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竜の胎教  作者: 獅兜舞桂
2/10

* 2 *


 ホットミルク・目玉焼き・野菜サラダの並ぶ食卓に制服姿で着き、平日朝のテレビの情報番組を何となく眺めながらトーストをかじるモネに、母は、はい、お弁当、と言って、手製の弁当を食卓の隅に置き、

「モネ、今日も、帰り、遅くなるの? 」

 返してモネ、

「うん、もう明日が本番だからね」

 母は、ふーん、と頷き、軽く笑みを作って、

「まあまあ、頑張って下さい」

小馬鹿にしているようにも面倒くさくて早めに話を切り上げようとしているようにも取れる口調で言う。

(…何、それ……? )

 馬鹿にしているにしても面倒くさいにしても、そんなふうにしか返せないなら、初めから話しかけなきゃいいのに……。何だか、まともに答えた自分が馬鹿みたいに思えて、ほんの少し腹が立つ。が、これが母の話し方なのだと分かっている。それが証拠に、物心ついて以降、母と会話した回数分だけ、モネは、似たような腹の立て方をしてきた。

 怒っていても仕方ない。嫌な気分が続く分、自分が損するだけだ。

 モネは小さく息を吐き、心の中で、

(いいけど……)

と呟く、いつもの方法で、ムッとした気分の消化を試みる。


               *


 朝食を終えたモネは、カバンに食卓の上の弁当を入れ、玄関へ。いつもどおり玄関まで見送りに来た母の、

「行ってらっしゃい。気をつけてね」

いつもどおりの言葉を背中で受け止め、いつもどおり、行ってきます、と小さく短く返してドアを開ける。

 すると目の前に、正方形の白いパネルを組み合わせた天井と、むき出しになっている長型の蛍光灯が現れた。何故か、いつの間にか、モネは横になっていた。

(……? )

 モネは、今ひとつ状況が掴めないまま、ゆっくりと上半身起き上がりつつ、懸命に記憶を辿る。

(…そうだ、私、地面の裂け目に落ちて……)

しかし、体は、どこも痛まない。

(その後、家に帰ったっけ……? )

寝ていた場所は、白いパイプベッドの上。掛敷布団とも清潔感のある白いシーツが掛けられている。

(…帰ってない、よね……? うん、帰ってないよ……。じゃあ、さっき、家で朝ゴハン食べたのって、夢か……)

 確信してから周囲に目をやれば、ベッドの頭側すぐと足側の少し離れた位置に白い壁。右手側に白く塗られた木枠に囲われた大きめの窓。その向こうには、手入れの行き届いた緑豊かな庭が見えた。左手側には、白いパイプの枠に白い布が張ってある、つい立。学校の保健室のような雰囲気の部屋だが、モネの通う高校の保健室ではない。

(ここ、どこ……? )

 モネは、ふと、つい立ての向こうに人の気配を感じ、ベッドから木の床に下りつつ、ベッドの下に揃えて置かれていた自分の靴を履き、2歩ほど歩いて、つい立の向こうを そっと覗く。

 そこには、白衣姿で壁に寄せた机に向かい、何やら書き物をしている、20代後半と思われる、短く刈り上げた黒髪の、見知らぬ男性の端正な横顔。

 モネがたてた微かな足音に気づいたのか、男性は手にしていたペンを置き、モネを振り返った。

 その、正面から見た顔に、

(……っ? )

モネは固まった。

 男性の額の中央に、黒くハッキリと、2センチ四方に収まるくらいの大きさの、文字のようにも子供の落書きのようにも見えるものがあった。

(何か、アブナイ、人……? )

 男性は立ち上がり、小さく笑んでから、

「気がついたかい? 」

モネのほうへ、ゆっくりと足を踏み出す。その笑みは実際には、実に爽やかな笑みだったのかも知れない。額の、字のような絵のようなものさえ無ければ……。

 モネは警戒。男性が一歩踏み出したのに合わせて、一歩後退る。

 モネが警戒していることに気づいてか、男性は、それ以上、モネに近寄ろうとせず、距離のあるまま、少し姿勢を低くし、

「僕は、サナ。医者だよ。大丈夫、怖がらないで。ここは、僕の養生所だよ」

モネを窺うようにしながら口を開く。

「君は、発電所近くの林の中を通る道で倒れてたんだ。眠っている間に簡単に診せてもらった分には、怪我も無いし、他の異常も特に見られなかったんだけど……。一体、どうしたの? どうして、あんな所に倒れてたの? 」

 モネは、また、もう一歩、後退る。

 サナ、と名乗った男性は、困ったように、一呼吸分おいてから続ける。

「ゴメン。目覚めたばっかで、こんな色々言われたって、困るよね? とりあえず、もう一度、ちゃんと診せてくれる? 倒れてたからには、やっぱり何かあるはずだから」

 と、そこへ、サナの背後のドアが開き、

「サナ、改築の件だけど、玄関前の階段の3分の1はスロープにして、手摺とか……」

作業着の上下のようなものを着た、大柄で日に焼けた肌の男性が、筒状に丸めた大きめの紙を手に、大声で言いながら入ってきた。

 サナより少し若い感じの、その男性は、ふとモネに目を留め、

「あ、ゴメン。診察中? 」

足を止める。

 サナは男性を振り返り、

「ああ、シイ。いいよ」

シイ、という名前らしい彼に歩み寄ると、

「見せて」

と、シイが手にしていた紙を受け取り、机へと歩いて、その上に広げた。

「うん、いいね。これで、お願いするよ」

 シイは、チラチラとモネのほうを気にしている様子で、紙を見ているサナのすぐ傍まで歩き、

「どこの子? 見たことない子だけど、種族は? 」

モネにハッキリ聞こえてしまっているが、一応小声らしい声で聞く。

 シイの額中央にも、サナのものとは少し違うようだが、似たような、黒い字のような絵のようなもの。

 モネは、サナとシイを、きっと何か変な宗教の人たちだ、と思った。

 …怖い……。額中央の字か絵のようなもの以外は特に変わったところが無いあたりが、余計に怖い。何故なら、そんなものが額についていることが、彼らにとっては当たり前だということだからだ。それに、自分は学校の前で地震によって出来た地面の亀裂に落ちたのに間違いないと、モネには自信がある。学校の近くに発電所や林など無い。サナの言っていることは、明らかにおかしい。倒れていたモネを、医者であるサナが、本当に、ただ純粋に助けるために、ここに連れてきたのだとしても、あまり関わり合いにならないほうが身のためのような気がした。

 息を止めるようにして、じっとサナとシイを窺い、考えを巡らすモネ。

 その視線の先で、シイは急に目を見開き、チラ見をやめて、モネを凝視。

(…何……? )

 怖すぎる。

 シイと見つめ合う形になってしまい、モネは視線を逸らしたいが、体が、視線さえ、貼りついてしまったように、動かせない。

 シイが、モネを凝視したまま声をかすれさせ、

「…族印が、無い……。サナ、まさか、この子……」

呟く。

 返してサナ、説明口調で、

「うん、人間だと思うよ。 さっき、発電所で急患が出たって連絡が入って、動かさないほうが良さそうな状況だって判断したから、出掛けたんだよ。幸い大したことなくて、その場で処置を済ませて帰る途中、林の中で、この子が倒れてるのを見つけて、運んできたんだ。で、たった今、目を覚ましたとこなんだけど……」

「そんな! 」

シイはサナに向き直り、ムキになった様子で声を荒げる。

「サラッと言うなよ! 大変なことだろっ? 」

 サナは、まあまあ、と、宥めるようにシイの肩を軽く叩きながら、余裕のある穏やかな笑みを浮かべ、

「分かってるよ。連れてきたのは、倒れている人を助けなきゃっていう医者の立場からだけじゃなくて、族長の立場から、監視する目的もあってのことだよ」

(…監…視……? )

その言葉に、モネは、サナがモネを帰す気が無いのだと知る。自分の置かれている状況を、ハッキリと理解する。自分は、このアヤシイ人たちに捕まってしまっているのだ、と。

(でも……)

 話に夢中な様子のサナとシイ。モネに意識が注がれていない。

 今だったら、ここを抜け出せるような気がする。

(…この隙に……)

モネは、まず、ベッドの向こうの窓に目をやった。見える景色から、その窓が少し高めの位置にあるのだと分かる。窓から外に出るのは無理だ。それ以外には、シイが入ってきたドア。他にドアは無いから、あのドアは、直接ではなくても必ず何らかの形で外に通じているはずだ。

 モネは、サナとシイに注意を払いながら、ドアへと移動しようとする。が、足がガクガクと、言うことをきかない。無理に動かそうとしてバランスを崩し、転ぶ。

 サナとシイに気づかれたのではと、モネは息を詰めるが、彼らがモネの動きに気づいた様子はない。

 ホッと胸を撫で下ろし、転んだままの低い姿勢、四つ這いで、サナとシイを窺いつつ、ドアを目指した。


 あと少し。あと少しで、ドアだ。

 モネの注意が、サナとシイから逸れた。

 瞬間、

「おいっ! 」

(! )

モネは、反射的に声のほうを向く。

 シイが大股でモネのほうへと歩いて来、腰を屈めてモネに向かって腕を伸ばした。

 ビクッと身を縮めるモネ。

 シイがモネの右腕を掴み、真上に向かって吊り上げる。

 モネの足が床から離れた。全体重が、肩の関節にかかって痛い。

「どこ行く気だっ? 」

 シイが、至近距離からモネを見据える。

「シイ! 」

 サナが叫んだ。

「乱暴なことは、やめて! 」

 シイは、舌打ちをしながら、モネを床に放り出すようにして手を放す。

 放り出されたはずみで床を滑り、モネは、つい立の所まで逆戻り。

 離れた位置から真っ直ぐにモネを見下ろすシイ、

「お前、人間だろ? どうやって、ここへ来た? 目的は? 」

 質問の意味が分からない。…人間だろ、って…見ての通りだけど……。どうやって、ここへ来た、って…アナタと仲間らしい、そっちの、サナって人が連れて来たんだって話を、今、聞いたよね……? 目的は、って…目的って、何……? 何て答えたら許してくれる? 解放してくれる? どう返していいか分からない。それ以前に、声が出ない。…怖くて……。

