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竜の胎教  作者: 獅兜舞桂
7/10

* 7 *


 胸元とスカートの裾にビーズで細かな装飾が施された、袖とスカート部分がフワリと膨らんだ光沢のある水色のドレス。七五三以来の化粧。時間をかけて結った髪。最後に頭の上に、ドレスの色に合わせて水色の宝石が埋め込まれたティアラが、モネのヘアメイクを担当してくれた美容師の手で載せられた。

 ドレスを離れで着て庭園を移動中に引きずって汚すといけないという理由から、今日だけ特別に母屋に用意された控室内、モネは、

(…お姫様みたい……)

姿見の前で右を向いたり左を向いたり、後姿を映して振り返って見てみたり……。

 姿見の中のお姫様は、とても自分だなどと思えないくらいキレイで、

(サナさんに、見て欲しいな……。今日、サナさんも来るのかな……)


 今日は、モネのお披露目の宴の当日。

 モネは、城を抜け出して養生所に行った、あの夜以来、サナに会っていなかった。サナは、いつでも来ていいと言ってくれていたし、宴の日が迫っていて色々と忙しかったとは言え、過密スケジュールのために倒れたことで予定が見直されたこともあり、養生所に出掛けて行って少しサナと会って帰ってくる程度の時間がとれないほどでは、なかったのだが……。

 原因は、カイだ。カイがサナに嫉妬したのだという話を聞いて、何となく、会いに行きづらくなってしまっていたのだ。

(サナさんに、会いたいな……)

などと心の中で呟きながら姿見を眺め続けるモネに、モネのヘアメイクをするのに使用した道具を片付け終えた美容師、

「では、私は、これで……」

言って、控室の出入口へと向かう。

 コリが一緒に出入口まで行き、

「ありがとうございました」

 モネも、姿見の前で出入口のほうを向き、見送る。


 コリが出入口の戸を閉めようとしたところへ、

「あの……」

遠慮がちな、少年の声。

 少しして姿を現したのは、いつか、モネが初めて城に来た時に、最初に出迎えてくれた、モネと同じ年頃の少年。

 少年は、出入口手前で正座し、一礼してから立ち上がり、静かにモネの前まで進むと、もう一度、 頭を下げ、ムタからの用件を伝えた。……以前にも、お話ししました、列席者へのご挨拶を、よろしくお願いします、と。

 モネは、

(は? )

何の話だか、サッパリ分からない。

 少年は、伝えるだけ伝えると、丁寧に礼をして、さっさと出て行ってしまい、モネが聞き返そうとした時には、もういなかった。

(列席者へのご挨拶…って……)

ワケが分からず、ただ、少年が出て行った出入口の戸を見つめるモネ。コリに、

「モネ様? 」

声を掛けられ、言われたモネ本人が分からないものを、コリが分からないだろうと思いながらも、思わず、

「今のって、どういうこと? ですか? 」

聞いてしまう。

 答えてコリ、

「本日の宴の席で、宴にいらして下さった方々に、モネ様から、ご挨拶をしていただきたい、ということだと思います。前もって、そのように、お話しがあったとのことですが……」

そこで一旦、言葉を切り、心配げに、気遣わしげにモネの目を覗き込みながら、

「お聞きになっていらっしゃいませんか……? 」

 聞いていない。ムタと話したことなど、ほとんど無いし、特に、ここ数日は、姿を見掛けることさえ無かった。ムタからの伝言なども、今のが初めてで、ムタさんが私に何の用? などと、驚いてしまったくらいだ。絶対に聞いていない。

(私を困らせようとして、ワザと……? それとも、ただ忘れてただけ……? )

 モネは考え込みかけるが、そんなことより、と、たった今、考え込みかけた内容を、頭の中から追い出す。そんなことより、宴での挨拶で何を話すのか考えなきゃ、と。

(でも、何を言えばいいんだろ……)

宴が始まるまで、あと30分も無い。こんなに急に、どうしよう……、と、困惑する。

 その様子を見てとってか、コリ、

「お聞きになっていらっしゃらないのですね? 」

と、確認。モネが頷くと、モネから、クッと目を逸らし、独り言のように、

「もう、アッタマきた……! 」

呟きながらモネに背を向け、部屋を飛び出して行った。

(コリさんっ? )

突然のコリの行動に、モネは驚き、反射的にコリを追って、顔だけ、出入口から廊下へと覗かせる。視線を、正面から左、そして右へと移動させると、右手側、だいぶ離れたところにコリの後姿。その背中は、かなりの速度で小さくなっていく。

(どこ行くんだろ……? )

一緒に挨拶の言葉を考えてもらおうと思ったのに……、と、そこまで心の中で呟いてから、モネは、ハッと気がついた。

(どこに、って……! )

コリさんが飛び出して行く直前の出来事を考えると、そして、自分が養生所に行った夜の、ムタさんの言葉へのコリさんの怒りっぷりを合わせて考えると……! 

(ムタさんに、文句でも言いに行ったんだ! )

 これはいけない、と、モネは、ドレスの裾をひきずらないよう、両手でスカート部分を持ち上げ、既に見えなくなってしまったコリを追って、右手側へ走った。

(コリさんって、時々、激しいよね……。でも、この間も、そうだったけど、どうしてコリさんが怒るんだろ……)

考えながら走り、途中で、考えているために走る速さが少し遅くなっていることに気づいて、今は必要の無い考えを振り払うべく、頭を強く横に振った。

(とにかく、今は、コリさんを止めないと……! )

私が原因でクビになられても、本当に困るし……。


 廊下を、ひたすら真っ直ぐ走って行くと、突き当たって左に折れる。左に折れてすぐ右側は、カイが普段、公的な事務を執る、執務棟につながる引き戸。モネは一度、その戸の前を通り過ぎたが、コリのものらしい声を聞き取り、引き返した。

 戸をそっと細く開け、中を覗くモネ。と、すぐ目の前に、ムタに詰め寄るコリの横顔。

(遅かった! )

 コリが口を開く。

「お兄さんっ! 」

(…お兄さん……? )

コリが発した言葉に、モネは首を傾げた。

 ムタが面倒臭そうに返す。

「何を、そんなに怒ってるんだ、お前は」

(…お前呼ばわり……? )

ムタの言葉に、モネは、またまた首を傾げる。

(この2人って、兄妹……? )

そういえば、雰囲気は全然違うけど、顔立ちなんかは似てないこともないかも……。

(兄妹なら、大丈夫かな……)

 しかし、何となく、その場を離れられず、見つからないよう息を潜めて、あまりにも近過ぎる距離から見守り続けるモネ。

 距離が近いため、コリの内からフツフツと沸き起こっている怒りが、モネにも伝わってくる。

 コリは呻くように、

「怒って当然でしょう……? 自分の仕えるお方を侮辱されて、怒らない人がいますか? モネ様を侮辱することは、私を侮辱するのと同じことです! 」

 モネは驚いた。コリの中でモネの占める割合の高さに……。中を占めている、と言うより、コリ自身と一体のようにも……。だから、この間の夜のムタの言葉も、今日の宴の挨拶の件も、自分のことのように本気で怒ったのだ。少し重いが、嫌な気はしない。むしろ、

(私のこと、そんなふうに思っててくれたんだ……)

と、嬉しく、感動すら覚えた。同時に、コリがムタに突っ掛かっていこうとしたことについて、純粋にコリの心配をしたのではなく、その事で、もし失業でもした時に、自分のせいにされては困る、といった感覚で、結局自分の心配ばかりをしていた自分を、恥じた。

 熱く語るコリを、ムタは、せせら笑う感じで、

「お前は、侍従の鑑だな。どんな相手でも、主人は主人、というワケか? 」

 返してコリ、

「お兄さんは、モネ様のことを、何か誤解なさってるのではないですか? ほとんど、お話もされたこと無いのに、嫌ったりして……。モネ様は、とても素敵な方です」

 コリの言葉に、モネ、

(…素敵……? )

