3話:《南区炎上》
陽も落ちてから、随分な時間がたったと思う。正しく草木も眠るといった頃合いだ。
南区の城壁の上、等間隔で設置された篝火をぼんやりと見つめながら、壁上警備隊の男はあくびを一つ吐いた。
「あぁクソ眠ぃ……。こんな時間、やっぱり担当するもんじゃなかったぜ……」
思わず、という様子で愚痴を溢す。
二年前に起きた、《深き者》の大量侵入事件。
あれは外界へつながっている下水道の性質を図らずも利用されてしまった事件であったが、しかし壁外から壁内へ連中の進行を防ぎきれなかったのもまた事実だ。事件以降は、壁外への警備・注意がかなり強化されたことも記憶に新しい。
しかし、だ。
「……なーんも起きやしねぇんだよなぁ」
実際のところ、侵入事件など一回たりとて再発したためしはない。それは下水道周りへの警備が厚くなったことが大きく関係しているようでもあった。
結局、この城壁がある限りは、《深き者》が真正面から街の中へ攻め込むことはできない。
……あるいは、その安全神話が揺らいだからこそ、議会や、ひいては三伯までもが慎重な対応を続けているのかもしれないが。
その時だった。
「あん?」
不意に、違和感を感じて、男は首を傾げた。
遠くの方で低い音がする。
遠雷? 否、落雷を誘発するような雲は確認できない。だとすると、これは地鳴りだろうか。いつの間にか地面まで揺れ始めている。
ただ事ではない、と気づいたときには遅かった。
いる。
淡い炎の光に照らされて、ぬめりと輝く硬質な鱗。
その顔は、城壁の上にいてもなお見上げる程に高く、薄明かりを頼りに何とか見て取れた影は、蛇……あるいは伝承にみる龍のそれに似ていた。
覗く乱杭歯の奥から粘性の高い唾液が垂れ、真下で灯る篝火が掻き消される。
「ッ!」
兵士として鍛え上げられた体が、思考よりも先に動いた。
咄嗟構えた腕に燐光が宿る。神々しい輝きとともに現れるは、投石器の姿をした《神具》。
だが――。
龍の背を裂き、さらに二対四本の細いシルエットが現れる。
全体と比べれば細く、しかし人から見ればあまりに巨大すぎるそれが『腕』であると気づいたのは、そのうちの一本が振り降ろされた後だった。
龍が振るう掌が、男もろとも城壁を微塵に変えていく。
街中が異変に気付き――南区が地獄に変わるまでには、さして時間は要らなかった。
◇◆◇
「ハッ……ハァッ……!」
荒い呼吸を繰り返しながら、ヒュウガは南区の中を走っていた。
理由は単純。逃げ遅れた住民の探索と救助だ。友人のジェイクも別の場所を駆けずりまわっている頃だろう。
それは本来、正規兵の仕事。まだ訓練兵であるヒュウガが駆り出されている時点で異常な事態である。二年前だって、学生は予備軍として中央区に詰めさせられたのだ。
が、裏を返せば、それだけ事態が切迫しているという事でもあった。
一度呼吸を整えるために立ち止まり、改めて周囲を見回す。
まず見えるのはあちらこちらが水浸しになった街路と、無残に砕かれた建物の数々。築き上げられた瓦礫の山の端からは、よく見ると人の四肢のようなものが覗いている。
さらに視界の奥に映るのは、大穴を開けられたあの『壁』。
無意識に、ヒュウガの喉が干上がる。
壁内に籠城してから決して破られたことのなかったあの壁が、破壊されている――。
いったいどれほどの力を持った《深き者》ならばそんなことが可能なのか。想像するだけで恐怖に潰されそうになる。
その時だった。
前方からヒタ、ヒタと、何かの足音が聞こえてきた。
同時に、辺りに傷んだ魚のように生臭い臭気が漂い始める。
そして、目の前の崩れかけた壁の陰から、それが現れた。
異様な生命体だった。
辛うじて人のような形をしているが、両生類のように飛び出た二つの目玉とヌメッとした粘液で覆われた肌。首筋の辺りには魚の鰓のようなものも見受けられる。教本の挿絵で、時には壁上からの観察で何度も目にしたから一瞬で理解できた。《深き者》だ。