 無言でいるモネに、シイは詰め寄って来る。

(誰か、助けて……! )

 心の中で叫ぶモネ。叫んでおいてから、ハッとする。

(…誰か、って、誰……? )

 どこの誰が、今、モネが、この場所で、こんな状況にあるのを知っているだろう。モネは学校から1人で帰ろうとしていた。学校の中には、その時、まだ大勢の人が残っていたと思うが、たまたま、モネが校門を出る時には、周りに、人も車も全くいなかった気がする。そして、校門を出たところで地震が起こり、地面が裂けて、その裂け目に落ちた。……そこまでは、憶えてる。その後、気がついた時には、もう、ここにいたのだ。モネの知る限りでは、誰も知らない。仮に 誰か知っていたとしたら、助けに来てくれるだろうか? 助けに来ないまでも、110番くらいしてくれるだろうか? …無理な気がする……。何故なら、モネならしないから。巻き込まれたくないから、何もしない。

(…どうしよう……)

 すぐ目の前まで来たシイが、モネの襟ぐりを掴む。

「聞いてんだから、答えろよ! 」

 その言葉に被せるように、

「シイっ! 」

サナが叫びながらモネとシイの間に割って入り、シイの手を掴んで、モネの襟からはずす。 

 サナは両膝を床について、モネと目の高さを合わせ、

「ゴメンね」

 シイは、忌々しげに大きく息を吐き、背を向けて、モネとサナから離れた。

 その時、モネの指が、何か、床とは違う、冷たくて固い感触の物に触れる。つい立の足だ。

モネは、そうだ、と思いつく。失敗した時のことを思うと、怖い。腕だけで吊り上げられたり、襟ぐりを掴まれたりするだけじゃ、絶対に済まない。

(でも……! )

 モネは、サナに気づかれないよう静かに、一度、深呼吸。腹にグッと力を込め、シイが自分に背を向けていて、距離もあることを、チラリと見て確認した。そして、素早く立ちあがりざま、つい立をサナに向けて勢いをつけて倒すと、ドアへと走る。

(待ってても、助けなんて来ない! 自分で逃げなきゃ! )


 ドアを出ると、右手側に、真っ直ぐ奥へと続く薄暗く冷たい感じの廊下。左手側に、長椅子が並ぶ、病院の待合室のような場所が見えた。

 その待合室のような場所の向こうが、他の場所に比べて少し明るい気がした。ここからは見えないが、すぐ近くに出口があるかも知れない、と思い、左手側に走るモネ。

「いけない! むやみに外に出ちゃ……! 」

 後ろから、サナの声が聞こえる。続いて、こちらに向かってくる足音も。

 モネは振り向かない。確認しなくても、追ってきてることくらい分かる。とにかく、必死で走った。

 前しか見ないで走って、突き当たり、磨りガラスの窓がはめ込まれたドアを右手に見つけ、開ける。


 窓がはめ込まれたドアの向こうは、外だった。しかし、モネの望んでいた外の世界とは、大きく様子が違っていた。

 モネの開けたドアの真正面数メートル先に、学校の校門のような、古そうなレンガで出来た大きくて四角い柱が2本建つ門。その両脇から、養生所という名称らしい、この建物を囲う形で両側へと続く、やはりレンガで造られた塀。その向こう側には、ありふれた雰囲気の住宅地が見える。……そこまでは、いい。大きく違っていたのは、ドアの前、少し開けた平らなスペースを置いて、すぐの、5段しかない階段の下に、門から溢れ出てしまうほど大勢の人がいたこと。

 ごく普通に、それぞれ自分の近くにいる人と喋ったりなどしている、その大勢の人々の額中央には、サナやシイと同じような黒い文字のような絵のようなものがある。

 あまりのことに、モネは反射的に一度、大きく息を吸い込んだきり、呼吸が出来なくなってしまった。

 人々の視線がモネに集中。一瞬、辺りが静まりかえり、そしてまた、ザワつく。

「人間だ」

「な、言ったとおりだろ? オレ、見たんだよ。サナ先生が、人間を、お連れになって、養生所に入られるとこを! 」

「ああ、確かに人間だ」

「うん、人間だ」

との声が聞き取れる。

 突然、拳ほどの大きさの石がモネに向かって飛んできた。大勢の人々のうち誰かが投げつけたのだ。

 モネは、すっかり固まってしまっていて動けない。ただ、ギュッと目をつむる。 

 と、

「危ない! 」

サナの声。

 グイッと手首を引っ張られ、モネは、強引に、何か温かいものの中に包み込まれた。

 直後、ゴッ、と鈍い音。

 モネは、恐る恐る目を開ける。

 下向き加減だったモネの視界に真っ先に入ってきたのは、白衣の裾と、足下に転がる、自分に向かって飛んできたはずの石。それから、たった今、視界を上から下へと縦断してきて足下を濡らした一滴の赤い液体。

 モネは視線を上に向ける。そこには、額の上のほう、生え際あたりから血を滴らせ、顔を歪めるサナ。

 サナは、モネと視線が合うと、フッと目を優しくし、気遣うように、

「大丈夫? 」

 モネは、石が当たろうという、まさに、その瞬間、サナの胸の中に庇われたのだった。

(…この人……)

どうして自分を庇うのか、と、モネは驚き、混乱する。

 養生所の中からシイが飛び出して来、サナに駆け寄った。

「サナ! 大丈夫かっ? 」

 サナは、シイに、大丈夫だ、といったように手のひらを見せる。

 その時、

「サナ先生は、人間の味方をなさるのですかっ? 」

大勢の人々の最前列にいた20代前半くらいの女性が口を開いた。

 サナは女性のほうに顔を向け、

「何、言ってるの? 」

それまでモネに見せていた優しい表情とは、うって変わった険しい表情。

 女性は、ビクッとして黙り込んだが、その周囲の人々が、殺気立った様子で、女性を押し退けるように一歩、前に進み出、それぞれ片手のひらをモネとサナに向けて突き出した。

 その手のひらから、何やら白いものが、凄い勢いでモネとサナのほうへと伸びてくる。

 モネは再び、サナの胸に庇われた。

 シイは、素早く身を伏せる。

 モネとサナの体スレスレのところを、人々の手から放たれた白いものが通過し、2人の背後の外壁や開け放ったままだったドアに穴を開けた。

(っ? …何? 今の……)

 もし、これが体に当たっていたら、と、モネはゾッとする。

 何の道具も使わずに、手のひらから伸びた白いもの。…これは……

(…水……? )

壁に開いた穴の周りが濡れていた。そういえば、だいぶ前にテレビで観たことがある。……何かの工場で、高圧の水を使って硬い金属を切断する光景。そのため、水など液体で壁に穴を開けられるのは分かる気がするが、どうして手から……? 

 モネは怖いのを通り越して、ワケが分からず、呆然としてしまう。

 サナはモネを放し、モネを背に庇うようなかたちで階段の下の人々に向き直った。

「皆、聞いて! 」

 そこへ今度は、手のひらから水らしきものを放った人々の少し後ろにいた人々が、モネたちのほうへ手のひらを向ける。

 シイが身を起こし、いっきに階段を飛び下りて、大勢の人々と向き合う格好で地面に片膝をつき、サナを振り仰いで、

「サナ、今は何を言っても無駄だ」

早口で言い、地面に両手をつく。

 シイの視線も意識も、地面に集中。

 ゴゴゴ……と地鳴り。

 地鳴りに伴い、シイと大勢の人々との間の地面が、生き物のようにムクムクと、下から上に向かって盛り上がっていく。

 モネたちのほうへ向けられた複数の手のひらから炎が噴き出した。

 直後に、両側面の塀から塀にわたり、平屋建ての養生所の建物の倍の高さはある土の壁が完成。炎を防いだ。

 その土壁はシイが地面に手をつくことで作り出したものだと、モネは分かった。

 分かったが、分からない。 手のひらから水のようなものを放った人々といい、炎を噴射した人々といい、土壁を作るシイといい……。何がどうなって、そうなるのか、もう本当にワケが分からない。

 混乱しきるモネ。

 シイは立ち上がり、サナを振り返った。

「とりあえず、逃げよう。一度、養生所の中に入って、裏口から抜ければいい」

 サナは頷き、モネの手をとる。

 と、先程と同じ、水のようなものが、シイの土壁を貫いた。

 シイは舌打ち。

「あんまり、もちそうにねえな。急ごう」

 サナは、もう一度頷き、先に立って、モネの手を引いて養生所内へ。

 シイも、すぐ後からついてくる。

 モネは、ワケがわからないまま、手を引かれるまま。サナとシイの言動が、自分の存在さえも、何だか遠く感じられた。


 廊下を真っ直ぐ走って数秒後、モネたちは1つのドアに突き当たった。

 突き当たりのドアのノブに、サナが空いているほうの手を伸ばした、その時、足下が震動。

 シイは、

「クソッ、もう崩されたか! 」

歯ぎしり。

「これじゃあ、すぐ追いつかれちまうぞ! 」

 サナが、

「とにかく、外に出よう。僕に考えがある」

ノブを回し、ドアを開ける。

 そのドアは、さっきシイが言っていた裏口だったのだろう。開けた先には洗濯物が干してあったりして、生活感が漂っていた。

 3人揃って裏口を出ると、サナは、シイに、自分たち3人が入れるくらいの穴を掘ってくれるよう頼む。

 シイ、

「こんな所に穴掘って隠れたって、すぐ見つからないか? 」

 サナは、いいから、と短く返す。

 シイは首を傾げながら、地面に手のひらを向けた。すると、ボコッという音とともに、一瞬のうちに、直径1.5メートル程の円形、深さ3メートル程の穴が地面に開いた。

 サナ、シイに、その穴に入るよう促す。

 シイは納得いかない様子のまま、穴の中に飛び下りた。

 続いて、

「さ、君も」

サナは、モネにも穴に入るよう言う。

 それまでワケが分からないまま、ただ、そこにいたモネは、突然直面させられた自分で動かなければならない場面に、急に、今の、この状況を身近な現実と感じ、躊躇った。サナの言葉に従っていいものか分からない。それを抜きにしても、3メートルは結構深く、怖い。

