* 5 *
何か、気持ち悪い……。吐き気とは違うが、軽くクラクラすると言うか……立っているのが辛い。
今日の午後最初のモネの予定は、宴用のドレスの仮縫い。今は、その最中だ。
用意された大きな鏡の前に立っている自分の姿には、力が無い。表情も、さえない。
今日の朝は、竜国で目覚めた翌日午後からの20日間強連続ハードスケジュールのせいで、疲れが溜まっていたのか、何だかスッキリ目覚められなかった。
朝食後すぐから、午前中はずっと、習字やら護身術やら、いつも通り予定が詰まっていて、護身術の際の準備運動で体を伸ばしたことで一度は少し楽になったように感じたものの、他は、疲れの抜ける暇というものが全く無かった。そして、昼食後すぐの、この仮縫い。
モネは、立っているのが、やっと。
だが、宴は7日後にまで迫っている。作業が予定より遅れ気味であると、業者の女性同士の会話から知れば、体調が悪いから休ませてくれなどとは言い出し辛かったのだ。
(ドレス、間に合わなかったら困るし……)
モネは自分に言い聞かせ、我慢。
そんなモネを、
「モネ様? 」
コリが覗き込んだ。
「お顔の色が優れませんが……」
気づいてもらえてホッとしたためか、急に、足の力がガクンと抜け、崩れそうになるモネ。
それを咄嗟に支えながら、コリ、
「モネ様は、ご気分がよろしくないようですので、少し休憩を取らせていただきたいのですが」
それを受け、業者の女性は、
「重要な部分は既に済んでおりますので、ここまででも大丈夫です。あとは、こちらで良い具合に仕上げさせていただきます」
と返し、モネの体と仮縫いのドレスの両方を気遣う感じで、慎重に、ドレスをモネの体から取り去ると、
「では、お大事になさって下さい」
帰って行った。
*
コリは寝室に布団を敷き、モネのパジャマへの着替えを手伝って、モネが布団に入るのを見届けると、
「お医者様を、お呼びします」
言って、寝室を出て行った。
(…お医者様……)
モネは、布団に転がった姿勢でコリを見送る。
(サナさん……)
サナと会えるのは嬉しいが、こんな弱った、みっともない姿で恥ずかしい、というのも少しある。しかし、やはり、
(サナさんに、会える)
嬉しい気持ちのほうが大きかった。
コリは、ちょっともしないうちに戻って来た。
随分早い、との、モネの無言の問いに、
「母屋に入ったところでカイ様にお会いしまして……」
モネの体調が優れないこと、医者を呼ぶところだということを話すと、カイが、医者は自分が手配するから、コリはモネの傍についているように、と言ったため、戻って来たのだと説明し、
「すぐには、お見えにならないと思いますので、お休みになって、お待ち下さい」
*
「モネ様、失礼いたします」
コリの声で、モネは、ハッと目を覚ました。いつの間にか、すっかり眠ってしまっていた。
声は襖の向こうから。
モネが布団に横になったまま襖に目をやると、襖が静かに開き、正座したコリ、
「お医者様が、お見えになりました」
モネは、ドキッ。
(サナさん……! )
布団から上半身起き上がりながら、髪を急いで手のひらで撫でつけて整える。
コリが、寝室に入って、開いた襖の横に避けて正座。
モネは、その後コリに続いて、その開いた襖から入ってくるのは、当然、サナであると思っていた。
しかし、
「横になられたままで結構ですよ」
そう言いながら入って来たのは、白衣姿の年配の女性。
モネの布団の脇に静かに腰を下ろし、ヲリタと申します、と自己紹介した。
(サナさんじゃ、ない……)
モネは、少しホッとし、
(そっか、人口1千万人の国にお医者さんが1人しかいないワケないし、お医者さんが来るって言ったって、サナさんが来るとは限らないよね……)
