7話:《私だって》
それはまるで、全てを喰らい尽くす蝗害のようだった。
北区の空を埋め尽くさんばかりの黒い鳥のような生き物。
《夜鬼》。
まるで見たことも、聞いたこともないような怪物の出現。
だが。
「ッ! 市民の皆さんは建物の中へ避難を!」
「クロエはそのまま避難誘導頼む! ベン、スリサズかけとくぞ!」
「命令するな鬱陶しい!」
街のただ中でその事態に直面した三人の対応は完璧だった。
彼らだけではない。交番代わりの詰め所からは次々と控えていた正規兵が飛び出てくるし、市民の避難も徒に混乱するようなそれではない。
五年前に《深き者》の侵入事件があって以来、国際駅の所在地として特に外へ開けている北区では特に有事の際の行動に向けた訓練が重視される傾向にあった。元々諸外国の大商人や外交使節などもやってくることがある以上、詰めている正規兵の練度も南区に次いで高い。
何より、あれの名は知らずとも本能と幾たびも戦ってきた経験が教えてくれる。
あれは、人に敵対するモノだ。
あれは、人と相容れぬモノだ。
ならば、あれは、我々が倒すべきモノだ。
ベンヤミンが掲げた槍の、稲妻のようにギザギザとした穂先に亀裂が走る。甲殻を削り出したような鏃が分離し、ちょうど低い位置まで降下していた《夜鬼》を蜂の巣に変えていく。
近くにあった荷台を踏み台にして跳び上がったクロエが羽根の如く軽やかに舞い、空中ですれ違った《夜鬼》を切り伏せる。対空時間の延長。クロエの《神具》の持つ特殊技能だ。
その背後で、ジェイクが状況に合わせた文字を刻み、前線で戦う二人へ加護を授ける。
「なんだアイツら……」
近くでその戦いざまを見ていた他の正規兵が、思わずといったようにこぼした。
さすがは正規兵になって以降もずっと壁の外で戦い続けていただけはある。踏んだ場数が違うし、何よりここにいるのは三年前のあの作戦という修羅場をまだ少年少女でありながらくぐり抜けた連中だ。
イオナの強力無比な《神具》に隠れがちだが、既にこの三人だけでも十分すぎるほど精鋭中の精鋭と言えるほどに成長していたのだ。
しかし。
「チッ、数が多い。僕達で対応できるのにも限度があるぞ……!」
ベンヤミンが舌打ちをした。
いくら彼らの力量が高いと言えど、相手は無数。その上空を飛行しているというのだ。クロエはその能力を応用し滑空のような芸当こそできるが、それでも一対の翼で自在に空を動き回れる輩には対応しきれない。
「今こっちに三伯のダリウス卿が向かってるらしい。それまで持ちこたえられればこっちのもんだ!」
近くの詰め所で伝令から伝言を受けたらしいジェイクがそう言いながらベンの肩を叩く。
その背後にふわりと着地して、クロエはふと思い出したように呟いた。
「そういえば、ペトラ達の方は大丈夫かしら」
◇◆◇
「ちょ、」
大丈夫なわけがなかった。
「ちょちょちょちょちょォ――ッ!? 何アレ!? 私知らない見てない聞いてない!!」
ぎゃーす!! と泣き喚きながら駆け出す少女が一人。赤みがかったポニーテールに純白の軍制服。言うまでもなくペトラ・ツィマーマンである。
口では叫びながらも向かう先が避難誘導を行っている正規兵がいないところなのは流石であるが、それ以上にいささか滑稽な姿でもある。自分以上に動揺している輩がいると人は冷静さを取り戻すと言うが、狙ってもないのに市民に沈静効果を与えているところが涙を誘う。
まあそんな馬鹿みたいなオーバーリアクションをしていれば必然目立つもので。
バサッ! と、翼が空を叩く音。
「うぎゃーっ!!」
ペトラが一際甲高い悲鳴を上げる。
目の前に、空中で舞っていた《夜鬼》の一匹が降りてきたのだ。
そのパーツが全くないつるりとしたのっぺらぼうの顔に、しかしニタリといやらしい笑みのような気配を感じる。
