3話:《意趣返し》
《深き者》の攻勢が沈静化してから既に三年。
ナウアノルの北門では、以前にもまして活発に鉄道が行き来していた。
当然だ。今までの交易において最大の障害物がぱたりととまではいかずとは粗方その姿を消したのである。南の方にはまだうろうろといるらしいが、北まで昇ってくる連中は滅多にない。
鉄と鉄とが擦れる音を上げながら、車輪が止まった。
慣性で車体が少し前へ揺れる。汽笛が長く五回鳴らされ、積み荷が降ろされ始める。
中身は果実や植物性アルコール燃料、醸造酒の類だ。密林国家カレンカラズからの品々だろう。
と。
次々と運び出される木箱に混じり、一人の男が列車の影から降りたった。
襤褸切れの様なマントをすっぽりと被った男だ。裾から覗くのは、包帯が巻かれ、所々から火傷の跡が伺える手足。顔は目深に被ったフードでよく見えないが、黒い前髪が揺れているのだけは分かる。
駅の外まで出て、適当な物陰に隠れた男は、安心したように溜息を吐いた。
(はて、さて。無事に帰ってこれたわけだが……)
辺りを見回す。
男が知っている頃に比べると、幾らか活気づいたように感じられた。これが、《深き者》が出現しなくなったことによる効果であるならば、素直に嬉しいが……。
「……」
フードを深く被り直す。
こういう時にこそ、奴は仕掛ける。
それは人としては知りえぬ、しかし神としての記憶が教えてくれた。
(……とりあえず、先ずは宿になる場所を見つけなくちゃな)
路地裏へと歩を進める。
やらなくてはならないことは、多い。
残された時間も、恐らく多くはない。
強く、掌を握り締める。
何処からか、仄明るい火の粉が静かに舞い、闇に飲まれていく。
それを見つめる、黒い影には気づかぬままに。
◇◆◇
「おぉ……」
思わず、ペトラの口から感嘆の声が漏れた。
鏡のように磨き上げられたタイル。所々に設置された躍動的な獣や水瓶を担ぐ人の彫像からは湯が湧き出で、大小数種の浴槽に注ぎ込まれている。
「これは……凄いわね」
「あはは……」
背後から半ば呆れたようなクロエと、困った顔のイオナが近付いてくる。
彼女らがいるのは、『あの』ブランジャール家の大浴場。その女湯だった。
何故この面子でそんな場所にいるのか。それは数時間前に遡る。
今日はいつもよりも幾分早くに壁外調査を切り上げたのだが、その帰り際にイオナがふと思いついたように提案したのだ。
『明日は休息日だし、折角だから私の家に泊まっていかない?』
一同、一も二もなく頷いた。何せナウアノル国政の最要職たる三伯の、その家へのご招待である。興味がない訳がない。
そこからは各員、一度家に帰り着替え等々を準備してから今に至る。
……正直、正門でもう度肝を抜かれたが。平民であるところのジェイクやペトラはもちろんのこと、ベンやクロエまで呆気に取られていたことから、ブランジャール家がいかに規格外か察せようというものだ。
「アメリアさん達も来れば良かったんですけどねー」
石鹸の泡で汚れを流しながら呟く。
実は、来る前に日ごろから世話になっているルーカスやアメリアにも声をかけていたが、「ちょっと用事があるから」と断られてしまったのだ。
「まあ、お二人にもお二人の事情があるだろうし、仕方ないよ」
「気にしたって仕方ないし、私達だけで堪能させてもらいましょ……――それにしても」
苦笑するイオナの横で、クロエの瞳が鋭く光る。
「?」
餌食が首を傾げた時には、すでに遅い。
にゅるんと。
クロエの細い腕が、イオナの胸を揉みしだいた。
「ひゃっ!?」
「このッ……無駄に、良い体を、しおって、からに……!」
「くくくクロエちゃんんん!!」
短い悲鳴を上げもがくイオナに、クロエの魔手は尚も追い縋る。
むむむっ。
思わずめらっとするペトラであったが、なるほど言われてみればイオナのプロポーションはこの中でもトップかもしれない。
瑞々しく、張りのある肌。透き通るような白のそれは、湯の熱に当てられ仄かに赤く上気している。黒の長髪は濡れて一層艶やかだ。うなじから肩、そして大きすぎずさりとて小さくはなく黄金比的に膨らんだ乳房から腹部を伝いやがて臀部と脚に至るそのラインは最早芸術と言って差支えない。特に腰回りなどは近接戦も心得るようになったからかキュッと引き締まり、薄く腹筋が浮いている。素晴らしい。神はいた。女神であった。オー・マイ・ゴッデス。できる事ならばこの美を彫刻にして末世のその先に遺したいやはりアメリアを連れてこなかったのは失策であった彼女であればこの感動的な肉体を永久保存する術も生み出せたであろうにッッ!!!!