納得しながらも、ガッカリ。
(何か、私、馬鹿みたい……)
ヲリタ医師の言葉に甘えて、横になった姿勢で診察を受けるモネ。
その診断は、
「かなり、お疲れのようですね。しっかり栄養を摂られて、今日、明日くらいは、ゆっくりなさったほうがよろしいかと思います」
*
「モネ、体の調子が悪いんだって? 」
サナが、襖から心配げな顔を覗かせた。
ヲリタ医師の指示通り、布団で横になっていたモネは、驚きすぎて掛け布団を、はね飛ばし、跳び上がるようにして立ち上がる。
瞬間、クラッと、めまい。
倒れそうになったところを、
「モネ! 」
咄嗟に駆け寄って来たサナに受け止められた。
ホッと、サナの温かな息が耳の辺りにかかる。
間近にサナの顔を見て、モネは、ドキドキ。
サナ、
「ダメだよ、寝てなきゃ」
言って、モネを、ゆっくりと静かに布団へ横たわらせる。
横になったモネを、至近距離から見下ろすサナ。
モネは、自分の息のニオイに自信が無くて、サナに息がかかるのを恐れ、息を詰めた。その苦しさが、胸の高鳴りを何倍にもする。このままでは心臓が壊れてしまいそうだと思った。
と、その時、
「モネ様」
襖の向こうから、コリの声。
モネは、特にやましいことなど無いにもかかわらず、ギクッ。本気で心臓が止まるかと思った。
途端、目に映っていたものが、いっきに切り替わった。
明るかった部屋は暗く、目の前にいたはずのサナの姿は無い。
(…夢……? だったの、かな……? )
モネは、部屋の中を見回す。
再び、
「モネ様」
襖の向こうでコリの声。
襖が開き、光が射した。
モネは目を閉じ、寝たふり。サナと会えた夢の余韻に浸っていたかった。出来れば、続きをみたかった。
少しして、襖が閉まる音。
モネは、そっと目を開けて状況を確認。
コリは寝室へは入って来ずに、そのまま襖を閉めていた。部屋の中には誰もいない。
モネは、小さく息を吐いた。
襖の向こうで、
「モネの様子はどうだ? 」
カイの声がする。
「お休みになっていらっしゃいます」
コリの声が答えた。
「そうか……」
カイの、ちょっと残念そうな声。
「じゃあ、一緒に晩メシは無理だな」
返してコリ、
「そうですね。出来れば、今は、ゆっくりと、お休みいただきたく思います」
「まあ、仕方ないな。オレは母屋に戻って食うよ。邪魔したな」
遠ざかっていく、数歩分の足音。暫しの沈黙。
沈黙を破って、
「あ、あのっ! 」
コリの声。
「今日は、サナ先生は、ご都合がつかなかったのでしょうか? 」
「何でだ? 」
カイが短く低く聞き返す。
「あの……」
コリ、遠慮気味に、
「いつも、カイ様を診察なさるのはサナ先生ですし、私は、サナ先生にいらしていただくつもりでおりました。…それに……」
そこまでで、一瞬、躊躇した様子を感じさせてから、
「多分モネ様も、サナ先生がいらっしゃるものと思われていたと……。モネ様は、サナ先生を大変お慕いになられておりますので、別の先生がいらして、ガッカリされたご様子で……」
(気づかれてたっ? )
モネは、自分の気持ちをコリに知られていたことで、とても恥ずかしくなりながら、それまでは何となく聞いていただけのカイとコリの会話に聞き耳を立てた。
「ん? ああ……」
何故か、カイまで動揺した様子で、
「モ、モネ…は、まだ……まだ、子供のようだとは、言え、女性…だから、な。お、男の…サナより、ど、同性のヲ…リタ先生のほうが、いいんじゃないかって、か、考えたんだ」
特におかしなところの無い内容を、自信無さげな小さめの声で酷くどもりながら話す。
「然様でございましたか」
コリは、そんなカイの様子を全く気にしていないような、ごく普通な感じで、