 飛び下りずにいるモネ。

 サナは、

「シイ、受け止めて! 」

穴の中のシイに声を掛けるなり、モネの背を押した。

(! )

モネはバランスを崩し、反射的に身を固くしながら穴に落ちる。

 実際に落ちている時間というのは、ほんの一瞬だったはずなのに、恐怖から、とても長く感じ、シイに受け止められた時には、その腕の中が安全かどうか分からないにもかかわらず、安堵の息が漏れた。

 シイがモネを自分の腕から穴の底面に下ろしたところへ、サナも飛び下りて来、底面に着地すると、すぐさま人指し指で頭上を指す。

 つられて頭上を見るモネとシイ。

 と、穴の上部、入口に、微かに揺らめく柔らかそうな質感の無色透明の蓋が出来た。そして、みるみるうちに、その無色透明の蓋に蓋の周囲の土が混ざり、茶色く濁る。どうやら、水のような液体で出来た蓋のようだ。

 その蓋はサナが作ったのだと、モネは分かる。

 モネの感覚は、何だか麻痺してきていた。手のひらを地面に向けるだけで大きな穴を掘るのを見ようが、頭上を指さしただけで水のようなもので蓋を作るのを見ようが、いちいち驚かなくなってきていた。

 シイが蓋を見あげたまま、感心したように口を開く。

「サナ、すげえ頭いい! これって穴の外からじゃ、水溜りにしか見えないよ! 」

 サナ、ワザとらしく胸を張り、

「でしょ? 」

 シイは、大きな溜息を吐き、

「頭、いいのになあ……」

その場に、しゃがみ込んで頭を抱えた。

「どうすんだよ、これから……。…って、オレもだけどさ……」

それから、しゃがみ込んだまま顔だけを上げ、サナを仰ぐ。

「サナの考え方はオレも分かってるけどさ……。でも、あんな堂々と人間を庇うなんて、さすがに不味過ぎるだろ? 」

 サナは沈んだ表情で俯き、

「…ゴメン……。シイまで巻き込んで……」

 シイは大きく息を吸い込みながら立ち上がり、サナの肩に手をのせ、

「まあ、過ぎたことは仕方ないさ」

意識してのことと思われる軽い調子で言ってから、考え深げに、

「問題は、これからどうするか、だな」

 サナは沈んだまま、

「皆が落ち着くのを待って、ちゃんと説明すれば、分かってもらえないかな? 」

 その言葉に、

「説明? 」

シイは、呆れた、といった口調。

「人間を庇うなんて行動につながった、サナの考え方を? そりゃ、火に油だ」

 「そう、だよね……」

サナは小さく息を吐く。

 シイはサナから視線を逸らしながら、投げ出すように、

「分かんねーけどな」

 黙り込むサナとシイ。

 今は、あの大勢の人々に見つからないよう隠れてなくてはならない、という程度にしか状況を理解しようがないモネは、ただ黙ってサナとシイを見比べながら、その会話を聞いていた。分からないことが多すぎると考えようと思わなくなる。……サナとシイに対して、いつの間にか、怖いと思う気持ちが消えていたから、余計かもしれない。

 しかし、怖く感じなくなったとは言え、

「ねえ」

不意に自分に向かって声を掛けられたりすると、やはり、ビクッとしてしまう。

 声を掛けた側のサナは苦笑しつつ、最初に聞くべきなのに、まだ聞いてなかったよね、と前置きし、

「君、名前は? 」

 モネに向けられた、答えを待つ眼差しは優しい。モネの心が、フッとほどける。答えやすい質問によって、久し振りに発したために掠れた声が、導き出された。

「…吉川、モネ、です……」

 サナ、ホッと息を漏らしながら笑み、

「やっと、口をきいてくれた……。モネ、か。いい名前だね」

 モネの胸が、一度、トクン、と、大きく脈打った。父以外の男性に下の名前で、しかも、こんなに優しく呼ばれたのなんて、初めてだ。

 モネは、思わずサナを見つめる。

 と、サナの生え際から額、目の横へと伝った乾いた血液が目に留まった。胸が、今度は、キュウッと締めつけられるような感じがした。

(私を、庇ったから……)

 モネはポケットからハンカチを出し、サナに差し出す。

「これ、よかったら……。オデコ、血が、ついてるから……」

 サナは、ちょっと驚いた様子で、

「ありがとう……。でも、汚れちゃうよ? 」

 モネは、何だか急に恥ずかしくなった。お節介だと思われたかも、と。普段は自分からハンカチを貸すなんて絶対しないのに、どうして、そんなことをしてしまったのだろう、と、後悔。どうにも、いたたまれなくなって、目を逸らし、ハンカチをサナの胸元へ押しつけるように渡して、

「いいから拭いて! そのままにされてると、何か、私のせいだって責められてるみたいで嫌なの! 」

言ってしまってから、庇ってもらったのに言い過ぎた、と、口元を手で押さえ、サナを窺う。

「何だよ、それ! 」

 横からシイが怒った。

 モネは、ビクッと竦む。

「お前を庇ったせいで、サナがどれだけ……! 」

「シイ! 」

 当のサナは怒った様子はなく、大きな声でシイの言葉を遮ってから、静かに、

「いいんだよ。僕が、僕自身のために、僕の責任でしたことだ。モネは、何も悪くないよ」

それから優しい笑みを浮かべ、モネの目を覗く。

「ありがとう。じゃあ、遠慮なく使わせてもらうよ」

(この人って……)

 サナの優しさが痛くて、モネは、サナの、ハンカチを持つ手のほうへと、目を逸らした。

 シイは大きな溜息を吐き、モネとサナに背を向ける。

 サナが片手でハンカチを握ると、ハンカチが濡れた。濡らしたハンカチを軽く絞って、傷口を避けて血液を拭き取る。

 拭き終えたハンカチを自分の手から出る水で濯ぐサナ。

 数十秒後、濯ぐ手を止め、とても気にした様子で、濯いだが、やはり血液だから汚れが落ちないと、謝る。

 汚れると分かっていて貸したんだから気にしないで下さい、と、モネは上の空気味に返し、ハンカチを受け取った。

 上の空なのは、考え事をしていたから。

(…言いたい。…でも……)

と、迷っていた。あんな酷い言い方をしておいて、今さら、こんなことを言ったら、馬鹿みたいだと思われるかもしれない、と。

 胸が、キュウキュウと苦しい。言ってしまえば、どんな結果が待っていても、楽には、なるだろうか? ……そう考え、モネは思いきって、サナに向けて、まっすぐ顔を上げ、

「ありがとう。庇ってくれて」

言った。

 ハンカチのことで申し訳無さそうに俯いたままだったサナは、驚いた表情でモネを見る。

 モネは緊張する。

 少しして、サナはニッコリ。

「どういたしまして」

 モネは、気持ちがスウッと楽になった。

(…言って、よかった……)


「ところで、さ」

サナが笑みを消し、緊張さえ感じられる真面目な表情で口を開いた。

「モネは、ここに来れるってことは、人間って言っても、何か、次元を越えられるような特殊な能力を持ってるってこと? 」

(? )

モネは、質問自体が理解できない。サナ自身が、モネを、ここに連れてきたはずなのに、と。

 そう、モネが言うと、サナ、

「ここ、って、養生所のことじゃなくて、人間の世界から、この国に来れたのが、って、ことなんだけど」

(? ? ? )

言葉を付け加えられても、やはり分からないモネ。

 サナは、注意深くモネの心を探るように、モネの目の奥を見つめた。

「もしかして、ここが竜国りゅうこくだってことも、分かってない? 」

「? リュウコク……って? 」

竜族りゅうぞくが暮らしてる国だよ」

「リュウゾク……? 」

 サナは驚いて、

「竜族を知らないの? 」

 モネが頷くと、サナ、

「そっか、知らないんだ……」

小さく息を吐く。

「じゃあ当然、さっき、表にいた人に石を投げつけられたりした理由も、分からないよね? 」

 サナの説明によると、竜族というのは、モネと同じ人間。ただ、水や大地、火、風などを操る能力を持つという違いがあり、外見的にも、額に、その能力によって分類される種族の、族印ぞくいん、と呼ばれる印が生まれつき刻まれているだけ、とのこと。

 モネはさっきから、額に字か絵のようなものを書いてあるという変なところはあるにしても人間にしか見えないサナやシイ、表にいた大勢の人々が、モネを指して、人間、と言うことが引っかかっていた。今のサナの説明を聞いて、更に疑問は深まった。同じ人間だと言うのなら、違いはあっても、だけ、の違いだと思うのなら、何故、モネを人間と呼んだのか、と。

