっと少しは楽をさせてやれるのに、と。


 でも――と、トーシャはかつて、ふと思い当たったことがあります。

 精霊との契約が本当なら、なぜ〈風使い〉は、こんなにしょっちゅう海で死ぬのだろう。自分たち〈風使い〉は、〈風の王〉サワートヤルに守護されているのではなかったか――


 農村の人々が娘を〈風使い〉にやるのを嫌がるのは、彼らが〈風使い〉を蔑んでいるからだけではなく、〈風使い〉の男はしょっちゅう海で死ぬからもあるのでしょう。きっと、若くして寡婦になった娘の嘆きや苦労を見たくないのです。


 なぜ精霊たちは自分が守護しているはずの男が溺れるのを見殺しにするのかと、トーシャは一度、近所の老人に訊ねたことがあります。その老人は、年をとって漁に出られなくなった後も海を眺めて風を読むのをやめられず、日がな一日、海に面した戸口の前に椅子を出して座り込んでいたので、村の子どもたちの良い見守り手であり話し相手だったのです。


 精霊は自分の漁師を愛し過ぎた時、その男を自分たちの世界に迎えたいと思ってしまうのだと、老人は言いました。だから精霊とは、適度な距離を置いてうまく付き合わなければいけないのだと。


 ――若いものは、夢に精霊の姿を見たと言っては恋人に会えでもしたかのように喜んでいるが、それは危ういことだ。お前も、船に乗る歳になっても、精霊に入れ込みすぎてはいけないよ。船に乗れるようになったら、もう一人前なのだから、早く村の娘のだれかと恋をするといい。手を触れることも叶わぬ夢の中の乙女に恋焦がれたりなどせず、ともに暮らしを立てられて腕に抱けば温かい、しっかりものの女房を持つがいい。そうすれば、恋人が、女房が、お前をこの世につなぎとめてくれるだろう。


 そう語る老人に、トーシャは問い返したのでした。


 ――でも、恋人がいても結婚していても海で死ぬ人はいっぱいいるよ。ぼくの父さんもそうだった。そういう人は、恋人や女房より精霊のほうがいいと思っていたの?


 それを聞いた老人は、そういう男はあまりにいい男すぎて精霊が見境を無くしてしまったのさ、と笑いました。姿が良すぎたか、心が優しすぎたかだ。だから俺のような根性曲がりの醜男は年をとって引退するまで生き延びたのさ。

 そう言って老人は、歯のない口を開けて大笑いしたものです。


 そんなのは嘘だと思う、海で死ぬのに、顔や性格の良し悪しは関係ない――トーシャがそう言うと、老人は笑いを収めて、まあな、と頷きました。結局は運だよ、運、と。

 ぼうずはなかなか男前だから、精霊に惚れられすぎないように気をつけろよ。

 そう言って、老人はトーシャの頭を撫でてくれました。

 その老人も、今は、父や母と同じく、もう精霊の島へ行ってしまったのですが。



 そんな、とりとめのない思い出ばかりが、トーシャの心をいくつも過っていきました。

 寒さと疲れで朦朧としたトーシャには、もう、何かをちゃんと考える気力もなく、ただ、ぼんやりと、浮かび上がっては消えてゆく思い出に心を任せるばかりでした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