* 8 *
モネは午前中、カイとの結婚が正式に決まったコリの後任でモネの担当となったチャミと共に、このところ体調を崩しているカイに代わり、学問所の学習発表会を参観してきた。
学問所から城の離れに帰って来、黒テーブルのある部屋で茶を淹れるところまでモネの世話を焼いてから、チャミ、
「では、モネ様、私は厨房に、モネ様がお戻りになられたと伝え、昼食の用意をするよう言って参ります」
言って、離れを出て行った。
モネは、黒テーブルの下に置きっ放しにしてあった木箱の中から、カードの束とノート、ペンを出して、テーブルの上に広げた。
カードの束は、モネのお披露目の宴に来てくれた人たちへの御礼状。出来るだけ早くとムタから言われているため、少しの空き時間も無駄にせず、書き進めることにしていた。
ノートには、御礼状を送る相手の名前と送り先住所、それから、決まった文面以外にモネが一筆書き加える参考にと、送る相手ひとりひとりとモネが宴の際に舞台上で交わした会話が書かれている。
そのノートは、ムタがまとめた物。
宴の日を境に、ムタは突然、モネに親切になった。喋り方は相変わらず淡々としていて、感情も読み取りづらいが、視線は冷たくなく、その言動からは、思いやりさえ感じられることもある。コリが役目を果たした、ということなのだろうか。
(そういえば、コリさんの役目って、何だったんだろ……? )
ふと、そんなことを思い、ペンの動きを止めてしまうモネ。自分で、すぐにハッと気がつき、
(マズイ、マズイ)
慌ててペンを動かす。
と、その時、玄関の戸が、いつになく乱暴に勢いよく開閉される音。
(? )
モネはペンを持つ手を休め、顔を上げた。
直後、玄関に通じる障子が開け放たれ、
「モネっ! 」
いつもの白衣姿のサナが、モネの靴を片手に持ち、土足のまま駆け込んで来た。
(サナさんっ? )
どうしたの? などと聞く間も無く、
「逃げて! 」
サナはモネの右の二の腕を掴み、上に向かって引っ張り上げて、強引に立ち上がらせながら叫ぶ。
「いや、とりあえず隠れてっ! 」
(? ? ? )
ワケが分からないモネ。
ただ、モネの二の腕を掴んでグイグイ引っ張り、何かを探すように辺りをキョロキョロ見回しながら奥の部屋、その隣の寝室へと大股で歩くサナは顔面蒼白で、ただ事ではないことだけは分かった。
サナは寝室奥側の押入れに目を留め、その前で足を止めると、モネの靴を持ったままの手で押入れの襖を開け、その中を確認したように頷いてから、モネの腕を離し、モネの靴をモネに渡し、屈んで、押入れ下段に積んである座布団数枚を、積んだままの状態で、その奥の空きスペースに押し込み、現れた押入れの床に人指し指を向け、高圧の水を放出して、床に、座布団の大きさより少し小さめの円を描いた。
円の内側が、ガタッと軽めの音をたてて落ち、床に、ポッカリと穴が開く。
サナ、穴の手前に膝をつき、縁に手をかけて体重を支えて、一度、穴の中に頭を突っ込んで覗いてから、上体を起こしてモネを振り返り、
「靴を履いて入って」
その言葉に、
(その、穴に? )
躊躇うモネ。…何か、変な虫とか、いそうなんだけど……、と。
サナは立ち上がり、モネの背後に回って、
「いいから入って」
押入れのほうへ向けてモネの背を押す。
モネは、サナの目の中に激しい苛立ちを見つけ、逆らえずに、サナの言うとおりにした。
穴は浅く、モネの太腿までの深さしかない。
サナもモネに続いて押入れの中、穴の横のスペースに窮屈そうに入り、自由に身動きが取れない中で、何とか、といった感じで押入れの襖を閉めてから、モネに、行けるはずだから、と、完全に穴の中に入って奥に詰めるように言う。
モネはサナの言葉に従い、しゃがむ格好で頭まで穴の中に入り、1歩分ほど奥へ詰める。
そこは、真っ暗で、よく見えないが、かなり広い空間になっているようだった。
サナも穴の中に入って来つつ、さっきどかした座布団を穴の真上に移動させ、穴に蓋をした。
穴の中の空間が、目を開けているのかどうかさえ疑わしくなるくらいの深い闇に閉ざされる。
すぐ傍にいるはずのサナの姿も見えず、不安になったモネが、
「サナさん」
サナを呼ぶと、耳元で、
「シッ! 」
温かい息と共に、押し殺した声。
「大丈夫。ここにいるよ。後で、ちゃんと色々説明するから、今は静かにしてて」
そして、肘のあたりに、憶えのある温かな感触。サナの手のひらの感触。サナの手のひらは、探るように、モネの肘から腕を伝って、モネの手のひらまで辿りつき、ギュッと握った。
そこへ、玄関の戸が開く音。複数と思われる足音が、遠くから、次第に近く。
ややして聞こえた、
「どちらへいらしたのでしょうね」
ムタの声は、とても近い。
「なあ、ムタ」
体調が悪いためか深刻そうに沈んだように聞こえるカイの声が続く。
「本当に、モネを差し出さなけりゃならないのか? あれって……、あの話って、本当なのかな……。オレ、聞いたことねーよ」
「私も、聞いたことがございませんでした」
ムタは、いつもと変わらず淡々とした調子。
「何らかの考えから、先人が隠したがったのかも知れませんね。そして実際に、これまで隠しおおせた……。王族の系図によると、竜国建国以来、姫君は、1人も、お生まれになっておられませんから。今を生きる私どもの立場から言えば、きちんと伝えておいていただかなければ困ることなのですが……」
カイのものだろうか、大きな溜息が聞こえる。
「オレ、この国が大好きだけど、もし、あの話が本当なら、もう、今までみたいには、この国を誇れねえよ。人ひとりの犠牲の上に成り立った国なんて……。…モネ……可哀想に……」
泣いているのか、カイの声は震えている。
「どこに行ったのか知らねえけど、このまま見つからなけりゃいいって、正直、思っちまうよ……」
「カイ様! 」
ムタが、珍しく大きな声を出して、カイの言葉を遮った。
「王族の長としてのお立場をお忘れになられてはなりません。国と国民を守ることが、王族の長の務めでしょう。それに、この国が消滅すれば、カイ様も、カイ様の大切なコリも死んでしまうのです。モネ様だって、どのみち死ぬことになるのですよ」
「…そう、か……。…そうだよな……」
深い溜息と混じり、消え入るようなカイの声。
「とにかく捜しましょう。つい先程、チャミが厨房に、モネ様がお戻りになられたと伝えてきたばかりです。この事態を知ってお逃げになられたのだとしても、まだ、そう遠くへは行かれていないでしょう」
相変わらず淡々としたムタの声。
遠ざかっていく足音と、続いて、玄関の戸の閉まる音が聞こえた。
モネは、
(どういうこと……? 私を差し出すって……? あの話って、何の話……? 竜国が消滅するっていうのは……? )
カイとムタの会話の内容は全く掴めなかったが、ただ、自分が、とてつもなく大きくて、けっして良くはない話の中心に置かれていることだけは感じ取れた。…何だか、怖い……。
「行こう」
サナが押し殺した声で言って手を引っ張ったが、モネは体が震えて動けない。
「モネ? 震えてるの? 」
「…サナ、さん……。今の、カイさんとムタさんの話って、どういう、ことですか……?」
モネの問いに、サナ、何か考え深げな、躊躇ってもいるような沈黙。
モネは、不安と緊張に押し潰されそうになりつつ、サナの返答を待った。……自分で質問しておきながら、時間が、ほんの1秒経つごとに、答えを聞くのが怖くなっていく。ややして、軽く息を吸って吐いてから、覚悟を決めたように、グッと息を詰めて、
「絶対に大丈夫だから、落ち着いて聞いて」
低く、そう前置きし、サナは話した。
それは、さっき、サナがカイを診察中のことだった。以前にもサナから聞いたことのある竜国を創った神であるリュウシンが、突然、窓の外に現れて、カイに、モネを差し出すよう言ってきたのだ。……そういう約束だったはずだ、約束を守らなければ、この国は消滅することになる、と。全く話が掴めずにいるカイに、リュウシンは説明した。竜国建国の際、リュウシンは、引きかえに王族の姫を2人、生贄として差し出すよう要求したが、当時、姫は1人しかいなかった。その1人しかいない姫は、竜族の皆に平和に幸せに暮らしてほしいからと、自分1人で何とかならないかと、リュウシンに願い出た。リュウシンは、その姫の気持ちに打たれて、その姫1人を飲み込み、竜国を創った。次に姫が生まれた時には差し出す約束で……。その、次に生まれた姫というのが、モネだという。この163年の間、王族に生まれたのは男子だけだったのだ。163年という歳月は、リュウシンの予想をはるかに超えて長かった。本来2人の生贄が必要なところを、1人のまま163年。力が足りず、竜国の空間を支えきれず、まだ竜国に暮らす人々が気づくほどではないが、既に空間は、収縮の兆しを見せ始めた。このまま本格的な収縮が始まれば、もう、リュウシンの力をもってしても止められない。空間は収縮を続け、最終的には、空間に押し潰される形で全てが消滅することになるのだという。収縮を止めるためには、どうしても、あと1人の姫の犠牲が必要。他に方法は無い。……リュウシンが頭を悩ませていた折、リュウシンは、竜国に姫の気配があることに気づき、今なら、まだ間に合うと、急いで、姫であるモネを貰い受けるため、竜国にやって来たのだ、と。
「日没までの猶予を与えると言い残して、リュウシンは去って行った。…それで、カイ様とムタが、君を捜してるんだ……」
(そ…んな……。生贄、って……)
モネは、震えが止まらない。
(私、死ぬの……? )
モネの心の中の声が聞こえたのか、サナ、モネの上体を自分の膝の上に引き寄せ、覆い被さるようにして包み込んで、
「大丈夫だよ、モネ。僕が守るよ」
力強く言う。
サナに、そんなふうに包まれても、驚きも緊張も出来ないほど動揺しながら、でも、と、モネは、暗闇に目が慣れてきていても輪郭程度しか見えないサナの顔を見上げた。
「でも、私を差し出さなきゃ、竜国は消滅しちゃうんでしょ? そしたら、皆……。サナさんも……。…私だって、さっき、ムタさんも言ってたけど、どっちみち……」
「大丈夫。そんなことにはならない。落ち着いて考えれば、モネも皆も助かる良い方法が、きっとあるよ。今は、突然のことで、カイ様もムタもパニックになってる。隠れて、もう少し時間をおいて、カイ様やムタの気持ちが落ち着くのを待つんだ」
(落ち着くのを待つ、って……)
今は、もう午後。日没まで、あと、せいぜい5時間。…その間に、カイさんやムタさんは落ち着くの? 落ち着いたところで、どうなるの? 国を1つ、ポンと創ってしまうような力を持つスゴイ神様が、他に方法は無いって言い切ってるのに……。
モネがそう言うと、サナは、モネに体を密着させ、
「大丈夫。大丈夫だよ」
(サナさん……)
温かい……。ああ、私は本当にサナさんが好きなんだな、と、モネは思った。
「いつか買物中のモネと会った商店街近くの駅から、鉄道車両で次の停車駅の近くに、今は誰も住んでない、僕の生家があるんだ。とりあえず、そこに隠れよう」