真っ黒いゴム人間のような怪物が、鉤爪のついた枯れ枝のように細い五指の手をそっとペトラに伸ばし、
「ふ」
はっしとその手首を掴まれた。
半ベソになったペトラが、ヤケクソ気味にその腕を捕らえたのだ。
「ざ」
訳が分からないとでもいうように動きを止めた《夜鬼》を今度は凄まじい力で引っ張られるような感覚が襲う。
否、ようなではない。
《夜鬼》は見落としていた。
ペトラの腰には、いつの間にかエスニックな意匠のベルトが現れていたことを。
「けんなオラァァァアアアアアッ!!」
気合い一発。
乙女に似合わぬ掛け声とともに、ゴリラが如き怪力で《夜鬼》が振り回され、地面へ叩きつけられる。憐れなりまっくろのっぺらぼうは石畳に頭から突っ込み、整然と並べられた床石に亀裂を入れながらも全身から鈍い音を響かせる。全身骨折。言うまでもなく即死である。
《深き者》の死骸は異臭とともに泡に帰すが、今回の場合は黒いさらさらとした塵へと変わっていくようだ。そこら辺の生態が違うのかも知れない。
「ふぅううううう……」
肩で息をしながら狂戦士が面を上げる。
血走った目に皺が寄った眉根。とてもではないが嫁入り前の娘がしていい顔ではあるまい。ゆらりと立ち上がるその姿はもはや悪鬼か羅刹か。子供がみたら間違いなく恐怖で泣き出すだろう。両親が見たらまた別の感情で泣くかも知れない。
なにはともあれ、覚悟完了。
「どりゃぁ!! 畜生めぇい、かかってこんかァいッ!!」
完全に一周回ってキマっていた。
あらん限りの空気を胸に吸い込んで、天に向かって中指を立てる。周囲には他にも正規兵が数人いたが、その反応はといえば「あの子、あんな可愛い顔して……」「ブランジャール卿の娘さんのとこの荷物持ちだろ? あんなのだったのか……」といったものである。簡潔に纏めれば「ドン引き」というヤツだ。
目の前で同族が惨い殺され方をしたとあっては流石に怯むのか、ざわつくように身を寄せ合う《夜鬼》だったが、
「そっちが来ないなら……」
ペトラがゆっくりとしゃがみ、先程の惨殺、もとい戦闘で生じた街路の破片を一つ手に取った。
片足を上げ、背をしならせ、手首にスナップをきかせて、
「こうじゃァ!」
投擲。
恐るべきことに石の欠片は音速を超え、あたりに破裂音のような甲高い音を響かせながら天へと駆け上る。
その射線上にいた《夜鬼》がどうなったかなど、敢えて記すべくもない。
撃ち落とされた怪物は、値に叩きつける前に全て塵へ還ってしまう。
「ッ、行けぇ! こっちも上空を狙える《神具》持ちはどんどん攻撃に回れ!」
それで、呆けていた正規兵達が我に返る。民衆も既に避難を終えた頃だ。今度は総攻撃が始まった。
「待てェい!! 臆したかこの弱味噌のフニャ××腰抜け野郎どもめ!!」
たまらず逃げていった《夜鬼》達に教官仕込みの罵声を浴びせながら、逃してなるかと追いかけ始めるペトラ。完全に頭に血が上っている。
止めようとする周囲の正規兵もいたが、それすら見えぬままただ空を飛ぶ黒い怪物の集団を追いかけ続ける。上を向いて走ろう。これが花畑で追いかけている相手が蝶ならば微笑ましいのだが、現実は非情だ。
そうしてろくに前も見ずに走っていたからだろうか。
「あっ、痛!」
「うおっ!?」
人通りが少ない地域まで来たあたりで、角から現れた人影とぶつかった。それなりの速度で走っていたせいか、反動で尻餅をついてしまう。
「あー……」
見上げれば、これ幸いと言わんばかりに追っかけていた相手はみるみるうちに離れて行ってしまう。もっと撃墜したかったのだが。
おのれ我が闘争の邪魔をした者は何やつか、顔を拝んでやろうと今し方ぶつかった人影へと目を向ける。
