6話:《三本の歯》
脳髄を抉り取る確かな手応えがあった。
直後に、《深き者》の体が泡になって溶けていく。
その様を見届けながら、ルーカスは鉄の騎馬を停めた。
チラと肩越しに後ろを見れば、アメリアの父が地面にへたり込んでいるのが見えた。特に外傷は無さそうだ。
一安心と視線を前に戻して――絶句する。
居る。
街路の奥。遥か先に、わらわらと群れを成してこちらへ向かってくる影。
……報告によれば、北区に発生した《深き者》は群体だったはずだ。
つまりはあれこそが本隊。
今しがた倒した一匹など、そこから零れ落ちた滴に過ぎない。
(逃げるのは――)
マシンを見やる。
答えはすぐに、そして簡潔に視界へ映し出された。
【過剰積載。非現実的なり】。
ルーカスとアメリア、そして彼女の父を同時に乗せるのは不可能。
採れる行動など、必然的に一つだった。
意を決して騎馬から降りる。
「ルーカス……?」
訝し気にアメリアが声を上げる中、改めて槍を構え直す。
迫りくるは怪物の集団。通常であれば、単身で挑むのは無謀の領域。
だが――自分であれば。
しかと握りしめた海神の槍が、淡く輝く。
《神具》。その中でも頂点と目される神話級の一角ならば、殲滅まではいかずとも正規兵が到着するまでの時間稼ぎは出来る筈だ。
と、背後で誰かが動く気配があった。
振り返るまでもない。アメリアだ。
「私も――」
そこで、彼女の言葉は途切れた。
他でもないルーカスが、手で制したのだ。
「お前はお父上を連れて避難しろ」
「でも!」
「……乱戦となればお父上を庇いながら戦うのは難しい。かと言って彼一人を逃がしたところで、他の個体と遭遇せんとも限らん。お前が索敵しつつ、適性反応を迂回していった方が確実だ」
「……あなたは、どうするの?」
食い下がるように問うてくる。
一対複数というのは文字程簡単なものではない。
むしろ『全方位を常に警戒しながら己よりも強大な相手と渡り合う』と表現すればその難度がいかほどのものかは想像しやすいだろうか。
それでもルーカスが今まで戦えていたのは、高出力・高応用性の《神具》があったことよりもアメリアの補助が大きく関わっていた。
そして、これは最も重要な特性なのだが――彼女の支援は対象を目視していなければ有効範囲は大幅に縮小されるのだ。
以前北区の外に襲撃があった際、途中でアメリアがルーカスを呼び止めたのも、この特性による。
つまり彼女を遠ざけるということは、キーを自ら放り投げることに等しい。
それをすべて理解したうえで、ルーカスは言った。
「問題ないさ。早く行け」
「…………」
こくりと。
渋々といった調子で、アメリアが頷いた。
背後で彼女が自らの父を抱き起し、鉄の騎馬に乗せる気配がする。
遠雷のような低い音が轟き、遠ざかっていくのを聞きながら、ルーカスは静かに息を吐いた。
前方では、とうとうこちらに気が付いた一団の先頭が、その巨体に似合わぬ速度で動き出していた。
◇◆◇
ドドドドド……、とエンジンが唸る音を聞きながら、アメリアとその父――ジョセフは、中央区へ続く道を進んでいた。
徒歩ではそれなりの時間を要するところにも、この新式の移動装置ならものの数分でついてしまう。ここまでくると少なくとも探知できる範囲には敵性反応は無い。
走行風が体を打ち、衣服の端々が暴れ狂う。体格の関係で運転は父に任せているが、後ろにいてもかなりの風を感じる。