サナの言うように絶対大丈夫だなどと、助かる良い方法があるなどとは、全然思えないが、サナの言うとおりにしてみてもいいと思えたから。…大人しくしていても同じ死んじゃうなら、ちょっとでも長くサナさんと一緒にいたい……、そう思った。そのために逃げてみてもいいかも、と。
出来るだけ長く大好きなサナさんと一緒にいられる努力をしよう、という方向で心が決まったことでか、モネの震えは止まる。
「さあ、動けるね」
サナの言葉に、モネは頷いた。
…ほんの少しだけ、迷いはある。カイさんに王族の長としての立場があるように、自分にも、王族の姫としての立場があるのでは、と。王族の姫としては、国民のため、逃げたりせずに大人しくリュウシンに差し出されるべきなのでは、と。本当に、少しだけ……。モネは、163年前の姫をエラいと思った。自分は、頭の中では、リュウシンに差し出されるべきなのでは、なんて考えても、実際に、そうする気になんて、ちょっとなれないから……。
*
真っ暗な床下を四つ這いで進むサナを見失わないよう、後ろにピッタリとくっついて、同じく四つ這いで進むモネ。
サナは、時々モネを振り返っては、
「モネ、大丈夫? 」
と、気遣った。
地面についたモネの指先が、ふと、割った卵の殻くらいの微妙に硬く微妙に軟らかいものに触れる。直後、おそらく、たった今モネが触れた、その微妙に硬く微妙に軟らかいものが、サララと優しい感触で、モネの手の甲の上を通り過ぎた。ゾワッと鳥肌がたち、
(…やっぱり、いた……! )
モネは固まる。
思わず大きな声を出しそうになったところへ、
「モネ? 」
モネが自分のすぐ後ろにいないと気づいたらしいサナの声がかかり、モネはハッとして、叫びたいのを堪え、急いでサナの声のほうへと進み、追いついた。
少しして、サナは止まり、
「モネ、ちょっと、さがって待ってて」
言いながら、僅かに後退。
モネも、それに合わせてさがった。
「クッ! フッ!」
と、息む声が聞こえ、モネは、
(? )
続いて、ゴ、ゴ……と、重たくて硬い物同士が擦れ合う時のような音と、荒い息遣い。
(? ? ? )
やがて、ゴト……、と鈍い音と、微かな震動。同時に明るい光が射し、モネは目を細めた。コンクリートのようなもので出来た離れの土台部分に、サナがやっと通れる程度の大きさの四角い穴が開いたのだ。
(今、ずっと聞こえてた音とかって、サナさんが穴を開けてた音だったんだ……)
その穴の向こうに、離れを囲う背の低い藁の塀が見えた。
サナが穴から顔を出し、前、左右をキョロキョロ。それから全身、穴から出、また辺りを気にする様子を見せてから、モネのいる床下を覗き、
「モネ、出てきていいよ」
その額には、汗がビッシリで、穴を開けるのが大変だったことを窺わせた。
聞こえていた音からしても、押入れの床に穴を開けた時のような指1本の作業ではなかったはずで、モネは、
(サナさん……)
肉体労働には向いてなさそうなのに、私を逃がすために……、と、申し訳なく思いながらも、少し、くすぐったいような気分にもなった。
そんな、くすぐったい気分に、モネは罪悪感。サナさんは、真面目に私を逃がそうとしてくれてるのに、と。もっと、真剣にならなきゃ、と。
死んじゃうのに、どうして、サナさんみたいに真剣になれないいんだろう……。モネは、自分が分からない。
…サナさんから、カイさんとムタさんの会話について説明してもらった時には、怖くて、ちゃんと震えてたのに……。そんなことを思いながら、白衣の袖で額の汗を拭うサナを見つめていて、モネ、
(…そっか……)
分かった気がした。
モネが穴から出るのを周囲を警戒しつつ待つサナが、発する緊迫感。
(死んじゃうのに、じゃない。どうせ死んじゃうって分かってるから、なんだ……)
動機が違う。
(サナさんは、私を死なせないために逃げてる。…私は……サナさんと出来るだけ長く一緒にいるために逃げてる……。私の逃げる動機は、弱いんだ……)
これじゃあいけない、と思った。サナさんに失礼だ、と。どうせ死んじゃうから、とか、一緒にいるために逃げる、とか、そういう考え方の部分は変えられないにしても、もっと真剣にならなきゃ。サナさんと出来るだけ長く一緒にいたい気持ちは本当なんだから、もっと、もっと、強く、強く、そう思い込めば……。
穴を通って離れの床下を出、藁の塀を越えると、モネとサナは、すぐ目の前の薄紅の花が咲く低い木の陰に入り、身を隠した。
連なる低い木の陰を、モネとサナは、城の敷地をグルリと囲う一番外側の塀を目指し、姿勢を低くして進む。
庭園内は、いつもより、作務衣姿の男女の行き来が多い。モネを捜すよう、言いつけられたのだろう。しかし、その理由までは教えられていないのか、何となく、のんびりしている。
作務衣の男女に見つからないよう注意を払いつつ、塀まで辿り着いたモネとサナ。
サナは低い体勢のまま、塀の下のほう、石垣部分に人指し指を向けて、離れの床下から抜け出す際に通った穴と同じくらいの大きさの四角を、高圧の水で描いた。それから、その四角の内側に右肩をつけ、
「クッ! フッ! 」
と声を漏らし、顔を真っ赤にしながら、満身の力を込めて押す。
離れの土台にも、こうやって穴を開けたんだ、と、見守るモネ。
だが、今度は無理そうだ。離れの土台と塀の石垣部分とでは、厚みが違いすぎる。
案の定、暫くしてサナは、石垣を押すのをやめ、ハアッと大きく息を吐きつつ、背中で石垣に寄り掛かって、
「やっぱ、ダメだ……」
モネは、サナがこれだけ頑張っているのに自分は見てるだけ、というのでは申し訳なく感じ、肉体労働が向いてなさそうとは言え男性のサナでどうにもならないものが、女である自分の腕力でどうなるワケでもないと分かっていながら、サナの隣へ行き、両手で四角の内側を押す。
やはり、ビクともしない。
それを見ていたサナ、ちょっと笑って見せ、
「無理だよ、モネ」
モネに、さがっているように言い、石垣に向き直る。
「他に方法が無いわけじゃないんだ。ただ、加減が難しいし、危険だから、出来るだけやりたくなかったんだけど……」
サナは、今度は石垣に直接触れず、10センチほどの距離から、四角内に両手のひらを向けた。
手のひら全体から、それは、もう既に水には見えない白い塊が現れた。塊の周囲に飛び散る飛沫が、辛うじて、その物体が液体であることを証明している。
ガコッ。塊に押された四角の内側が、いっきにヘコみ、塀の向こうに、ふっ飛んで、石垣部分に穴が開いた。
(…スゴイ……! )
塀の向こうにふっ飛んだ四角が、塀の向こうの障害物の無い芝の斜面を勢いよく滑っていくのが、穴から見えた。
やがて、ザザザザザザ。四角は斜面の下のほうに密集して植えられた背の低い木の茂みに突っ込み、茂みの木、数本を犠牲にして止まった。
ああ、サナさんの言うとおり、確かに危険かも、と、モネは、サナがやるのを渋ったことを納得。もし、塀の向こう、茂みより手前に人がいたら、と……。
「行こう」
言って、サナは穴をくぐる。
モネは頷き、続いた。
芝の斜面を滑るように下り、
(っと! 危ないっ! )
茂みを、木に足を取られて転びそうになりながら抜けると、民家の裏手に出た。
斜面と民家の間には、モネの身長ほどの段差があり、サナが先に飛び下りる。
モネが飛び下りることを躊躇していると、サナは、モネに、一度、段の縁に腰を下ろすよう言い、その言葉に従ったモネを、両腕を伸ばし、モネの腋の下を支えて、意外と軽々、ヒョイッと下ろした。
モネの心に、くすぐったい気分が復活。まずい、まずい、と、モネは慌てて首を横に振るい、そんな気分を振り払った。
サナは不思議そうな表情でモネを見る。
モネは、サナに、自分の浮ついた気分を見透かされたのではと、サナを窺った。…こんな浮ついた気分をサナが知ったら、気を悪くするに決まってるから……。
上目遣いでサナを見つめ続けるモネの視線の先で、サナは突然、白衣を脱ぐ。
(? )
今度はモネが不思議な表情になっていたか、答えてサナ、
「白衣は意外と目立つからね。それに、着ていない時と比べたら、やっぱり、着ていると動きにくいし」
脱いだ白衣を、段の上の茂みの根元に丸めて押し込む。
モネの浮ついた気分には気づいてなさそうな、何事も無かったような、その様子に、モネは、ホッと胸を撫で下ろした。
モネとサナは、民家の庭を遠慮しながらコソコソ突っ切り、道路に出た。
サナが、右手側からタイミング良くやって来た乗合車両を停め、乗り込もうとする。
モネは焦って、
「サ、サナさんっ! 」
サナの腕を掴み、止めた。
振り返ったサナは、
「大丈夫だよ。今は、まだね」
穏やかに笑んで見せ、一度、乗降口の前から退いて、モネの背に腕を回して、乗降口に向けて、軽く押した。
(サナさんが、そう言うなら……)
モネは、進まない気持ちで仕方なく車内へ。進まない気持ちなのは、ほぼ満席の乗合車両など、そんな大勢の人のいる、しかも、密室と言える逃げ場の無い場所に、逃亡中の身で入って大丈夫なのか、捕まったりしないのか、と心配したためだ。
サナは1つだけ空席を見つけてモネを座らせ、自分は、そのすぐ横の通路に立つ。
モネは、目だけで周りを盗み見ながら、小さくなって座っていたが、運転手も他の乗客達も、モネを気にしていない様子だった。考えてみれば、城で働く人たちでさえ、事情を知らされていないようだったのだ。多分、乗合車両内の人々は、まだ、カイがモネを捜しているという事実さえ知らない。サナの言うとおり、今はまだ、大丈夫だった。
*
板張りの床にボックスシート、天井には扇風機の、物自体はそう古くはなさそうだがレトロな雰囲気のある鉄道車両。シートに向かい合う形で座り、半分開けた窓から、まだ青い稲の香の風を頬に受けて揺られること約30分。モネとサナが降り立った駅は、乗車した駅と同じくらいの大きさがあるが、とても静かな駅。
モネやサナと一緒に、そこで降りたのは、スケッチブックのようなものを小脇に抱えてリュックを背負った中年の男性1人だけだった。
駅前も静かで、開店休業状態の土産物屋や食堂が軒を連ね、あとは、営業しているのかどうかすら分からない旅館が数軒。
サナ、
「金湖っていう、有名な湖がある観光地なんだ。真夏と、秋の終わりから冬にかけては賑わうんだけど……」
言いながら、線路と平行に通る駅前の道を、駅から見て左側へと歩き出す。
駅前の道から右手側の横道へ入ろうとしたところで、サナが不意に足を止めた。
「モネ、そういえば、君、お昼ゴハン食べてないよね? 」
モネが頷いてから、でも、お腹空いてないですから、と返すと、サナ、
「今はゴハンどころじゃないって気持ちも分かるけど、こんな時こそ、ちゃんと食べないと」
言いながら、モネを横道へ押しやって、ちょっと、ここで待ってて、と言い置くと、来たところを少しだけ戻り、一番近くの食堂へ入って行った。