ひとり、照れる。

(ど、どこがだろ……? )

何だか、体中がムズムズする。

 ムタは、スッと小馬鹿にした笑みを消し、

「私は誤解などしていないし、嫌っているつもりもない。邪魔なだけだ」

真面目に言い放った。

 モネは、よくもまあ、そんなにハッキリ言えるものだと呆れながら、嫌いと邪魔とは、どう違うのだろう、と考え込んだ。それによって、照れからくるムズムズが治まる。

 ムタは続ける。

「お前が、キチンと自分の役目を果たしさえすれば、私にも、モネ様に親切に接する用意はある」

(役…目……? )

モネは、その一語に引っかかりを感じた。

(役目、って、何……? )

私の世話なら、コリさんは、すごく、しっかり焼いてくれてるけど、それじゃなくて……? と、モネは、頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、一言も聞き逃さないよう、耳を澄ます。

 コリは、顔を真っ赤にし、カッと目を見開いて、

「役目って、何ですかっ? 私の心の問題です! 心の中にまで、土足で踏み込まれたくありませんっ! 」

悲鳴のような声。

 対するムタは、あくまで冷静。

「分かってるようじゃないか……。私は初めから、それだけのために、お前を、こっちに呼び寄せた。無理なら、田舎に帰るか? 私は、それで構わない。代わりにチリを呼ぶことにしよう。お前は帰れ」

 聞いても聞いても、モネには、全く話が掴めない。ただ、コリが辞めさせられそうになっていることだけは分かるし、

「…そ…んな……」

呟きながらスウッと青ざめ、

「帰るなんて、嫌です! それだけは、許して下さい! 」

そう涙声になってムタに取り縋るコリが可哀想で、また、途中で大幅に話が逸れたようだが、もとはと言えば、自分に味方してムタに文句を言いに行ったところから始まっているため、責任を感じて、止めに入ろうかどうか悩んだ。ずっと盗み聞きしていたと知られることはバツが悪いが、このままではコリが可哀想。モネが、自分の世話をしてくれるのはコリでなければ嫌だと言えば、コリは辞めなくて済むのではと思えた。

 そこへ、

「モネ」

後ろから突然、声が掛かった。

「どうした? 」

 モネがギクッとしながら振り返ると、黒の燕尾服でビシッとキメたカイがいた。

 モネは、盗み聞きしていたことが後ろめたく、

「…あの…コリさんが……」

戸の向こうを気にしながら、言葉を濁す。

 それを受け、カイは、今までモネが覗いていた戸の隙間から中を覗く。

 モネも、遠慮気味に、カイの下の位置から再び覗いた。

 コリは、ボロボロに泣き崩れて、床にうずくまってしまっている。

 カイが、

「分かった。オレに任せろ」

短く言って、戸を普通に開け、中に入って行った。

 開け放たれた戸から、中は丸見え。モネは、何となく、その場に居づらく、中の様子が見える位置で、そのまま後ろにさがり、距離をとった。

「どうかしたのか? 」

カイが、ムタに声を掛ける。

 ムタ、

「カイ様……」

頭を下げてから、

「コリが失態をいたしまして、注意していたところです」

「コリがか? 珍しいな」

言って、カイは、コリのほうに目をやり、

「こんなに泣くまで注意しなければならないほどの、大変な失態なのか? 」

 カイの問いに、ムタは目を伏せる程度の礼をし、

「いえ、些細な事でございます」

 それを受け、カイ、ムタに視線を戻し、

「ならば、もう許してやれ。妹であればこそ厳しく指導したいと思うお前の気持ちも、分からなくもないがな」

 ムタ、もう一度、浅く礼。

「カイ様が、そう、おっしゃられるのなら」

 カイは軽く頷き、コリの正面に移動。身を屈め、コリの両肩に、そっと手を添え、立ち上がらせた。

 思いやり溢れる目でコリを見つめ、カイ、

「コリ、大丈夫だ。誰にでも失敗はある。次から気をつければいい」

 コリは、はい、と小さく返事する。

 カイは、一度、大きく頷いて見せ、

「モネが捜していたぞ? 急いで行ってやってくれ」

 コリはカイに一礼し、袖で涙を拭いながら、廊下へと歩いて来る。まだ、モネの存在に気づいている様子は無い。

 モネは咄嗟に頭を巡らし、立ち位置を戸の正面から微妙にずらし、廊下を歩いている最中のように体と視線の向きを変え、偶然にその場を通りかかったふうを装った。


               *


 コリに手伝ってもらい、モネは何とか、宴の開始時刻前に、列席者への挨拶の言葉を紙にまとめ終えた。

 さすがに暗記する時間は無かったため、コリに相談の上、紙に書いた文章を、そのまま読み上げることにした。


「モネ様、お時間です」

 宴の進行を補助する係らしい桃色の作務衣姿の中年女性が、モネを控室まで呼びに来た。モネは挨拶の言葉を書いた紙を手に、コリに付き添われ、中年女性の後に従って、宴の間へと歩いた。

 宴の間は、一言で言ってしまえば、学校の体育館のような造りの部屋。緞帳で仕切ることが出来るようになっている舞台と、そこより1メートルほど低い位置にある広いフロアから成っている。

 モネとコリは、舞台に通じる入口の前で中年女性と別れ、その入口を入った。

 入口を入ると、薄暗い。すぐ左側に、厚手の上品な光沢のあるクリーム色のカーテンが幾重にも掛けられ、フロアからの光を遮っているためだ。

 入って正面、カーテンの無くなる境の、ギリギリ、カーテンに隠れる位置に、カイの背中。その向こうには、舞台中央に立ち、列席の人々がいるはずの、モネのところからは見えないフロアに向かい、眩しい照明に照らされマイクを握って何やら喋っているムタ。

 カイが、モネたちの小さな足音を聞きつけてか、振り返り、小声で、

「もうすぐだ」


 ムタが、握っていたマイクをマイクスタンドに戻し、モネたちのほうを向きながら、後ろ歩きで、向かい側のカーテンの手前、遠慮がちに置かれた、もう1つのマイクスタンドの所までさがった。

 カイに、

「行くぞ」

手招かれ、モネはカイのもとへ。

 カイは、左手で、そっとモネの右手をとり、照明の光の降り注ぐほうへ、ゆったりとした音楽が控えめな音量で流れる中、足を踏み出す。

 ゆっくりと歩を進めるモネの視界の隅、左手側の、モネが今、歩いている場所より1段低くなっているフロアに、大勢の人がいるのが映った。広いフロアの、モネ側から見て手前半分を埋め尽くすように立ち、一様にモネを見つめる、キチンとした身なりの男性たち、華やかなドレスの女性たち……。

(何、この人数? )

ざっと、300人はいる。

 モネは思わず固まった。こんなに大規模な宴だとは思っていなかった。背中の中央を嫌な汗が一筋流れ、足が震える。クラス委員などやっていたから、人前に出るのは慣れているつもりでいた。しかし、見知らぬ人ばかり、こんなに大勢、しかも、その人たちが皆、おそらく、それなりの興味を持って、自分を見ているとなると……。

 カイに、

「モネ」

小声で呼びかけられ、モネはハッと気がつき、震える足を何とか励まして、転ばないよう注意深く、カイに導かれるまま、舞台中央、マイクスタンドの後ろに位置する2つ並んだドッシリとした椅子のうち左側の椅子に腰を下ろした。

 カイは一旦、モネの右側の椅子に座ったが、舞台隅に立つ、司会であるムタからの紹介を受けて、すぐに立ち上がり、中央のマイクの前に立つ。

 カイの次がモネの番だ。モネは緊張から、カイの喋っている内容がまったく頭に入らなかった。

(こんなにたくさんの人たちの前で、話さなきゃいけないなんて……)