「余計なことを申しまして、申し訳ございませんでした」
「あ、いや、構わない。……じゃあ、オレは、母屋に帰る」
少し落ち着きを取り戻したカイの声。
「あ、私も参ります。母屋に用事がございますので」
コリの言葉の後、遠ざかっていく2つの足音。
玄関が、開いて閉まる音。
何だか、目が冴えてしまったモネ。すっかり静かになった離れに1人ポツンと取り残されて、少し寂しさを感じた。
やっぱりカイさんと一緒にゴハンを食べよう、と、起き上がり、少々フラつく足取りで、カイを追いかけるべく玄関を出る。
玄関の外の暗さ加減、これは当然だが外灯の明るさ加減、形は違うが月のボンヤリ加減、吹きゆく風の加減……全てが、竜国で目覚めて最初の夜、診察に来たサナの背中を見送った時を思わせた。
モネの胸が、懐かしさに似た感じで、キュッとなる。
と、庭園の小道にサナの後姿を見た気がし、
(サナさん……? )
モネは、吸い寄せられるように、その後姿を追って歩き出す。
庭園の小道を木戸の方向へ。木戸を出て、中門を出、表門を出たところで、モネは、サナの後姿を見失った。
(あ……)
スウッと風が吹き抜ける。
(いるワケないよ、ね……)
あんまり、会いたいと思ってたから……。
モネは小さく息を吐き、門を振り返って、右側の門扉に作られた普通サイズのドアの取っ手に手をかけた。
(戻ろ……)
しかし、その時、ふと感じるものがあった。振り返り、その先の、ところどころ街灯に照らされた、静まり返った夜の坂道を見つめる。
養生所から、ここまで来るのに、乗合車両で5・6分くらいだった気がする。歩いたら、どれくらいで着けるだろう?
(一目だけ……)
一目だけでも、会えたら……。会って、優しい笑顔を見られたら……。
モネは、坂道へ踏み出した。
記憶を辿り、モネは夜道を歩く。
単純な道だったはずだ。
養生所から城まで来るのに、養生所前の道を左手方向に進み、住宅街を抜けたところで左折、坂を上った。つまり、城から養生所へ向うには、坂を下り、ぶつかった道を右へ歩いて行けばいい。そうすれば、右手側に、あの特徴のある、古いレンガの門が見えてくるはず。
*
(あった……! )
1時間ほど歩いて、モネは、右手側に、養生所の古いレンガの門を見つけた。
門の2本の柱の間を通り、真正面の、煌々と明かりのついた養生所の玄関口へ。
ドアのすぐ横にチャイムを見つけ、指を伸ばすが、モネは押すのを躊躇った。
サナが出てきたところで、何と言っていいか分からない。サナさんに会いたかったの。だって、サナさんのことが好きだから。……そんな言葉を口にしなければ説明が出来ない。もう、本来なら、夕食も食べ終えているような時間。こんな時間にモネひとりで、偶然近くを通りかかったから、などということは、ありえない。そんな嘘は通用するはずがない。
その時、視界がクラクラッと揺れた。立っていられず、しゃがみ込むモネ。
(…気持ち悪い……)
こうなってしまうのは当然だと分かってる。ヲリタ医師が、今日、明日、くらいは、ゆっくりしていたほうがいいと言っていた。それなのに、何の準備も心構えも無く、いきなり1時間も歩いてしまった。分かっているが、歩き出す前は、そんなこと考えもしなかった。ただ、サナさんに一目会いたい……それだけだった。
モネは、両手のひらで顔を覆う。
そこへ、
「モネ? 」
少し離れた背後から、名を呼ぶ声。姿など確認しなくても分かる。サナだ。
駆け寄ってくる足音。
モネは、
(…サナさん、どうして……? どうして、外から来るの……? …どうしよう。まだ、心の準備が……)
顔を覆った手を、はずせない。