 サナの答えは、

「そう思ってるのは、僕だけだからだよ」

 聞けば、サナ以外の竜族の人々は、皆、今から160年以上前の出来事が原因で、自分たち竜族と人間を、完全に分けて考えているのだという。

「今から163年前、この竜国は、まだ存在してなくて、竜族の先祖は、人間たちと一緒の世界で暮らしていたんだよ。人間の持たない能力を持っていることで、気味悪がられ、恐れられていることを理解し、受け入れ、当時生きていた先祖たちの、もっと前の先祖の時代から、竜族は、人里離れた山奥で人間たちとは距離をとって生活してきた。そうして何事も無くやってこれたんだけど、ある日、たて続けに大きな地震が2つも起こってね。竜族は、皆で自分たちの持てる力を合わせて、自分たちの村を守った。その甲斐あって、村は人的にも物的にも何の被害もなかったんだけど、無事だったことで人間たちから疑われたんだ。地震を起こしたのは竜族じゃないか、って……。人間たちは、大勢で、竜族の村を襲ってきた。まともに戦えば、長い目で見れば無理でも、その場は勝てたかも知れないけど、当時の王族おうぞくおさ……って、簡単に言うと、竜族の中で一番偉い、指導者的立場の人なんだけど、その、王族の長が、戦うことを拒否したんだ。地震によって大きな被害を受けた人間たちを、これ以上傷つけたくない、って……。 当時の竜族は、自分たちは人間に嫌われていると知っていながら、人間が好きだったんだろうな……。村を離れ、更に山奥へと入って身を隠し、戦いを避けた。頃合いを見て村に戻ると、人間たちによって建物は破壊しつくされ、逃げ後れた竜族は変わり果てた姿になっていた。王族の長の考えを汲んでのことか、抵抗の跡は、全く見られなかったらしい」

(…そんなことが……。全然、知らなかった……)

 竜族の存在自体知らなかったのだから、当然だが……。

 サナの話を聞いていて、モネは、何だか、居心地の悪さを感じた。竜族に、そんな仕打ちをしたのは、モネではない。だが、きっと、表にいた人々、サナやシイにとっても、一括りに、人間、なのだと思えたから……。 

 サナは話し続ける。

「その出来事で悲しむ竜族の前に、現在も僕たち竜族が崇拝する神である、リュウシンが現れたんだ。 リュウシンは、平和に暮らせるようにって、人間たちの住む世界とは別の次元に、竜族の暮らしていける環境を整え、人間に襲われた村の竜族だけじゃなく、人間の世界各地で同じように人間たちと距離を置いて暮らしている他の村の竜族も、その別次元の環境に呼び寄せたんだ。 それが、竜国の始まりだよ」

(…ちょっと待って……)

モネは、サナの話の中の、ある、たった1部分をきっかけに、それ以降の話が全く頭に入っていかなくなっていた。

(人間の住む世界とは別の次元に整えられた環境……って? マンガなんか読んでると、たまに出てくる、異次元とか異世界とかいうもの、みたいな……? )

 それは、そもそもフィクションであるマンガのために作られたものであるため、当然、何の根拠にもならないが、マンガの中の一般常識で考えると、

(普通に歩いたりバスに乗ったり電車に乗ったりして帰れない場所、ってこと? )

 モネは青ざめる。

(私、帰れない……? )

 サナの話は続く。

「どうして僕が、そんな160年以上も昔のことを知ってるかっていうとね、竜国では、子供時代に、学問所って所で教育を受けることが義務付けられてるんだけど、今、話したことは、その学問所で教えられることだからなんだ。だから、もちろん、竜族なら、皆、知ってる。しかも、事実として淡々と教えられるんじゃなくて、人間を憎むように憎むようにってふうに教えられるんだ。それを教わっていた当時は、僕も、その教え方について何の疑問も持ってなかったけど、今から5年くらい前にも一度、人間の男の人が竜国に来たことがあって、彼は、見つかるなり、人間だという理由だけで、よってたかって攻撃されて殺されてしまった。……その場面を目の当たりにして、僕は、この国の教育に疑問を持つようになったんだ。歴史的事実を正確に語り継ぐことは大事だけど、憎しみまで語り継ぐべきじゃないんじゃないか、って。人間の世界で竜族のことが語り継がれてないらしいことには驚いたけど、それは、きっと、人間にとっては、163年前のことも竜族の存在自体も、歴史的な出来事じゃなかったからだね。でも、それはそれで良かったと思うよ。モネが竜国や竜族に対して何か悪い企みを持ってここへ来たんじゃないことの証明だからね。…5年前の彼もそうだったのかも知れないって考えると、胸が痛むけど……。それに、人間が自分たちの過ちを知って反省した上でというのなら、過ちを繰り返さないためにも語り継ぐべきだとは思うけど、真実を知らない人間たちが語り継ぐとなると、大地震を起こして多くの人命を奪った極悪集団竜族への憎しみ、になりそうだからね」

 そこまでで、心ここにあらずのモネの状態に気づいてか、サナは小さな笑みを作り、

「って、モネに、こんな話しても、仕方ないよね。ゴメン……」

口を閉じた。


 頭上から、ザワザワと人の声がする。表にいた人々が穴のすぐ傍まで来ているのだろうか。

 サナ、頭上を気にしてから、

「今、この場所から人間の世界に帰ることって出来る? モネが竜族にとって危険な人間じゃないって、僕とシイは分かったけど穴の外の人たちは知らないし、今、説明するのは難しいと思うんだ。だから、今のうちに帰ったほうがいいと思うんだけど」

(…どうやって……? )

 途方に暮れるモネ。

 モネの表情を見て取ってか、サナ、

「…もしかして、帰れないの……? 」

 モネは頷く。

 サナは、ちょっと驚いたように、

「じゃあ、どうやって、ここへ来たの? 」

 モネは俯き、首を小さく横に振った。

(そんなの、分かんないよ……)

 下校時に地震に遭って、地面の亀裂に落ち、気づいたときには養生所のベッドの上にいたのだ。分かるわけがない。

 「もしかして、モネは次元を越える特殊能力があったりするわけじゃなくて、自分では何も意識しない状態で、偶然、ここに来ちゃったの? 」

 モネ、頷く。

 サナは声のトーンを落とし、気遣うように、

「…そうなんだ……。帰りたい、よね……? 」

 その時、頭上の水の蓋を破って、

(! )

中年の竜族の男性が2人、穴の中へ落ちてきた。

 2人の男性は、穴とは知らずに落ちてきたらしく、着地に失敗。1人は背中を、もう1人は尻を穴の底面に強か打ちつけ、打ったところを、さすりながら起き上がると、モネを見つけるなり目を円くして、2人同時に頭上に向かって叫んだ。

「いたぞっ! 」

 痛みに顔を歪めながら立ち上がる2人の男性。

 サナがモネを背に庇うようにモネと男性2人の間に入り、更に、そのサナを庇うように、シイがサナと男性たちの間に割り込んだ。

 殺気立つ2人の男性。

 モネは頭上からも殺気を感じ、仰いで、いくつもの顔が穴を囲んで、自分たちのほうを覗き込んでいるのを見、固まる。

 穴を覗き込んでいる人々が、一斉に穴の中に向けて手のひらを突き出した。

 穴の中の中年男性2人が慌てた様子で叫ぶ。

「おい! 何するんだっ! 」

「オレたちもいるんだぞっ! 」

 そんな2人の声など、聞こえていないよう。穴を覗く人々の手から、炎が放出された。男性2人は反射的に頭を抱え込んでしゃがみ、モネはと言えば、

(! ! ! )

あまりの恐怖に、すっかり竦みあがり、一瞬、呼吸や鼓動まで止まった感覚。体が、スウッと冷たくなる。目を閉じることすら出来ない。

 咄嗟に、サナがシイを押し退けるようにして穴の中央へ。両腕を頭上に突き上げ、手のひらを上へ向け、太い柱状の水を放った。穴の外の人々から放たれる、いくつもの炎を、いっぺんに押し戻して、炎が、モネやシイ、男性二人に当たらないよう、食い止めようとする。

 が、多勢に無勢。時折、サナの水柱に勝って、穴の中の一同まで到達する炎。

 モネ以外の一同、それぞれは、自分の持てる反射神経を駆使して避け、

(怖いっ! …熱い……っ! )

完全に固まりきってしまっているモネの場合は、運で、その直撃を免れていたが、体のすぐ近くをかすめていく炎は、髪や衣服を焦がす。

 モネの全身が、カアッと熱くなった。

 直後、

(つっ……! )

額中央に、刺すような痛み。モネは額を押さえる。

 痛みは次第に強くなり、モネは、気が遠くなってきた。

 そこへ、

「やあ、楽しそうだね。何のお祭り? 」

穴の外で、実に気楽な感じの男性の声。

 炎の攻撃がやむ。

 サナは、自分の水柱の向こうの様子を探るように、暫し、目を凝らすようにしてから、上げ続けていた腕を下ろした。同時に、水柱も消える。

 気楽な感じの声の質問に、サナ先生とシイ様が人間の娘を庇うのだと訴える声。

 気楽な声は、

「そう。それはそれは、大変だねー」

全く大変だなどと思っていないような軽い調子で返し、軽いままの、

「とりあえず、この場は僕に預けてくれる? 」

 その言葉のすぐ後、1人の男性が穴に飛び下りてきた。

 長めの前髪を横分けにして流し、カチッとしたジャケットをカジュアルなパンツと合わせて着崩した、小洒落た印象の、サナより少し年上と思われる男性。横分けにして流した長めの前髪の隙間、額中央に、竜族の族印と聞く、サナやシイをはじめ校門を出たところで地震に遭って以降に見かけた全ての人と同じような、黒い字のような絵のようなものが覗く。

 サナが、

「ナガ、どうして、ここに? 」

小洒落た男性に話しかけた。

 ナガ、という名前らしい。

 ナガが返した。

「んー、ここの斜向かいの御茶屋の看板娘のイグちゃんに誘われてね、デートしてきて、彼女を送り届けて、帰るトコだったんだけど、何か、こっちから賑やかな声が聞こえてきて、楽しそうだったから立ち寄ってみたんだけど……」

 その声、その軽さは、穴の外から聞こえた、気楽なもの。

「一体、どうしたの? 」

 問い返されて、サナは答える。発電所近くの林の中でモネが倒れているのを見つけ、監視目的で連れ帰ったこと。話してみた結果、特に危険な人間ではないと判明したこと。その答えに、ナガ、

