1話:《賤民の少年》
東の空がようやく明るみ始めた頃、まだ仄暗い修練場の中で一人、木剣を振るう少年がいた。
オニキスを思わせる漆黒の髪に、同じく黒い瞳を持つ少年だ。総じて東洋風の顔立ちと形容していいだろう。
細く引き絞られた腕の、その筋肉が躍動する。腕の動きに合わせて木剣は低い風切り音を上げ、頬にうなじに浮かんだ汗が空に浮く。
そうやってもう何十回目かの素振りを終えた時だった。
ピタリ、と少年の動きが止まる。
耳をすませば、修練場の入り口の辺りから複数人が会話する声が聞こえ始めていた。
「……」
ふぅ、と溜息を一つ。どうやら今朝はここまでらしい。
彼は乱れた着衣を軽く正すと、隅にある筒の中に木剣を返し、抜き足差し足でその場を後にする。
碌に草刈りもされてない裏口へ出ると、恐る恐るに修練場の中を伺った。
どうやら、誰も先程まで少年がいたことには気づいてないようだ。
安堵の息を吐きつつ、小走りに建物から離れる。
なんとか誰にも見つかることなく寮の自室に戻ると、彼はもう一度、しかし今度は大きく溜息を吐いた。
訓練用の衣装を乱暴に脱ぎ捨て、ベットに放り投げる。気を遣う立場だ。何かと大変なのは今に始まったことではないが、朝の鍛錬も満足にできないのはやはり堪え難い。
予め沸かしておいた湯にタオルを突っ込み、全身の汗を丁寧に拭っていく。
ふと、窓の外が急に明るさを増した。
横目で外の様子を窺えば、お天道様が遠くに広がる地平線――ではなく、この都市国家を取り囲む城壁から顔を覗かしていた。
少年の名はヒュウガ。
アイレフォルン学園の生徒であり――ただ一人の、賤民出身の兵士だ。
アイレフォルン学園は敷地内の中央にある本校舎と、前衛科訓練棟・後衛科訓練棟の三つからなる。
一般教養は本校舎にある教室で受けるが、それ以外――つまりは、戦闘に関する技術を学ぶ際には、各々の履修科目どちらかに応じた施設へ赴くわけだ。
ヒュウガは前衛科であったため、そちらへと足を運ぶこととなる。
金糸の装飾が施された純黒の詰襟に身を包んだ彼は、窓から陽が差し込む廊下を黙々と歩く。
と、前から二人の生徒と出くわした。
その顔触れを見て、思わず苦い表情になる。前衛科の実習で何度か一緒になったことがあるが、正直なところ、最も会いたくない類の奴らだ。
運の悪いことに、そこで先方もこちらに気づいたようだった。先頭にいた男が底意地の悪い笑みを浮かべながら声をかけてきた。
「これはこれは、誰かと思えば出来星のヒュウガ君ではないか! ご機嫌いかがかな?」
「……上々ですよ、エーレンベルク殿」
軽くあしらって通り過ぎようとするが、二の腕を掴まれ、強引にその場にその場に留められる。
「――直せ。エーレンベルク“様”だ」
打って変わって低い声で、男――ベンヤミン・エーレンベルクが言った。
すかさず笑ったのは隣にいた女だ。クロエ・ベルナールといったか。
「よしなさいよ、ベン。成り上がり者に礼節を求めるのは酷だわ」
「クロエ、ここは誉れ高きアイレフォルン学園だ。その生徒である以上、彼にもせめて最低限の言葉遣いを学んでもらわなければ困る」
ナウアノルには貴族、平民、賤民の三階級から成る身分制が存在する。
この二人はその中の第一身分、貴族に名を連ねる家の生まれだったはずだ。
そんな彼らは、学園に第三身分のヒュウガいることが実に気に入らないらしい。事実、ベンヤミンとクロエを中心に、貴族や一部の富裕平民の生徒などまでもが度々ヒュウガに絡んでくる。
しかしながら、例外もまた存在する。
「――やめなさい」
ふと、透き通るような声が耳に届いた。
そちらへ顔を向けたベンヤミンが渋面を作ってみせる。
「……ブランジャール嬢」
そう呼ばれたのは、一人の少女だった。
ヒュウガと同じ、しかし絹のようにサラサラと流れる黒髪。どこか東洋風の面影は残しているが、白い肌や花緑青の瞳が不思議と調和し、美の神もかくやという美貌を成しせしめている。
イオナ・ブランジャール。
学園内でも知らぬ者はいないと言われるその少女は、穏やかな笑みを浮かべて、一言。
「それ以上やったら、私、怒るよ?」
「……フン」
ベンヤミンが鼻を鳴らして乱暴に腕を放す。
とは言え、絆されたわけではない。単純に家の格が違いすぎるのだ。
何せ、相手はあの三伯が一『剣聖』の、実の娘なのだから。
どすどすと床を踏み鳴らして通り過ぎていくベンヤミンとそれを追うように去っていくクロエの二人組を尻目に、ヒュウガは今し方助けてくれた少女に向き直る。
「えっと……ありがとう」
「ううん、いいの。むしろごめんね? クラスメイトが迷惑かけちゃって」
そう言って苦笑すると、イオナはベンヤミン達と同じ方向へと歩き去っていく。
「……」
その後ろ姿を少しの間見つめた後、ヒュウガもまた、己の目的地へと再び足を動かし始めた。
鼻持ちならない系のキャラを書いて改めて気づく、フォイの偉大さ。