サナは、モネの正面に回ってきて、しゃがみ、モネの両手首を掴んで押し広げ、心配げに顔を覗き込む。
「大丈夫? 」
(…どうして……)
「サナ、さん……。どうして、外から……? 」
モネの、小さな小さな声の質問を、誠実な態度で聞き取ってから、サナ、
「僕は、隣の家に回覧板を回してきたところだよ。モネのほうこそ、どうして、こんな時間に、こんな所にいるの? 」
答えられず、目を逸らすモネ。
「顔色も良くないね。……とにかく、中に入って」
サナは、歩ける? と、モネを気遣い、立ち上がらせ、肩を支えて養生所の中へと導いた。
サナに導かれるまま、
「ここに座って」
言われるまま、モネは、待合室の椅子に腰を下ろした。
サナは、モネを座らせると、
「ちょっと待ってて」
1人で、一番近くのドアを入って行った。
その背中を見送りながら、モネは後悔。
(私、サナさんに迷惑かけてる……)
来るんじゃなかった。面倒だと思われてるかもしれない……、と。
座っている間に、モネの体調は、少し落ち着いてきた。
ややして、盆に載せたコップ1杯の水を手に戻ってきたサナの表情は、険しい。
(やっぱり、面倒なんだ……)
サナは、持ってきた水を、飲む? と、モネに差し出し、モネが首を横に振ると、盆ごと椅子の上に置き、自分も、モネの横に腰を下ろした。
「今、一応、お城に連絡してみたんだけど……」
いつもより、トーンの低い声。
「君、誰にも言わないで出てきたんだね」
大きな溜息を吐くサナ。体の向きを変えて、モネの目の奥を真っ直ぐに見据え、
「ダメじゃないか」
怖いくらいに真剣な顔。
モネは、ビクッとする。こんな怖い顔のサナを、見たのは初めてではない。学校の前で地震に遭った後、竜国で目覚めた日、養生所の玄関前に集まっていた人々のうち、
「サナ先生は、人間の味方をなさるのですか? 」
と発言した女性に向けて、こんな顔をしたのを見た。しかし、自分に向けられたのは初めてだった。
サナは、厳しい口調で続ける。
「お城では、皆、とても心配して、大騒ぎになってたみたいだよ? 聞けば、今日は体の具合が悪くて、医者にもかかったらしいじゃないか。そんな体で、どうして、黙って こんな所まで来たの? 」
(だって……)
モネは、顔をそむけた。
(サナさんに、会いたかったから……。でも、本当に、来るんじゃなかった……。どうして、来ちゃったんだろう……)
サナが、モネの顔を両手のひらで挟むようにして、強引に自分のほうへと向ける。
「ちゃんと、僕の目を見て答えて」
顔は強引にサナのほうに向けられてしまったが、目は逸らし続けるモネ。
(私は、サナさんを怒らせたかったワケじゃない。ただ、会いたかった……。会って、優しく笑ってほしかっただけなのに……)
サナは、モネの顔を挟んでいる手に更に力を込め、
「こっちを向きなさい」
(…こんな、迷惑かけて……。サナさん、私のこと嫌いになっちゃったかも……)
自分が情けなくて、恥ずかしくて、モネは、サナと目を合わせられない。
「モネっ! 」
サナ、モネの頭を1度、揺さぶる。
(…だって……)
モネの心は追いつめられた。モネの意思とは関係なく、
「サナさんに会いたかったから……! 」
本心が、口をついて出る。
モネの顔を挟んでいるサナの手の力が緩んだ。
(……? )
サナを盗み見るモネ。驚いたような表情のサナと目が合う。それで、モネは初めてハッとし、口を押さえた。
(私、今、何を言ったのっ? )
「そう、だったんだ……」
呟きながら、サナは、
「ゴメン、強く言い過ぎたね」
モネの顔から手を放した。
本心を言ってしまったことで、サナがどう思ったのか、不安でいっぱいのモネ。何とか、サナの気持ちが読み取れないかと、サナの目の奥を覗きながら、