《深き者》の、その分厚い唇が開き、粘性の高い唾液とともに鼻が曲がるような臭気が溢れ出る。
『――ォォォォォァァァアアアアアア――』
咆哮。
およそ人の認識を飛び出た、奇怪な言語らしきものとともにその腕を振り上げる。
ぬめついたその肌の内側で筋肉に莫大な力が蓄えられていくのを、ヒュウガは察知した。来るのは剛腕の振り下ろし。常人の膂力を遥かに上回る一撃は、ヒュウガの肉体など粉々に打ち砕き、肉片と骨片の塊に変えることなど容易だ。
「――チィッ!」
慌てて後ろに飛びのいた直後、凄まじい音と共に彼が先程までいた位置を青白い腕が通過し、石畳の地面に大穴を穿った。
舞い散る粉塵と水の飛沫。その向こうから、来る。空いている手から二撃目の正拳。今度の狙いは腹だ。
本来ならば横に避けるべきを、今度は敢えて後ろに飛びのく。
瞬間。
猛スピードで突き出された拳が、ヒュウガの肉体に届く。
腹の内で臓器が暴れまわるかのような衝撃と共にヒュウガの身体が真後ろに吹き飛ばされる。
しかし、それでいい。いや、むしろ――それこそを狙っていたのだから。
地面に叩きつけられる直前で、ヒュウガは回転受け身を取り体勢を立て直す。その腹部は無傷。
後ろに跳んだのは威力を死なないレベルに抑えるため。
そして、敢えて受けたのは――近すぎた間合いを、ヒュウガの最も得意なそれにするためだ。
腰に両手を添える。左はそのまま腰に。右は、左と親指同士を向かい合わせるように、同じく左腰へ。
抜刀の構えのような姿勢になったヒュウガの掌に、淡い紅の光が灯る。
眼前では、大きな一撃を外した《深き者》がよろめいている状態から体勢を整えているのが見える。間に合わなければ間合いを詰めるついでのタックルで殺されかねない。
両手に宿った光が、まるで引かれ合うかのように互いの方向に延びていく。それは光点を通過してもなお延長を続け、何か長い棒状のものを模るように――
そこで、完全によろめきから立て直した《深き者》が疾駆を始める。地面を蹴る足に、石畳が捲れあがり、宙を舞う。
その水膨れした体からは考えられない素早さで、《深き者》が肉薄する。
衝突の直前、ヒュウガの口元に浮かんだのは、しかし笑みだった。
――良かった。
――間に合った。間に合ってくれた。
直後。
ガッキィィィィンッ!! という轟音と共に、《深き者》が真横に吹き飛ばされた。
紅い。
ただただ紅い光の粒子が、ヒュウガと《深き者》の間に舞い散る。
振り抜かれたヒュウガの手にあるは、漆で黒く塗られた鞘に納まった、一振りの刀。それこそがヒュウガの《神具》であった。
半人半魚の怪物が咆哮する。そうさせるのは痛覚なのか、それとも激情か。
しかし、ヒュウガは一切の容赦をしない。鞘に納められたままの刀を振るい、《深き者》の頭部を殴打し、腹部を突き、首筋を滅多打ちにしていく。
そこで、《深き者》から反撃があった。目にもとまらぬ左フック。《神具》を出したといえ、依然その防御力に大差はない。《深き者》の膂力が変わらぬのもまた道理。まともに一撃を食らえば死ぬだろう。
しかし、そうはならない。
先ほどまでとは打って変わり、余裕すら感じながら拳を交わしてくる。追撃の噛み付きも難なくいなし、カウンターとばかりに眉間へ一閃。
ヒュウガがその身に宿す《神具》の能力は身体能力の強化だ。それには五感や動体視力もまた含まれる。
迫りくる気配を目で耳で肌で――正しく全身で感じ取り、それらか次に来る攻撃の予測を導き出し、的確に捌いていく。
が、もちろん弱点もあった。
「ぐっ……!」
迫りくる拳を鞘で受け流しながら、苦悶の声を漏らす。
