5話:《イオナ》
夜も更け始めた頃。
イオナとその家族との夕食を終えたヒュウガは、腹ごなしがてら、行きがけに見た庭園の中を散歩させてもらっていた。
色彩豊かな花々と、彼らが放つ芳しい蜜の香りに、目と鼻を楽しませながら歩んでいくと、途中で休憩所を見つけた。公園などでも見かける、屋根の下に木製のベンチが添えられたアレだ。東屋、と言ったか。
ベンチに腰を下ろし、やや行儀悪く背もたれに体を預ける。
「ぬぉぉぉ……」
リラックスしたせいか、今度は口から大変行儀の悪い声が漏れた。
とは言え、周囲には誰もいないし、もしいたとしても、今のヒュウガを咎められはしないだろう。
何せ、家に入ってからも大変だった。
まずは大量の使用人によるお出迎えだ。鞄やら上着やらを次々と持って行かれ、目を回しているうちに今度は主だった使用人の挨拶が始まっていた。どうやらヒュウガは「お嬢様のご学友」というポジションらしい。
好意は素直に嬉しかったが、なにせこちとら今まで蔑まれて生きてきた賤民である。ジェイクのような変り種はいたが、そもそも人と接すること自体に慣れているとは言い難い。そこにいきなりの超・好待遇。混乱もしようというものだ。
出てくる食事も、一皿一皿が素人目でも明らかに高級なそれと分かるものばかりで、なかなか手を付けられなかった。というか、そもそもテーブルマナーなぞほとんど知らない。ナイフとフォークの使い方も見様見真似だ。会食中の雑談によって多少は緊張せずに話しかけることが出来るようになったものの、それが精一杯だった。
ふぅ、と再び息を吐く。芳香とともに夜風が頬に当たり、熱を持った体を冷ましていく。
その時だった。
「――ヒュウガくん?」
「は、はいっ!」
休憩所の外から声が聞こえてきた。慌てて居住まいを正し、そちらを見る。
そこにいたのはイオナだった。
「ふふ、変なの」
イオナは口元を綻ばせてそう言った。
ヒュウガと同じく、学生服の上着を脱いだ姿の彼女は、こちらに歩み寄ってくる。
「……う、うるせ」
すぐ隣に座って来た彼女から目を逸らしつつ、ヒュウガは短く応えた。頬が再び熱くなったのは、失態を見られた恥ずかしさからなのか、それとも同年代の美しい少女に近寄られたからなのか。
そんなヒュウガの心情などまるで気づいていない様子で、イオナは苦笑をこちらへ向ける。
「ごめんね。なんだか緊張させちゃったみたい」
「……いや、楽しかったよ」
飯も美味かったし、と付け足すと、イオナは、今度は満面の笑みを浮かべた。
「うん、そう言ってもらえて良かった。ここのコックさんの料理、私も大好きなんだ」
「お抱え料理人か……すげぇな貴族」
「うーん、流石にお抱えがいるのは珍しいらしいよ? エーレンベルクさんとこにはいないって話だったし」
「……ああ、そうか」
密かに納得した。
来たときには肝を抜かれたが、この豪勢さは三伯であるブランジャール家ならではのものらしい。
「この庭も大したもんだな……」
言いながら、ヒュウガは辺りを見渡す。
一面に咲き乱れる、大輪の花。色調は暖色系で統一され、低木種の薔薇から、鉢に植えられた草花など、種類も豊富だ。花の審美などしたこともない身にも、手入れが行き届いてるのがわかる。
その中のある花が目についた。
何の気は無く、尋ねてみることにする。
「それ、なんてーの?」
「えっと……フランシス・デュブリュイのこと?」
「あー、いや。その下」
薔薇の方を見て首を傾げるイオナに、指で示して見せる。
それは、炎のように紅い花弁を誇らしげに咲かせる花だった。
「これかぁ。これはね、ジャーマンアイリスっていうんだ。親戚からの贈り物」
そう語るイオナの顔は実に楽しげだ。心なしか、声も数段明るい。
「花、好きなのか?」
「うん。特にこれはお気に入り。同じジャーマンアイリスでも、色が違うのが沢山あるのがなんだか面白くて……」
少し照れくさそうに笑って見せる彼女の、その横顔を見つめる。
そこで思い出した。
まだ、食事の礼がまだだった。
「……あの、さ」
「ん。なに?」
屈託のない笑顔がこちらを向く。
言葉を続けようとして――はたと気づいた。
この少女をどう呼んだものか。
イオナ……は流石に馴れ馴れしすぎるだろうか。しかしブランジャールも今更だし、失礼ながら言いにくい。かといってイオナさんもまたどうか。尚、ちゃん付けはあり得ない。
むぅ、と考えを巡らせているヒュウガを見て何か察したのか、イオナが面白さ半分、苦笑半分といった表情で言う。
「イオナ、でいいよ」
「そ、そっか。……じゃあ、イオナ」
「うん」
「その……まず、今日はありがとう。この間も――助かった」
とりあえず礼を述べる。
が、イオナは首を振った。
「ううん。こっちこそ叩いちゃったし……それに、こっちこそごめんね?」
「……?」
「学園内でヒュウガくんの悪い噂が立っちゃったみたいだから。君が私の足を引っ張ったー、って」
――私も君と同じ、まだまだな訓練生なのにね。
そう言って、イオナは笑う。その顔は眉尻が下がって、困ったような表情になっていた。
「……分からねぇな」
思わずヒュウガは呟いた。
「え?」
目を丸くするイオナに、ヒュウガは続ける。
「だって、お前の《神具》は神話級だろ? 対して俺のは無銘級だ。力の差なんて、それこそ、この間の事件の時に明確になっている。それなのに、そんなに謙遜する理由が俺には分からねぇよ」
あの時、イオナが放った攻撃は確かに《深き者》を倒した。むしろオーバーキルなほどだ。
それだけではない。彼女と触れ合って分かったことがある。
彼女は、強い。
それは《神具》の火力の話だけに留まらず、だ。
あの地獄に在っても、彼女は冷静だった。
正確な判断能力なんてとっくに失っていていい状況下で、彼女はそれでも冷静だった。いつも通りだった。……あるいは恐ろしいほどに。
強力な《神具》と、それに見劣りしない精神。
それはもう、戦士として十分な力をもっているという事にならないのだろうか。
そして。
あの局面では、ヒュウガは確かに彼女の足を引っ張っていたのではないだろうか……?