「私のほうこそ、ゴメンなさい……」
サナは、フッと目を優しくし、
「謝る相手が違うよ。お城に戻ってから、お城の皆に謝って」
モネは、サナの気持ちを読み取るほうに集中しつつ頷く。
サナ、
「また、いつでもおいで。ただし今度は、ちゃんと、誰か、お城の人に言ってからね」
(また、来ていいの……? )
モネは驚き、また、サナの本心を探る目的もあって、サナの目の、更に奥の奥を見つめた。優しいサナのこと。サナさんに会いたかったから来た、などと言われてしまった手前、本当は迷惑なのに、また来ていいと、とりあえず言ったのでは、と、疑ったのだ。
そんなモネに、サナは、モネが見たいと望んでいた、実にサナらしい優しい笑顔で応えた。
(…本当に、来ていいのかな……? )
その時、表のほうから、車のエンジンのような音。
サナ、
「ああ、来たね」
(? )
モネは無言の問いをする。
「さっき、お城に連絡した時、たまたま、相手がコリさんだったんだけど、すぐに、お迎えに参ります、って」
サナが説明している間にエンジン音は止み、聞き覚えのある自家用車のドアの開閉の音。玄関口のドアの開閉の音。続いて、荒めの足音。
その足音と共に現れたのは、
(カイさん……)
カイだった。
驚くモネ。連絡した相手がコリだったとサナが言ったこともあり、迎えに来るのはコリだと思い込んでいた。
サナも少し驚いた様子で急いで立ち上がり、カイに向けて頭を下げる。
自分とサナのほうに向かってズンズン歩いてくるカイの顔に、モネは、ギクリとした。……明らかに、怒っている。
カイから少し後れ、急いでカイを追って来たといった様子で、コリも姿を現した。
カイは、モネの目の前まで来、足を止めるなり、バシッ!
(っ! )
モネは、椅子から転がり落ちる。一瞬、何が起こったのか分からなかった。左頬が熱を持ち、まるで心臓が移動してきたようにジンジン脈打った。血の味が、口の中に微かに広がる。…痛い……。その痛みから、カイに、ひっぱたかれたのだと知った。
(カイさん……)
モネが、打たれた頬を手で押さえつつ、カイを仰ぐと、カイは、暗い目でモネを見下ろしていた。
(カイさん、すごく怒ってる……)
押し潰されそうな胸苦しさを感じるモネ。
サナが身を屈め、床に落ちたままのモネに、気遣うように、そっと、上に向けた手のひらを差し伸べた。
と、カイは、サナをギラッと見据え、
「モネに触るなっ! 」
叫んだ。
その大声に、モネは竦む。カイさんが、怖い……。
サナは、ハッと、反射的に手を引っ込めて姿勢を正し、もう一度、頭を下げなおした。カイはサナから目を逸らし、小さく息を吐いて弱く首を横に振り、
「いや、ゴメン……。連絡くれて、ありがとな……」
言ってから、モネに向けて手を伸ばす。
モネは、ビクッ。両腕で顔を庇い、
「ゴ、ゴメ、なさ……い! 」
また叩かれるかと思ったのだ。
カイはモネの左手首を掴み、
「来い」
グイッと引っ張り、玄関口のほうを向いて歩き出す。
強い力。手首が痛い。モネは、中途半端に立ち上がった状態で、2・3歩分、引きずられるように進んでから、
(…嫌っ……、怖いっ……! )
足を踏ん張って止まり、掴まれた手首を自分のほうへ引き寄せ、抵抗する。サナから離れて車や城に移動したら、もっと酷く怒られるように思えた。
カイは一旦、立ち止まり、顔だけでモネを振り返って、低く、
「来るんだ」
また、正面を向いて歩き出す。
モネは、ほとんど引きずられている状態。無理だと分かっていながら、助けて欲しくて、サナを振り返るが、サナは、それまでの立ち位置から微動だにせず、心配げな、そして、何か言いたげともとれる表情で、やはり、ただ、モネを見送った。