 震えは、足だけでなく、手にまできていた。きっと、今、口を開けば、声も震えている。モネは、何とか落ち着こうと、周囲に気づかれないよう、そっと深呼吸を繰り返した。

(大丈夫、紙に書いてあることを読むだけなんだから……)

そう自分に言い聞かせる。

 と、

「モネ」

カイの小声が掛かった。

 ハッとし、見れば、隣の椅子にカイが座っており、舞台の隅ではムタがマイクを握ったまま、無言で、モネに、いつもの冷たい視線を浴びせている。会場中の視線も、モネに集中。既にカイの番が終わり、ムタによるモネの紹介も済んでいるのだと気づき、モネは、慌てて立ち上がった。

 焦りすぎて転びそうになりながら中央マイクの前に立ち、フロアの人々に向かってお辞儀をしてから、強く握りしめてしまっていたためにシワシワになってしまった挨拶の言葉の紙に視線を落とし、読み上げる。まず最初に、宴に来てくれたことへのお礼。次に、簡単な自己紹介。それから、カイが竜国について自慢していたことは他の人たちにとっても自慢だろうとの考えから、カイが自慢していた物を片っ端から褒め、最後に、まだまだ分からないことばかりで至らない点も多いかと思いますので、その時は、よろしくご指導下さい、と、締めくくった。

 最初から最後まで、モネは緊張から、ひたすら紙の上の文字を追い、一度も目の前の人々をまともに見ることは出来なかった。

 言葉の書かれた紙を持つ手を下ろし、深くお辞儀をしてから、椅子に戻る背中で拍手を聞き、モネは、ホッとする。とりあえず、終わった、と。この後は、もう、モネだけが注目されるところは無い。

 モネは、椅子に深く腰掛け、落ち着く。と、人々の最前列でモネを見つめている、黒の燕尾服姿のサナと目が合った。

(サナさん……)

 白衣姿以外のサナを見たのは初めてで、何だか新鮮で、少し照れる。

 サナは、フッと優しく笑んだ。 


 舞台側を前方とした時の、フロア後方入口から、グラス入りの飲み物各10杯ほどを載せた盆を手にした、男性紺、女性桃色の作務衣姿の男女30人ほどが入って来、列席の人々の間を縫って歩いては、1人につき1つずつ、グラスを勧め、盆が空いた人から退場していった。

 列席の人々全員にグラスが行き渡ると、ムタから紹介を受けて、他の男性たちは皆、黒の燕尾服なのに、1人だけ非常に目立つ銀色の燕尾服を着たナガが、舞台に上がり、中央のマイクで乾杯の音頭を取った。


 乾杯を境に、静まり返っていた会場はザワめき始めた。

 フロアの人々は、会場後方に用意された立食形式の食事を楽しんだり、そのまま前方に留まって会話に忙しそうだったり……。

 さっき飲み物を運んできた作務衣の男女30人も、飲み物や料理を新しく運んで来たり、空いた食器を片付けたり、切り分ける必要のある料理を切り分けたりと、動き回っている。

 そして、フロアから舞台に上がるための階段前には、何やら列が……。その先頭は、ナガ。乾杯の後、急いで舞台から下り、真っ先に並んだのだった。その後ろはサナ、続いて、初めにサナの後ろに並んでいた男性に譲ってもらい、シイ。

 何の列だろう、と、モネが首を傾げていると、カイのすぐ脇に移動して来たムタにマイクで呼ばれ、先頭のナガが舞台へ上がって中央へと進み、モネとカイのほうを向いて片膝をついて、頭を垂れた。

 ムタが口を開く。

「既に面識が、おありのはずですが、風族ふうぞくの長・ナガ様です」

 紹介されたのを受け、ナガ、顔を上げて甘く笑み、

「お久し振りです、姫。以前お目にかかった時にもお美しかったですが、今日はまた、一段とお美しい。あまりに眩しすぎて、ワタクシなどは直視することが出来ません」

(…見てるじゃん、真っ直ぐ……)

 以前会った時にもそうだったが、本当に、この人は、どうして、こんな歯の浮くようなセリフをスラスラ言えてしまうんだろう、と、他の人に言われれば照れもするだろうが、既にモネの中で、ナガとは、そういう人、となってしまっているので、モネは半ば感心し、半ば呆れる。

 と、隣から、カイが小声で、

「モネ、何か一言返せ。この場は、そういうものだ」

(あ、そうなんだ……)

モネは急いで頭を働かせ、

「あの、えっと……、この間は、お世話になりました」

 モネがサナの養生所で目を覚ました、あの日、最初にモネの族印に気づき、城に連れて行こうと言い出したのはナガだった。ナガがいなければ、大変なことはあるにはあるが、こうして落ち着けている、今の生活は無かったかも知れない。そう考え、礼を言う。

 返してナガ、

「もったいない、お言葉です」

頭を垂れた。 

 ムタが、ナガの次に並んでいたサナを呼ぶ。

 ナガは立ち上がり、もう一度お辞儀をしてから舞台を下りた。

 代わって、サナが舞台へ。

(サナさん……)

モネは再び少し照れ、俯いた。

 サナは、ナガと同じように、モネとカイの前で片膝をつき、頭を垂れる。

 ムタが、

水族すいぞくの長・サナ先生です」

サナを紹介。

 サナ、顔を上げ、

「その後、お体の調子はいかがですか? 」

 モネは、まだ照れたまま、カイのほうをチラリと気にしてから、

「……はい、大丈夫です」

「そうですか。それは良かった」

 サナは穏やかな笑みを見せてから、再び頭を垂れた。

 モネは、サナとは、もっと話をしていたかったのだが、ムタが次の順番のシイを呼ぶ。もっとも、モネは今、サナと話すのに、自分の隣に座っているカイの目を気にしながら話していた上に、久し振りに会うからなのか、サナが見慣れない燕尾服など着ているためなのか理由はハッキリしないが、今日は何となくサナと目を合わすのが恥ずかしく感じるため、このくらいで丁度よかったのかもしれないが……。宴開始前には、あれだけ、サナにドレス姿を見せたいと思っていたくせに……。

 サナが立ち上がり、もう一度お辞儀をしてから舞台を下りる。

 代わってシイが舞台に上がり、モネとカイの前で片膝をついて頭を垂れ、ムタからの紹介。

地族ちぞくの長・シイ様です」

……と、そんなふうにして、シイの次は各種族の副長、続いて各居住地区会の三役、と、1人につき持ち時間20から30秒くらいで入れ代わり立ち代わりモネと短い会話を交わす。階段前の列が短くなってきたかと思うと、それまで食事をしていた人々や列席者同士の会話に忙しそうだった人々が新たに並び、結局、モネは、2時間半くらいの時間を、列席者と短い会話を交わすことで過ごした。

 階段前の列が無くなり、モネは、ホッと、小さく息を吐く。結構、大変だった。返す言葉は、ほとんどが、ありがとうございます、か、よろしくお願いします、で間に合ったが、その、同じ言葉の繰り返しが、逆に、最後のほうでは、自分で口にしていて違和感を覚えるようになり、本当に正しく相手の言葉に合った受け答えが出来ているのか不安になった。


「皆様、お待たせいたしました。竜国舞踊が始まります」

 舞台隅からのムタの言葉に、フロア前方にいた人々は後方へ移動し、前方を空ける。

 フロア前方入口から、見覚えのある三原色プラス黒・金・銀の派手な衣装を纏った10名ほどの人々が、それぞれ、楽器と椅子を手に入って来、隅に陣取った。竜国舞踊団の人たちだ。