……些か興奮してしまったがそれだけ至上の肉体であった。許されるのならば自分も触りたいが、しかし畏れ多すぎるので流石に自重する。というか、今のテンションだと本気でイオナに嫌われることをしかねない。鎮まれ自分。鎮まれリビドー。ここで暴れて何とする。楽園を自ら手放す愚か者にはなるまい。
理性を失う前に視線を逸らすと、今度はクロエの裸体が。イオナほどではないが、こちらも均整の取れた肉体である。強いて言うなればやや胸のサイズが小振りで、脚回りと腕が筋肉質か。
しかしそれはそれでイオナとはまた趣きの異なる美を体現していると言えた。例えるなら、あちらが侵し難い神聖な美しさならば、こちらはより強靭性・機動性を追求した果ての機能美。どちらにせよ、同性の自分も見とれてしまうような麗しい女性であることに変わりはない。
ペトラ自身もそれなりに自分の容姿については自信があったのだが流石にあの二人の前では霞むというもの。何よりもまず生まれが違う。なんというか、イオナにしてもクロエにしても、気品とでも呼ぶべき物が体の内側から溢れ出ているのだ。これには到底敵わない。
やれやれと己の体を見下ろしていた時だった。
「おりゃあ! 何ボケっとしてるのよアンタも胸揉ませなさーァい!!」
イオナの肉体は味わい尽くしたと見え、最低な文言と共に今度はペトラの方にクロエの手が伸びてくる。
「へっ!?」
泡食ったのはペトラである。まさか自分に累が及ぶこともあるまいと思っていたまさにその矢先だったからだ。
思わず後ずさるが突然のことで足がもつれる。
――さて、問題。
この浴場の床の状態は?
結論を言おう。
ピカピカに磨き上げられたタイルと石鹸の泡は見事にベストマッチ。加えて変な体重の乗せ方をした足の裏は当然の如くつるんと滑り。
背後の浴槽に背中から突っ込んだペトラの体が、盛大な水柱を上げた。
「……向こうは騒がしいねぇ」
湯の水源が同じ都合か、やや薄めの壁越しに女性陣の喧騒を聞きながら、ジェイクは呟いた。
こちらも変わらずビッグサイズの浴場だが、あちらの様にはしゃぐことをしていない分一段と寂しい雰囲気がある。
「いい機会だし、男同士、サシで話し合わねぇか?」
向かいの人物に、そう投げ掛けた。
視線の先で律儀にしっかり肩まで浸かっているのはベンヤミンだ。色素が薄めの栗毛色の髪からは水滴が滴り、いつも以上に寡黙な印象が濃くなっている。
彼は何処か気怠げに浴槽の縁へ身を預けながらこちらを見る。
「……何もここで話さなくても良いだろう」
「んなこと言ったって、普段話さねぇじゃん」
そう、実はこの二人、同じ隊として活動を始めてから一年が過ぎようかという時期だというのに、未だに二人だけで語らうということが滅多ない。往々にして間にクロエやイオナを挟むことが殆どであった。