男だった。年齢は二十歳かそこらといったところか。暮らし向きは決して良くはなさそうで、ぼろ布同然のマントを上からすっぽりと羽織っている。
向こう側も派手に尻餅をついたようで、地に突いた手には黄ばんだ包帯が巻かれていた。そこから覗くのは痛々しい火傷痕だ。訳ありと見える。
そして、顔。我こそは東洋人でございと主張するような典型的なそちらの方の顔立ちに、同じ色でも憧れの先輩とは大違いの、ろくすっぽ手入れもされていない黒髪。顔面にはやはり火傷の痕に、トパーズのような黄金の瞳。
はて珍しい……と思った直後に、ふと思い当たる。
あれ、この人の特徴ってまさか――
「いってぇな! どこ見てるんだよおま――」
「もし、かして」
「あ?」
震える声で尋ねると、いささか育ちの悪そうな返事が返ってくる。
目つきの悪いという形容詞を体現されたようなその顔に視線を向けられても、ペトラは恐怖など感じられなかった。
「ヒュウガ、さん……?」
途端に、相手の顔が強ばる。
それが逆に、肯定を暗に示していて。
「……誰、お前?」
◇◆◇
たった一匹に出くわした直後に異変が発生した。
北区の上空を大量の《夜鬼》が飛び交う。
「……一匹見つけたらン百匹はいると思えってか?」
それにしたって数が多すぎる。
とりあえず遭遇した一匹を消し炭に変えながら目的通り中央区へ駆け出すヒュウガ。その足の動きは今まで以上に速い。
……今さっき遭遇した個体が持っていたのは、間違いなく人間の腕だった。
これはナウアノルの壁の中の人々には知られていないことだが、《深き者》に類する存在がこちらの世界に物質の肉体を持って現れるにあたっては、その属性に対応する『器』が必要だという。
だからこそ、かつての大敵の居城は水中にあり、その眷属の姿は海洋生物のそれに似ていた。あれは、まず最初に要石となる神殿をこちらの世界へ縫い付け、そこを中心に海に住む生き物たちを取り込み、『器』にして眷属を生み出していたのだ。
そして。
今回の《夜鬼》が人の腕を持っていたと言うことは。
彼らがこの世界に存在するために使われた『器』は。
そこまで考えて、打ち消すように首を振る。それを突き止めたところで、事態が変わるわけではない。
(とにかく、まずは中央区だ)
そこに、今の事態を打開できるかもしれない『人物』がいることを、ヒュウガは知っている。何しろ、今回わざわざ高速で走る貨物車に飛び乗り、蒸し暑い車内で木箱の間に潜んでまではるばる帰ってきたのは、その人物に会うためなのだ。
最も、件の『人物』が本当に人の形を保てているかも定かではないが……。
「ッ」
大通りに出そうになったところで慌てて足を止める。
避難が終わったのだろうか。普段であればもう少し活気づいていたような記憶があるのだが今はガラガラの大通りを舞台に、正規兵達が上空への戦闘を行っていた。
その中に。
「報告! この区画の避難が完了したって! これから戦闘に注力するわ!」
「おっし! 聞いての通りだ。ベン、派手にやってくれ!」
「だから命令するなと言っているだろう!」
見知った、しかし記憶の中より幾分成長している姿が三つ。
ベンヤミン・エーレンベルク。
クロエ・ベルナール。
そして――ジェイク・グローバー。
「……」
そっと、物陰から彼らの様子を見つめる。
戦闘にも大分慣れているように感じられた。正規兵として、それなりの時間を戦いとともに過ごしてきたのだろう。
静かに踵を返す。今ここで、彼らに見つかるのは上手くない。
とにかく、まずは当初の目的の人物に会うことを最優先しよう。
と、思っていたのだが……。
「あっ、痛!」
「うおっ!?」
再び閑散とした区画まで引っ込んだあたりで、今度は別の人物とぶつかった。どうやら相手方が相当な速度で走っていたようで、互いに尻餅をついてしまう。