取り残されたモネは、ゴハンなんかより、この時間の分だけでも長く一緒にいたいのに、と少し不満に思った。
(…私とサナさんは逃げてる理由が違うから、しょうがないけど……)
モネがひとりポツンとサナを待っていると、通りすがりの年配の男性と目が合った。
男性は、ちょっと驚いたような表情を見せてから、パッと目を逸らし、足早に、モネの目の前を通り過ぎて行った。
(今の人……)
モネは、今の男性に見覚えがある気がするが、
(誰だっけ……? )
思い出せない。
モネが考え込みかけたところへ、
「お待たせ」
サナが、片手でやっと持てるくらいの大きさの緑の葉の包みを手に、戻って来た。
「おにぎりを作ってもらってきたんだ」
*
横道を奥へと進むと、同じくらいの幅の道と交わる十字路に出た。その左手前方の角の家を指し、サナ、
「そこが、僕の生家だよ」
(…ここが……)
モネは、家を囲う白っぽい塀にツタのようなツル性の植物が這い、塀の内側に木がうっそうと生い茂っている、その家を、
(サナさんが、生まれて育った家……)
興味深く見つめた。
金属製の門扉にもツタが絡まり、サビついているのか、サナが開けると、キイ……、と音がした。
家の白い壁にもツタが這い、閉ざされた木製の雨戸は色褪せた感じ。
サナは、玄関のチャイムの真下に置かれている、何も植わっていない大きめの植木鉢の下から鍵を取り出し、玄関を開けて、
「どうぞ」
先にモネを通してから、自分も入ってドアを閉め、内側から鍵をする。
家の中は暗く、ホコリとカビのニオイがした。
モネは玄関を入ってすぐの、居間らしい部屋に通された。
部屋を入って正面に、雨戸に閉ざされた窓と、その手前に、背もたれを窓に向ける形で置かれたソファ。
モネは、興味から辺りをキョロキョロと見回しつつ、勧められるまま、そのソファに腰掛けた。
サナが、
「ホコリっぽいけど、我慢して」
言いながら、おにぎりの包みをモネに差し出す。
頷きながら受け取った時、モネの目が、ふと、サナの向こう、壁際のチェストの上の写真たてに留まった。
サナより幾分年上と思われる、サナによく似た男性と、優しい顔立ちの女性、何となくサナに似ている7、8歳くらいの男の子が、少し色の褪せた感じの写真の中から、モネに微笑む。
サナ、モネの視線を追い、
「ああ、僕と、僕の両親だよ」
(じゃあ、あの男の子がサナさん……)
カワイイ、と微笑ましく見つめてから、モネは、サナさんの両親は、今、どうしてるんだろう、と思った。この家は、随分長い間、誰も住んでないみたいだし、と。
だが、すぐに思い出した。以前、カイが、サナにも家族はいないと話していたことを。
(いないって、どういうことだろう……? 亡くなった、とか……? この写真から考えられるサナさんとの年齢差からすると、今の時点で、まだ、お父さんもお母さんも50代くらいのはずなのに……? )
ご両親は今、どうしてるんですか? なんて、余計なことを聞かなくてよかったと思った。
モネは、サナの、僕と僕の両親だよ、との言葉に、へえ、そうなんですか、と、意識して軽く返してから、
「おにぎり、いただきます」
言って、包みを開け、その中の白いおにぎり3つのうち1つを手に取った。
*
突然、玄関で、ドンドンッと、ドアが乱暴に叩かれる。
(! )
ビクッとしたモネは、おにぎりの最後の1口を、ろくに噛まないまま飲み込んでしまい、ノドに詰まらせる。
(…苦し、い……)
サナが、モネを覗き込み、
「大丈夫? 」
手から水を出して飲ませてくれ、背中をさすってくれて、落ち着いた。
ありがとう、を言おうと、モネがサナを仰ぐと、サナは、険しい表情で玄関の方向を見据えていた。
「サナ! 」
シイの声。
(…シイさん……? )
ドンドンドンドンッ! 再び、ドアが壊されそうな勢いで叩かれる。
「シイ……」
サナが低く呟く。表情は険しいまま。シイが敵なのか味方なのか、判断しようとしているようだ。
サナにつられて、モネも緊張。思わず、ギュッとサナの腕にしがみついた。
ドンドンドンドンドンッ!
「サナ! いるんだろっ? 開けろっ! 」
激しくドアを叩き続け、叫ぶシイ。
シイが敵か味方か、判断しかねている様子のサナが、もちろんモネも、何の反応もせずにいると、やがて、玄関の外は静かになった。
とりあえず、ホッと息を吐くモネとサナ。
そこで初めて、モネは自分がサナにしがみついていることに気がつき、焦って、ゴメンなさいっ! と言いながら離れた。
直後、ゴト……、ガタガタッ……。
(……! )
居間の、モネの後ろの窓の雨戸が揺れた。
モネは驚きすぎて跳び上がりながら、再び思わず、本当に思わず、今度はサナの背中に、腹に腕を回すかたちでしがみつく。
サナは、モネを背に庇うように、体ごと雨戸を振り返り、自分の腹の上のモネの手を、しっかりと握った。
揺れる雨戸を見据え、ゆっくりと壁際へ後退るサナ。
ガタンッ。雨戸が外れた。
窓の向こうで、シイが、イラついた様子で開けろと叫び、バンバンと窓ガラスを叩く。何となく、味方ではない雰囲気。
モネは、更に強くサナにしがみついた。
サナも、モネの手を握り直す。
と、シイがクルッと、モネとサナに背を向け、急に姿を消した。
(? )
かと思うと、また急に現れて、モネやサナのほうを振り返りざま、手に持った大きめの石で、ガシャンッ!
(! ! ! )
窓の鍵付近のガラスを割り、鍵をはずし、窓を開け、窓枠を越えて、家の中へと入ってきた。
「やっぱり、ここだったか……」
シイは、一度だけチラッとモネに目をやってから、サナを見据え、
「サナ、悪いことは言わない。モネを、こっちに渡せ」
やっぱり敵だった、と、モネは、グッと腹に力を入れる。
サナ、
「シイ、どうしてここに……? 」
その問いに、シイは、
「サナは知らないだろうけど、モネを捜すのに、各種族の族長と副長が召集されたんだよ」
学問所から帰ってきているはずのモネが城内にいないことを確認後、パニックを避けるためとのムタの考えにより、出来るだけ少人数で捜すべく、各種族の族長と副長を召集。事情の説明は無いが、城勤めの人たちと各居住地区の三役にも協力を要請したとのこと。その召集の際にサナが姿を見せなかったことと、城内を捜索していた人からの報告で、水族の中でも高度な能力者が開けたと思われる、人が通れる大きさの新しい穴が3つも、しかも、そのうち2つはモネの私室である離れから発見されたことから、リュウシンが現れた時に偶然カイの傍におり事情を知るサナが、モネの逃亡の手引きをしたのだと断定されたと説明。
「サナさ、かなり前だけど、オレを連れて、1回だけ、ここに来たことがあるの、憶えてる? オレは憶えてたから、ここに捜しに来たんだよ。サナの性格上、女子供を連れて隠れる場所は、少なくても雨風は凌げる場所だろう、って思って……。そうなると、オレの知ってる限りじゃ、ここか養生所しかねえし、養生所は、先に、他のヤツが見に行ってて、いなかったって連絡が入ってたからさ」
と答えた。
「そう……」
サナは納得したように頷いてから、
「ねえ、シイ……」
ちょっと言い難そうに、
「見逃して、くれないかな……」
シイは軽く目を伏せ、首を横に振りながら、大きな溜息。
「サナ、自分の言ってることが分かってんのか? 」
分かってる、と答えるサナ。
シイは、サナに歩み寄り、ごく近い距離から、サナの目を覗いて、
「目を覚ませ、サナ。モネを差し出さなけりゃ、皆、死ぬんだぞ」
「僕は! 」
サナは大きめの声をシイの語尾に被せるようにして、その言葉を遮り、シイの視線を跳ね返すくらいの勢いでシイを見つめ返した。
「僕には、犠牲になるのがモネ1人ならいいって考え方は、どうしても出来ない。それに、冷静になって考えてみれば、きっと、何か他にいい方法があるはずだよ。誰ひとり、犠牲にならなくて済むような……。それを、考えてみたい」
「それで! 」
今度は、シイがイラ立たしげにサナの言葉を遮った。
「それで、他の方法に、心当たりくらいはあるのかっ? 」
「それは……」
言葉を濁すサナ。
シイは、大きな大きな溜息を吐き、俯いて、
「…サナは、どうかしてるよ……。日没まで、あと何時間だと思ってるんだ? オレは むしろ、大人しくモネを差し出すってほうが、冷静な判断だと思うけどな」
「モネが聞いてる前で、そんな話……」
サナの言葉に、シイは、バッと顔を上げ、
「本当のことだろっ? 大体、何でサナは、そんなにモネに肩入れしてんだ! モネって、サナの何なんだよっ! 」
シイの言っていることは正しいと、モネは思う。……何故なら、モネも、基本的にシイと同じ考えだから。逃げるからには出来るだけ長くサナさんと一緒にいられるように、と、真剣に逃げているが、もちろん、死にたくもないのだが、希望は持っていない。だからこそ、シイと同じ疑問も持つし、それは、ただ単純に、サナに恋する女の子としても、ちょっと怖いが聞いてみたいところでもある。
(私って、サナさんの、何? )
「何、って……」
モネは、返答に困っている様子のサナを、背中にしがみついたままの姿勢で見上げた。
シイは、軽く息を吸って吐いてから、
「とにかく! 」
サナの後ろのモネに向かって手を伸ばし、
「モネは連れて行くっ! 」
モネは固まる。
咄嗟に、サナが体の向きを変え、伸びてくるシイの手を遮った。
「シイ、お願い……」
サナは、縋るように言う。
返してシイ、
「サナのほうこそ、頼む……。分かってくれよ……。オレ、サナに手荒なことはしたくねえんだ。…でも、オレは、自分の女房・子供を守りたいから……! 」
心を抉るような、本当に辛そうな涙声で言い、
「許してくれっ! 」
叫ぶや否や、しゃがんで床に両手のひらをついた。
その途端、床が全くの無傷のまま、極端に傾いた。
あっという間の出来事だった。
モネは、シイの肩の上に後ろ向きに担がれて外にいる。
床が傾き、モネがバランスを失ってサナから離れた刹那、シイが素早くさらって窓から出たのだった。
モネをユッサユッサと揺すりながら、駅の方向へ走るシイ。
「モネっ! 」
サナが追ってきた。
モネなんかを担いでいるシイの足が遅いのか、サナの足が速いのか、サナはグングン近づいてくる。そして、1メートルほどの距離まで迫ったところで、サナは地面を蹴り、シイの背中に体当たり。
その弾みで、
(! ! ! )
モネは道路上に放り出されて転がる。
シイのウエストにしがみつきながら、サナ、
「モネ、走ってっ! 」
サナの指示に、モネは、
「は、はいっ! 」
急いで立ち上がり、シイのいる位置から、来た道を戻ることを選び、走って、サナの生家のある十字路まで来、そこを左。
その時、モネの横を通り過ぎざま、誰かがモネの手首を掴んだ。
モネは一瞬、ギクッとしたが、それは、
(サナさん……)
サナだった。
サナはモネの手を引いて走り、サナの生家から数えて2軒目の民家の前まで来た時、チラッと後ろを気にしたかと思うと、サッと、その民家の開け放たれた門の陰へ、モネも連れて入り、身を隠す。
