1話:《ある少年のいない世界》
――走る。
瓦礫が埋め尽くす平原。分厚い雲が覆う空の下を、数人の男女が駆けていた。
彼ら彼女らが身に纏うはもはや学生の制服ではなく、正規兵のそれ。
その手に持つのは、あるいは瀟洒な装飾が施された槍。あるいは流麗な細剣。あるいはトネリコの杖。
そしてあるいは――銀の弓に、一振りの軍刀。
「ッ! 敵影、数は五!」
艶やかな黒の長髪を風に靡かせながら先陣を切るのは弓と刀の女。
彼女は花緑青の瞳の先にソレを見出し、叫ぶ。
両生類とも魚ともつかぬ醜悪な容貌に、ブヨブヨと膨れ上がった肢体を持つ海の悪魔――《深き者》だ。
女の弓が輝き、銀の光矢が放たれた。
月光のようなその一条が《深き者》の中の一匹を射貫く。
それで漸く、他の連中がこちらに気づいたように顔を向けて来る。
だが……致命的に、遅い。
「ライド!」
「了解だ」
「任せといて!」
杖の男が虚空に文字を刻み、槍の男と細剣の女に力を与える。
文字の秘める車輪の加護により――加速。
瞬間、二人は既に《深き者》に肉薄していた。
槍が。細剣が。悪魔の肉を突き穿つ。
槍の稲妻のような形の穂先が剥がれるように分離する。生み出されるのは鏃だ。何か巨大な生物の甲殻を削りだしたような質感の、鏃。その数、およそ三十。
微細な刃の嵐が、更に残り二匹の《深き者》を襲う。一つ一つが小さすぎて、それは決定打たり得ない。足止めや行動の阻害がせいぜいだ。
それでいい。
一体いつの間に現れたのか。
鏃への対処に必死になっている二匹の目と鼻の先に、一人の女がいた。
弓は既に仕舞い、その左手は腰の軍刀の鉄鞘を、右手は柄を、それぞれしかと握りしめている。
「――フッ!」
短く息を吐き――抜刀。
居合の一閃が、淡い灰の軌跡が、冷たく輝く玉鋼が、二匹を纏めて叩き切る。
血振るいと、二匹の遺骸が倒れるのはほとんど同時だった。
「よっ、お疲れさん」
懐紙で丹念に刀身を拭う女に、追いついた杖の男が片手を上げる。
女がそちらを向けば、槍の男や細剣の女も同じようにこちらを見ていた。
「――うん。ジェイクくんに皆も、お疲れ」
女――イオナ・ブランジャールも微笑み返し、刀を鞘に納める。
その時である。
「ま、待って下さーい……」
遠方から、やや情けない女の声。
そちらを見れば、中途半端な長さの赤銅色の髪を、無理矢理ポニーテールに結わえた女が一人。
やや跳ね気味なその髪の向こう側には、彼女の身の丈の半分ほどもあろうかという大きさの荷物がある。
それを、彼女一人で軽々と持ち上げているのだ。
「おう。悪ィな、ペトラ」
「重くはないからいいですけど……動きにくいので、あんまり先に行かないでくださいって言ったじゃないですかぁー……」
ジェイクに笑顔を向けられた彼女――ペトラ・ツィマーマンはと言えば、べそべそと泣き言を言うばかりだ。
そんな姿を見つつも、イオナは左手首に巻いた時計に目を向ける。時刻は既に午後の三時を回っていた。小休憩を挟んだとはいえ、正午前にここを出たことを考えれば、それなりの時間が経っている。
「うん。じゃあ、ペトラちゃんも追いついてくれたし、ここで少し休憩しようか。今度はゆっくり進もうね」
「どこまで進む気だ……」
女神のような笑顔から飛び出る鬼のような提案に、槍にもたれ掛かっていた男――ベンヤミン・エーレンベルクが呆れた声を上げる。その隣では、細剣の女――クロエ・ベルナールもげんなりとした顔を見せていた。
「まあまあ。もうちょい粘ってみようぜ。な、隊長」
言って、ジェイクはイオナの方を振り返った。
「いやしっかし……随分と上手くなったもんだよなぁ、刀の扱い」
「まあ、三年も持ってたらね」
魔法瓶の中の紅茶を喉に流しながら感慨深そうに言うジェイクに、イオナが苦笑する。
「軽食にサンドウィッチもありますよー!」
そう言って荷物を包んだ袋を広げるのはペトラだ。
壁外での――戦地での休憩など、一昔前なら考えられもしなかった光景だ。物々しい装備と殺伐とした風景さえ違えば、あるいはまるでピクニックのように見えるかもしれない。
「いつもありがとう、ペトラちゃん」
「いえいえ! 私にできるのはこれくらいですから!」
「神話級がよく言うぜ……」
イオナにすっかり懐いて犬のようになっているペトラの腰には、奇妙なデザインのベルトが巻かれていた。
これこそが彼女の《神具》。
「いやいや、ただちょっと力持ちになるだけですよー?」
一般的に《神具》はその源泉たる存在の、より一般に認知された側面の形で現れるという。