「何だ、大して楽しい話じゃないね。わざわざ立ち寄って損したかな……? 」

軽くガッカリしたように息を吐きながら、チラッとモネを見る。

 額の痛みは、既に、いつの間にか治まっていたが、何となく額を押さえたままだったモネ。

 ナガは一度、サナのほうに視線を戻しかけるが、ふと一瞬、動きを止めてから、また、モネのほうを向き、今度はジーッと、覗き込むようにモネを見つめた。

 何だろう? と、モネはナガの目を見つめ返すが、ナガが見つめているのはモネの目ではないらしく、視線はぶつからない。

 ナガは、モネに歩み寄ると、

「ちょっと失礼」

言って、額を押さえているモネの手をどかした。そして、

「やっぱり、これは……」

驚いた表情で呟いたかと思うと、突然、クックッと肩を揺すり、

「面白い……! 」

声をたてて笑い出す。

 モネは、

(……? )

他人の顔を見て面白いと笑うなんて、と、軽く不快感。

 ナガは顔に笑いを浮かべたまま、見てみなよ、と、サナとシイを振り返る。

 ナガにつられてサナに目をやるモネ。

 サナは、驚いた様子で立ち尽くし、モネを見つめていたが、やはり目は合わない。

 シイも、サナの隣で驚きをあらわに、

「…王族の、族印……」

呟いたきり、絶句。

 たまたまモネの視界に映り込んでいた中年男性2人は、慌てた様子で底面に平伏した。

(? ? ? )

 全く状況が掴めないモネ。

 ナガは、ジャケットの胸元の内ポケットから小さな鏡を取り出し、気取った感じの仕草と口調で、

「ご覧になられますか? 」

モネの顔へと向けた。

 何の気なくモネが覗いた鏡の中には、

(……! )

額中央に竜族の族印がある、自分の顔。

 驚き、

(何、これ……! どうしてっ……? )

確かめようと、鏡を見ながら、自分の額の族印に手をやるモネ。さっき、痛くて押さえていた間も、何の感触も無かったが、今も、特に、その部分だけ脹らんでいるとか、そこだけザラつく、カサつく、ベタつく、といったようなことはない。強めに擦ってみても、消えずに、周りの皮膚が赤くなるだけ。

(ヤダッ……! )

モネはショック。右手で額を覆い、族印を隠して俯いた。

 視界の隅でナガが、鏡を自分のほうへ向け、ちょっと前髪を整えてから、元通り、胸元へ仕舞う。それから、ごく自然な流れるような動作で、モネの左手をとった。

 モネは、軽くビクッ。顔を上げ、ナガを見た。

 ナガは、フッと甘く笑って見せ、ワザとらしく気取った感じで一礼し、

「では、姫。早速、穴の外の民衆に、ご挨拶を」

(……姫……? )

 キョトンとしてしまうモネ。

(…って、私……? )

 その無言の問いに、ナガ、

「そうです。アナタです。姫」

返してから、シイに向かって、冗談な感じで偉そうに、

「シイ君、この穴の底を、このまま上に移動させてくれ給へ」 

 シイは驚きから立ち直り、ムッとしたように、

「オレに命令すんなよ」

 やはり驚きから立ち直った様子のサナが、ちょっと笑って、まあまあ、とシイの肩に手をのせる。

「確かに、もう、穴の中にいる必要は無いね。シイ、お願い」

 「そりゃ、もう穴ん中にいる必要は無いけどさ、何か、オレがやるのが当たり前みたいに言われると腹立つよ」

ブツブツ言い、最後に、

「特に、ナガなんかにっ! 」

ナガを睨んでから、シイは穴の底面に手のひらを向ける。


 底面が、ゴゴ……と震動しながら、ゆっくりと、エレベーターのように上がっていき、穴の周りの地面と同じ高さで停まった。

 そこには、養生所の表にいた大勢の人々全員と思われる人数が、穴を取り囲むようにして立っていた。

 底面が停まると同時、人々の殺気立った視線がモネに集中。

 その殺気の理由を知った今、モネは、攻撃など受けなくとも、その大勢から発せられる憎悪だけで押し潰されるように感じた。

 と、不意に、ナガがモネの右手首を掴み、額を覆っていた手を強引に剥がした。

(何を……っ? )

 モネは驚いてナガを仰ぎつつ、族印を人に見られるのが嫌で、急いで右手を額に戻そうとする。

 が、ナガが手首を掴む手に力を込め、それを邪魔した。

 モネは負けずに、何とか、手を額に持っていこうとする。

 それに対し、ナガも更に手に力を込め……、と、そうこうしている間に、モネの視界の隅で、モネの、ほぼ真正面最前列に立っていた人々が、驚きをあらわに、後ろの人にぶつかりながら、数歩、後退り。膝を折り、地面に額をつけた。

 その行動は、順次、後ろへ、両側へ、伝わっていき、まるで、海の潮が引いていくように、数秒後には、穴の外にいた全ての人々が跪いた。

 異様な、その光景に、

(? )

モネはナガへの抵抗をやめ、人々のほうを向く。

 モネの隣で、ナガが小さく笑いながら呟く。

「楽しいねえ……」

 人々の、急な態度の変化。モネは、ワケが分からない。

 楽しいねえ、と呟いたきり、無言で笑みを浮かべながら、暫し、人々の様子を眺めて心から楽しんでいたように見えたナガが、

「姫」

急に笑みを消し、口を開いた。

 全く呼ばれ慣れない呼び名に、モネは反応出来ず、改めて、

「アナタです。姫」

至近距離から真っ直ぐに顔を覗き込まれながら呼ばれ、初めて、

「は、はい? 」

自分のことだったと思い出した。

 ナガは恭しく頭を下げ、

「参りましょう」

(……どこへ? )

モネの無言の問い。

 ナガは顔を上げて答える。

「王族の長の所へ。ワタクシメが、ご案内いたします」

 王族の長……サナの話の中で出てきた、竜族で一番偉い、指導者的立場の人だ。

(…そんな人に、会いに……? )

 途惑い、意見を求めるべく、サナを見るモネ。そんな自分の行動に、ハッとした。いつの間にか、自分がサナを頼りにしていたことに気づいて……。

 サナの隣でシイが、

「まあ、当然だな」

 サナも頷く。

 モネは、サナについてきて欲しいと思ってしまいながら、サナを見つめた。

 モネの気持ちに気づいてか、サナ、優しく笑って。

「僕も一緒に行くよ」

 その一言が、サナが一緒に来てくれることが、とても心強い。

 ナガ、シイに、

「シイも一緒に来てよ。証人は多いほうがいいから」

言ってから、穴の中に落ちてきた2人の中年男性にも、

「あ、君たちも頼むよ」


               *


 ナガを先頭に、モネ・サナ・シイ・中年男性2人は、養生所の表側に面した道路に出た。

 右手側を気にして見ているナガ。

 少しして、乗合電動車両のりあいでんどうしゃりょう、という名前らしい、バスのような乗物がやって来た。

 ナガが手を上げると、乗合車両は停まり、一同は、前側にしかないドアから乗り込む。

 2人掛けの座席に挟まれた通路の板張りの床を軋ませながら車内を奥へ進み、最後部の5人掛けの座席に6人で座った。

 サナの隣に腰掛けたモネは、さっきナガによって剥がされた、額を覆っていた手を、ナガから解放されて以降、すぐに額へと戻し、今も、覆ったまま俯いている。

 サナがモネの顔を覗きこみ、気遣うように、

「モネ? どうしたの? 」

 モネは返答に困った。素直に言っていいものかどうか、悩んだ。族印が嫌だ、なんて……。サナにとっては、目や鼻や口と同じ、顔のパーツの一つのはず。その存在を否定するようなことを言ったら、サナがどう思うか……。

 モネが黙っていると、サナ、

「族印が気になるの? …そうだよね、今まで、無かったものだもんね……」

 理解を示そうとしてくれている、その言葉に、モネは、

「これって、消せないんですか……? 」

小さく返した。

 サナは言い辛そうに、低く頷く。

 それに被せるように、サナの向こうに座っているシイ、

「いいじゃねーか、別に」

放り出すように言う。

「人間の世界には帰れねえんだろ? だったら、族印があったほうがいいじゃねえか。……って言うか、もし、あのタイミングで族印が出てなかったら、今頃、どうなってたか分かんねえぞ? 」

 モネは、確かにそうだ、と思った。人間の世界には、帰れない。この竜国では、額に族印があっても誰も変な目でなど見ない。……と、言うより、ついさっきまで、族印が無かったがために大変な目に遭っていたのだ。それに、今となっては、サナやシイに族印があることが自然のことに見える。逆に、族印の無い彼らの顔など、想像できない。自分も、そうかも知れない。そのうち、自分の顔に族印があることが当たり前になる時がくるかも知れない。…当たり前にならなくても受け入れなければ、と思った。消せないものは仕方ないのだから……。

 モネは、そっと額から手を下ろし、顔を上げた。

 サナとは反対側のモネの隣で、ナガが、すかさず、

「その族印、誇り高い印象をお持ちのアナタには、まるで生まれついてのもののように、よくお似合いです。神々しささえ感じられます」

甘い笑顔を見せる。

 瞬間、シイが膝を叩いて笑った。

「ナガ、お前、ホント、女を褒めることに関しちゃ天才的だな! まったく、モノは言いようだ。こんなの、族印が王族のでさえなけりゃ、ただの生意気でワガママな小娘なのにさ」

(こんなの? 生意気でワガママな小娘? )

 モネは、その部分に引っかかりを感じたが、すぐに思い出した。…さっき、まだ穴の中に隠れている時に、自分を庇ったために血を流したサナに対して自分が放った言葉……。小さくなりながら、心の中で、すみませんでした、と謝る。