ややして、目の前を、シイが通過して行った。
シイの後ろ姿が小さくなるのを待ち、サナは、モネの手をしっかり握ったまま、シイが走って行ったのとは反対方向、自分たちが来た方向へと走り出し、自分の生家の十字路を右に。
サナに手を引かれ、導かれるまま、その斜め後ろに、ひたすら従うモネ。
サナ、走りながら、前を向いたまま、
「また、鉄道車両……に、乗ろ、う。シイに見つかった、から、この町からは、離れたほうが、いい……。…あては無い、けど、出来るだけ遠くに、行こう……」
(……? )
サナの話し方が、何だか苦しげで、モネは気になった。走ったための息切れにしては、モネ自身の息切れ具合と比べて、ちょっと……。気にし、近い距離からだが頭を大きく動かすことで全身を眺め、走り方が不自然なことに気がつく。…右足を、やけに庇っているような……。
「サナさん、足……」
モネが言うと、サナ、
「…うん、さっき、シイに体当たりした時に、ちょっと、ね……。でも、大丈夫、だよ……」
*
駅に到着し、切符を買うため、切符販売窓口の駅員に、サナが、
「すみません」
声を掛けた。
窓口の駅員は、申し訳なさそうに口を開く。
「申し訳ありませんが、30分ほど前に王族の長・カイ様より、詳細は不明ですが、緊急事態が発生したとのことで命令がございまして、当駅へお降りになることは出来ますが、ご乗車にはなれません。乗合車両のほうも、町内は運行を見合わせているとの情報が入っておりますので、最寄の駅へは、町境まで徒歩で行っていただき、隣町の乗合車両にお乗り下さい」
(…それって……)
モネは、サナの顔を見た。それって、シイさんだけじゃなくて、もう、カイさんや、他の、私を捜してる人たちにも、ここにいるってことが知られたってこと? と。
サナ、モネに頷き、駅員に、そうですか、分かりました、と返してから、
「行こう」
再びモネの手を引いて、駅を出る。
*
「サナさんっ? 」
突然、サナが地面にくずおれた。
駅から、徒歩では2時間ほどかかるらしい町境を目指して走っている最中、まだ、それほど駅から離れていない地点で、急激にサナの走るスピードが落ちた直後のことだった。
手を引かれていたモネは、つられて転ぶ。
サナは辛そうに顔を歪め、両手で右足を押さえている。
(サナさん、足が……)
モネは、どうしよう、と、途惑った。
サナにこれ以上、無理をさせたくないが、このままここにいては、今にきっと、シイだけでなくカイや、他の、モネを捜している人たちも、この町に来るから、すぐに見つかってしまう。
(どこか、すぐ近くで隠れられそうな場所……)
モネは辺りを見回し、
(……あ)
自分たちのすぐ脇の生け垣の、ほとんど無い隙間から、その向こうの様子が偶然見えた。
そこは、ベンチが置かれ、植えられている木の1本1本に、木の名前らしいものが書かれた札がさげられ、広い敷地のわりに、倉庫のような小さな建物が建っている以外は、他に建物が見当たらない。どうやら、民家ではなさそう。
民家でないならば、ここに隠れられそうだと思い、サナに確認すると、そこは、観光名所・金湖のほとりの公園。
モネは、とりあえず、この公園のどこかに隠れて休もうと提案した。
サナは、申し訳なさげに、
「…そう、だね……」
頷く。
サナの、その表情に、胸をキュウッと締めつけられるのを感じながら、モネは、右手でサナの右腕を持ち上げて腋の下に頭をくぐらせ、左手をサナの背中に回して、立ち上がった。
途端、
(お、重……)
ヨロケる。
それでも何とか歩を進め、近くの入口から公園内へ入り、倉庫のような建物の裏、生け垣との狭い隙間に入った。
倉庫に寄りかかるようにして地面に腰をおろしてから、サナは、たまたま目に留まったらしい、サナからは届かない位置に転がっているバケツを拾ってきてくれるよう、モネに頼んだ。
そのバケツは金属製で、形が歪み、長い間放置されていたのか、酷く汚れ、錆びついていて、モネが拾って手にとって見ると、底に小さな穴が開いていた。
サナに手渡しながら、穴が開いていることを伝えるとサナは、
「充分だよ。ありがとう」
と言って受け取り、地面の傾斜で僅かに低くなっている生け垣側にバケツを置いて、右足の靴と靴下を脱ぎ、ズボンの裾をめくる。
サナの足首は腫れていた。
(痛そう……)
モネが見つめる先で、サナは、座ったままの姿勢で微妙に体の向きを変えると、裸足になった右足をバケツに突っ込んで、手から水を出してバケツに注ぐ。
*
サナが手から水を出し続け、バケツの中で足を冷やし続けること小一時間。
サナは小さく息を吐き、水から足を上げ、ズボンのポケットから取り出した大判のハンカチで足をザッと拭いてから、
「冷やさないでいる間は、こうして、圧迫しておくと、腫れが酷くなるのを防げるんだよ」
と説明しながら、そのままハンカチを足に巻きつける。そして靴を履き、左足に力を入れて立ち上がって、
「さあ、行こうか」
でもサナさん、足が……、と、心配するモネに、サナ、ちょっと得意げに、
「いいこと思いついたんだ」
(いいこと? )
モネの無言の問いに、サナは頷き、自分の背後、倉庫を親指で指して見せて、
「公園に入った時、あっちに木立があるのを見たでしょ? そのすぐ向こうは金湖なんだ。ボートに乗って、対岸に渡ろう。走るのは、まだ大変だけど、ボートなら、足を使わないで進める。対岸は深い森になってるけど、もう隣町なんだ。足の痛みがもう少し引くまで森に隠れてから、歩いて森を抜けて道路に出て、乗合車両に乗って移動すればいい。ボートを普通に漕いで渡ろうとすると時間もかかるし、その間に捜してる人たちに見つかるかもしれないけど、僕なら、湖の水を操って、あっという間に対岸に着けるよ」
と、その時、
「見ーつけた」
生け垣の向こうから聞き覚えのある軽い声。
直後、膝くらいの低い位置で、モネとサナの目の前の生け垣が、幅50センチほど、斜めに切り落とされ、ナガが姿を現した。
(! )
「楽しいかくれんぼだね」
ナガは、膝までになった生け垣をまたぎ、両腕を広げて、切り落とされた生け垣の隙間も生け垣と倉庫の隙間も塞ぐ形でモネとサナの前に立ちはだかる。
サナは、モネを背に庇い、警戒した様子でナガを見据えつつ、残された唯一の退路である、自分たちの後ろの方向へ、ジリジリとさがった。
ナガが、指をキッチリ揃えた左手のひらを、自分の頭上で、サッと斜めに振る。
(っ? )
モネは、頭の上を、ズザッと、何かがスゴイ勢いで通り過ぎて行ったのを感じた。
その、ほんの数秒後、背後で、ズズ……と、何かが擦れるような低い音、続いて、ザワッと木の葉が揺れるような音と、ドスンという震動。
振り返って見てみれば、倉庫の横に生えていた木の、直径1メートルはあるかと思われる太い幹が、倉庫の屋根より少し上の位置でバッサリと斜めに切断され、その上部が、豊かに茂った緑の葉諸共、地面に落ち、退路を塞いでいた。
恐らく、ナガの仕業だ。ナガが手のひらを斜めに振ったために起きたことだ。
サナが、モネの斜め前でギリッと歯軋り。
「この地区の地区会長から目撃情報が入ってね……」
とのナガの言葉に、モネは、あっ、と、思い出す。サナの生家に向かう途中で出会った年配の男性を、どこかで見たような気がしたが、そう、彼は地区会長。モネのお披露目の宴に来ていたのだ。
ナガの口調はいつもと同じく軽いが、目は真剣。
「ムタ君なんかが血相を変えて君たちをを捜してる姿は、とても面白いんだけど、自分も死んでしまうんじゃ、純粋に楽しめないからね。残念だけど、かくれんぼは、もう終わりにして、一緒に来てもらうよ」
サナは全身に力を込めてナガを見据えていたが、急に、フッと力を抜いた。
(? )
どうしたのか、と首を傾げるモネの手を、サナは、そっと取り、ナガに向かって、
「ナガ、顔に何か……」
「ん? 」
ナガは胸ポケットから小さな鏡を取り出し、覗く。
サナはモネの手をギュッと握り直し、突然走り出して、鏡に気を取られているナガの脇の狭いスペースを、いっきに駆け抜けた。そして、真っ直ぐに木立を目指す。
走るサナの表情は、辛そう。右足を地面につく度に声を漏らす。
足が痛むんだ……、と、モネは胸が痛む。自分がサナさんに、こんな無理をさせてるんだ、と。
すぐ後ろからナガが追いかけて来ていることが、振り返って見なくても分かる。
木立を抜けると、そこは、対岸がボンヤリとしか見えないほど大きな湖。金湖という名の由来か、既に大きく傾いている太陽の光を湖面が乱反射し、金色に輝いている。
サナが、チラッと後ろを振り返ったかと思うと、いきなり、モネを腕に抱き上げた。
(! )
そして、驚くモネに何の説明も無いまま、すぐ近くにあった桟橋の、自分たちが走ってきた方向から見て陰になる場所に、腰まで湖の水に浸かりながら身を隠す。
すぐ近くで、ナガのものらしい駆け足の足音。その足音の方向に合わせて、モネを抱いたまま、隠れる場所を少しずつ移動するサナ。
足音は、次第に遠ざかっていく。
足音が遠くなったことを確認したように頷いてから、サナは目を閉じた。
(サナさん……? )
軽く眉間にシワを寄せ、何かに集中している様子。
直後、ザザ……、と、サナの周りの湖水が、サナから離れ、サナを中心として半径1メートル程の距離に、水の壁となって静止する。
サナは集中力を保ったままな感じの緊張した面持ちで目を開け、岸を離れ、湖の奥へ奥へと歩を進めた。
水の壁は、サナからの距離を変えずにサナの移動に合わせて動き、ただ、高さだけが、本来の水深に合わせて高くなり、その高さがサナの頭上1メートルを越えた時点で、今度は、水の天井まで出来た。
無色透明の円筒状の入れ物に入って水中にいるような状態。
サナが足を止め、フウッと息を吐く。緊張を解いたのが分かった。
こうして、形を作ってしまうまでが大変なんだ、と、軽く、サナは説明する。あとは、形を保っていられるように少し気をつけていればいいだけだから、と。
それから、モネを腕から下ろし、
「時間はかかるけど、このまま湖の底を歩いて対岸に渡ろうと思うんだ。ボートだと、速いけど、ナガから丸見えだから攻撃されそうだし、今は逃げきれても行く先がバレるから、対岸に着いてからも隠れてられなくて、どんどん逃げなきゃいけなくなるから」
モネ、頷く。
サナは頷き返して、モネの手を取り、1歩、踏み出した。途端、クッ……と呻いて、しゃがんで俯き、右足首を押さえる。
「サナさん! 」
身を屈め、サナの顔を覗き込むモネ。
(足が……。…無理、したから……)
と、モネの首筋に少量の水がかかった。思わず、モネは小さな叫びを上げる。
サナは、ハッと顔を上げ、右腕を上げて、手のひらを斜め上方に向けた。水の壁が崩れかかっていたのだった。
サナは水の壁を補修し、小さく息を吐いて、
「ゴメン……。気持ちが張り詰めてる間は、足、大丈夫だったんだけど、今、無事に形を作り終えて、ちょっと気持ちが緩んじゃったんだ」