「ううん」
しかしイオナは頭を横に振った。
そして、言う。
「私は、皆が思っているように強くなんかないし、凄くもないよ」
不意に、イオナがベンチから立ち上がる。
屋根の外で青白い光に照らされる彼女を見て、ようやく気付いた。
いつの間にか分厚い雲に切れ目が入り、そこから満月が顔を覗かせている。
「私はさ」
月明りに照らされながら、彼女は言葉を紡いでいく。
「ただ、この街が好きなだけなんだ」
風に乗って数枚の花弁が虚空を舞った。その中の一枚を手に平で受け止めながら続ける。
「森が好き。川が好き。花が好き。草木が好き。
鳥が好き。動物が好き。魚が好き。
街並みが好き。学校が好き。
食べ物が好き。
朝日が好き。夕日が好き。青空が好き。夜空が好き。
そして何よりも――この街に住んでいる人たちが大好き」
少女は、踊るように体ごと振り返る。
その口元は笑っていても、眼は真剣だった。
「私が兵士になったのは、彼らを守りたいから。それは、《神具》を持って生まれてきた私の義務だし、私の望みでもある」
「……」
「私はね、強くなんかないんだよ」
不意に、彼女を照らす光が翳った。
月に再び雲がかかった。道の両端を照らすランプを除けば、夜闇を拭うのは星屑のあまりにも頼りない輝きだけだ。
「確かに数人を救うことはできるかもしれない。でも、その裏側では助けた人達の五倍十倍の人達が死んでいる」
最後に少女が発した言葉は、幾分熱を帯びているように聞こえた。
「――だから、私は強くない。強いなんて思っちゃいけない。目に見えているだけじゃなく、本当の意味で全ての人達が救えるようになる、その日までは」
花々に囲まれた庭に、沈黙が訪れる。
「……ごめんね、変なこと言っちゃって」
先に言葉を発したのは、イオナだった。
彼女は照れたように頬を薄らと赤く染めつつ、苦笑する。
「じゃあ、私はこれで。帰るときは家の中にいる誰かに言ってね。馬車で送ってもらえるはずだから」
なんだったら泊まってもいいけど、と冗談めかしてから去っていく彼女の背中を見つめながら、ヒュウガは思う。
「……」
でも。
その『全て』の中に、彼女はいるのだろうか。
◇◆◇
そろそろ帰宅する旨をイオナの父に伝えると、イオナの言っていた通りに馬車を用意してくれた。
だが……これは予想外だった。
現状を説明しよう。
ヒュウガは今、帰りの馬車の中で全身に嫌な汗を浮かべていた。
その隣には一人の男が座っている。
白髪交じりの金髪と、立派な顎鬚が特徴的な男だ。服の上からでも分かる逞しい肉体を高級そうな臙脂色のスーツに包んでいる。アクセサリー類も過剰でなく、むしろ内から滲み出る品の良さを際立たせている。
彼の名はエルネスト・ブランジャール。イオナの、実の父である。
何故そんな人物がヒュウガとともに馬車に揺られているのかと言えば、彼自身の希望であった。
馬車に乗り込もうとしたヒュウガに、エルネストが突然こんなことを言いだしたのだ。
――せっかくだから送って行こうじゃないか。
気持ちはありがたいが、大貴族の現当主と馬車と言う密室環境で二人きりなどという状況下では寿命が何年磨り減るか分かったものではないので遠慮しておこうと思ったのだが……このローランと言う男、存外に押しが強かった。
半ば強引に馬車に乗り込んでしまうと、御者に命じて早々に馬車を出してしまったのだ。
結果。
馬車が細かく揺れる度に、《深き者》と相対した時以上の緊張状態がヒュウガを襲うことと相成ったのである。
「……どうやら緊張させてしまったみたいだね」
口の中が乾いて仕方がないヒュウガに、エルネストが苦笑を向ける。
「い、いえ。そんな……」
「遠慮は無用だよ。元より、今日君を我が家に招いたのは私の意思でもあったのだから」
「え?」
呆けた顔になるのが自分でも分かった。この貴族の男性が、自分に会いたかった……?