最初の印象は「なんかちっこいヤツ」だった。見覚えはあるようなないようなではっきりとしない。
赤と褐色の中間ぐらいの色をした髪をポニーテールに結わえた女だった。ともすれば少女にも見えるが、着ている正規兵の白い軍服を見る限り少なくとも学園は卒業しているらしい。
非常時としてはあり得ないことに、単独行動だった。
急な上に色々と情報量が多すぎて、思わず衝撃で捲れたフードも直さずになんだコイツとまじまじ見つめていると、その視線に気づいてかはたまた別にでもないのか、相手がこちらを向いてきた。
すると今度は一拍おいて目を見開いてくる。なんだか随分とコロコロ表情が変わるなぁと思っていた矢先、
「ヒュウガ、さん……?」
これだった。
思わず表情が固まる。
記憶にある限りでは知人ではない。だが、学園内では人種のせいで目立っていたこともある。もしかすると、こちらを一方的に知っていたのか。
そして気づいた。
こんなこと、顔に出せば「はいそうです」と白状しているようなものだ。
「……誰、お前?」
とりあえず警戒しつつ問いかける。
すると、相手ははっとしたような顔を浮かべて、
「あ、私はペトラといいます。えっと、イオナ先輩の――」
その名が聞こえた瞬間だった。
ほとんど反射的に回れ右とダッシュを始めていた。
が。
「な、ちょっ、ちょっと!!」
静止の声が聞こえたのとほぼ同時に、背骨と腰の間あたりに凄まじい衝撃。
敢えて擬音で表現するならこうか。
ギュッゴバァアアアン!!
「どぉぉおおおお!?!?」
アホっぽい悲鳴とともに見れば、先程のペトラとか言う少女が腰にしがみついていた。恐らくスプリントの要領で走って飛びついてきたのだろう。それにしたって凄まじい快足だ。
その上恐ろしいほどの怪力で、無茶苦茶な体勢にも関わらず一歩も前へ進めない。というか、しがみついてきている腕がさっきから万力のように締め上げてくる。
「な! ん! で! にーげーるーんーでーすーかー!?」
「わ、分かった! 逃げない! 逃げないから、その腕を放してくれ!!」
このままでは骨盤のあたりで上半身と下半身が涙の別れをしかねない。観念して泣き縋る。
どっかと半分ふてくされながら地べたにあぐらをかくと、相手――ペトラも正座の足を外に崩したような姿勢でこちらを見ていた。
「で」
彼女が真剣な表情で問うてくる。
「どうして逃げるんですか?」
「……」
そっぽを向く。言えるわけがない。
だがそれが逆に徒になった。
「もしかして、その傷……」
「ッ」
横を向いたせいで傷を見せつけるような形になってしまったのか。顔の火傷痕を見てペトラが何かを悟ったように呟く。
思わず言葉に詰まってしまったのは失態だった。
「……なに、それ」
低く、震えた声が聞こえた。
細い指が襟首に掴みかかったのは正面へ向き直ったのとほぼ同時だ。
「なにそれ!? イオナ先輩は、ううん、イオナ先輩だけじゃない!! ジェイク先輩も、ベンヤミン先輩も、クロエ先輩も!! 皆、ずっとずっとあなたのことを探していたんだよ!? なのに肝心のアンタは全然出てこなくて、いざ出てきたと思ってたらすぐ逃げて。その理由がそれ!?」
「ん、だと……!」
ガクガクと揺さぶられながら飛び込んでくる怒声に、思わず頭に血が上る。
だが言い返せない。
「そこまでしてくれてる人たちが! 三年もずっと覚え続けて必死になって探してくれてた人が! 今更傷程度でどうこう感じるはずないでしょ!!」
一際、力強く襟を持ち上げられた。
「舐めてんじゃない」
顔を上げれば、鳶色の瞳がこちらを射貫いてくる。
「アンタなんかに、負けてたまるか!!」
最後におつりと言わんばかりに頬を引っぱたかれた。
そのまま、ペトラと名乗った少女は踵を返してどこかへと走り去ってしまう。
「……」
ヒュウガは。