 照明が薄暗く切り替わる。それまでの、ゆったりとした音楽が途切れ、代わって、隅に陣取った舞踊団の楽器担当の人たちが演奏開始。地を這うように低く腹の底に響く、大音量の太鼓の連打。それに合わせて、フロア前方入口から、楽器の人たちとお揃いの衣装の踊り担当の人たちが、やはり10名ほど、フロア前方中央まで、いっきに駆け込んで来、力強く激しい、アクロバティックなダンスを始めた。

 ムタは確かに、竜国舞踊、と言っていたのだが、モネが習ったものとは全く違う。そう小声でカイに言うと、カイも小さな声で教えてくれた。竜国舞踊は、竜国建国を記念して作られた、竜族の歴史を音楽と踊りで表現した四部構成のもので、今、踊られているのは、竜族の誕生を表現した神話的色合いの強い第一部。モネが習ったのは、建国の歓びを表現した第四部だ、と。

 説明を受けて納得したモネは、舞踊を舞台上の椅子から眺め、楽しむ。多分、踊っている人たちと同じ高さから観るより、高いところから観るのに向いている踊りなのかな、といった感じがした。

 迫力のある第一部。竜族の人間の世界での生活を表現した、もの悲しくも穏やかな第二部。誤解から人間たちに攻撃される、怒りと悲しみの第三部……。

「モネ姫」

第三部が終了して暗転した直後、舞台の袖から、小さく声が掛かった。ナガだ。

 ナガは舞台に出て来、モネの前に片膝をついて、気取った調子で、

「モネ姫様、次の第四部、ワタクシメのお相手をしていただけないでしょうか? 」

 モネはカイに目をやり、無言で意見を仰いだ。

 カイは頷き、

「行ってこい」


 ナガに右手を預けたモネが階段を下り、フロア前方中央付近まで歩いたところで、ガシャーン、と、シンバルのような派手な金属系の音。それが合図、といった感じで、これまでの第一・二・三部の時に比べ、極端に明るい照明がつく。いつの間にか、フロア後方にいた列席の人々が、全員と思われるほど大勢、前方に移動してきていた。

 聞き覚えのある、テンポの速い明るい曲が流れる。

 大勢の人たちの中に紛れ、他の人にぶつかりそうになりながら、クルクルクルクル、ナガのリードで、モネは、練習の時に比べ極端に小さな動きで踊る。

 クルクルクルクル、踊りながらナガ、

「何か、特に楽しいことには、なってないですよね」

口を開く。

 唐突すぎて、

(? )

何の話だか、全く分からないモネ。

 ナガは続ける。

「僕は、アナタが現れたことで、城の中が……もっとハッキリ言えば、カイ様やムタの立場が揺らぐんじゃないかって、期待してたんですけど。……だって、もし、カイ様に王族の族印を持つ子供が生まれる前に、カイ様に何かあったら、次に王族の長の座につくのは、アナタなんですよ? 」

(? 次の王族の長、なんて、考えたこともなかったけど……。でも、うん、普通に考えれば、他に誰もいないんだから、私だと思う……けど? )

モネは、やはり、ナガが何を言いたいのか分からない。

(だから、何? )

「王族の長になりたいとは思いませんか? そのために、何か、行動を起こそうとか……」

(……全然)

と、モネは心の中でキッパリと答えた。だって、何かあったら、って、それって、どう考えたって、カイさんにとって不幸なことでしょ? カイさんの不幸なんて望まないし、そもそも、王族の長には、本当に、本気で、絶対に、なりたくない。カイさんを見てて、すごく大変だって分かってるから……。まあ、万が一カイさんに何かあって、その時には、仕方ないって諦めるけど、と。

(…王族の長になりたいと思わないか、なんて発想が出てくるって、ナガさんから見て、王族の長って、いいモノに見えてるのかな……? )

 ナガは、

「…つまんないなあ……」

遠い目になる。

 モネは、ナガを、ちょっと警戒心を持って見つめた。他人の不幸を望むような話を持ちかけてくるなんて、もしかして、この人って 危険な人? と。

 モネの、そんな視線に気づいてか、ナガ、ナガらしい甘い笑みを作り、

「お気になさらなくて結構です。揺らがせてどうこうというワケではなく、ただ、見て楽しみたかっただけですので」

(見て楽しみたかった? 人の不幸を、わざわざ? )

モネには、ナガの感覚が全く理解出来ない。

 スッキリしない気分を抱えたまま踊り続け、第四部が終わった。

 相手をしてくれたことに対しての礼を言いながら、ナガは気取って一礼。

 モネも、何ともスッキリしないまま、こちらこそ、と返す。

 直後、ゆっくりとフロア後方へと向かう人波にのまれ、ナガの姿は見えなくなった。


(ま、いっか……)

モネは小さく息を吐きつつ、心の中で、そう呟いて、スッキリしない気分を消化してから、舞台のほうへ歩こうとする。

 しかし、速度がゆっくりだとは言え、他の人たちの進行方向が自分とは逆方向なため、思うように進めない。

 と、その時、誰かが、グッ、と強引に、モネの手を掴んだ。

(! )

モネは驚いて、その手を見、そこから繋がる腕を辿って、その手の主を仰いだ。

(サナさん……)

 サナだった。

 サナは気遣わしげにモネを見、

「大丈夫? 席に戻りたいんだね? 連れてってあげるよ」

 モネは、咄嗟に舞台に目をやる。……カイの姿は無い。ホッとして、ものすごく照れながらもサナに甘え、連れてってもらうことにした。

 大きくて温かなサナの手。心が温かくなっているとハッキリ感じるのに、何故か落ち着かない……不思議な感覚。ずっと、このまま手をつないでいられたらいいのに、と、モネは、少し切なくもなった。

 サナは、器用に人々の間をぬって歩きながら、

「ドレス姿、素敵だね。よく似合ってるよ。他の人たちも、モネのこと、初々しくって可愛らしい姫様だって、褒めてたよ」

(サナさん……)

 ストレートに褒められて、モネは嬉しいが、どうしようもなく照れくさく、俯く。

 そして、ほんの少し照れが治まり、顔を上げた瞬間、

(! )

モネは思わず足を止めた。いつの間にかカイが舞台上にいて、こちらを見ている。

 モネは慌ててサナの手を離そうとしたが、急ぎすぎて、少し乱暴に、振り払うような感じになってしまった。

 驚いた様子のサナ。

(あ……)

 モネは、手を振り払うように離したことで、サナが気を悪くしたのではと思い、何とか取り繕えないかと作り笑いをし、

「あ、あの、ここまでで大丈夫ですから……。ありがとう……」

 サナは怪訝な表情。

 しかし、サナのその表情より、今はカイが気になり、モネは、サナを見ながら後ろ歩きで舞台のほうへ進みつつ、もう一度、

「ありがとうございました」

言って、舞台のほうへ向き直り、舞台を目指した。


 サナと別れた地点より、ほんの2メートルくらい先からは、もう、人はまばらだった。モネは一旦、立ち止まり、小さく息を吐いた。

(何か、ノド渇いた……)

 と、モネの真横数メートルに位置する、開け放たれた状態のフロア前方入口の向こうの廊下を、後方入口を目指しているらしい、グラスに入った飲み物を盆に載せて通過している、作務衣姿の男女の列が目に留まる。

(もらって来よ……)

 モネは入口へと歩き、廊下を覗いて、丁度、モネの前を通り過ぎようとしていた女性を呼び止めた。

 女性は列から外れ、モネのすぐ前まで来た。

 モネは、女性の運んでいたオレンジジュースをもらい、すぐ、その場で、いっきに飲み干す。

 女性が小さく、明らかにモネの行動に対して、あっ、と声を上げた。

(? )

モネは、女性のその反応に、軽く首を傾げながら、空いたグラスを女性の盆の上に返し、

「ごちそうさまでした」

言って、舞台へ向かうべく踵を返す。

 途端、クラッと、めまいを感じた。疲れたからだと思い、早めに座ろうと、歩調を速める。直後、うっかり、ドレスの裾を踏み、

(! )

