2話:《少年の日常、少女の日常》
シッ! と鋭い拳打が飛んで来るのを、ヒュウガは首の動きだけで交わした。
返礼にこちらも右ストレートをくれてやる。狙いは顎。人体急所の一つで、かすっただけでもダウンさせることができる部位だ。
無論相手もその一撃をみすみす受け取るほど馬鹿ではない。引き戻した腕で見事に受け止め、空いた腕から、今度は鳩尾目掛けて拳を突き出してくる。
そこで、ヒュウガは足払いをかけた。
上半身の動きにばかり注意を向けていた先方は「うおわっ!?」と情けない声を上げて床に尻餅をつく。すぐさま無防備になったボディにもう片方の足を叩き込む――
「双方、止め!」
――寸前で、教官の声に制止された。
構えを解き、お互いに姿勢を正す。
徒手による対人格闘の、実技訓練であった。
教官へ一礼。その後に他の生徒たちが待機している場所へ二人揃って向かう。
「いやー、参った参った。少しは手加減してくれよなー」
列の端に腰を下ろしながら、先程の相手がそうボヤいてくる。
彼の名はジェイク・グローバー。平民出身だが、何かとヒュウガに話しかけてくる奴だ。
平民の中には、あるいは貴族以上に賤民に対して差別意識を持っている者も決して少なくない。が、この男はどうにもそうではないようだった。
ヒュウガはその隣に腰を下ろし、額の汗を手で拭いながら応じた。
「手加減なんぞしたら教官に即でバレてジ・エンドだろうが。お前、去年の年末試験の悪夢を忘れたか?」
「……ちょっと手心加えただけで説教三時間コースとか未だに納得いかねぇ……」
その時のことを思い出したか、顔を顰めてジェイクが言う。
まあ、兵士育成機関である以上、戦闘能力は極めて重要な指標であり、それを故意に偽ることは言語道断なのだが。
しかしながら、彼らが対人戦でのそういった行為をどこか気軽に考えているのにも理由はある。
「ホント、対人戦は強いよな、お前。これが碌に評価に数えられないのが惜しいぐらいだ」
「何もおかしなことは事はないさ」
特に感情を籠めるでもなく、ヒュウガは言う。
「俺たちが戦う相手は、人じゃねぇんだからな」
これがその『理由』だ。
アイレフォルン学園の生徒は、《深き者》との戦いを目的に育成されているのだ。
そして問題の《深き者》はと言えば、シルエットは辛うじて人に似ているとも言えなくはないが、対人を旨とした格闘術はほぼ役に立たないと言って良い。
まず体格が桁違いだ。平均的な個体でも爪先から頭まで三メートルはある。加えて膂力も常人のそれと比べるべくもないという有様だ。よしんば対応できる者がいたとしても、そもそもの話として《神具》が放つ神気以外で《深き者》にダメージを与えることはできない。
「そりゃそうだけどよ……っと。おい、見ろよ」
唇を尖らせてグチグチ言っていたジェイクが急に身を乗り出した。
つられてそちらを見ると、新たな一団が先程と同じように戦闘訓練を行おうとしている。最初に出てきたのは金髪の男と茶褐色の髪を持つ女の二人組。履いている靴の色や胸元の装飾を見るに、上級生のらしい。
ヒュウガたちと違うのは、それぞれの手に得物が握られていることだ。男の方はナックルダスターを手に嵌め、女は煌びやかな装飾が施された団扇で口元を覆い隠している。さながら、古代の拳闘士と異国の貴人の対峙だ。
何も知らぬ者が見れば、女の方が不利に思えることだろう。
しかし、ジェイクが下した評価は逆だった。
「あー……男の方、負けたな。可哀想に」
彼らの間に立った教官が合図の手を振り降ろす。
男が床を蹴った。鋭い踏み込みとともに拳を振るう。鍛え上げられた腕筋が皮膚の下でぐるりと回った。動きを見ればわかる。下からの突き上げ、アッパーだ。
対して、女がとった行動は実にシンプルだった。手に持った団扇で、軽く仰いだだけ。
それだけなのに。
次の瞬間だった。
ゴウッ! と唸り声をあげて、爆風の塊が男に襲い掛かった。
猪の突進でも受けたかのように男が後方へ吹っ飛ぶ様を目の当たりにして、ジェイクが冷汗交じりの口笛を鳴らす。
「あれ、女の方はレベッカ先輩か? どこぞやの伝承級らしいけど」
《神具》。《深き者》に唯一対抗し得る、人に宿った超常の力。
しかし、同じ《神具》でも無名級と伝承級との間には大きな差がある。伝承級と神話級も同上だし、無名級と神話級ならば比べることすら烏滸がましい。
ヒュウガもジェイクも、持っている《神具》は無名級だった。どうにも格差をまざまざと見せつけられているようで余りいい気はしない。