「…………」
しばらくそのまま叩かれた頬を手で押さえて。
「……、」
やがて、立ち上がる。
その足が向かう先は、
◇◆◇
「ッ!」
もはやその動作は反射の域だった。
白くほっそりとした手が、稲妻のような鋭さで腰に伸びる。
そのまま、抜刀。
暗がりになった路地に白刃が閃き、《夜鬼》の肉へするりと食らいついた。驚くほど抵抗もなくゴムのような身体を切り裂くのは、それがいくら無名級と言えど《神具》に祀り上げられるほどの業物であったことを示す。
塵となって消えていく怪物を、肩で息をしながらイオナはただ見つめた。
(まずい……)
焦燥とともに来た道を駆け足で引き返す。思い出すのは今回ペアとして来てくれた赤毛の少女だ。彼女を一人で置き去りにしてしまった。よりによって、一番戦闘能力に欠ける彼女を。
「酷い先輩でごめん……!」
思わず謝罪の言葉が口から漏れた。せめて間に合ってくれと必死に足を動かす。
だから、気が付くのが遅れた。
【ふぅん、まあ悪くはないかな。依り代としては上々だ】
イオナの背後、その上空から静かに忍び寄る黒い影。
《夜鬼》ではない。それよりも強大な『何か』。
「ッ、誰!?」
その気配に気づいて振り返ったときには、もう目と鼻の先にそいつがいた。
この距離にいるのになぜだか輪郭はあやふやに思える。全体的に霞んだシルエットは幼い少女のようにも、老いた男のようにも見えた。
ただ、虚のように先が見えない黒だけが、そこにある。例外は、その胸部あたりに位置するであろう位置の中心で唯一グロテスクなまでに紅い線状の模様を持つ、黒曜石のような宝石。
【貰おう。その身体】
刀の柄に手が伸びたときにはもう手遅れだった。
『何か』から、手と思しきものが伸びる。掴まれたら終わりだ。それは半ば本能で理解した。だが、金縛りに遭ったように一歩も動けなくなって――
「どおおおおおおりゃぁぁぁああああああああああああああああ!! ンなァに先輩に手を出し取るんじゃこのクソ変質者ァァァァアアアアアアアアアアアアアアアッッ!!!!」
聞き覚えのあるソプラノの大絶叫とともに隣の壁がまるまる一つ吹き飛び、その中から現れた少女の跳び蹴りで『何か』が逆側の壁を突き破っていった。
「……え、と」
「先輩イオナ先輩大丈夫ですかお怪我はありませんかお髪に触られてはいませんかあの変質者と同じ空気を吸って肺腑に変な菌を貰ってはいませんか心配ですさあすぐにお風呂に入りましょう大丈夫です不肖私ペトラ・ツィマーマンが責任を持って隅々まで綺麗にさせていただきますさあさあさあ!!」
困惑するイオナにも構わず恐ろしいマシンガントークが始まる。凄まじい弾幕だ。相手側に隙を与えない。止めたいならマスタードガスを持ってこいと言わんばかりだった。正直怖い。
……というか、普段は荷物持ちに徹しているから分からなかったが、神話級の《神具》によって与えられる筋力とは使いようによってはこんなことまでできるのか。戦闘能力がないというのは完全な判断ミスだったらしい。
ピンチに颯爽と駆けつけてくれた若干変態っぽい百合っ子な後輩を困惑しながら見つめていると、ふとあることに気づいた。
「ペトラちゃん、なんだか髪の周りが……」
「んお?」
もはや猫を被ることは放棄しましたといわんばかりに素を丸出しにしているペトラ。その赤髪のあたりに、異変が起きていた。
弾けるような音ともに、薄暗がりの中で浮かび上がるのは仄青い灯り。
その正体は、小さな、本当に小さな雷だ。
【ちっ……主神から雷神まで落ちぶれた雑魚が……ッ!】
瓦礫が崩れる音がした。
蹴り飛ばされた先で先程の『何か』が体勢を立て直すように起き上がる。
【目障りなんだよ、木偶ゥ!】