謝られてしまって、モネは辛くなり、サナから顔を背けた。…謝らなければならないのは私のほうなのに、と……。鼻の奥がツンとなる。
(…サナさん……。私の、せいで……)
涙が溢れた。
サナは、
「モネ? どうしたの? 」
オロオロと、モネの顔を覗く。
(私のせい……。私を、逃がしてくれようとしたから……)
胸が痛くて、涙が後から後から、止まらない。その痛みから解放されたくて、モネ、
「…サナさん……。もういい……。もう、いいよ……。もう、やめて下さい……」
口を開く。
「私、リュウシンのところへ行きます」
本当は、初めから、そうするべきだったんだ、と思った。同じ死んでしまうなら少しでも長くサナさんと一緒にいたい、なんて考えないで、サナさんを、こんな目に遭わせてしまう前に、逃げることじゃなく、自分から、カイさんとムタさんの前に出て行くことを選べばよかったんだ、と……。
(それに私、自分がサナさんと一緒にいたいばっかで、サナさんのこと、ちゃんと考えてなかった……。 この後、もし、日没に間に合うように私が見つかった場合、私がリュウシンに差し出されて死んだ後、神様に逆らって私を逃がそうとした、国を危険にさらしたサナさんの立場は、どうなるの? 消滅しないで済んだ竜国で、サナさんは、どんなふうに生きていくの? …私、とんでもない間違いをしちゃったのかも……)
サナは驚いた表情で、
「モネ、何、言って……」
モネは、でも、今ならまだ、と、繰り返す。
「リュウシンのところへ、行きます。サナさんの手で、私を、リュウシンのところへ連れてって下さい」
他の人たちに見つかる前に、サナの手で差し出してもらう形に出来れば、サナの立場は確保出来ると考えた。
「…何……」
サナは最初、呻くように、次第に声を荒げ、
「言……ってるのっ! 」
ガッとモネの両肩を掴んだ。
その迫力に、モネはビクッ。反射的に涙が止まる。
サナは、心の奥を探るように、真っ直ぐ、モネの目の奥を見つめた。
「怖く、ないの? 」
静かな低い声。怒りのような悲しみのような感情を滲ませた目。
モネは、サナから目を逸らし、
「怖い、けど……」
答えながら、また、涙がこみ上げてくる。
サナは小さく息を吐き、
「だったら」
悲しみを残したままの表情で、また、モネを覗く。
「そんなこと、言わなくていいんだよ」
でも、と、モネは首を横に振った。
「遅い早いの違いはあっても、結局、私は……」
「モネっ! 」
大きな声で、サナは、モネの言葉を遮り、モネの肩を掴む手に、もう一度、グッと力を入れなおして、モネを見据えた。
「それ以上言ったら、本気で怒るよ? 」
「怒られても」
モネも、サナの目を真っ直ぐに見据え、言い返す。
「怒られても、無理です」
「やめなさい! モネっ! 」
悲鳴のような声をあげるサナ。
頭上からパタパタと、天井部分の水が落ちてきた。
「もう、無理なんですっ! 」
叫び返すモネ。
サナの手が、スッと動く。
(叩かれるっ! )
モネは竦んだ。
しかし、サナの手がしたのは、天井の補修だった。
モネの体の力がフウッと抜ける。
(もう、心がもたない……)
疲れて、
「…サナさんは、どこまで本気で、私を守れると思ってるんですか……? 」
さっきから心の中にはあったが サナが傷つくと考え、言わずにいた言葉が、思わず口をついて出た。
サナは、凍りついたようにモネを見る。
モネは、ハッとして口を押さえた。こんなこと、言うつもりじゃなかった。傷つけてしまった、と、後悔したが、これで無理は、やめてくれれば、と、否定はせず、続ける。
「一生懸命、逃がしてくれようとしてたサナさんには悪いけど、私は初めから、助かるなんて思ってなかったです。ただ、同じ死んじゃうなら、少しでも長くサナさんと一緒にいたくて……。ゴメンなさい……」
突然、サナは、モネを自分の胸へと引き寄せた。そして、強く強く、痛いくらい強く、抱きしめる。
(サナさんっ? )
驚くモネ。
「僕も、本当は、頭の隅では分かってたよ。僕に、君を救う力なんて無いって……」
サナの声も体も、震えていた。
「ただ、君に生きていてほしくて……。カイ様やシイや、他の、僕らを捜索している人たちから逃げてるって言うより、僕は、もしかしたら、現実から逃げてたのかもしれない……」
絞り出すように、苦しげに紡がれる言葉。
(サナさん……)
モネの胸は、これまでに経験の無い強さで、キュウウッと締めつけられた。苦しい。息が上手に出来ない。体が変に熱くなって、汗まで滲み出てくる。
(…私、サナさんが好きだ。本当に、こんなに好きだなんて、思わなかった……。サナさんに、生きてほしい……! )
苦しみの中で、モネは初めて、強くそう思った。これまでは、流れのままに、どちらでもいいと考えていた。日没に間に合うように見つかって自分だけが死ぬのでも、竜国の消滅までサナと一緒にいて皆揃って死ぬのでも、どちらにしろ死んでしまう自分には関係ないと思っていた。ただ、出来るだけ長くサナさんと一緒にいられれば、と。しかし、たった今、考えが変わった。どちらにしろ自分は死んでしまうから関係ないワケじゃない。サナさんには、絶対に生きていてほしい、と。……そうなれば、やっぱり、取るべき方法は1つ。サナさんに生きていてほしいなら、生きている以上、辛い思いをしてほしくないなら……。
「サナさん、お願いです。私を、リュウシンの所へ連れてって下さい」
サナの答えは、
「ダメだよ……! そんなこと、出来ないっ……! 」
そして、更に強くモネを抱きしめ、モネの髪に顔をうずめる。
あんまり強く抱きしめられて息が出来ず、モネは、サナの腕の中でもがき、何とか顔だけ横を向いて、呼吸を確保した。
サナは震える声で続ける。
「…シイじゃないけど、モネはワガママだよ……。君を犠牲にして生き延びて、僕が、その後、一生、どんな辛い気持ちを抱えて生きていかなきゃならなくなるか、少しは考えてみてくれてから、そんなことを言ってるの……? そんな思いをするくらいなら、竜国が消滅する時まで君を連れて逃げて、一緒に死ねたほうが、どんなにいいか知れないっ……! 」
(…一緒に死ねたほうがいい、なんて……)
サナの考え方に、モネは驚く。
(でも、大丈夫だよ……)
生き延びた後のサナさんの辛い気持ちは、きっと心配いらない、と思った。何故なら、サナがモネを殺すワケではない。サナの行動に関係なく、どうしたって、モネは死ぬ。
モネは、モネを可愛がってくれた遠方に住む祖母が1年ほど前に病気で亡くなった時のことを思い出していた。
亡くなる前、病状が悪化したとの知らせに、両親は、モネの学校に立ち寄り、危篤になったら連絡するから、学校から帰ったら、すぐ出掛けられるよう仕度をして待ってなさい、と言い置いて、祖母のもとへ向かった。それまでにも何度も、同じようなことがあった。結局いつも大丈夫だったから、と、モネは、学校から帰っても何の仕度もしていなかった。夜遅くになって、祖母が危篤だと連絡が入った。すぐにタクシーで駅に向かえば最終の新幹線に間に合ったはずだったが、モネは仕度をしていなかったし、その段階になっても、まだ、大丈夫だと思っていたから、仕度もしていないのに身ひとつで駆けつけるほどでもないと思い、行かなかった。そして真夜中、モネが何の心配も無く眠っているところへ、祖母が亡くなったと知らせがあった。後悔した。両親の言いつけどおり、学校から帰ってすぐ仕度をしておけば、と。仕度などしていなくても、お金さえ、ちゃんと持っていれば、必要な物は揃うのだから、危篤の連絡の時点で駆けつけていれば会えたのに、と……。
思い出せば、1年経った今も辛い。しかし、普段は忘れている。
サナも、きっとそうなると思った。病気のせいで亡くなった祖母のことをモネが普段忘れているように、サナのせいでなく死んだモネのことを、サナは忘れる、と。初めは辛くても、時間が癒してくれる、と。
モネは、何だか幸せな気持ちになっていた。一緒に死ねたほうがいいとまで言ってくれた、サナの言葉。強く強く抱いてくれている、胸と腕の温もり。満たされた。もう、充分だ。どうしてだろう、もうすぐ死ぬと分かっているのに、とても穏やかな気分。そして、多分、生まれて初めて、こんな、死を目前に控えて、今さら、目標らしい目標を持った。流されるのではなく、自分から強引に、その目標に向かって行こうと……。
その目標とは、もちろん、サナの手で自分をリュウシンに差し出してもらうこと。
*
モネとサナのいる円筒状の空間の外を、大小様々色とりどりの魚たちが悠々と泳ぎ、時々、モネたちのほうへ向かって泳いで来ては、モネたちの存在に気づいてか、ビクッとして方向を変え、去っていく。
その様子を眺めながら、モネは考えを巡らせた。どうしたら、サナさんは分かってくれるんだろう? 私をリュウシンのところへ連れてってくれるんだろう? と。
頭を悩ませるモネの耳元で、サナは独り言のように、
「どうして、モネは竜国に来てしまったんだろう……? 僕は、モネが竜国に来たばかりの時、竜族の血が竜国に呼び寄せられてのことなんじゃないか、なんて、いい加減に言ったけど、本当に、そうだったのかな……? 消滅の危機に瀕した竜国そのものが、モネを必要として……? …どうして……。本当に、どうして……! 」
途中から 声が大きくなり、吐き出すように、
「竜国なんかに来なければ……! ずっと、人間の世界にいられたら……! 人間の、世界…に……」
そこまでで、サナは口を閉じ、モネから体を離す。
沈黙が流れた。
(……? )
モネはサナを見上げる。
サナは、大きく見開いた目でモネを見つめ、声を掠れさせて、
「…モネ……。助かるかもしれない……。モネも、この国の人たち皆も……」
(っ? )
「どうして、今まで気づかなかったんだろう……! 」
目を輝かせるサナ。
(どういうこと? )
モネは、無言でサナを見つめ返し、説明を求めた。
その時、モネの視界の隅で、円筒のすぐ外側にいた、小さくて地味目の魚が、急に、フッと力の抜けたような、その魚の意思とは無関係と思われる不自然な感じで、フワフワと湖面に向かって上がって行った。
(? )
辺りを見回せば、他の魚たち……モネから見える範囲の全ての魚たちも、同じように上がっていく。
「何、これ……? 」
とても不自然な感じ。嫌な、感じ……。
サナも、眉を寄せて辺りを見回した。
ジットリと、嫌な汗が出てくる。
その汗が、実際に暑いためにかいている汗であると、モネが気づいた直後、いっきに湖の水が無くなり、湖底が干からびた。
可哀想な魚たちが、赤く染まった空からボトボトと降って来、乾ききってヒビ割れた湖底に落ちる。
(…どうなってるの……? )
モネは空を見、湖底を見、それから、サナと顔を見合わせた。そこで、何となく、視線を感じ、感じた方向を見る。
すると、桟橋の先端に8つの人影。
(! ! ! )
人影は、カイとムタ、ナガ、シイ、それに、各種族の副長たちだった。ムタと火族の副長の、湖に向けて突き出された手のひらから、炎が出ている。おそらく、湖水はその2人の炎によって蒸発させられたのだ。