派手に転んでしまった。

 モネは恥ずかしくて、笑みを作りながら、転んじゃった、転んじゃった、と、独り言を言い、腕を突っ張って起き上がろうと、床に両手のひらをついた。が、視界は大きく揺れ、腕にも、思うように力が入らず、

(……? …何か……どうしたんだろ……? どう、しよう……)

そのまま突っ伏す。耳に何か詰まっているように、全ての音が遠い。

「モネ! 」

カイの声。体を、仰向けに動かされる。視界が揺れていて自信が無いが、カイらしい顔が覗いた。

「…あの……、申し訳ございません。多分、私が運んでいたお酒を、一息に、お召し上がりになられたせいかと存じます。お酒だと、ご存知なかったのかも知れません。キチンと、お酒ですと、お伝えするべきでした」

誰のものか分からない声が、オロオロした感じで話す。内容からして、モネが口にしたオレンジジュースを運んでいた女性の声だろうか。

(そっか……。あれ、お酒だったんだ……)

色も味も香りも、オレンジジュースそのもので、全く気づかなかった。

「いい、いい。気にするな」

カイの声が返す。

 そこへ、

「いかがなされましたか? 」

サナの声が聞こえた。

 モネは、

(ヤダ……、来ないで……)

 お酒を飲んで、こうなった。酔っ払って、立てないでいるのだ。多分、自分は今、とても、みっともない姿をしている。

(こんな姿、サナさんに見られたくない……)

 カイが、酒を飲んで倒れたのだと説明すると、サナ、

「とりあえず、お部屋へ運びましょう」

 背に、憶えのあるサナの腕の感触。モネは半身起き上がらせられる。

(ヤダ……。お願い、どっか行って……)

 モネの、祈りにも似た強い思いが、神様にでも通じたのか、

「いや、いいよ。オレが運ぶ」

カイの声とともに、サナの腕の感触が消え、代わって、感触に憶えの無い腕に支えられた。モネは、少しホッとする。

「いえ、私が運びましょう」

今度は、ムタの声。

「主役であるモネ様が、このような状態になられた今、カイ様にまで、お席を外されるわけにはまいりません。よろしいですね? 」

 また、腕が変わった。話の流れからして、ムタの腕だろう。……有難い。こんな時は、自分のことを嫌ってる(ムタの言葉に置き換えれば、嫌っているのではなく、邪魔なだけ、ということだが)くらいの人物が職務に徹する形で、というのが一番いい。もともと嫌われているのだから、今さら、みっともない姿をさらすことで、どう思われるかなどと気にする必要が無く、仕事だから、無責任に、その辺に放り出される心配もないから……。

 体が宙に浮き、揺られる感覚。

「モネ様! いかがなされたのですかっ? 」

コリの声がする。

 ムタの声が、お酒を召し上がられて倒れられたのだ、と説明し、先に離れに行って布団の用意をするようにと言う。


 ムタによって運ばれること数分。急に周囲が静かになり、明かりの眩しさも無くなり、心地よく冷たい空気が頬を撫でる。外に出たらしい。

 真上から、大きく息を吐く音と、

「まったく……」

ムタの声。

 きっと今、ムタは、これまでの中でも最冷級の目で、自分を見下ろしているに違いない、と、モネは思った。視界がボヤけていてよかった、と思った。そんな視線をまともに受けたら、内臓まで凍りついてしまう。

 と、そこへ、

「ムタも忙しいでしょ? あとは僕が運ぶから、戻っていいよ」

突然、サナの声が聞こえ、驚くモネ。

(サナさん、いたの……)

 ショックだった。ムタしかいないと思い込み、安心しきって、余計に、みっともない姿をさらしてしまっていたような気がする。

 サナの申し出に、ムタは、待ってましたとばかり、

「そうか? 悪いな」

即座に答えた。

 モネは、まるで荷物でも渡すかのように、ドサッと、愛情のカケラも無く、ムタの腕からサナの腕に移される。

(そんな……)

ムタさん、一度引き受けた仕事は責任を持とうよ……、と、モネは思った。

 キチンと気遣ってくれているのが伝わってくるサナの腕の温かさが、今のモネには、何とも居心地悪い。

 みっともない姿を見られて恥ずかしいわ、重いだろうと考え、申し訳ないわ、さっきドレス姿を褒めてもらえたばかりなのに情けないわ、手を振り払うように離してしまったことについても、ちゃんと事情を説明したいのに声は出ないわ、でも、そのためにモネがサナと接する際にカイの目を気にする理由など話せば、優しいサナのことだから、カイに気を遣ってモネと距離を置いてしまうかも知れず、それは絶対に嫌だと思ったりで、もう、頭の中はグシャグシャ。色々な思いが頭を巡る。


               *


 ふと気がついた時、モネは、薄暗い部屋で横になっていた。いつの間にか、眠ってしまったらしい。

 見慣れた天井。自分の寝室だ。

 腕や脚、首元の感覚から、パジャマに着替えさせてもらって布団の中にいるのだということが分かる。

 すぐ脇にコリが座り、前屈みになっている姿が視界3分の1を遮っているが、モネの顔を覗き込んでいるワケではない。何かに集中している様子で、目が合わない。

(…コリさん……? )

 その時、コリが座っている側のモネの顔の横で、何かが、天井の蛍光灯の所についている、この薄暗い部屋にあって、今、唯一の明かりであるナツメ球の、赤みを帯びた弱い光を反射した。

(? )

モネは、目だけを動かして、その何かを確認し、

(! )

固まる。

 カミソリだった。そのカミソリは、コリの右手の中に握られている。コリは、カミソリに集中していたのだった。

 まさか……と、モネの脳裏を、ある場面がよぎる。

 その場面は、宴の挨拶の件でコリがムタに文句を言いに行った際、ムタがコリに、自分の役目を果たせと言っていた場面。

(コリさんの役目って、こういうこと……? …私を、殺すの……? でも、ムタさんは、コリさんが役目を果たしさえすれば、私に親切に接する用意があるって言ってたよね……? 死んじゃったら、親切にしてもらうことなんて出来ないけど……)

でも、もしかして……

(親切丁寧に弔ってくれる、っていう意味? )

 モネは、

(どうしよう! )

頭の中が真っ白になりかけたが、何とか自分を励まし、

(逃げなきゃっ! )

思考を保った。

(…でも、どうやって……? )

一生懸命、考えを巡らすモネ。

 顔のすぐ横にはカミソリがあるが、コリは、まだ、モネの目が覚めていることに気づいていない様子だ。

(…カミソリと反対方向に転がってカミソリとコリさんから距離をとって起き上がって、母屋まで逃げられれば……)

 今、何時なのか分からない。もしかしたら、もう宴はお開きになって列席の人々は帰り、カイも、他の、城勤めの人々も、皆、眠っているかもしれない。……不安材料は、数え上げれば、きりが無いが、

(でも、眠ってるなら、逆に、カイさんは絶対に母屋にいる。カイさんを起こして、助けてもらおう! )

モネは、そう、結論を出した。

(出来る? )

 速く走るのは、もちろん、起き上がるまでの全ての動作も、素早く行わなくてはならない。モネは、今の今まで、酔っ払って寝ていた。

(大丈夫っ? 私! )

 酔っ払いの自分が、頭の中で考えたとおりのことが実行できるか。それが最大の不安材料。だが、そんな、不安がっている場合じゃない。やるしかない。

 モネが、腹にグッと力を込め、いざ実行! ……と思った、その時、コリと目が合った。目覚めていることを、気づかれてしまった。

「モネ、様……」

コリは大きく目を見開き、酷く驚いたような、掠れた声で呟く。

 モネは、目の前が真っ暗になったのを感じた。

 と、そこへ、

「コリ、モネの具合は……」

言いながら、カイが襖を開けて入って来、後ろ手で襖を閉めたところで、コリの手のカミソリを見つけてか、絶句。一瞬、固まってしまったが、即座に、ハッと我に返った様子で、コリの、カミソリを持つほうの手にとびつき、