 ナガ、咳払い。

 シイは溜息を一つ吐き、

「あーあ、いいよなー、王族の族印……。この先、贅沢な暮らしが約束されてるようなもんじゃん」

 シイのボヤきから間髪入れずに、

「果たして、そんな単純なものかな……? 」

ナガが呟いた一言。

 そこから楽しげな響きを感じ、モネは、

(ん……? )

ナガについて、この人って、一体どういう人なんだろう、と思った。 モネの族印を初めて目にした時、別に笑う場面でもないだろうに、面白い、と言って笑った。モネの族印を見た穴の外にいた人々の急な態度の変化も、楽しいねえ、などと言いながら、本当に楽しそうに眺めていた。そして、たった今も……。何だか、変なところで面白がる。ちょっと変わった性格なだけ? それとも……。

 ナガの言うとおりに王族の長のもとへ向かってしまっていることについて、サナとシイも同意見ではあったが、本当に、これでいいのか、と、不安になる。…もっとも、竜国について、さっきサナから聞かされたこと以外は何も分からないモネに、選択肢は無いのだが……。…人間の世界に帰れたらいいのに……。こんな不安な状況は嫌だ……。

 そんなモネの思考を遮るように、シイ、

「でもさ、どうして急に、族印が出たんだろうな。生まれつきじゃなくて後から出たなんて話、聞いたことねーけど。って言うか、モネって結局、人間? 竜族? 」

誰に言うでもなく、大きな独り言のように言って腕組みをし、難しい顔で考え込む。

 モネは驚いた。自分は人間だ。人間の世界に生まれて、人間として16年間生きてきた。人間じゃないなんてことは、ありえない、と思った。

 ところが、

「族印があるからには、竜族だよ」

サナが、シイの疑問にサラッと答える。

「別に、不思議なことじゃないと思うよ。 竜族は、163年前まで人間と一緒の世界で暮らしてたんだ。いくら人間たちと距離をおいて生活していたとは言え、中には人間と交わりがあった人がいても、おかしくないでしょ? それに、ずっと大昔には、そんな距離さえおかずに生活してた。モネの先祖の中には、きっと、竜族がいたんだよ。族印は無くても、その血は世代を越えて受け継がれて、今、竜国の空気を吸って、あるいは、僕たちの能力は、基本的には自分の身を守るためのものだから、危険な目に遭ったのをキッカケに、体の奥で眠っていた、その血が目覚めた、とかじゃないのかな? もしかしたら、モネの意に反して竜国へ来てしまったのだって、竜族の血が竜国に呼び寄せられてのことだったのかも知れないよね? 」

モネ以外の4人は、サナの話に、なるほど、と頷いた。

 モネは、

(…そうなの……? )

その話は、それほど説得力のあるものなのだろうか。いまひとつ納得できず、

(私って、竜族? なの……? )

ひとり、首を傾げた。


 乗合車両は住宅街を抜け、左折。薄紅色の花が咲く背の低い木に両側を挟まれた、ゆるやかな坂道を上って行く。

「間もなくです。姫」

 ナガが言った数秒後、乗合車両は大きな門に突き当たって停車。

 モネとサナ・シイ・ナガ・ナガから証人を頼まれて共に来た中年男性2人だけが降りる。

 乗合車両は、右手側の空いたスペースを使ってUターンし、来た道を戻って行った。


「王族の長、カイ様の居城です」

 ナガの言葉に、モネは大きな門を仰ぐ。

 木製だが頑丈そうな、モネの身長の倍の高さがある観音開きの門扉。門扉の上部と左右を白い壁が囲い、更にその上に灰色がかった薄緑色の瓦屋根が載って、最終的にはモネの身長の3倍以上の高さになっている、立派な和風の門。門の左右から、その場から見渡せないほど遠くまで、石垣と、その上を門と同じ白い壁・薄緑色の瓦で飾られた、モネの身長の倍ほどの高さの塀が続いている。

(スゴイ……)

その大きさ、立派さ加減に、モネは圧倒された。こんなスゴイ所に住んでいる人に会うのか、と、緊張し、一層、人間の世界に帰りたい気持ちが強くなった。

「姫、参りましょう」

ナガが、大きな観音開きの右側の門扉に作られた普通サイズのドアを開き、声を掛けた。ナガが脇に避け、手のひらを上に向けて指し示している、そこを、モネは、すすまない気持ちでくぐる。

 と、目の前に、また坂が続き、その先に、今、くぐったものよりは小さめの、しかし、やはり立派な似たような形の門が見えた。

 モネの後を、他の5人が続いて普通サイズのドアをくぐり、一同は、先にある小さめの門へと歩いた。

 小さめの門をくぐると、足下には砂利が敷きつめられ、周囲をモネの身長ほどの生垣に囲まれた、所々、石の灯篭などが置かれている、和風の庭。その向こうに、ここまで来るのにくぐってきた2つの門と同じ白い壁、灰色がかった薄緑色の瓦を使用している和風の建物。…その大きさと言ったら……少し離れたところに建っているにもかかわらず、視界に収まりきらない。


               *


 小さめの門のほぼ真正面に、建物の玄関は位置していた。

 大きめに突き出したヒサシの下の、無色透明のガラスがはめ込まれた木製の引き戸をナガが開けると、そこは広いホールだった。ツルッツルに磨き込まれた黒い石の床。高い天井からは、無数のガラスが使われた直径3メートルはあるシャンデリアが2基下がり、ほんのり紫がかった上品な光を放っている。

(……)

あまりの美しさに、モネは緊張も忘れ、思わず溜息。暫し呆然としてしまい、

「姫。中へ、お進み下さい」

ナガに促され、ハッと我に返った。

 重たい気分のモネと他5名がホールに入ると、たまたま通りかかった様子の、紺色の作務衣姿の、モネとあまり変わらない年頃の少年が、モネたちに気づき、駆け寄ってきた。

 ナガが、にこやかな笑顔で、

「やあ、久し振りだね。お姉さんは元気? 」

少年に向かって、ゆっくり歩き、モネを含めた他5名とは数歩分離れた所で、作務衣の少年と何やら話す。

 ナガは楽しげに、少年は終始驚いた様子。 

 数分後、話を終えたらしいナガと少年は、モネたちのほうへ来、少年が、

「こちらへ」

と、ホールから、正面と右手側へと続く廊下のうち、右手側の廊下へと一同を誘導。

 廊下の手前でサナ・シイ・ナガが靴を脱いだのに倣って、モネと2人の中年男性も靴を脱ぐ。

 少年は低い姿勢で素早く、しかし雑さは感じさせずに、一同それぞれのためにスリッパを用意した。それから身を起こすと、右側すぐの引き戸を開け、

「こちらで少々お待ちください」

一同を、その引き戸の向こうの部屋へと通し、丁寧なお辞儀をして、去って行った。


 モネたちの通された部屋は、40畳ほどの広さの板張りの部屋。入って正面の窓からは、ついさっき通ってきた砂利の庭が見えた。入口から比較的近い右手の壁中央には、赤い蛇に、2本のツノと長いヒゲ、4本の足をつけたような生物の、大きな絵が飾られており、その手前に3畳だけ畳が敷かれている。左手の壁にも、蛇の絵よりも更に大きな、山が噴火している絵が飾られていた。 

 そこで庭を眺めるなどして待つこと20分弱だろうか、お待たせしました、と、先程の少年。

 少年は部屋に入ると、一旦、入口から横へ避け、入口のほうを向いて深く頭を下げた姿勢。

 ややして入口から、茶色のカチッとしたベストとズボン、白のワイシャツにネクタイまで締めた、堅苦しい身なりの、ナガと同じぐらいの年齢と思われる気難しそうな男性が現れ、まっすぐに、モネに向かって歩いて来た。

 少年はモネたちのほうへと体の向きを変え、そのまま入口横に正座。

 気難しそうな男性は、モネの1メートルくらい手前で足を止め、モネの頭の先から爪先までを、なめ回すように見た。

 モネは極度の緊張から固まる。

(…この人が、王族の、長……? )

 ナガが、モネのすぐ隣で、

「侍従長のムタ君です」

モネ向けに、しかし、気のせいかも知れないが、気難しそうな男性を意識してのことと思える、ふざけた感じの、挑発的とも受け取れる口調で男性を紹介。

 ああ、王族の長じゃなかったんだ、と、モネは、ほんの少しだけ力が抜けかけるが、モネの感じた、ナガの今の言葉の挑発的な雰囲気は気のせいではなかったらしく、ムタは、目だけでキロッとナガを睨んだ。その視線の鋭さに、モネは、今度は恐れをなして石化。

 ムタは、入口横の少年を振り返り、

「こちらの、お方か? 」

モネをアゴで指す。

 少年が、はい、と答えた。

 ムタはモネに向き直り、ふーん、と言いながら、また、頭の先から爪先までを、なめ回すように見、淡々とした口調で、

「うちの者から大体の話は聞きましたが、とりあえず」

そこまでで一旦、言葉を切り、

「試させていただきましょう」

言うが早いか、右手のひらをモネに向けて突き出した。

 そこから、ゴオッという音と共に、大きく勢いのある炎。

(! )

 50センチメートルあるか無いかの距離から自分に向かって噴出した炎に、モネは、反射的に顔を両腕でガードするような格好で縮こまり、ギュッと目をつむる。

「ムタっ! 何をっ……? 」

 サナの叫び声が聞こえた。

 熱くて、息が上手く出来ない。

「大丈夫だよ。だって、王族だから」

 ナガの気楽な声。

 サナが、それはそうだけど、と、まごついた感じで返す。

(…大丈夫……? )

ナガの気楽さに、他人事だと思って、と、モネは腹が立った。本気で熱いんだけど! と。怒ってから、

(…熱い……? )

ハタと気づく。

(炎の直撃を受けて、熱い、で済んでる……? )