振り落とされないようにジョセフの体にしがみつきながら、しかしアメリアの心は別のところへ向いていた。
先程戦場に置いてきた、自分の相方。
彼は「問題ない」と言ったが、事実は違う。
確かに、彼の《神具》は一級の性能を持つ。
だが、今回は力押しでどうにかなる問題ではない。離脱前に見たが、あの数は常軌を逸している。
あんな数が何かしらの動きをしていたら気づかぬはずがない。浄水施設に通じる下水道に潜伏していたとでも言うのか。
冷たい汗が首筋から滑り落ちる。
と、その時だった。
少女の瞳に、あるものが映った。
「停まって!」
半ば反射的に叫ぶ。
「な、なんだ。どうした……?」
そう問い掛けつつも、ジョセフはマシンの動きを停めた。
言葉では答えず、しかし行動で示す。
ひらりとシートから飛び降り、一目散に駆け出す。
「あ、おい!」
背中越しに父の制止の声が聞こえるが、そんなものは無視だ。
全力で足を動かす彼女の先にあるのは、何かの宗教の教会。正確にはその尖塔だ。
施錠された扉を無理矢理こじ開ける。
灯りが落とされた暗い塔内を、それでも僅かに捉えることのできる輪郭を頼りに突き進み、何とか階段を見つけ出した。
湿り、あまつさえ所々にコケやカビがこびり付いた石造りのソレを、アメリアの靴底が力一杯に蹴っていく。
一段、一段。リズミカルに。
――速く!
ゾンッ! と空気を割く音とともに、青い燐光を放つ槍が振るわれる。
氷の刃を纏った穂先が数体の《深き者》をまとめて薙ぎ払い、泡へと返していく。もう何十体目だろうか。戦っているルーカス自身にも皆目見当がつかない。
頬に汗に滲んだ汗を乱暴に袖で拭いながら、油断なく周囲に視線を巡らせる。
……アメリアに強がって見せたのはいいが、正直なところ、押し留めるのが精一杯だ。
殺しても殺してもキリがない。一体どこからこれほどの大群が湧いてくるのか。
加えて、普段と違うのは周囲に建物があるということだ。行動が制限されて、上手く動けない。
「ッ!」
背後に迫る気配を感じ取ったのは、もはや直感の領域だった。
大きく横に飛ぶと、つい先程までルーカスがいた場所を膨れ上がった腕が通過する。
振り降ろされた拳が地面に叩きつけられ、粉砕された石畳が勢いよく飛び散る。
『ォォォォアアアアアアッ!』
「チィッ!」
威嚇するように吼える《深き者》に、舌打ちとともに槍の一刺しをお見舞いする。
泡を噴き出し消えていく死体には目もくれず、向き直る。
息つく暇など与えない。休む時間などもってのほかだ。
次の波は、すぐに来る。
階段を全て駆け昇った果てについた踊り場で、アメリアは立ち尽くしていた。
彼女の前に、大きな壁が立ちはだかっていた。
尖塔の最上階は展望スペースが付いていることが多い。今回のこれも同じだ。
ひたすらに長い階段を昇りきったそこまではよかった。
問題はそのスペースを取るために、一番最後の昇降手段を梯子にしていたことだった。
試しに手をかけてみるが、横棒一本一本のスペースが大きすぎて、彼女では到底登れない。
ここに来て、自分の体型が仇になった。
元々、同級生にからかわれることも多かったが、その時は特別気にも留めなかった。
誰になんと言われようと、これは自分の体であり、両親から授かった大切なものだ。
それが今は――
恨めしい。
憎い。
不甲斐無い。
情けない。
あらゆる感情がない交ぜになって、目尻に涙の粒が滲む。
彼が命を賭して闘っているのに、どうして自分は何もできない?