「何やってんだっ! 」

手首を掴みあげてカミソリを奪い取り、部屋の隅へ投げ捨てる。

(カイ、さん……)

ホッとし、いっきに力が抜けるモネ。

 カイ、コリの手首を掴んだまま、モネを見、

「モネ、大丈夫か? 」

 モネは、何度も何度も頷きながら、上半身起き上がった。

 カイは、大きくひとつ、息を吐いてから、今度は、真っ直ぐにコリを見据え、

「これは、どういうことだ? 」

 コリは、あ、あ……、と、掠れた声を漏らし、震えながらカイを見つめ返す。

「どういうことかと聞いている! 答えろ、コリっ! 」

声を荒げるカイ。

 コリは、

「髪、を……」

掠れた声を絞り出すように、

「…モネ様の髪の毛を、いただきたくて……」

(か、カミノケ……? )

ワケが分からないモネ。

(カミノケ、って、頭に生えてる、髪の毛のこと……? )

 カイも、

「は? 髪? 」

ワケが分からないといった表情を見せながら、姿勢を変えようとしたのか右足を動かし、直後、

「つっ! 」

短く叫んで顔を歪めた。何か踏んだらしい。

 その足下には、1冊の厚めの本。

 カイは、コリの手首を掴んだまま身を屈め、その本を、空いているほうの手で拾い上げた。

 見覚えのない本。モネの物ではない。

 カイは表紙を見、

「……まじないの本? 」

呟いて、モネを見、

「モネのか? 」

モネが首を横に振ると、コリに目をやり、

「じゃあ、コリのか」

本を持つ手の小指で器用に電気のヒモを引っ掛けて引っ張り、明かりをつけた。

 本の上部から、付箋が1枚、覗いている。

 カイは、片手で付箋のページを開いて、本に視線を落とし、

「『特定の人物を嫌わせる方法』? 『使用する物。酢・5ミリリットル、白い木綿のハンカチ・1枚、嫌わせたい人物の頭髪・3ミリグラム』? 」

読み上げてから、再びコリを見、

「髪って、これに使うのか? 」

 コリは俯き、頷く。

「誰に、モネを嫌わせるつもりだった? 」

 続けてのカイの問いに、コリは言いづらそうに、

「…カイ様、です……」

答えてから、手首を握る力が弱くなっていたカイの手を、バッと払い、正座し、畳に手をついて、低く低く、頭を下げた。

「申し訳ございません! カイ様! モネ様! 」

 カイ、

「…どうして、こんなこと……」

呟いてから、半ば呆れた調子で、

「って、そもそも、こんなものが、本当に効果あると思うか? 」

 コリは身を起こし、しかし、顔は俯いたまま、

「…おかしいですよね? この歳で……。笑われても、仕方ありません……。でも、私は、こんなものに頼るしかないんです」

ぽつりぽつりと、言葉を紡ぐ。

「…私は、ずっと……、まだ、先代の王族の長……カイ様のお父様がご健在の頃より、カイ様を、自分のお仕えする方としてでなく、ひとりの男性として、お慕い申し上げておりました」

(コリさんが、カイさんをっ? )

モネは驚いた。

(そりゃ、カイさんは悪い人じゃない……。どちらかと言えば、いい人だとは思うけど……)

でも、コリさんほどの女性なら、カイさんよりも、もっと素敵な人とだって付き合えるはずなのに……、と思った。

 カイも、驚いた表情。

 コリは俯いた状態で続ける。

「私はただ、カイ様のお傍で、カイ様の身の回りのお世話をさせていただけるだけで幸せでした。…ですが、この度、モネ様がいらして、私はカイ様の担当をはずされ……。それが、カイ様のご希望によるものと聞かされ、モネ様に一生懸命尽くすことがカイ様の御ためになるのだと自分に言い聞かせて頑張って参りましたが、辛くて……。カイ様がモネ様を気にかけられているのを傍で見ているのが、本当に辛くて……。それを辛いと感じてしまう自分が醜いものに思えて、余計に辛くて……。…とても、羨ましかったんです……。モネ様が、お城を抜け出してサナ先生のところへ行かれた夜、カイ様は、非常に取り乱されていて……。お傍にいられるだけで幸せと思っていたはずなのに、自分も、あんなふうにカイ様のお心を乱して、ぶたれてみたい、などと……。私などが、モネ様に敵うはずもございませんのに……。あまりに辛くて、もう、お2人に離れていただくしかないと……。そのために、カイ様かモネ様どちらかに、お相手を嫌っていただくしかないと……。まじないなど、効かないことくらい分かっています。それでも……。何て、醜いのでしょう……。どうぞ、笑ってください……」

 最後は消え入るように、それから、一度、息を大きく吸って吐くと、思いきったように、コリは顔を上げ、モネとカイの顔を交互に見つめた。

「カイ様、モネ様、今まで、お世話になりました。私は、明日、朝一番に田舎へ帰ります。モネ様の大切な髪を切り取ろうなどと、大変なご無礼を働いてしまった今、もう、私は、ここにいることなど出来ません。……申し訳ございませんでした」

そして、深々と頭を下げ、

「どうか、お元気で……」

言うと、立ち上がり、襖のほうへ。

 モネは焦って、

(ち、ちょっと……! )

コリを止めるべく立ち上がろうとしたが、頭がクラッ。立ち上がれなかった。

「コリさんっ! 」

モネは、立ち上がれないまま、布団の上からコリの横顔を見つめ、叫ぶ。

「髪を切ろうとしたくらい、何でもないです! それに、切ろうとしただけで、切ってないでしょっ? 」

 しかし、コリは止まらず、襖に手を掛けて、開けた。

 と、立てないモネに代わってカイが追い、

「待ってくれ、コリ! 」

今まさに部屋を出て行こうとするコリを、二の腕を掴んで止めつつ、もう一方の手で、開けられたばかりの襖を閉める。

「モネの言うとおりだ、コリ。このことを知れば、色々と言う者もいるかも知れないが、今、ここには、オレとモネしかいない。オレもモネも、誰にも言わない。だから、田舎に帰る必要など無い。……いや、帰るな。頼む、帰らないでくれ」

 コリは、驚いた表情でカイを振り返り、見つめ、掠れた声で、

「…カイ、様……」

 カイ、コリを見つめ返し、頷く。

「詫びなければならないのは、オレのほうだ。お前の心を知らず、悪かった……。許してくれ。モネはオレにとって、たった1人の大切な同種族なんだ。だから、信頼できるお前に頼みたかった。だが、それが、お前を苦しめることになるなんて……。……モネの世話は、他の者に頼もう。…オレのもとへ、戻ってくるか……? 」

 コリは、両手を口元へ持っていき、信じられない、といったように、小さく、ゆっくりと首を横に振り、

「私は、幸せ者です。辞めようとするのを引き止めていただけただけでなく、信頼できる、などと、もったいないお言葉をいただき、カイ様の担当に戻してまでいただけるなんて……」

感激のあまりか、涙ぐむ。

 モネは、コリが辞めるのを思いとどまってくれたようで、安心した。

 そこへ、カイが、

「…いや、あ、のさ……。コリ……」

何故か言いづらそうに口を開く。

 コリは目に浮かんだ涙を指で拭い、少し不安げに、

「はい……? 」

 モネも、何だろう? と、軽く緊張して、カイの次の言葉を待った。

 カイは一度、目を伏せ、深呼吸。それから顔を上げ、覚悟を決めた、といった様子で、グッと喉の奥に力を入れた感じ、力強く熱のこもった目で、真っ直ぐにコリを見つめた。

「担当、じゃなくてさ……。オレの妻に、なってほしいんだ。…なって、くれるか……? 」

 モネは、

(うわっ……! )