ムタが炎を消し、腕を下ろした。火族の副長も、それに倣う。
これだけの人数が相手では、もう、逃げられそうにない。
(サナさんの手で、私をリュウシンに差し出してほしかったのに……)
モネは唇を噛んだ。
カイ以外の7人が桟橋から湖底へと飛び下り、モネとサナのほうへ走ってくる。
カイはひとり、桟橋の上で俯き、モネから顔を背け、立ち尽くしていた。少し距離があるため、よくは分からないが、体調のせいか、辛そうな表情に見える。
サナがモネを背に庇い、7人に向き直って胸の高さで両手を構え、勢いよく放水。
しかし、先頭の火族の副長は、サナの攻撃を咄嗟にしゃがんでかわし、続く6人も、それぞれ右へ左へ、軽く避ける。攻撃のために逆に出来てしまった隙を突かれた形で、モネはムタと火族の副長に、サナは他の5人に捕まり、引き離された。
「モネっ! 」
サナが、5人の手によって湖底にうつ伏せに押さえつけられようという状況で激しく抵抗しつつモネを見、叫んだ。
モネは、ムタと火族の副長に、それぞれ片側ずつガッチリと二の腕を掴まれながら、サナの、あまりに乱暴な扱われ方に驚いて、
「サナさんっ! 」
叫ぶ。
ムタ、モネの腕を一度引っ張り、自分のほうへと注意を向かせてから、
「モネ様、捜しましたよ。この付近でモネ様を見失ったとの報告をナガから受け、タイムリミット寸前でしたので、ありのままをリュウシンにお伝えしたところ、さすがは偉大なる我らがリュウシン。モネ様のいらっしゃる場所を教えて下さいました」
実にムタらしい無感情な調子で囁き、上空を仰いで、
「リュウシン! 」
大きな声で呼ぶ。
すると遥か上空、モネがムタにつられて見上げた先に、何やら黒いヒモのようなものが現れ、一瞬のうちにモネたちのすぐ目の前まで降りて来た。
モネは、
(これが、リュウシンっ……?)
その姿に圧倒される。
(……大きい! )
モネの視界に全身が収まりきらない、頭の高さだけでモネの身長の倍以上はある、蛇に2本のツノと長いヒゲ、4本の足をつけたような生物。光沢のある深い黒色の体は周囲の色を映し、少し動く度に様々な色に変化する。色こそ違うが、城に飾ってあった絵の生物と同じ形。いや、あれは、同じ部屋に飾られている火山の色を映した、このリュウシンの絵だったのかもしれない。
リュウシンの、実際には、おそらくノドから、しかし体全体から発せられているように感じられる、グルルルル……と、動物っぽい低く響く音。生臭い息。緩く閉じられた口の隙間から鋭い歯が覗き、モネは、ゴクッと唾をのんだ。
(…飲み込まれる、って、確か言ってたけど……。その時、噛むのかな……? やっぱ、痛いのかな……? )
ムタは、今度はカイのほうを仰ぎ、
「よろしいですね? カイ様」
モネも、やはりつられて見れば、カイは、俯いたまま体ごと横を向き、ギュッと強く目を閉じていた。
(カイさん……)
押入れの床下に隠れている時に聞いた、カイの、モネがこのまま見つからなけりゃいい、との、泣いているような声での言葉が思い出された。
ムタが、火族の副長に目をやり、無言でアゴを動かし、合図のようなことをする。
ムタと火族の副長によって、リュウシンの、より近くへと引きずられながら、モネは、焦ってサナを見た。
(このままじゃ……! )
今だって、あんな乱暴な扱いを受けているのだ。このままじゃ、自分が死んだ後、サナさんが辛い思いをしてしまう、と。だが、ふと、
(……そっか……! )
いいことを思いついた。簡単なこと。嘘をつけばいいのだ。逃げたのはモネ自身の考えであり、サナさんは無理に手伝わされただけだ、と。サナさんは自分に、王族の姫としての立場を考え生贄になるよう、何度も説得したのだ、と。逃亡中に出会ったシイやナガからすれば、また、サナの性格を考えたりすれば、かなり嘘っぽく感じられるかも知れないが、嘘であるという証拠は、どこにも無い。
モネは、自分の考えに力を得、ムタに、たった今、考えた嘘を言おうとした。
が、一瞬早く。
「リュウシン! 」
サナが、うつ伏せの状態から顔を上げ、リュウシンに向けて口を開いた。
「お聞きしたいことがあります! 」
(…サナさん……? )
グル……と低く唸りながら、リュウシンはサナのほうを向いた。
ムタと火族の副長、サナを押さえている5人も動きを止め、サナを見る。
サナは続ける。
「163年前の竜国建国の際、人間の世界から、この竜国へと竜族を呼び寄せたのは、リュウシンであると伝え聞いておりますが、本当ですか? 本当であるとすれば、その逆、竜国から人間の世界へと全ての竜族を移動させることは可能ですか? また、その際、王族の姫の犠牲は必要ですか? 」
暫し沈黙が流れる。
ムタが、あまり良い意味ではないであろう笑みを含み、
「何を言って……」
呟いたのに被せ、
「犠牲は、要らぬ。私の力のみで可能だが……? 」
地を這うように低く、厳かに返すリュウシン。
それを受け、サナは更に続けた。
「率直にお聞きします。リュウシンは、この竜国そのものを絶対に残したいとお考えですか? それとも、竜族が生き延びるのであれば、その場所は人間の世界であっても構わないとお考えですか? 」
「私が残したいのは竜族だ。竜国自体は、竜族を守る手段の1つに過ぎぬ」
リュウシンの答えに、サナは、目に明るい光を浮かべ、リュウシンに、質問に答えてくれたことに対しての礼を言ってから、
「カイ様! 」
カイを振り仰ぎ、
「お聞きになりましたかっ? リュウシンのお力を借り、この国の竜族全員揃って、人間の世界へ移住しましょう! そうすれば、誰一人、モネ様も、犠牲にならずに済みますっ!」
カイは、弾かれたように顔を上げつつ体の向きを変え、信じられない、といったように、まじまじとサナを見た。
当然の反応だと、モネは思った。
(サナさんが、さっき、私に言おうとした、助かるかもしれない、って、こういうことだったの……? )
そんなの無理だ、と思った。何故なら、この国の人たちは、人間を憎んでいる。その憎しみの強さは、身をもって経験済みだ。人間の世界でなんて、暮らしていけるワケがない。人間の世界で暮らすくらいなら竜国に残って竜国とともに消滅したい、などと言い出す人がいても、おかしくない。モネが犠牲になりさえすれば竜国は消滅せずに済むと知れば、モネを悪く言う人が出てくることも容易に想像がつく。もちろんモネにとっては、死んでしまうよりは人間の世界で暮らすほうが絶対にいい。族印さえ……モネが竜国に来て初めて見た時に、とても気味の悪い印象を持った、族印さえ上手に隠すことが出来れば、暮らしていける自信は、当然ある。だが、他の人たちは……。
(サナさんは、言っちゃ悪いけど、ちょっと変わってるから、大丈夫かも知れないけど……。って言うか、そもそも自分は大丈夫だって自信があるから、サナさんは、人間の世界に住もうなんて突拍子もないことを思いついたのかも……)
モネは溜息。
と、そこへ、リュウシンの、
「王族の長よ。竜国を残すのでも、人間の世界に移住するのでも、私はどちらでも構わぬ。お前が決めよ」
辺りに低く響き渡る声が頭上から降り注いだ。
その言葉に、
(何でっ? )
モネは思わず、リュウシンを見た。…突拍子もないサナの考えを、リュウシンが選択肢に入れたことに驚いて……。それから、そっと、カイを窺うと、困惑した表情のカイと目が合った。
カイは暫くの間モネを見つめてから、桟橋から湖底へと飛び下りた。ゆっくりとリュウシンの前まで歩き、足を止め、モネのほうを向いて、もう一度しっかりとモネを見つめる。
(カイさん……? )
その目には、もう、困惑の色は無かった。モネに頷いて見せてから、カイは、微塵の迷いも無く真っ直ぐにリュウシンを仰ぎ、
「決めたよ、リュウシン。人間の世界へ移住する! 力を貸してくれ! 」
「カイさんっ? 」
声にまで出して驚くモネ。……カイさんも自分と同じ考えだと思ってたのに、と。
カイは、真っ直ぐにリュウシンに向けていた視線をモネに向け、フッと笑み、
「人間の世界はモネの故郷だ。しかも、モネは16年間、人間として生きてきた。モネを見る限り、人間たちが、伝え聞いているほどの悪者であるとは思えない。伝えられている話も真実だとしても、それは、ほんのごく一部の人間たちの話だと思う。自分の見たもの聞いたもの、自分の感覚を一番に信じたい。大丈夫だ。やっていける」
そして、ムタを見、火族の副長を見、ナガを、シイを、風・地・水族の副長を見、
「それにオレは、1人の犠牲も許したくない。皆で生きるんだ」
最後にサナに視線を止めた。
「サナも、同じ考えだな? 」
力強く頷くサナ。
カイも頷き返し、
「よく、人間の世界に移住などという方法を考えてくれた。おかげで、大きな過ちを犯さずに済んだ。心から礼を言おう。……ありがとな」
あまりの展開に呆然としてしまっていたようだった、サナを押さえつけていた5人が、ようやく我に返った様子で、急いでサナを解放する。
サナは起き上がり、片膝をついた姿勢でカイに向けて深く頭を垂れ、
「もったいない、お言葉です」
リュウシンが、グウ……と唸り、
「人間の世界に移住……。承知した。空間の収縮により、この先は何が起こるか分からぬ。早いほうが良かろう。明日の今頃、再びこの地に集まるがよい。人間の世界へ送り届けてやろう」
モネの隣でムタが、
「しかし、人間の世界に移住というのでは……! 」
モネを放し、1歩前に進み出た。
リュウシンは、目だけをキロッと動かしてムタを見、
「王族の長の決定だ。異論は許さぬ」
ムタは、珍しく分かりやすく、悔しげに、グッと口をつぐんだ。
*
…ユルサナイ…ユルサナイ……ユルサナイユルサナイユルサナイ……。
モネは、何やら女性の声のようなものを聞き取り、
(? )
辺りを見回す。
瞬間、バリッという音とともに、リュウシンの位置とカイの立つ位置の間の地面に、亀裂が生じた。
その亀裂から、白く渦を巻いた強い風のようなものが、ゴオッと3メートルほどの高さまで吹き上げ、カイは後方へと吹き飛ばされて尻もち。
(カイさんっ! )
尻を湖底についたままの状態で呆然と白い渦を見上げるカイに、モネも、サナをはじめとする族長副長の8人も駆け寄る。
(何、これ……? )
モネは、白い渦を見つめた。何だか、とても嫌な感じがする。
ユルサナイ、ユルサナイ、と、再び声。……渦の中からだ。
渦を見守る10人の視線の先で、渦は次第に勢いを弱めて、やがて消え、中から、モネより少し年上と思われる、髪の長い、着物姿の少女が現れた。
少女は俯き加減でユルサナイ、ユルサナイ、と呟いている。さっきから聞こえていた声の正体だ。……何だか不気味で、背筋が寒い。
少女の後ろで、リュウシンが唸るように、
「…お前は……」
表情の変化の分かりづらいリュウシンが驚いていることが分かった。渦の中からのこの少女の出現は、それほどのことなのだ。一体、誰なのだろう……?