交流自体は三年前の作戦から。だが、元々ヒュウガへの苛めの急先鋒だった事もあって、お互いにどこか距離を置いていたところがあったのかもしれない。その点、クロエとイオナは大分早めの段階で打ち解けていたのだが……。
「そう言えば俺、お前に訊いたことがねぇや」
「なんだ」
「どうして、三年前に名乗り出たのか」
……あの時、突入作戦への参加を申し出てきたのはベンヤミンの方からだった。
だが、先に述べたように元々彼はヒュウガとあまり関係がよろしくなかったはず。それを承知していたからこそ、実のところ初めは警戒もしていたのだが。
何故、あのタイミングでヒュウガに手を貸そうとしたのか。
その心変わりの理由を、ジェイクは正確には知らない。
「…………」
ベンヤミンはと言えば、暫くそっぽを向いて黙っていたが、
「……降参だ。答えないと君は出してくれそうにないな」
やがて両手を軽く上げ、湯船から上がった。
「ん、どうした?」
「悪いが僕は熱いのが苦手だ。話すならせめて脱衣所にしてくれ」
言いつつ歩き去る彼の足元はなるほどどこかおぼつかない。のぼせているのは本当のようだ。
ジェイクとしてはもう少しばかりこの良い湯で体を温めたかったが、それよりなにより返答が気になる。仕方なく湯船から上がり、彼についていく。
「言っておくが、そんなに大層な理由じゃないぞ」
脱衣所に入ると、幾らか涼めたと見えるベンヤミンがタオルで全身を拭いながらそう切り出してきた。
「僕は貴族派の家の人間だ。こと身分というものには子供の頃からよくよく言い聞かされてきてな。正直、平民以下は大分見下していたよ」
「知らいでか。お前その態度丸出しだったぜ」
「茶々を入れるな。……まあ、そんなところに賤民が来たんだ。当然、当時の僕にとっては目障り以外の何物でもなかった」
ガシガシと髪に絡んだ水分を拭く彼の背には、やや新しめの傷跡が。隊に入った初めの頃にできた傷だったろうか。
「馬鹿にしたさ。これ以上ないくらい見下した。だって、彼は賤民で無名級だ。貴族で伝承級の僕とは文字通り格が違う。社会的にも、能力的にも、アイツが僕に敵うことなんて絶対なくて、アイツが僕を上回ることなんて万が一にもありえない。そう思っていた。だからこそ、ブランジャールがヒュウガの肩を持つのは気に食わなかったわけだが……」
「…………」
ベンヤミンの言葉には、ジェイクも思う所があった。
……例えば、初めてヒュウガに声を掛けた時。
そこに、身分のせいで孤立していた彼への憐憫が無かったと、果たして言い切れるか?
……例えば、海竜の暴れる戦場へ向かおうとする彼の前に立ちはだかった時。
そこに、自分の知らない間に学園一の有名人と親しくなっていた彼への嫉妬が無かったと、誰が保証できる?
そして――例えば、ヒュウガに言われるまま怪物の玉座に彼を置き去りにした時。
そこに、いつの間にか遠くに行ってしまった友人への黒い感情が全く存在しなかったと、一体誰が言えるというのだ……?