他人事ながら、頬が変なふうに歪み、赤くなったのを感じた。

(プロポーズッ? )

生で見たのなんて、初めてだ。と、言うか、普通、当事者以外が、滅多にお目にかかれる場面ではないはず……。

(私、ここにいちゃ、いけないんじゃ……? )

そう考え、モネは、完全にモネの存在など忘れているくらいの勢いでコリだけを見つめるカイと、カイの前で大きく目を見開き小刻みに震えているコリに背を向け、カイとコリの立っているほうでないほうの襖へと、コソコソ這った。

 立ち上がるのは、まだ、ちょっと怖い。立ち上がろうとして、万が一、倒れでもしたら、せっかくの、カイとコリの二人の世界を台無しにしてしまう。

 這った姿勢のままで、音をたてないよう注意を払って襖を開けるモネ。

 背中で、

「コリ、返事を……」

とのカイの台詞を聞きながら、開けた襖から寝室を出て、もう一度、カイとコリを振り返った。

 コリが、

「カイ様……。…はい……、はい……」

涙声で何度も何度も頷き、カイが腕を伸ばして、不器用に、コリを自分の胸へと引き寄せるのを見届けてから、やはり音をたてないよう慎重に、襖を閉めた。

(お邪魔しました……)


 寝室の襖を閉めてから、モネは、急に立ち上がると、また、目まいがするかもしれないと思い、意識して、ゆっくり立ち上がった。今度は平気だった。そして、ソロリソロリ忍び足で玄関へと向かい、靴を履いて、玄関を出た。

 玄関の戸を背中で閉め、モネは大きく息を吐きつつ、空を見上げた。

 空には、まん丸の大きな月。

(…キレイ……)

散歩でもしようと、庭園へ。


               *


 モネは、離れの門を出て真正面、池の向こう側に、1つの人影を見つけた。

(…サナ、さん……? )

 距離もあり、大きな月が出てるとは言え、やはり夜なので、暗くて顔など分かるはずもないのに、しかも今日は、宴に出席していた男性のうち、ナガ以外の全員が、似たような黒の燕尾服を着ていたのに、モネには、何故か、池の向こうの人物が、サナにしか見えなかった。

 モネは、そうだ、と思い出す。

 竜国舞踊の後、舞台まで連れて行ってもらっている途中に、振り払うように手を離しちゃった事情を、サナさんに説明しなきゃ、と。

 優しいサナのことだから、モネがサナと接する際にカイの目を気にする理由を話したりすれば、カイに気を遣って、モネと距離を置くようになってしまうかもしれない。しかし、そんな理由は、もう過去のこと。今、カイには、コリがいる。その部分までキッチリ話せば大丈夫だ。

 モネは、池の反対側に向かって走り出す。


 池の反対側を目指すモネが母屋の出入口前を通過中、実にタイミング良く、戸が、ガラッと開き、モネは、ビクッ。

 反射的に飛び退いて、足を止め、戸のほうに目をやる。

「モネ様」

戸を開けたのは、ムタだった。

「窓から拝見いたしました。走ったりなどなされて、お体の具合は、すっかりよろしいようで……」

 相変わらずの冷視線。だが、今回は仕方ない。宴の席で酒を飲んで倒れてしまったことで、おそらく、大変な迷惑をかけてしまった。宴について責任ある立場にあれば、ムタでなくても、似たような目をしたに違いない。

 モネは素直に反省し、

「ご迷惑をかけて、すみませんでした。それで、宴のほうは、どうなりましたか?」

謝った。

 返してムタ、淡々と、

「別に、モネ様など、いらっしゃらなくとも、宴くらい無事に終わります。もう、小一時間ほど前に宴は終わり、今は、お時間に余裕のある方々だけ残られて、別室にて、お酒を楽しまれておられます」

(モネ様など、いらっしゃらなくとも、ね……)

この言い方、本当に嫌われてるなあ、と思った。

(ああ、そっか。嫌われてるんじゃなくて、邪魔なだけだっけ……? )

でも、まあ、私のせいで困ったことには、ならなかったみたいでよかった、と、モネは ホッとした。

「ところで、モネ様」

ムタが、冷たい目のまま、

「カイ様が、どちらにいらっしゃるか、ご存知ありませんか? 」

 モネ、

(この人は……)

人にものを尋ねる時くらい、その目の温度を何とか出来ないものかと呆れながら、

「カイさんなら、離れにいますけど」

返し、

「おひとりでですか? 」

との、重ねての質問に、

「いえ、コリさんと2人で」

特に何も考えず普通に答えてしまってから、ハッとして、口を押さえた。ムタに言ってはマズかったのではと思ったのだ。

(ムタさんって、コリさんの、お兄さんだった……)

もしも反対されて、せっかく芽生えた二人の恋を邪魔されでもしたら、どうしよう、と。

(そうしたら、私のせいだ……)

 モネは、恐る恐るムタの顔色を窺う。

 ムタの顔色は変化無し。目の温度もそのままに、

「コリと二人きりで、ですか? 何をなさっていらっしゃるので? 」

(何を、って……)

モネは、さっきのカイのプロポーズシーンを思い出し、思わず赤くなる。

 モネが答えないでいると、ムタ、

「モネ様のお口からは、おっしゃることをはばかられるようなこと、ですか? 」

 その言葉に、モネは焦って首を横に振り、

「あ、いえ、そんなことは……! 」

否定しかけて、

(……どうだろう? )

自信をなくした。今頃は、ちょっと分からない、と思った。2人とも大人だし、部屋には布団まで敷いてあるし……、と。

 とにかく、邪魔はされたくない、と考え、

「あの、実は……」

もう、ここまで話してしまったのだから、事実をキチンと説明して理解を求めようと思い、モネは、覚悟を決めて口を開いた。

「さっき、カイさんがコリさんに、妻になってほしいってプロポーズして、コリさんが、OKしたんです」

 ムタは、驚いたように目を見開いたかと思うと、

「そう、でしたか……」

ニヤリと、僅かだが確かに、口元を歪めた。

 その様子に、モネは、

(な、何……? )

不安に駆られた。

 ムタがモネの話に、どう思ったのか、全く分からない。やっぱり言うべきじゃなかったのかも、と、後悔。

 不安のためにドキドキしながら、モネ、

「ムタさんは、二人の結婚に反対ですか……? 」

 ムタの答えは、

「いえ、カイ様もコリも、もう立派な大人ですから、私が、とやかく言うことではございません」

 モネは、とりあえず、ホッ。

 しかし、その直後、

「モネ様」

ムタの、モネに向ける視線の温度が、にわかに上昇。

「カイ様とコリのために離れにいらっしゃり辛いお気持ち、お察しいたします。どうぞ中へ。すぐに、お茶の仕度をいたします」

相手がモネなのに、親切なことを言う。

 モネは、

(ぶ、不気味……っ! )

ムタが何を考えているのか、本当に分からない。分からないが、カイとコリの邪魔をする気は無いようだと確認できたため、

「いえ、わ、私は、散歩の途中なので……」

と断り、そそくさと、ムタの前から逃げ出した。

 ああ、怖かった(いつもと違う意味で)……、と、ムタの急な態度の変化に、まだ少しドキドキしながら、モネは、サナが立っているのが見えた場所を目指す。


 池の向こうに立っていた人物は、やはりサナだった。離れの方向を、何やら深刻そうな面持ちで見つめている。

(何か、悩み事……? )

モネは、声を掛けていいものかどうか迷い、サナのいる場所より少し手前で、一度、足を止めたが、今日中に、振り払うように手を離してしまった事情を説明しておきたくて、そっと歩み寄り、遠慮しながら、

「サナさん」

声を掛けた。

 サナはビクッとし、モネを振り返る。

「モネ……」

 それから、気持ちを切り替えるためか一度、軽く息を吸って吐いてから、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべ、