モネは、恐る恐る、目を開けた。見れば、炎はモネの寸前で、モネを避けるように分かれ、モネの両脇へと流れている。

 直後、モネの周りの炎は、フッと消えた。

 サナが駆け寄って来、大丈夫? と、モネの顔を覗きこんだ。

 モネは自分の体を見おろす。もう熱くないし、どこも何ともない。

(でも、どうして……? )

首を傾げる。

 ムタは姿勢を正し、目を伏せる程度のお辞儀をしてから、真っ直ぐにモネを見、

「突然、手荒な真似をいたしまして、申し訳ございませんでした」

謝ったが、その声には何の感情も込もっておらず、その目も、謝ってなどいない。冷たい目。

 冷視線に晒されて、モネは居心地が悪く、俯き加減でチラチラと、盗み見るようにムタに視線を返す。

 ムタが、

「あなたが本物の王族であると証明されましたので、カイ様を、お呼びいたします」

やはり無感情に言った、その時、

「もう、来てるよ」

入口のほうで声。

 入口から、赤いジャージ、のような、ちょっと違うような、とにかく、運動する際に着そうな上下に身を包んだ、ナガやムタと同じ年頃の、やや小柄な男性が、モネたちのほうを覗いていた。

 入口横に座っていた少年が、慌てて入口方向へと体の向きをかえ、頭を下げる。

 ムタが入口を頭だけで振り返り、

「カイ様……」

呟いて、体ごと入口を向き、深く頭を下げた。

(この人が……)

どうやら、入口に立っている赤ジャージの男性が、王族の長・カイらしい。

 サナ・シイ・ナガもムタと同様、カイに向かって頭を下げ、中年男性2人は、床に平伏す。

 入口横の少年は、カイが入口を入り、自分の前を通り過ぎるのを待って、立ち上がり、慌しい様子で部屋を出、ほんの数秒後、偉いお坊さんが座りそうな大判のぶ厚い座布団を抱え、戻ってきた。

 カイは、足の生えた蛇の絵の前まで、ゆっくり真っ直ぐに進み、畳の上に上がって足を止め、部屋の中心を向いた。

 座布団を抱えた少年は、カイに駆け寄り、膝をついて、カイの足下に素早く、しかし丁寧な感じで座布団を置く。

 カイは一度、少年を、しっかり見つめ、短く、

「ありがと」

言ってから、ヨッコラショ、と、座布団の上に、あぐらを掻いた。

 少年は一礼してから入口横へと戻り、元のように正座。

 ムタはカイのすぐ隣に移動し、畳に片膝をついて頭を垂れた。

 サナ・シイ・ナガは、入口方向からカイへと微妙に体の向きを修正しつつ、床に片膝をついて頭を垂れ、中年男性2人も、カイのほうへ向きを変えて平伏し直す。

 カイ、ムタに何やら耳打ち。

 ムタは頷き、一礼して部屋を出て行った。

 カイは、モネをジッと見ている。

 モネは、どうしていいか分からなかった。モネ以外は全員、カイに対して、かなり、かしこまった態度をとっている。だが、それぞれ、かしこまり方の度合いが違い、誰に合わせてよいのか分からないのだ。

(どうしよう……)

モネはサナに目をやるが、サナはカイのほうに体を向け、しかも頭を垂れていて、モネの視線には気づきそうにない。

 ここから逃げたい……。帰りたい……。泣きたいくらい困り果てるモネに、カイ、

「オレは王族の長で、カイという。お前は? 」

 モネは、とりあえず自分のとるべき行動が決まり、少しホッとする。とりあえず、質問に答えればいい。

「吉川、モネといいます」

 カイは目を細め、頷く。

「そうか、モネか……」

それから、入口横の少年に向かって、

「モネにも座布団を」

 その言葉を受け、少年は部屋を出、数秒後、普通サイズの座布団を手に戻ってくると、畳の敷かれた場所より、ほんの少し手前、カイの真正面にあたる位置に置き、その横の床に正座して、モネを見た。

 カイ、

「まあ座ってくれ」

 勧められるまま、モネは座布団へと歩き、スリッパを脱いで、その上に正座。

 モネが座るのを待っていたかのように、少年は入口横に戻る。

 カイは自分の両膝に両肘をついた姿勢で、貫禄たっぷりの笑みを浮かべ、

「よく来たな、歓迎する。王族は、この城で暮らす決まりだ。仲良くしよう」

(私が、ここで……? )

人間の世界に帰れない以上、この国の、どこかで暮らすのは当たり前だと分かってる。だが、

(ここ……? )

とても場違いな感じがし、途惑うモネ。

 しかし、決まりであるため、モネの答えなど聞く必要は無いらしい。見た目にもハッキリ途惑っているモネのことを気にも留めていない様子で、カイは視線をサナに移し、次にシイ・ナガ・中年男性2人、と、1人ずつ順に視線を送りつつ、

「モネを連れて来てくれたこと、感謝する。別室に茶の用意がある。時間があるのなら、一服していってくれ。ご苦労だった」

 その言葉に対し、サナ・シイ・ナガは深く頭を下げ、中年男性2人は額を一度床につけてから、それぞれ立ち上がった。

 モネは焦った。

(行っちゃうのっ? )

 モネは、自分の後ろを通り過ぎて行こうとしているサナを振り返り、白衣の裾を掴む。頭で何か考えるより早く、体が勝手に動いていた。

 心細い。一緒に、いて欲しい。

「モネ……? 」

 サナは足を止め、しゃがんで、モネと視線の高さを合わせて気遣うように、

「どうしたの? 」

(帰らないで。一緒にいて……)

……出かかった言葉を、モネは飲み込んだ。かしこまった態度をとらなければならないような相手から、帰るよう言われたのだ。帰らないで、なんて、きっと無理。

 サナは、少し困ったような笑みを浮かべ、モネを見つめている。

 モネは、今の時点で既に自分がサナを困らせているのだと知った。

(でも、あと少し……)

モネは掴んだ白衣の裾を更に強く握り、俯いた。あと少しでいいから、傍にいてほしい……。何か、サナを引き止める、いい口実がないかと、考える。そして、

「診察して」

モネがサナの養生所で目覚めたばかりの時、倒れてたからには何かあるはずだから、もう一度ちゃんと診せて、と言われたきり、まだ診察してもらっていないと思い出して、縋るような思いでサナを見つめ、言った。

 サナは、分かった、と、優しく笑って頷き、

「でも、今は診察するための道具を持ってないから、後で、また来るね」

そう約束し、他の4人と一緒に部屋を出て行った。

(…行っちゃった……)

心細く、その背中を見送るモネ。

 カイが立ち上がり、口を開く。

「今、部屋を用意させている。用意が出来るまで、庭でも案内しよう」

と、そこへ、ムタがやって来、カイに向かって一礼してから、カイに歩み寄り、耳打ち。カイは頷いてから、モネに、

「悪いな。用事が出来た。その辺を自由に散策していてくれていい」

言い残して、部屋を出て行った。

 ムタが、すぐ後に続き、入口横の少年も、カイが座っていた座布団を抱え、出て行った。

 モネは一人、ポツンと取り残される。自由に散策していていいと言われても、まったく勝手の分からない城の中。また、気分的にも、そんな気になれず、モネは、板張りの部屋から一歩も外に出ずに、ひとり、窓の外に見える砂利の庭をぼんやりと眺めて時間を過ごした。


               *


 どのくらい時間が経ったのか……。辺りがあまりに静かで、とても長い時間が経ったような、でも、実際には大したことないような……。何だか、時間の感覚が無い。

「モネ様」

背後から声がかかり、モネは振り返る。

 と、入口に、桃色の作務衣を着、長い髪をスッキリと後ろで1つに束ねた、20代半ばくらいの、ホワンと柔和な雰囲気を持つ美しい女性が正座していた。

 女性は一度、頭を下げてから部屋に入り、モネの前まで歩いてくると、もう一度、丁寧にお辞儀をして、

「初めまして、私は、コリと申します。本日より、モネ様の身の回りのお世話を担当させていただくことになりました。よろしくお願いいたします」

自然で柔らかな笑顔をモネに向ける。

(モネ『様』って……)

 何だか、すごく違和感のある呼ばれ方。しかし、その笑顔は綺麗で……、そして、何となく安心できるものを感じた。城の中では、この、コリという女性を頼ればいいのだと分かったこともあり、気持ちが、スウッと楽になった。

 モネが少々照れながら、

「あ、こちらこそ、ヨロシクお願いします」

挨拶を返すと、コリは、笑みで柔らかく受け止め、

「お部屋の用意が整いましたので、ご案内いたします」


 コリに導かれ、モネは廊下をホールのほうへ。ホールに出る手前で、スリッパから自分の靴に履き替える。さっき、特に意識しないで脱いだままだったはずの靴は、キチンと揃えて置かれていた。

 一度ホールに出てから、玄関から見て正面に位置する廊下を奥へと進んで行く。左手の窓から、薄紅色の花の咲く低い木がたくさん植えられた庭園が見えた。左手の窓が途切れると、玄関ホールを、そのまま小さくしたようなスペースが現れた。そのスペースの奥、引き戸の出入口を通り、庭園に出る。

 右手に大きな池を見ながら、庭園の小道をコリに案内されて進むモネ。

 やがて、その行く手に、藁のようなもので出来た、高さ一メートルほどの低い塀と、木の皮の屋根とスルスルに磨いた木の柱で作られた門、その向こうに、自然の材料の美しさを大切にした趣のある純和風の家が見えた。

 門をくぐると、すぐのところに手水鉢や石灯籠などが置かれ、敷石が玄関へと続いている。

 コリは玄関を開け、

「こちらの離れを、ご自由に、お使い下さい」

一旦、脇に避け、モネを通した。

 玄関を入り、靴を脱いでから、50センチほどの段差を上がる。板張りの広縁が左手に向かって続き、正面の障子を開けると、14畳の畳の部屋。

「上着を、お預かりいたします」

 コリの言葉を受け、ブレザーを脱いでコリに手渡してから、モネは、その14畳の部屋に足を踏み入れる。部屋の中央に上品な黒の低いテーブルが置かれ、その上には、庭園の低い木の薄紅の花が一輪生けられていた。