視線の先では、吹き飛ばされた男が両手を上げて降参の意を示していた。二人を監督していた教官が終了の合図を上げる。
「……しっかしまあ、なんだ。分かり切ってた結果というか。何故に無名級と伝承級を戦わせた?」
「さあな。上の学年に他の伝承級がいなかったのか――」
少年二人がぺちゃくちゃと雑談を続けていた時だった。
ぬぅと、ヒュウガとジェイクの上からなにやら影が落ちる。
果てこれはいかなることかと、一瞬本気で首を捻るバカども。答えはすぐに分かった。
「おい、貴様ら」
低く野太い声が上から降ってくる。
ギクリと二人の肩が跳ねる。次いで、ギギギと油が切れたドアのような動きでゆっくりと、恐る恐る顔を上げる。
そこにいたのは、口元は笑みの形に歪ませながらも、目は笑っていない鬼の教官殿。
薄ら笑いで誤魔化そうとしたのが悪かった。
直後、眉間に拳骨が一発ずつ。
「あがっ!」
「いでっ!?」
全く同時に小さな悲鳴を上げるヒュウガとジェイク。額が割れるような激痛。こういうのを目から火花が出ると言うのだと、身をもって知る。なんと教育的なことか。教師の鑑とも言うべき姿勢には思わず涙が出そうになる。
目尻に涙を浮かばせた二人は、蹲りながら怒れる教官の判決を聞いた。
「ジェイク・グローバー。ヒュウガ。昼休みは校内一周の刑だ」
校内一周とは言っても、当然ながら本校舎や施設の中までどたどた走るのではなく敷地の内周をぐるりと回るだけだ。
とは言え、それも決して楽なことではない。
なにしろ、中央区の三分の一はアイレフォルン学園に費やされているとまで言われているのだ。そのデカさと言えば、呆れるすら通り越していっそ気が遠くなる。
おまけに制服は黒の詰襟。動きにくいわ蒸れるわ熱を吸収して余計に暑いわと、ランニングは地獄の様相を呈していた。照り輝く太陽と清々しい蒼穹が、今はただ恨めしい。
結局、二人が受講態度不良のツケを払いきったのは昼休みも終わりに差し掛かったころだった。
校内外を遮る壁に寄りかかり、何とか息を整えながら、ヒュウガは恨みがましい視線を隣に向ける。
「……ジェイク、テメェ」
「なんだよ俺が悪いのか!?」
「お前が話しかけてこなければこんなことにはならなかったんだろうが!」
「そう言うお前だって咎めるでもなく応じてたじゃねぇか!」
「ぐっ……!」
それを言われては言葉に詰まる他ない。というか、元々完全に八つ当たりである。
その後も暫くはギャーギャー言い合っていたがじきに止め、揃って空を見上げる。
小鳥が二、三羽ほど、青い空で舞っている。
「平和だねぇ……」
間延びしたジェイクの呟き。
北区に《深き者》の大群が侵入したという事件もあったが、それも既に一年前のこと。基本的に、街の中――それも中央区までくれば、そこには戦時中とは到底思えない程のどかな光景が日々繰り返されている。意外かもしれないが、戦場は戦場、日常は日常で区別されるもの。何処かで誰かが戦っていても、それは戦場にいない者に実感を伴って伝わることは無い。
ヒュウガ達は後一年もすれば実戦に加わるようになるが、緊急事態が起きなければ基本的にその機会は限られている。訓練兵である彼らに、第一に求められるのは戦果ではない。生存だ。二つ上に戦場で正規兵顔負けの大暴れをした先輩がいるとは聞いているが、そんなものは例外中の例外だろう。
と、ぼんやりと空を見上げていた時だった。
やや遠くから、重く、低い鐘の音が響く。
「「あ」」
二人が声を上げた。
午後の授業開始の合図であった。
◇◆◇
その日の授業は終わり、放課後である。
やや日が傾いた街の中を、一人の少女が歩いていた。
風に靡いてサラリと揺れる黒髪に、花緑青の瞳。何処か東洋の面影を残した容貌。
言うまでもなく、イオナ・ブランジャールである。
常は穏やかな笑みを浮かべている彼女だが、一人になるこの時ばかりは憂鬱な面持ちで溜息を吐く。
「……」
憂いを帯びた視線でぼんやりと虚空を見上げる。
思い出されるのは今日の昼頃。本校舎の教室の窓から見えた、二人の少年だ。
何やら酷く言い合いながら全力疾走で前衛科棟へ向かっていく姿を覚えている。
片方について言えば、見覚えがあった。今朝、ベンヤミンとクロエに絡まれていた、彼。黒髪に東洋系の顔立ちという目立つ、そしてどこか親近感を感じずにはいられない風貌の少年だ。名前はヒュウガといっただろうか。
「はぁ……」
桜色の唇から再びの溜息。
実のところ、イオナはこれと言って親しい友人というべき者がいない。理由は、その特異な出自にあった。