モネの視界の中央に、コリの背中が割り込み、サナに一礼してから、回れ右。モネとカイの後をついて来る。
外に出ると、階段の下、すぐ正面に、自家用車が停まっていた。カイが商店街に連れて行ってくれた時と同じ運転手が、運転席から降りて来、後部座席のドアを開けて、頭を下げ、待つ。
カイは、
「乗れ」
モネを先に車のほうへ押しやるが、モネは、自分からは乗ろうとしない。
カイ、モネの手首を放して空いた手と、もう片方の手で、モネの背を押し、車の中へと押し込んでから、自分も乗り込んだ。
後部座席にモネとカイ、助手席にコリ、運転席に運転手を乗せて、車は、ゆっくりと走り出す。
次第にスピードをあげていく車。後ろへと流れていく夜の住宅街。
車内は、沈黙に押し包まれていた。
モネは、窓の外を眺めながら、注意はカイへ向いていた。カイが、ほんの少しでも動く度に、いちいちビクビクしてしまう。
やがて、車は住宅街を抜け、左に曲がって坂を上り、開いた状態になっていた表門を入って、中門に横付けた。
そこには、ムタが立っていた。
ムタは、後部座席のドアを開け、座っていた位置的に先に降りることになったモネを無言で通してから、まだ車内にいるカイに向かって頭を下げ、
「お疲れ様でした」
そして、カイが車から降りるのを待ち、
「何か、温かいお飲み物でも、お召し上がりになりますか? 」
カイは、
「いや、もう寝るよ」
短く答え、1人で、さっさと中門を入って行った。
まだ、カイから怒られるのに続きがあると思っていたモネは、拍子抜け。自分が心配をかけたからカイは怒っているのに不謹慎だとは思いながらも、ホッとしてしまった。
ムタは、カイの後を追いざま、車のすぐ傍に立ったままカイを見送っていたモネに、チラリと視線を流し、
「別に、お帰りになられなくても、よろしかったのですよ? 」
モネにしか聞こえないような小声で言う。
モネは、
(ああ、そう……)
初めて、ムタが自分のことを嫌いであると確信した。嫌われる理由は、やはり全く分からないが……。ムタが自分のことを嫌いなのではと、前々から感じていたため、
(やっぱりね)
モネに、全くショックは無い。
しかし、代わりに隣から、ただならぬ気配。
見れば、いつの間にか隣に立っていたコリが顔を強張らせ、目を大きく見開き、一歩、前へと踏み出して、今まさに、ムタに向けて言葉を発しようという状況だった。
タイミング的に、モネに向けたムタの小声を、たまたまモネの傍にいたがために聞き取ってしまったことでの反応であると分かる。
(待って! どうして、コリさんが怒るのっ? )
モネは慌てて、コリの手を、ギュッと握った。
(ムタさんは、コリさんにとって上司でしょっ? まずいんじゃないのっ? )
コリは、ハッとしたようにモネを見る。
モネは、首を横に振って見せた。
(私が原因で仕事をクビになられても困るし……)
「私のせいでモメないで下さい。私なら、大丈夫ですから。ムタさんが私に冷たいのなんて、いつものことで、慣れてますから……」
押し殺したモネの言葉に、コリ、
「いつものこと、ですか……」
眉間にシワを寄せる。
モネは、ああ、何か、今、余計なことを言っちゃったのかも、と思いながら、お願いだから落ち着いて、と、祈るような気持ちで、
「ね? 大丈夫、ですから」
コリの目を見つめ、繰り返す。
コリは数秒間、モネの目を見つめ返してから目を伏せ、一度、深呼吸し、
「お見苦しいところをお見せいたしまして、申し訳ございませんでした」
謝ってから、取り繕うように笑みを作り、
「モネ様も、お部屋へ……。頬を冷やさなくては……」