ズロロロロォォオオオオオオオオオッ! と。『何か』から腕とも触手とも鉤爪ともつかぬ靄が五本も六本も現れ、一斉にペトラへと殺到した。
「ッ、ペトラちゃん!」
「大丈夫ですよ」
黒い靄が到達する直前に、ペトラの右手がそちらへ向けられた。
直後に。
視界を埋め尽くすような閃光があった。
【な、に……!?】
『何か』が発するノイズ混じりのくぐもった声に、驚愕の色が加わる。
幾本もの触手は、確かにペトラを刺し貫かんと動いていたし、それは完遂されるはずだった。
――ペトラの右手から迸る、激雷の盾にさえ阻まれなければ。
少女の鳶色の瞳が、夕陽のような輝かんばかりの黄金に変わる。
「私だって戦えるもん! 私だってあなたの力になれるもん! これ以上こけにされてたまるか。私は絶対、あんな臆病者の前座なんかじゃない!」
バッッッ……ヅィィィッッ!! と、なんとかしがみついていた触手を荒れ狂う電気の奔流が弾き返す。
【くっ……器がないとこうも脆いか!】
「訳分からないことを……言ってんじゃない!」
よろめく『何か』に、今度はこちらの番と言わんばかりに殴りかかる。全身に雷を纏って、霹靂の如き鋭さで。
その一撃が叩き込まれる瞬間だった。
ふっと、ペトラの瞳の色が元の鳶色に戻る。
「……あれ?」
次いで、ぐらりと彼女の身体が揺れた。脱力したように倒れ込むその拳には、もう先程までの光はない。
【……タイムアウト、のようだね】
「あが……ぐッ……!」
ペトラが呻く。靄のような『何か』がその背中を踏みつけているのだ。
【物質に依存する君たちには、所詮その力は使いこなせない】
「ッ、その子を離しなさい!」
とっさに、イオナは腰の刀を抜刀する。
だが。
【無駄だよ。せいぜい霊媒適正がちょっぴり高いから良い玩具を貰っただけで、それすら満足に使いこなせない君に一体何ができるんだい?】
「な、くぅ……ッ!」
「い、がぁぁアアアアア!」
片手間に繰り出された触手をなんとか刀で凌ぐ。それで手一杯だ。執拗に踏みにじられたペトラが絶叫するが、とてもではないが一歩も近づけない。
さらに最悪なことに、上空から数体の《夜鬼》まで降りてきた。前方では今だ『何か』の触手が蠢いているのに、だ。完全に挟み撃ち。追い込まれた獲物の気分を、これ以上なく克明に味わわされる。
嘲弄するように、『何か』。
【せめて器として役に立てよ。肉に縛られた劣等種!】
その右手が高く掲げられる。
そして。
「それはお互い様だろう、混沌」
声とともに、上空から何かが降ってくる。
着地の衝撃で《夜鬼》を消し飛ばしながら、砂埃のように舞うのは赤い赤い火の粉。
橙色の暖かい光が、路地裏を照らし出す。
それは煌々と燃えさかる炎だった。
それは一人の男の姿をしていた。
そしてそれは――イオナがずっと探していた男。
呆然としながら、か細い声でその名を呼ぶ。
「ヒュウガ、くん……?」
「踏ん切りがつかなくて悪かった」
彼はこちらを見なかった。
けど、今度はちゃんと返事をしてくれた。
【……裏切り者の火焔、か】
「混沌、お前は手を出しちゃあいけないヤツに手を出した」
男が。
否。ヒュウガが、襤褸切れのようなマントを脱ぎ捨てる。
もう己を隠す蓑は必要ない。ただ、全力で目の前の敵を打ち倒す。
「殺す。灰の一つも残さず焼却してやる」
【吠えるなァ賤民が! 万王の分身であるこの僕に!】
ヒュウガの身体から滾った炎が、混沌と呼ばれた『何か』を襲う。
対する『何か』はペトラから足を離しながら、先程の比にならない数の触手を生み出す。
削り合いが始まった。
火柱を触手が打ち消しその腕を焔が灼いてしかし再生する鉤爪それを劫火が絡め取り。 完全な拮抗。互いをすり減らし合う消耗戦。
だが、軍配は贔屓目を除いてもこちらに上がるようだった。
【……依り代を得ている分そちらの方が有利、って訳か。案外計算高いねぇ君もさ!!】