ヒュウガの《神具》は無名級だ。超常の武具であってもその能力は微弱であり、それ自体が決定打足りえない。
加えて、ある致命的な欠点がある。
抜刀ができないのだ。
鐔を押そうと引き抜こうとしようと、錆付いているかのように――いや、まるで刀自体が抜刀されるのを拒むようにピクリとも動きはしない。
つまるところ、圧倒的な火力不足。
敵の攻撃は当たらないが、こちらからも勝負を決することができない。
持久戦になれば不利なのはヒュウガの方だった。
怯んだ隙に逃げるのが最善の策だろうが、敵の猛攻がそれを許さない。
ステップを繰り返し、拳や牙を躱す間にも、確実に体力がそがれていく。
そして――。
「う、お……っ!?」
石畳の地面が濡れていたのが最悪だった。
ズルッ、と。ヒュウガの足が滑る。
致命的だった。
眼前に鱗を纏った巨大な拳が迫る。
瞬間で理解した。《神具》の反射神経をもってしても回避は不可能。
口の中が干上がる。嫌に拡張された体感時間が、迫りくる肉塊をスーパースローモーに映し出し、いたずらに恐怖を増幅させる。膝が笑い、腰が抜ける。
濃密な死の予感にヒュウガは思わず目を閉じようと、
キラリ、と。
今まさにヒュウガへ襲いかかっていた《深き者》の直上で、鈍色の空に輝く一点。
その直後。
《深き者》へ向けて、光の雨が降り注いだ。
「……え?」
突然の事態に呆けるヒュウガの目の前ではなおも天から光弾が降り注ぎ、過剰なまでに《深き者》の身体に穴を穿つ。
それは正しく神の閃耀だった。
ようやく光の雨が止んだかと思うと、そこにはもう、《深き者》がいた痕跡など肉片一つ見止められなかった。
「――ヒュウガくん!?」
尻餅をついたヒュウガの頭上から、少女の透き通るような声が聞こえてきた。
見上げれば、そこには右手に白銀に輝く弓を携えた、黒髪に深緑の瞳の少女。言うまでもなくイオナ・ブランジャールである。
手にしている弓は彼女の《神具》だ。狩りと月を司る処女神の力を宿した、神話級の弓矢。となれば、先程の光の雨は彼女が放ってくれたものなのだろうか。
イオナは、混乱抜けきらぬヒュウガに近づくと空いた左手を振り上げ――ペチッ! と、頬をはってきた。
「この、こんなっ……こんな無茶を……!!」
ぼんやりと彼女の顔を見上げると、その大きな瞳の端が潤んでいた。
今しがた叩かれた頬にそっと手を添える。
手加減したのか、力は全く籠もっていなかった。だというのに、こんなにも痛むのは何故なのだろう?
依然呆けた様子のヒュウガを見て、イオナは少しだけ瞑目すると、呼吸を整えてから再び目を開いた。
「……ごめんね、叩いちゃって。――でも忘れないで」
そう言いながら立ち上がり、ヒュウガに背を向け、続ける。
「私達訓練兵は、何が何でも生き延びなくちゃいけないの。いずれ――この身を賭して、刃を持たぬ人々を《深き者》から守る、その時のために」
じゃあね、と言ってイオナは歩み出す。
ヒュウガがのろのろと立ち上がったのは、彼女の姿がとうに見えなくなってからさらに暫らく後だった。
刀の鞘を爪が砕けんばかりに強く握りしめる。
理解した。
平手を受けた頬がこんなにも痛むのは、きっと――己の無力さが、そう感じさせるのだ。
ナウアノル国史以来最悪の事件は、こうして一先ずの幕を閉じた。
死者は実に数千単位。それでも被害範囲が南区の外縁付近だけで済んだのは、正規兵・訓練兵の区別なく対処に当たった《神具》所有者達の尽力と、何より、定例の軍議で偶然南区へ訪れていた三伯・『剣豪』ダリウス・ロートリンゲンの戦線参入が大きかった。
しかし、件の“壁を破壊できる《深き者》”に関しては、撃退に留まり討滅は叶わず。
ナウアノルは警戒態勢へと入り、破壊された城壁の修理、及び東西南北の四区の住民は、順に中央区への避難を準備することとなる。
壁はッ! 壊されるためにあるッ!!