彼女はナウアノルの軍事を司る特別な三人――三伯と呼ばれる者たち、その中の一人。『剣聖』エルネスト・ブランジャールの娘。
それだけならば、周りも多少は近付きにくかろうが、まだ良かったかもしれない。
問題は、もう一つ。
それは彼女の見た目が示している。
母が東洋人なのだ。
……人という生き物は、社会の中で少数派に位置する者を不当に低く扱う特性がある。ナウアノルにおいては、それは移住が比較的新しく、絶対数が少ない東洋人に対して行われた。
つまるところ彼らを賤民に位置づけたのだ。
そしてそれは、イオナの母とて例外ではない。
事実上の最高権力の一角と、身分社会最底辺の一人。彼らの間にどれだけの苦労があったのかは伝聞だけでなら知っている。
が、その皺寄せは娘にまでも及んでいた。
平民からは父の家柄が。
貴族からは母の血が。
それぞれ理由となって、イオナを孤立させている。両親が知ったら悲しむだろうから、決して言えないけれども。
そういう意味で、ヒュウガに対して勝手ながらも半ば親近感に近い感情を抱いてはいたのだ。彼は東洋人。自分もハーフとは言え東洋系の血が流れている。同種のマイノリティという事実が、心の壁の片方を崩していた。
が、彼には友人がいる。実に親しげだった。言い合いこそしてたが、それもいわゆる男友達の距離感のようで、微笑ましい類のものだ。
翻って自分はどうか。私にはいない。二言三言、同級生と言葉を交わすだけである。この差は一体何であろうか?
ぐぬぬと思わず口をへの字に曲げ――慌てて元に戻す。
目的地についていた。
とは言え、それは自分の家ではない。
中央区と南区のちょうど境辺りにある、古ぼけた石造りの施設だ。
昔々、そのまた昔、まだ海から《深き者》が現れる前には公民館として使われていたという建物だ。それが本当なら築数百年はあるだろうが、健在なのはこまめに改修を重ねていたおかげが。
木製の扉を開き、ホールのようになってる一階を抜けて階段を上がる。ガス灯も通っており、とても大昔からある建築物とは思えない。
階段を昇りきると、なにやら騒がしい。いつも通りだ。
「こんにちは!」
最後にあったドアを開きながら努めて元気に挨拶をする。
そこは、一階にあったホールの半分ほどの大きさの部屋だった。中には十人ほどの子供たちと、初老の女性が一人。
「あら、イオナちゃん。こんにちは」
その女性がこちらに気づいて、微笑みかけてくる。
彼女はガブリエラ・ツィマーマン。東区で有名な豪商ツィマーマン家の血縁の者で、今はここで――孤児院を運営していた。
「あ、イオナねーちゃん!」
「ねーちゃん、こんちは」
思い思いに遊んでいた子供たちもこちらに気づいた様子で、あるいは諸手を挙げて、あるいは顔だけをこちらに向けてきたりと銘々に応えてくれた。
孤児。そう、彼ら彼女らの全員が孤児だ。それも貧困層の平民や、あるいは賤民といった身寄りのない生まれの。
放課後にここに来て孤児院の運営を手伝うのは、もはやイオナの日課となって久しい。いわゆるボランティアというやつだ。
両親も基本的には自由にさせてくれている。以前ここに通っていることを打ち明けたところ、母は特に反対もしなかったし、父は「それが君のやりたいことなら」と賛成の意を示してくれた。
と、一人の少女がわざわざこちらへ駆け寄ってくるのがみえた。
浅黒い肌に丸くくりっとした目の女の子だ。民族的には東洋系らしいが、イオナやあの少年とは大分顔つきが異なるように思える。
がばっ! と強く抱きつかれる。子供特有の、一切の力加減がない突進に少しよろけてしまいそうになるが何とか踏みとどまる。
「おねーちゃん!」
顔を上げて笑いかけてくる女の子。実のところ、彼女がこの施設で一番懐いてくれている子だった。
……ガブリエラ女史や子供たちには、自分の家のことは黙っている。心苦しくはあるが、変に意識してもらいたくは無かったし、複雑な事情があることは察してくれたのか女史も何も尋ねてこなかった。
「うん、なあに?」
少女に笑顔で応じる。どうやら、ただ甘えたいだけらしい。
ふとイオナは思う。
多分、自分がここに通う理由は、自分が他人と対等に触れ合えるのはこの場所だけだ。慈善的でも同情的なものでもないし、もしそうだったら女史は自分を受け入れはしなかったかもしれない。
少女の手を引いて子供たちの輪に混じりつつ、イオナは思う。
この場所を、失いたくはない――と。
イオナのキャラが迷走を始めているような気がしてならない件。