細い手を精一杯に伸ばして、何とか鉄の棒を掴もうとする。
届かない。五の指を限界まで広げた掌が、小刻みに震える。
せめて――せめてあと一歩。
そう思っていた矢先の出来事だった。
ヒョイ、と。
腋の下あたりが掴まれる感触。同時に浮遊感が全身を包む。
「え……?」
誰かに後ろから抱き上げられた。その事を認識するのに数秒。
驚きとともに振り返る。
そこには、父の顔があった。
「……とっとと昇れよ」
肩で息をしながら、彼はそう告げてくる。
衰え、随分と肉が減った両の腕は、それでも確かにアメリアを持ち上げていた。
「……!」
小さく頷き、視線を前に戻す。最終段の棒が目と鼻の先にあった。この高さなら行ける。
ガッ! と音が聞こえそうな程力強くその棒を握り締めた。
そして、前回りの要領で上体を持ち上げる。
勢いに身を任せれば、展望スペースの床に体が打ち付けられた。
顔を顰める時間などない。飛び起きて柵に駆け寄る。
身を乗り出して彼の姿を探す。――見えた。
蟻のようにほんの小さな姿だったが、彼は確かに、雪崩のような《深き者》の群れの中で果敢に槍を振るっている。
手中に二匹の蛇が絡まった杖を呼び出す。
【距離確認――対象、範囲内に存在。支援行為可能。実行しますか?】
訊かれるまでもない。
唇は、たった二文字を紡いだ。
◇◆◇
明確な変化があった。
ルーカスの右目の周囲に、黄金の光が灯る。
視界が上書きされる。右上に小さなマップ。中空には戦闘のガイド。
誰によるものかなど一目瞭然だ。
「……ッ!」
中空に描かれた光線を槍の穂先でなぞる。
軌道上の肉を根こそぎ抉り取り、薙ぎ払い、泡へと変えていく。
少女の導きは冷酷なまでに正確で、絶対で、完璧だった。
それに応えるように、手に持った槍の、その穂先が今一度形を変える。
大振りのナイフのような刃がどろりと崩れ落ち、再構成され、本来あるべき姿を取り戻していく。
神話に曰く。
其は三つの銛の穂先を持つ武装であり。
三大神の一角、海と大地を司る神性がその手に握る槍であり。
津波や洪水など、ありとあらゆる海に関わる力を有すという。
三本の歯。
その真骨頂が解き放たれる。
「ォ」
ビシ。
ビシビギビキビギミシビギィィィッッ! と。
今までの比較にならないほどの神気が溢れ出し、全身の筋肉が引き絞られ、骨が軋みを上げた。
抗いがたい全能感が全身を満たす。
この槍の使い方はもう知っている。
逆手に持ち替え、その腕を大きく振りかぶる。
「ォォ」
渾身の力を以って――投擲。
「ォォォォォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!!」
一条の青い光の筋が、街路を突き抜ける。
真っ直ぐに投げ飛ばされた槍は、直線状にいる敵を射貫くだけ――かに思われた。
違う。
猛烈な破壊が訪れたのは、直後。
光の矢と化した槍が通った道筋を中心に、爆発的な風の渦が巻き起こる。
衝撃は地を揺らし、空を哭かせ、《深き者》の大群を微塵にすり潰していく。
まるで嵐だった。
荒れ狂う海のような暴威。
途方もない数の《深き者》で埋め尽くされていた街路は、今や泡を放ちながら溶けていく肉片が散らばっているだけだった。
しかし。
ルーカスは視線を巡らす。
まだ、ずっと遠くの方に数匹の影が見える。
――まだ終わってはいない。
いつの間にか、槍は手元に戻ってきていた。
鋭い目で睥睨すると、怯えたように連中は背を見せて逃げていく。
狩人は駆け出す。
今度は、少女も引き止めなかった。
正規兵の団体が浄水場を叩き終え、現場に到着した時には《深き者》など一匹たりとて残っていなかった。
《深き者》の遺骸が蒸発する凄まじい臭気の中、替わりに彼らは見つける。
鈍く輝く槍を隣に立てかけ、壁に身を預けながら静かに眠る、少年の姿を。
Q:トリアイナは投げる槍じゃねーよ。
A:投げた方がカッコよかろう?