モネの無言の問いに答えてか、リュウシンは、これまでより更に低く、掠れた、注意深く聞かなければ唸っているようにしか聞こえない声で、
「…竜国創造の際、私が飲み込んだ、王族の姫だ……」
(163年前の……っ? )
…それって……と、モネは思わず後退る。
(やっぱり、幽霊、ってこと……っ? )
渦の中から現れたその時に、何となく、そういう類の存在ではないかと感じてはいたが、ハッキリと、そうであると聞かされると、何をされたワケでもないのだから失礼かもしれないが、やはりどうしても、怖くなる。
163年前の姫は、ユルサナイ、ユルサナイ、と繰り返しながら、ゆっくりと顔を上げた。
と、モネと目が合う。凍りつくモネ。
瞬間、姫はフウッと宙に浮き、
「許サナイッ! 」
(! )
宙を直線的に、いっきにモネとの間合いを詰めてきた。そして、狂気を感じさせる目で、至近距離からモネを覗き込み、
「オ前ダケガ生キ延ビルナド、許サナイ……ッ! 」
囁いたかと思うと、恐怖から、すっかり固まってしまっているモネの右手首を、ガッと掴んで、
「オ前モ飲ミ込マレロ! オ前モ、死ネ! 」
リュウシンのほうへと引っ張る。
(! ! ! )
引きずられるモネ。
モネが引きずられて行くのを止めるべく、サナとカイが咄嗟にモネの体に飛びつき、しがみついたが、一緒に引きずられるほどの強い力。
シイ、副長4人、最後にナガ、と、ムタとリュウシン以外の、その場にいる全員が、次々と飛びつき、ようやく、ドサッ。姫の手がモネから離れ、モネと、しがみついていた一同は、湖底に転がった。
姫に掴まれていたモネの右手首には、赤く、しっかりと手の跡が残っている。
姫は、クワッと目を見開き、髪を振り乱しながら、
「私ノ命ヲ犠牲ニシテマデ創ラレタ竜国ヲ簡単ニ消滅サセヨウナド許サナイッ! 姫ナラバ、竜族ノタメニ命ヲ差シ出セッ! ワガママハ許サナイッ! 」
再びモネに手を伸ばしてきた。
「どっちがワガママだ! 」
シイが怒鳴りながら素早く身を起こし、立ち上がって、モネと姫の間に割り込んだ。
姫は動きを止め、少しさがって距離をとり、シイ越しに、静かにモネを睨む。
「モネもワガママなヤツだけど、アンタのほうが、まだヒデエよ。犠牲になることは、アンタが選んだことだろっ? モネを犠牲にするってのは、アンタが決めたことなのか163年前のヤツらが揃って決めたことなのか、それともリュウシンが決めたことなのか、知らねえけど、モネのいない所で勝手に決まったことにモネが従わねえからって、何だってんだ! 」
シイが叫んでいる間に、同じく転がっていた他の7人も立ち上がり、シイの隣にズラリと並んで、モネを守る壁となった。
叫ぶシイなど、まるで眼中に無い……どころか、モネを睨むことすらやめて、気まぐれな視線を退屈そうにさまよわせていた姫は、シイが一通り叫び終えるのを待っていたかのように、
「言イタイコトは、ソレダケカ……? 」
フン、と鼻で笑いながら言ったかと思うと、
「邪魔ダアッ! ドケエェェェェェェェェェェェェェェェェェェッ! 」
ギラついた目で真っ直ぐにモネだけを見据えて絶叫。モネの前に並ぶ8人など全く見えていないのではといった勢いで、宙をモネに向かい突進。真正面にいるシイとぶつかる寸前で、更に加速。しかし、ぶつからなかった。
前面の8人は、姫の通り道を強引にあけさせられるように、正体不明の、何か、見えない力によって、左右に吹っ飛ばされたのだった。
飛ばされ、湖底に体を強く打ちつけられた8人。倒れたまま、グッタリと動かない。
(サナさん! カイさんっ! )
モネが、そちらに気を取られている隙に、姫はモネの背後にまわり、後ろから、モネの両腕の動きを封じるように自分の左腕をモネの体前面へと回して押さえつけ、右腕でモネの首を締めつけた。
(……っ! …苦し、い……! )
モネは、もがくが、姫の力は強く、振りほどけない。
その状態のまま、姫は勝ち誇ったように笑いながら、スウッと宙をリュウシンの前まで移動。リュウシンの目の高さと同じ高さまで上昇し、
「リュウシン! サア、コイツヲ飲ミ込メ! カツテ私ヲ飲ミ込ンダヨウニ、コイツヲ飲ミ込ンデ竜国ヲ救エッ! 」
背後から、小さく呻き声が聞こえ、続いて、
「モネっ! 」
サナの叫ぶ声。
(サナさんっ! )
モネはサナのほうを振り返ろうとするが、ガッチリ押さえられていて出来ない。
リュウシンの唸り声。微かに生臭い息。
リュウシンは、静かに、ゆっくりと口を開き始めた。
モネは、恐怖から目を閉じることすら出来ずに、ただ、
(嫌っ! 怖い! 死にたくない! 死にたくないっ! )
心の中で叫ぶ。
リュウシンに飲み込まれて死ぬことは、覚悟……と言ってしまうと少し違うような気もするが、仕方のないことと諦め、受け入れていたはずのことだった。しかし、一度、生き延びる希望を目の前に広げられて見てしまったら……。
(…生きたい……! )
ノドがとても渇いた時に、水が飲みたい、水が飲みたい、と、そればかりになるのと似た感じで、今、モネの心は、生きたい、生きたい、と繰り返していた。
姫が、ガッチリと押さえつけた腕はそのままに、斜めから、楽しげに意地の悪い笑みを浮かべ、モネの顔を覗きこむ。
と、開いた口で、リュウシンが、
「それは、出来ぬ」
言った。
モネは驚く。リュウシンの口は、自分を飲み込むために開かれたのだと思っていた。
モネを覗き込む姫の顔から、フッと笑みが消えた。姫は強張った表情をリュウシンに向ける。
「何故ダ? 」
答えて、リュウシン、
「王族の長の決定に反する。お前の腕の中の、その姫を犠牲にして竜国を救えば、王族の長は、私の愛する竜族を守っていく力を失う」
「ソ…ンナ……」
姫の腕の力が急に緩んだ。
(! )
スルッと、モネの体が姫の腕からすり抜ける。
(落ちるっ! )
モネはギュッと目を閉じ、身を固くした。
「モネっ! 」
サナが叫ぶ。
直後、ドサッ。モネは落ちたが、
(……? )
痛くない。恐る恐る目を開けて見れば、モネの体の下に、サナ。モネが湖底にぶつかる寸前、間一髪のところで、サナがモネと湖底の間に滑り込んだのだった。
(! サナさんっ! )
モネは慌ててサナの上から退く。
サナは小さく呻きながら上半身起き上がり、
「モネ……」
サナらしく優しく穏やかに笑んで、そっと腕を伸ばし、モネを自分の胸へと引き寄せた。
(サナさん……)
モネは、サナに体を預ける。
(…あったかい……)
その時、頭上から、
「ウアァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァッ! 」
見れば、姫が、髪に指先を埋めて抱えた頭を、狂ったように前後左右に振り、
「私ノ犠牲ハ、無意味ダッタト言ウノカッ! 無駄ダッタト言ウノカッ! 私ノ命ッ! 私ノ命ハアアアアアアアアアッ! 」
血を吐くように激しく、叫んでいた。
と、後方から、
「それは違う! 」
凛とした声。
姫が叫ぶのをやめ、そちらを見た。
モネも振り返ると、カイが辛そうに顔をしかめ、立ち上がるところだった。
カイは、ヨロヨロと、モネとサナのすぐ横まで歩いて来、姫を見上げる。
「オレは、いや、ここにいる全員が、アナタには感謝している! 人間の世界で主に竜族が暮らしていた地は、四方を海で囲まれた小さな島国だったと伝えられている。そんな中で命を狙われ続けては、逃げることも儘ならず、戦うにしても、当時は人数も少ないし、竜国という逃げ場を創ってもらえなければ、オレたちの先祖は生き延びることが出来なかったかも知れない。そうなれば、オレたちも生まれてはこれなかった!」
姫は、スッと、宙から湖底に下り、カイの正面に立った。
サナが、さり気なくモネを背に庇う。
姫、カイの目を覗いて、
「感謝、ダト……? 何モ知ラナイクセニ……」
皮肉げに笑った。
「オ前ラノ先祖ガ、私ヲ追イツメタノダゾ? 」
言って、チラッとシイに視線を流し、
「サッキ、ソコノ大男ガ、犠牲ニナルコトハ私ガ選ンダコトダト言ッテイタガ、ソレハ違ウ。…私ハ、生キタカッタノニ……」
語尾を震わせ、姫は俯く。
「リュウシンガ、私ガ生キテイタ当時ノ、私ガ住ム竜族ノ村ノ皆ノ前デ、竜国ヲ創ル話ヲシタ。皆、口デハ何モ言ワナカッタガ、目デ、私ニ、死ネト言ッテイタ。姫ナラバ、ソウスルベキダト……。生キタクテ躊躇ウ私ヲ責メテイタ……」
小さな小さな声で言葉を紡ぎ、最後は、ほとんど聞き取れないほど小さく言って、姫が口をつぐむと、辺りは、シン……と、静けさにのまれた。
姫が、あまりに痛々しくて……。モネは、遣る瀬無い思いで胸がいっぱいになった。
たった今まで、ただ、怖いと思っていた。その姫が、今、何と小さく見えることか……。この姫の心を、何とか慰めてやりたいと思った。しかし、言葉が見つからない。