だが彼女の場合は少しばかり事情が違った。
源泉たる神格は雷神として名高き赤毛の巨神。しかし彼女に現れた《神具》は一切、雷にまつわる力を持ち合わせてはいない。その付属品として語られがちな力帯だった。
無論、そのような効果の《神具》が、直接戦闘に役立つかと言えば正直頷きがたい。
だが――
「だが、助かるのは事実だな。戦闘行動をしながらその荷物を持っていたんじゃ、碌に進めん」
サンドウィッチを早速頬張りながら、ベンヤミンがフォローする。
これが隊運用となれば大いに化ける。
例えば、今回のように長時間壁外を探索する時、必然軽い食料や水分などの物資を持ち歩く必要がある。
この時、通常であればそれは各員が各々持ち運ぶか、あるいは専用の人員を組み込む必要があるのだが、ここでペトラの能力が活きてくる。
ペトラに荷物の管理役を担ってもらい、戦闘員はそれぞれの戦いに専念。さらに一般の管理役よりもより多い荷物を一人で持ち運ぶことができるのだ。野営の時などは助かるなんてものじゃない。
言ってしまえば雑用係だったが、彼女が快諾してくれたのは助かった。“イオナがやっていること”を考えると、ペトラは絶対に獲得しておきたい人材だったからだ。
そっと、触れれば折れそうなほどに細く、白い指が、腰の鉄鞘に触れる。
少しでも彼と一緒に戦いたくて習い始めた剣術だったが、大分この刀も手に馴染んだ。馴染んで、しまった。
ふと南の沖合を見る。
そこにはもはや黒い神殿は無い。一人の少年が、その全てを焼き尽くしたからだ。
――あれから三年。
当時の面子は全員正規兵となり、イオナは一小隊の長にまでなった。
地平から《深き者》の姿は激減し、徐々にではあるがナウアノルもかつての領土を取り戻しつつある。
だがそれでも――彼は帰って来ていない。
「せんぱーい! お茶ですよ、お茶ー! 可愛い後輩の手作りですよー!」
遠くからペトラが呼んでくる。
それに「うん、今行く」と返し、最後に鈍色の空を仰いだ。
一つ星は、未だ見えない。
長に収まるはイオナ・ブランジャール。
次長にジェイク・グローバー。
以下、ベンヤミン・エーレンベルク。クロエ・ベルナール。そして、ペトラ・ツィマーマン。
ブランジャール小隊と呼ばれる彼ら彼女ら五名の目的こそは――
(ヒュウガくん……)
三年前姿を眩ました少年、ヒュウガの捜索である。
◇◆◇
「三年、か……」
襤褸切れの様なマントですっぽりと身を隠した男が、ぽつりと呟いた。
そのトパーズの様な瞳の先には、高く聳え立つ城壁。鉄道のレールが続く錆塗れの大門の上部には、古い時代の文字で『ナウアノル 北門』と書かれている。
傷んで黄ばんだ包帯が覆う掌で数度、握ったり開いたりを繰り返してみる。
隙間から覗くのは、凄絶な火傷の跡。だが、既に痛みはない。
「――クロフィの軟膏が効いたなァ」
その背に向かって、中年の男の声が投げかけられる。
振り向けば、そこにいたのはぼさぼさ髪と、無精髭の男。
だが特筆すべきはそこではない。
獣の様に毛でおおわれた耳と手の甲、そして鋭い爪。後ろには尻尾まで生えてる。
「当たり前でしょ。あの軟膏、私たちの体液から作るんだもの。効果は折り紙付きよ」
そして――もう一人。今度は女だ。歳としてはちょうど包帯の男に近いか。
こちらは先程の様な獣の特徴はない。
代わりにあるのは、不自然に尖った耳と、鋭い犬歯……否、牙だった。
彼女は柘榴石のように紅い瞳でウィンクをしながら、
「ちなみに、何処の液かはナイショ」
「……ぞっとしねぇよ。つか普通に気色悪ィ。やめろ」
「……言ってから自分でもどうかと思ったわ。安心して、血よ。普通の血」
「それもそれでキモいんだが……」
「あァん?」
女が地獄の底から響くような低い声を出したあたりで、包帯の男は慌てて話題をそらす。
「つか、南区から北区までの隠しルートとか、良く見つけるぜ」
「生きるための知恵ってもんだ。あのキンモい連中に会ってもめんどくせぇし、壁内の連中と鉢合わせてもこの形じゃあ同じバケモノだ。殺されっぺなァ」
「へー……そりゃ大変だ」
包帯の男の、その黒い前髪を海風が揺らす。
「んじゃ、せいぜい殺されないように行ってみる」
「おう、行ってこい行ってこい。しばらくは大人しくな」
「私達はこの辺りで、吉報を待つことにするわ」
二人に送り出され、包帯の男は一歩を踏み出す。
「さて」
顔を隠すフードを目深に被り直しながら、男は呟く。
「久々に石畳の道路が踏めるかね?」
第三部開始ィ!