「いいや、俺だけじゃない」
【……?】
「忘れたのか、今の今まで自分が誰と戦っていたのかを」
【……、まさか!】
炎が照らす路地裏に、別の光があった。
それは混沌の足下から発せられる、青白い光。それは地上に再現された雷霆だ。
見れば、ペトラの瞳は再び金色に輝いていた。
「……言ったでしょ」
混沌に向けられた彼女の人差し指に、電撃が収束していく。
「私はァ!」
輝きが一段と強さを増す。今度こそ、正真正銘の全力開放。出し惜しみはない。
「こんなやつの! 前座じゃないッッッ!!!!」
地から天へ。
本来であれば真逆の、ひっくり返った方向へと霹靂があった。
分厚い雲を貫き、あるいは世界を支える大樹のように伸びていったそれは、遙か上空で巨大な十字を虚空に描く。
同時にそれは、今回の危難がこちらの勝利の末に去ったことを、北区にいる全ての人々に告げる狼煙でもあった。
◇◆◇
「久々の国難と聞いて駆けつけたが……ふむ、どうやら残っているのは雑魚のようだな」
中央区通じる北区最大の幹線道路たる大通りに、一人の男がいた。
真っ先に目立つのはおよそ同じ人とは思えぬほどの巨躯だ。成人した男性のさらに倍はあろうかという身長に、それに見合うだけの分厚い筋肉と太々とした骨格。そして、それらを隠す物々しい鎧。一歩地を踏みしめる度に、下の鎖帷子がじゃらじゃらと音を立てる。
皺が深く刻まれた顔には立派な白い髭が蓄えられており、彼が歴戦の古兵であることを示していた。
三伯。『剣豪』ダリウス・ロートリンゲン。
その手には、ただでさえ巨大な彼の、その背丈をも超えようかという剣が握られている。それこそが彼の《神具》でもあった。
踏みしめる石畳の街路には、今や数多の黒い塵のようなものが降り積もっている。
それら全てが、《夜鬼》の死骸の成れの果てだ。
通常であれば屍になった直後に塵となってこの世から消えてしまう《夜鬼》である。その塵が未だに消えずに残っているということはつまり、それだけの短期間で到底想像もつかないような数の《夜鬼》が葬られたことを示していた。
ふうと溜息を吐くダリウスの、その視線の遙か先には、何かに引き寄せられるようにこちらへ向かってきている《夜鬼》の群れ。
一定範囲内にいる“災厄”をその一身に引き寄せる誘導型の能力。ダリウスの《神具》とはつまりそう言うものだった。
通常であればデメリットでしかない。それをしかし英雄たらしめる一因へと変えたのは、恵まれた体躯と数多の研鑽に他ならない。
こちらへ殺到してくる異形の群れを切り伏せるべく、大剣を構え直す。
接敵の、まさにその瞬間だった。
ズガガガガガダダダダダダダダダッッッ!!!! と。
横合いから無数の氷柱が嵐となって吹き荒れ、《夜鬼》の集団を一瞬で塵に変えていった。
「おい」
下手人と思しき声が投げかけられる。
さらりと流れる狼の毛皮のような銀髪に、今は血走っている青い青い瞳。こめかみのあたりにはこれでもかというほど青筋が浮き立っている。
覚えている。五年前に大分やんちゃをしていた男だ。名前は確か、ルーカス・ウォルター。なぜだか、今は正規兵の服ではなく礼服を身に纏っているが。
「数だけは多い雑魚どもが……おかげで式は延期だ。柄にもなくめかし込んだのを全く台無しにさせられた」
彼は憤怒を隠そうともせず、地獄の底から響くような低い声で言う。
「だから――こいつらは、私の獲物だ。勝手に奪うな」
傲岸な宣言は、確たる実績を以て認めさせられる。
その後ダリウスの《神具》に呼び寄せられた《夜鬼》の全ては、海神の青年がその全てを屠ることとなった。
依代? 器? 混沌?
……毎度の如く、新しい謎を投下する神父。しかし山場でやるのは悪手だろうと今更思う。