皆、同じような気持ちなのだろう。モネが、そっと、サナやカイ、シイ、ナガ、副長たちの様子を窺うと、皆、一様に俯き、切なげな表情をしていた。…ムタだけは、いつもと変わらず感情の読み取れない表情をしていたが……。
ややして、
「なあ」
シイが、姫に向かって口を開いた。
「アンタが死んだ時、アンタの親父って、生きてた? 」
姫は、ゆっくりと顔を上げ、気だるげに、アア、と、短く返す。
シイは、そうか、と頷き、
「オレさ、親父なんだ。まだ小せえけど、娘がいる。可愛くてさ……。目に入れても痛くないって、きっと、こういうことだって、娘が生まれてから知ったんだ……。だから、自分より先に娘が死ぬなんて考えられねえし、考えたくない。アンタの親父も、そうだったんじゃねえかな……? 皆がアンタに、死ねっていう目を向けた、って、生きたがるアンタを責めてた、って、アンタは言ったけど、親父だけは違うって、オレ、自信持って言えるよ。アンタに生きてて欲しかったと思う。自分が代わりに死んでもいいから、アンタには生きてて欲しかったって……。一生、アンタを守れなかった自分の無力を呪いながら生きてたと思う。今だって、死んでなお不幸なアンタを天国から見て心配して、悲しんでるんじゃねえか? 」
姫は、驚いたように大きく目を見開いてシイを見つめ、シイの言葉に聞き入っていた。見開かれた目から、大粒の涙が、パタパタと落ちる。
シイは続ける。
「アンタさ、こんなところでオレらに絡んでねえで、早く天国に行って、親父を安心させてやれよ。その後で」
そこまでで一旦、言葉を切り、
「163年分、キッチリ甘えてやれ」
ニヤッと笑って見せた。
姫はつられたように小さく笑い、頷いた。
それを見て、モネは驚き、同時に、
(シイさんって……)
シイに対して尊敬の念を抱いた。……あんなに傷ついていた人を、こんなふうに慰められるなんて、と。
感心しきっているモネに、
「オ前……」
姫が声を掛ける。
突然に向けられた声に、モネは、軽くビクッ。
「オ前ハ幸セダナ。コンナ、良イ人タチニ囲マレテ……」
姫は、とても穏やかな表情。
「私モ、幸セカ……」
呟きながら、一度、空を仰ぎ、再びモネに視線を戻す。
「怖イ思イヲサセテ、スマナカッタナ。何ダカ、トテモ清清シイ気分ダ。今ナラ、天国ヘ行ケソウナ気ガスル」
そして、イタズラっぽく笑い、
「イヤ、絶対ニ行カネバナ……。父ニ甘エルトイウ、大事ナ用事ガアルノダカラ……」
姫の体が透け、向こう側が見えた。天国ヘ行くのだと、モネは分かった。
シイが、少し急いだ様子の早口で、
「さっきは悪かったな。何も知らねえのに、ワガママとか、勝手なこと言って……」
姫は、フッと笑みで返す。その笑顔は、とてもキレイだった。
直後、姫の体がパアッと眩しい光を放ち、モネは目を開けていられず、閉じる。
光が落ち着いたのを感じ、目を開けると、もう、そこに姫の姿は無かった。
「モネ」
サナが、そっとモネの肩を抱いた。
(サナさん……)
モネは頬でサナの胸の温もりを感じつつ、姫のいた場所を見つめた。光となって天国ヘ旅立った姫を、心の中でさえ言葉に出来ず、思いながら……。
*
人間の世界に移住するにあたって、モネ、サナ、カイ、シイ、ムタ、ナガと、4人の副長たちは、リュウシンを交え、その場……金湖にて話し合いを持った。
「先に言っておくが」
と、低く、リュウシンは前置きし、現在の人間の世界は、山奥にまで人間の手が伸び、管理が行き届いており、以前のように、竜族の村を作り、ある程度まとまった人数で隠れ住むことが不可能なため、目立たないよう家族単位くらいの少人数のグループに分かれて人間たちの中に紛れて生活するしかない、と告げた。
それを聞き、モネは途惑った。おそらく、他の9人も。
きっと、人間の世界で暮らす姿として、昔のように、山奥の竜族だけの村で、皆で一緒に、隠れる、とまではいかないまでも、人間たちとは距離を置いて暮らすことを思い描いていたのだ。少なくてもモネは、そう思い込んでいた。
やっていけるのか、と、不安になった。族印のこと1つをとってみても、距離を置いて生活する分には何とか隠せても、共に勉強したり働いたりする中で隠し続けるのは難しい気がする。
距離を置いて生活できるだけの場所が現在の人間の世界に無いことくらい、人間の世界で16年も暮らしていたモネなら、ちょっと考えれば分かるはずのことなのに、リュウシンに言われて初めて気づいたのだった。
モネはカイを窺った。竜国を消滅の危機から救うためにモネをリュウシンに差し出す期限である日没から、まだ、数分が過ぎたところで、今なら間に合うのでは、と。カイが、その方向に考えを転換するのでは、と。
しかし、カイは、一度、大きく息を吐き、首を横に振って、その表情から途惑いを追い払い、
「皆、何を不安な顔をしている。大丈夫だ、やっていける。そのための話し合いを、今、している」
キッパリと言った。
その言葉に、他の皆も途惑いを消し、あるいは隠しただけか、強く頷いて、移住の方向のまま話し合いを続行。
モネは不安ながら、今さら、やっぱり皆のために死んでくれ、などと言われずに済んで、ホッとした。
リュウシンが、モネが人間の世界の出身であるということで、聞いてきた。移住にあたって、竜族全員、ひとりひとりに、必要なものを3つだけ用意してやれるが、何がいいと思うか、と。
モネは、人間たちの中に紛れて生活するならば、と、ちょっと考え、電気・ガス・水道がすぐに使える状態の住居と、職に就いて収入を得られるまでの生活資金として足るだけの人間の世界の通貨、そして、戸籍を挙げた。
承知した、と頷くリュウシン。
カイが、
「服装なんかは、このままで大丈夫なのか? 」
人間たちの中に紛れようとしている以上、出来るだけ目立たないようにしたほうがいいと思うのだが、と、モネに向けて口を開く。
返してモネ、
「服装は平気だと思いますけど、でも、族印は、絶対に隠さないと……」
自分が竜国にやって来て、初めて人々の額の族印を目にした時に思ったことを話した。
それに対し、ナガ、気取った調子で、
「それについては、ワタクシメにお任せを」
上手に隠せる方法に心当たりがございますので、と。
続いて、竜国の人々全員に金湖へ集まってもらうための手順などを話し合う。
*
話し合いを終え、リュウシンは空へ帰り、竜族10人は城の執務棟へ。
話し合いで決まった手順に従い、手分けして各居住地区の地区会長に連絡を取り、パニックを防ぐため事情は伏せたまま、「カイ様から大切なお話しがあるため、明日の夕刻までに金湖に間違いなく全員集まるよう住民の皆さんに知らせてください」との内容を伝えた。
*
各地区会長からの、確かに住民全員に伝えた旨の折り返し連絡を待って、10人が執務棟に詰めているところへ、タムケ商店の方がお見えになりました、と、紺の作務衣姿の男性に通され、夜なのにサングラスをかけた、言っては悪いが、ちょっと、うさん臭い感じの30代後半くらいの男性が、小さめのアタッシュケースを手に、愛想笑いを浮かべながら入って来た。
その男性はナガが呼んだらしく、
「やあ、よく来てくれたね」
言って、笑顔で迎えた。
男性は化粧品屋で、ナガは、族印を隠すのに化粧品を使ったらどうかと考え、男性に相談したのだと言う。
男性からアタッシュケースを受け取り、開けるナガ。
アタッシュケースの中身は、ファンデーションのようなベージュの化粧品が数種類。
「この中の、どれでも隠せるとは思うのですが……」
男性の言葉に、ナガは、試してみよう、と、
「モネ様、モデルをお願い出来ますか? 」
モネに声を掛けてきた。
モネは、え? 私? と、別に驚いたワケでも嫌なワケでもないが、とりあえず反応してから、
(いいけど……)
頷き、
「そこの椅子に、お掛けください」
とのナガの言葉に従い、窓辺の椅子に座る。
ナガは、男性の指導を受けながら、モネの額に化粧品を塗り、
「うん、我ながら良い出来」
満足げに頷いて、男性を振り返った。
男性は、ゴマをするように揉み手をしながら、はい、そうでございますね。
しかし、お世辞ではなかったらしく、すぐ傍で見ていたサナとカイが、感心したように唸った。
「ご覧になられますか? 」
言いながら、ナガは、いつもの胸ポケットの鏡をモネに向ける。
モネは、鏡の中の、族印の無い自分の顔に、
(変な感じ……)
モネに向けられた鏡に、その向きの加減で、窓の外の月が映った。
ナガが、鏡を自分の顔に向けて軽く前髪を直してから、元通り、ポケットに仕舞う。
モネは、窓の外に目をやり、たった今、鏡を通して見た月を、今度は直接眺めた。
……胸がキュッとなるような、ボンヤリとした月。……切ない記憶を呼び覚ます月。……懐かしいような気持ちにさせる月。……もう、見ることのない月。
何だか、信じられない。
竜国に来て、色々なことがあった。
その竜国に、明日の今頃、自分も、誰も、もういない。竜国自体も、遠からず消えて無くなってしまう、なんて……。