エルネストは続ける。
「少し前から、イオナが食事の席で、学園に通う東洋人の少年の話を出すようになってね」
「……」
「つまり、君のことだ」
エルネストが、深緑色の瞳でヒュウガの顔を見つめる。
その、イオナと同じ色の瞳で。
「曰く、『賤民で無銘級だが、その逆境にも負けない、芯の通った努力家の良い少年である』と。……ふふ、特定の個人についてあまりとやかく言わないイオナが、あんなにも熱心に話し続けるのは私達にとっては驚きでね。つい、会ってみたくなってしまったのだよ」
「……俺は、そんな大層な人間じゃないです」
「そうかい? 私は君のことが気に入ったけどね。まあ、少々卑屈な面はあるかもしれないが」
窓の外で移り変わる景色へ視線を向けながら、エルネストは続ける。
「あれの目もなかなかどうして侮れない。評価通りの、素直で良い少年だ」
「いや……、ありがとうございます」
目を細める彼に、ヒュウガは否定しかけてやめた。今しがた卑屈、と指摘されたばかりだったからだ。
すると、目の前の男は顔を綻ばせた。
それで気づいた。
笑い方がイオナとよく似ている。
「ほら、やっぱり素直だ」
「……」
照れくさくなって頬を掻く。
徒歩だと遠く感じられる北区だが、馬車だとそうでもないらしい。窓の外を見れば、そこは既に見慣れた南区寮周辺の光景だ。
そこからはもう、あっという間だった。
ヒュウガの暮らす寮の前で馬車が動きを止める。
降りる間際に、エルネストが言う。
「今日は来てくれてありがとう。君さえよければまたいつでも来てくれたまえ。なんだったら、泊まっていってもいいんだよ?」
「……はは」
思わず、笑いが漏れた。
対するエルネストは首を捻る。
その仕草までもがイオナとよく似ている。彼女とこの男性が親子なのだという事が良く分かる。
「……? 今、何か変なことを言ったかな?」
「すみません。イオナと同じ冗談を言っていたので」
「おや、私は冗談のつもりじゃなかったのだが。恐らく娘も、ね?」
そう言って、エルネストは深呼吸を一つした。
彼は再びヒュウガを見る。
「……なあ、ヒュウガくん」
話しかけてきたその声は、さっきまでよりも数段低い。真っ直ぐこちらに向けられた眼差しも、彼が真剣であることを物語っている。
「なんですか?」
「こんなことを君に言うのは不躾かもしれないが……イオナと仲良くしてやってくれ。そして、君さえ良ければあの子を支えてあげてくれ。あれはどうも抱え込み過ぎるきらいがある。多分、自分でも気づいていないだろうがね」
緑の瞳が、黒い瞳を見つめる。
「私と、妻はいわゆる身分違いの恋というヤツだ。嘆かわしいことだが――階級制がある以上、私と彼女が結ばれるのは容易ではなかった。本人は私たちに言わないが、恐らくそのしわ寄せを、娘は一身に受けていることだろうと思う」
……孤児院で鉢合わせた時、それはヒュウガも薄々気づいてはいた。
彼女の立場は、ととても不安定だ。今日、偶然立ち聞きした女子生徒のように好意的な連中ばかりとも限らない。貴族主義者も少なくないこの国で、イオナが受ける排斥は、あるいはヒュウガ以上なのかもしれない。
エルネストは、重く息を吐く。
「忘れないでくれ。いくら神話級の《神具》を持っていても……イオナは根本的にまだ十代の女の子なんだ」
束の間。
そこにいたのは三伯でも、『剣聖』でもない。
ただの、娘を案じる父親だった。
暫し視線を足元に落としてから、ヒュウガはもう一度前を向く。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「……もちろんです」
それを聞いて、エルネストの表情が緩んだ――ように見えた。
「良かった。君になら、安心して娘を任せられそうだ」
馬車を降りたヒュウガは、改めてエルネストに向き直り礼を言う。
「今日は色々とありがとうございました。しかもわざわざ送っていただいて……」
「いや、こちらこそ。実に楽しい夕食だった。また来るのを楽しみにしているよ」
御者が馬車の扉を閉める。
次いで、席に戻った御者が馬を打つ音が聞こえ、馬車が再び走りはじめる。
去っていく馬車を見送ってから、ヒュウガは寮へと足を向けた。
一度原稿が消えて泣くかと思った。
言い訳になりますが、その影響で、前作からの引用部分が多いので、もしかしたら僕が気づいてないミスがあるかもしれません。