「体の具合は、どう? 」

 そう言われて初めて、モネは思い出した。酔っ払って、サナにみっともない姿を見せてしまったことを……。

 手を振り払うように離した事情を説明したいので頭がいっぱいで、すっかり忘れていた。たった今、ムタと話していた間は、本当に一時的だが、確かに思い出し、反省もしたのに……。

 モネは急に恥ずかしくなって俯き、はい大丈夫です、と、小さく返事する。

 サナ、それは良かった、と、優しく返してから、

「ところで、モネは、ここで何をしてるの? 」

 モネは、恥ずかしさから立ち直ることが出来ないまま、それでも、そのために来たのだからと、顔を上げ、

「目が、覚めちゃって……。散歩でもしようと思って外に出たら、サナさんがいるのが見えて、…あの……、さっき、宴の時に、私、サナさんの手を、振り払うみたいに離しちゃったりしたでしょ? そのことで、サナさんが気を悪くしたんじゃないかって……。それで、そんなふうに手を離した事情を、ちゃんと説明したくて……」

 サナは優しく笑み、

「それなら、大丈夫だよ。気にしてない」

言ってから、スッと笑みを消し、真顔になって、

「事情も、大体分かるよ。…カイ様、だね……? 」

 モネは驚く。

(知ってたの……? )

 サナは、モネの両肩をグッと掴み、目の奥を覗いた。真剣な眼差し。

(っ? )

突然のサナの行動に、また驚くモネ。

 サナ、押し殺した声で続ける。

「何も怖がらないで、本当のことを教えてほしいんだ」

(…本当のこと……って? )

 モネは、サナの言っていることが分からない。

「……モネ、君、カイ様から虐待を受けてるね? 僕と話したりすると、怒られるんだね? 」

(虐待? カイさんが、私を? 何で、そんな話になってるの……? )

 モネが否定するために口を開こうとしたところへ、サナの言葉が続く。

「大体、僕やシイやナガが君をお城に連れて行った日の夕方、診察のために僕が改めて君を訪ねた時から、突然泣き出したりして、君の様子はおかしかった。僕はその時、君の、大丈夫、何でもないって言葉を、そのまま信じてしまったけど……。町で偶然、カイ様と君に会った時も、君は、僕と話した後、カイ様のところへ戻るのを躊躇ったよね? その時は、特に何とも思わなかったけど、それだって、今になって考えてみれば、おかしい。君が突然、僕の養生所を訪ねて来た夜も、迎えに来たカイ様が君を殴ったのは、躾だったんだろうけど、正直あんなに強く殴る必要は無いんじゃないかって思った。殴られた後、カイ様に手を引かれて連れ戻されて行く時、君は、はっきりと僕に助けを求めたよね? …その時だよ。僕が初めて、カイ様の、君への虐待を疑ったのは……。僕ね、ずっと、後悔してたんだ。君が養生所に来てすぐに、僕は、お城に連絡してしまったけど、連絡する前に、じっくり、君の話を聞いて、保護してあげるべきだったんじゃないのかって……。僕は、君が僕に会いたかった理由を、単純に、僕に好意を寄せてくれているからだと思ったんだけど、助けを求める君を見て……。お城で、何か辛い目に遭った君が、誰かに優しくして欲しくて、僕なら優しくしてくれるんじゃないかと考えて、僕を訪ねて来たんじゃないかって、感じたんだ。それから、ずっと気にしてた。いつでも来ていいって言っておいたのに、君は結局、今日まで、一度も来なかったし……。気になって、何度か、お城まで覗きに来て、その時は変わったことは見受けられなかったけど、今日、宴の時に、次第で決められた、皆が順番で君と短い会話を交わす時にも、君が気にしてた、僕の手を振り払うように離してしまった時にも、君は、カイ様の視線を意識してた。君がお酒を飲んで倒れた後、僕が君を診ようとしたら、コリさんが、カイ様のご指示ですから、って言って、わざわざヲリタ先生を呼んだんだ。……ヲリタ先生は、カイ様の遠縁にあたる。カイ様にとって、僕に見られてマズイものも、ヲリタ先生だったら平気だからじゃないかって思えた。…例えば、君の体に、僕が以前診察した時には無かった、不自然な傷がある、とか……。今だって僕は、心配で、離れの見える、この場所から、離れられなくなってたんだ。……宴がお開きになって、僕は、シイやナガ、副長、三役さんたちと一緒に、カイ様を囲んでお酒を飲んでいて、暑くなってきたから、少し涼もうと外に出てたら、カイ様がお酒の席を抜け出して離れに入って行くのが見えて……。こんな言い方をすると、君が気にするかも知れないけど、君がお酒を飲んで大勢の人の前で倒れたことは、カイ様にとって、恥だよね? そんなことがあった後で、また君が、カイ様から殴られてたりするんじゃないかって……」

(サナさん……。サナさんが、私のことを気にしてくれてた……。心配してくれてた……)

 気にしてた、とか、心配、とかいった言葉の甘さに、モネは酔いそうになった。サナの心の中に、自分がいたことが嬉しくて……。しかし、同時に、カイに対して申し訳なく思った。何も悪いところの無いカイが、どういった加減か、悪者扱いになっている。

 確かにカイは、一度だけ、モネに手を上げた。その時、モネがカイを怖がったのは事実。だが、それ以前の、サナが診察に来た時に泣いただとか、町で偶然会って話した時に、サナから離れてカイの所へ戻るのを躊躇っただとかは、モネのサナに対する恋心によるもの。養生所を訪ねた理由だって、サナが最初に思った、僕に好意を寄せているから、で正解だ。夜に養生所を訪ねて以降、いつでもおいでと言ってもらえてあったにもかかわらず行かなかったのは、カイを気にしてのことではあったが、結局は、モネ自身の考え。

 ……カイさんの名誉のためにも、ちょっと、のん気に酔いしれてるワケにはいかないな、と思い、モネ、

「サナさん、違います」

口を開く。

「私、虐待なんてされてません」

 サナは、モネの心を探るように、目の奥をジッと見つめる。

 あんまり見つめられて、モネは、何だか、いたたまれなくなった。…虐待の有無の真実だけでなく、サナに心配をかけて喜んでしまったような部分まで見透かされてしまいそうで……。

 モネは、一度、深呼吸。腹にグッと力を込め、自分のパジャマの上着の裾を、両腕をクロスさせて掴み、少し……、いや、かなり恥ずかしいが、

(これしかない)

いっきに脱ぎ、続いて、ズボンも下ろした。

「モ、モネっ? 」

驚き、動揺した様子のサナ。

 モネ、サナを真っ直ぐに見つめ、

「サナさん、見て下さい。傷なんて無いです」

 サナは小さく息を吐き、首を軽く横に振って、冷静な医者の表情を取り戻し、しっかりとモネの体の前面を見、それから、モネに後ろを向かせて背中を確認し、

「うん、無いね。分かったよ、モネ。分かったから、服を着て。風邪をひくよ」

言って、モネがパジャマを着るのを待ち、

「ゴメン、僕の思い違いだったみたいだね」

申し訳なさそうに言ってから、

「でも、思い違いでよかった……」

穏やかに笑んだ。

 それから、ふと思いついたように

「そういえば、モネ。君、どうやって離れから出てきたの? 僕、ずっと離れを見てたんだけど」

(どうやって、って……)

普通に、と答えると、サナ、

「ずっと見てたつもりだったけど、ボーっとしちゃってたのかな? モネは、多分、その間に出てきたんだね」

 うん、それしかないよね、と、モネは思った。だって、自分は、本当に普通に出てきたから。

(きっと、すごく心配してくれてたんだ……。心配しすぎて、上の空になっちゃうくらい……)

 モネの胸が、甘い息苦しさで満ちた。


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