「でも、違ったんだよ。とんだ勘違いだった」
気が付くと、ベンヤミンはもうズボンを履き終えてシャツを手に取っていた。
「アイツは、僕なんかよりずっと強かった。《神具》だけの話じゃない。もっと別の、もっと根本的な部分で、僕はとっくに負けてたんだ」
「……」
「惨めだった。今までの僕はなんて道化だったんだろうと思うと、後悔と恥辱で夜も眠れなかった」
前髪を髪留めでまとめながら、ベンヤミンはこう、締めくくった。
「負けっぱなしは悔しいだろう? だから、今まで負け続けた分、今度は僕がアイツを負かしてやるって、決めただけさ」
それっきり。
ジェイクを残して、ベンヤミンは去っていく。
◇◆◇
「おーっす、大将いるかい?」
昼下がりの北区。
やや大通りから外れた骨董品店に、一人の青年が訪れた。腰にはやや大きめの巾着袋を下げている。
彼は、
「おうよ、今日は何の用でぇ」
青年の呼び声に、店の奥から小太りの男が現れる。彼が、この店の主である。
「中々良さそうなモンが手に入ったからな。売りに来たんだよ」
「なんでぇ、買うんじゃねぇのかい」
「悪ィな、今月はもう使い切っちまった」
「まだ中旬だぞ。何にだ?」
「聞いて驚け、酒だ」
哄笑。
昼間から男たちの野太い笑い声の合唱が響く。外れに漂う空気は独特だ。大通りのように洗練されている訳ではなく、かと言ってスラムの様に不潔且つ不穏に過ぎる、という訳でもない。
遵法主義者ではないが、かと言ってアウトローという訳でもない。清濁併せ呑むここが、青年は好きだった。
「――で? 早速、品を見させて貰おうじゃねぇか」
一頻り腹を揺らした後、店主の男は傍らの水筒を手に取り、一息に呷ってそう言った。
「ん、コイツだ」
対して、青年が腰の巾着から目当ての物品を取り出す。
「なんだァ? そりゃ」
青年が取り出した物品を見て、店主が思わず声を上げた。
まず見えたそれは、小箱であった。否、小箱であろうというのが正しいか。
推定調なのは、それがあまりにも奇怪な形をしていたからだ。
一般に、箱というものは均整の取れた長方体や立方体が普通だ。あるいは、上の蓋だけが半円柱を横倒しにしたようなもの。
しかし、その『小箱らしきもの』はまず均整がとれてない。余程不器用な細工師が作ったようにも見えるが、それにしては妙にデザインがハマっているので、最初から狙ってこのような形にしたのであろう。
素材の方もまた謎だ。光沢があることから金属であることは辛うじて分かったが、それにしたってこんなものは見たこともない。色は黄金に似るが、触ってみるとそれよりも硬く、持ち上げてみれば真鍮よりは軽い。
だが何よりも目を引くのは側面に掘られた彫刻で、蝙蝠や蛙や海百合などの生物を思いついた順に混ぜたような、全く意味不明なデザインのようで、しかしなにがしかの規則性を持っているようにも見える。
「ほー……スゲェな。まさに冒涜的ってやつだろうよ」
「そりゃあいい。作った野郎は相当ロックだぜ」
かかっと笑い合う。
次いで中身の見分へ。
蓋をそっと持ち上げる。
出てきたのは、複数の細い金属の脚に支えられた、ほぼ球形の多面体。宝石の一種のようで、漆黒の光沢の中に所々走る赤い線が妖しいまでに美しい……。
ゾクリ、と。
不意に、背筋に悪寒のようなモノを感じた。
理屈ではない。もっと根源的で、本能的な恐怖。これ以上この宝石を見つめ続けてはならないという生命の警告。
「……なあ、お前さんよ」
「なんだよ?」
石から目を逸らし、青年に向き直る。
相変わらずの調子だったが、それがどこか空々しいものに見えてしょうがなかった。
「これ、どこで、どうやって手に入れた?」
「…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………」
長い。長い沈黙があった。
そういえば先程から妙に部屋が暗くはあるまいか? なんだか肌寒い。おかしい、まだ季節は冬ではないはず。よしんば異常気象が起きようと、ここまで急激には変化すまい。ふと気が付けば表の通りの喧騒もいつの間にか聞こえなくなって、
「……それは、ね」
青年が口を開く。
その瞳は昏く、虚無的な。
「 」
数分後。
ギィ……と、静かな軋みを上げて、骨董品店のドアが開く。
中から出てきたのは、ボロボロのマントを身に纏った人間が一人。骨格から、どうやら男性らしい事だけが分かる。
「……」
ソレは、一言も発することはなく。
ただ、路地裏の闇に吸い込まれるように消えていった。
影に紛れて、ノー・フェイスは徐々に侵食する。