 その14畳の部屋の奥の部屋と左の部屋も畳の部屋になっており、襖で仕切られているだけで、その3部屋は、襖を外せば1つの部屋としても使えそうだった。

 左奥にある残りの1部屋だけが、他の部屋とは壁で仕切られており、また、玄関から見て一番奥にあたるという理由から、その部屋を寝室として使われてはいかがでしょう、と、コリに薦められ、特に考えの無いモネは、頷く。


(…広い部屋……)

 モネは、玄関正面の部屋と左の部屋の間の襖を開けた境に立ち、部屋を見回した。

 畳があったりして親しみを感じるのも確かだが、何しろ広すぎて、静かすぎて、落ち着くような落ち着かないような……。こんな広い部屋を1人で使ってしまって、本当にいいのだろうか……そんなふうに思い、口に出すと、コリは、ちょっと笑って、

「もちろんでございます。この離れは、カイ様が大変お気に入りで、お一人で、ゆっくりと、お寛ぎになられる際に、ご使用になられているのですが、モネ様のお部屋をご用意するに当たって、是非、モネ様に、ご使用いただきたいと、おっしゃられたんです」

 それを聞き、モネは余計に恐縮した。

(大変お気に入り、って……)

 と、その時、

「ごめん下さい」

玄関のほうで女性の声。

 それを受け、コリ、

「いらしたようですね」

玄関へ行こうとするが、無言の問いかけをするモネの視線に気づいたらしく、足を止め、

「申し訳ございません。まだ、お伝えしておりませんでしたが、30日後の夜に、モネ様の、お披露目の宴を開くことになりまして……。その際に、ご着用いただくドレスを、仕立てて下さる業者の方がいらしたのです」

説明してから玄関へ。

(宴? ドレスッ? )

 あまりの世界の違いに何の反応も出来ずに、モネはコリを見送った。


 仕立て業者は、お揃いの濃紺の制服をキチッと着こなした3人組の中年女性だった。

 モネは、膨大な量のカタログを見せられ、コリのアドバイスを受けながら、遠慮しながら、胸元とスカートの裾にビーズで細かい装飾が施され、袖とスカート部分がフワリとふくらんだ、光沢のある水色の、豪華なドレスを選んだ。

 それから、3人組の業者に囲まれ、コリに見守られて採寸。

 4人もの人が自分だけのために、あれやこれやと傍で忙しく動き回っている状況。モネは、今までに経験の無い、この状況に、途惑いと少しの居心地の悪さを感じながら、半ば流され気味に採寸を終えると、業者を玄関まで見送りに出て戻ってきたコリの前で、気疲れから、つい、大きく息を吐いてしまった。

 コリ、気遣うように、

「お疲れになられましたか? 今、お茶を、ご用意いたします」


 他人が淹れてくれた茶を、その人に、すぐ傍で見守られながら、たった1人で飲む、という状況も、何となく居心地が悪い。

 黒テーブルの前に座り、コリが淹れてくれた茶をすすりながら、モネは時々、部屋の入口の閉まっている障子近くに正座しているコリに目をやった。

 モネと目が合うと、コリは、にっこり微笑む。

 玄関が開く音がした。続いて、数秒後、

「モネ、いるか? 開けるぞ? 」

障子の向こうでカイの声。

 直後、障子が開き、カイが姿を現した。

 コリは障子のほうを向き、頭を下げる。

 カイは、モネを真っ直ぐに見おろし、

「モネ、ちょっと一緒に来れるか? 」


 モネがカイの後について外に出ると、空は、ほんのり赤みを帯びていた。

 庭園の小道を、ただ黙って早歩きするカイを、モネは小走りで追い、離れに対して、母屋、とでも呼べばいいのか、ナガに案内されて城の敷地内に入って初めに足を踏み入れた建物の、さっき、コリと一緒に出てきた出入口を入る。

 出入口を入って廊下を左。すぐに右に折れ曲がって奥へ。途中で靴を脱ぎ、靴下で歩く。階段を上り、2階を経て3階まで上り、カイは初めて足を止め、モネを振り返った。 そこは、8畳ほどの板張りの部屋。四方の壁それぞれに大きな窓があり、カイの向こう、階段を上って丁度正面の窓からは、熟したトマトのような夕陽が水平線に沈んでいこうとしているのが、遠くに見えた。

 もっと窓の近くから見ればいい、と、カイに勧められ、モネは、夕陽が見える正面の窓に近づく。眼下に広がるのは、宵闇に包まれ始めた家々の、無数の窓明かり。夕陽の赤と、きらめく窓明かり……それは、まるで、宝石箱をひっくり返したよう……。

「ここは、眺望の間だ。どうだ、キレイだろう? 」

 カイの言葉に、モネは、

(キレイ……)

思わず溜息を吐きながら窓の外を見つめたまま、ただ、頷く。

 カイが、モネの隣に移動してきて外を眺めながら、眼下の家々の窓から見える明かりについて、かなり誇らしげに説明を始めた。 …あれは、電灯という物による明かりだ、と。風を操る能力を持つ種族・風族の能力を生かして作り出された電気という物によって、光っているのだ。その電気を作り出す装置は、竜国最大の発明だ。電気のおかげで、暮らしが、とても便利になった。今や、電灯の一般家庭への普及率は100パーセント。城へ来るのに、乗合電動車両に乗ったのだろう? その動力も、電気だ。こんな素晴らしい発明が出来る竜族も、その竜族を育んだ竜国も、本当に素晴らしい……と。

 語っているうちに、カイの語調は興奮気味になってくる。目もキラキラ。

 ああ、この人は、竜国が(もしくは電気が)大好きなんだな、と、モネは思った。

 一通り、お国自慢を終えると、カイは小さく息を吐き、自慢話をしている時に比べ、やや声のトーンを落として、真面目な感じで、

「人間の世界に、帰りたいか? 」

唐突な質問。

 モネは考えてしまう。

(…私、帰りたいのかな……? )

 帰りたい理由が見当たらない。 確かに、この竜国に来て以降、何度か、帰りたい、帰れたらいいのに、と思った。ただ、それは、怖かったり不安だったり、どうしていいか分からなかったりした時で、人間の世界にいたって同じことを思う状況になることはある。……どこか、別の場所に逃げたい、と。今、自分が竜国にいるから、逃げる場所として、竜国に比べて少しは勝手知ったる人間の世界を思い浮かべただけのような気がする。 今だって、不安は不安だ。この先、竜国で生きていく上で何が自分を待ち受けているのか、自分が、どのように生きていくのか、全く先が見えない。しかし、それは人間の世界にいたって同じことだと思う。これまで、流されるままに生きてきたから、考えたこともなかったが、きっと、流されずに踏みとどまって辺りを見回してしまっていたら、人間の世界にいたって、同じ不安を持っていた。 これから、この竜国でも流されればいいのだと思う。部屋は与えられた。あれだけ豪華なドレスを作ってもらえるくらいだから、普段着の着替えも多分手に入る。疲れたように見える態度をとることで茶を淹れてもらえるのだから、腹が空いた態度をとれば、あるいは、お披露目の宴など形式ばった世界のようだから、決まった時間がくれば、食事も、ちゃんともらえるだろう。幸い、衣食住に困らない流れに乗れているようだ。身を任せて生きていけば、時間は勝手に過ぎていく。 ……大体、帰れないのに、帰りたいかどうかなんて考えたって仕方ない。意味が無い。

 頭の中で、たった今、考え思い浮かんでは消えていった内容の中から、カイからの質問の答えには、なっているかどうか微妙だが、自分の考えが最も簡潔に表れている部分、

「帰れないのに、帰りたいかどうかなんて考えたって、仕方ないです」

だけを選んで返すモネ。

 カイは頷きながら、

「それは、そうだな」

少し、気遣うような様子を見せ、

「竜国は、いい国だ。便利な分、自然環境だけは人間の世界に負けるかも知れないが、これ以上、自然を壊さないよう、配慮をしている。モネも、きっと気に入ってくれると思う」

(……)

 モネは、もしかしたらカイが、人間の世界に帰れないモネが落ち込んでいるのではと思いやり、こんなふうに誘い出してくれたのかな、などと、少し思ってから、カイが発した気に入る、という言葉から、ふと思い出した。自分に与えられた離れのこと。カイが大変気に入っている部屋であると聞いたことを。 そこで、本当に自分が使っていいのか、直接、本人に確かめてみようと、

「カイ様」

口を開く。

 と、カイは、ちょっと笑って、

「同じ王族だ。様、なんてつけなくていい」

 それを受け、モネ、

「カイ……さん」

言い直し、

「ん? 何だ」

とのカイの返事を待ってから、離れのことについて聞いた。

 カイは、遠い目で窓の向こうを見ながら、溜息まじりに、

「そう、気に入ってたのになあ……」

呟いて、しかし、モネが、その言葉を気にするより先に、

「けど、仕方ないな。気にするな。オレが言い出したことだ。それに、悪いのは」

そこまでは あっさりと、それ以降は、ちょっと怒ったように、ふくれっ面になって、

「ムタだ! 」

 モネは、これまで、カイについて、良い意味で国で一番偉い人に相応しい、威厳というか、余裕のようなものを感じていた。だが、この、ふくれっ面は、かなり子供っぽい。

 「オレ、本当は、モネと、この母屋で一緒に暮らしたかったのに、ムタのヤツ、『どう考えても遠い血のつながりしかない未婚の男女が、ほぼ2人きりに近い状態で、夜を、ひとつ屋根の下で過ごすものではありません』なんて言い出して、モネを山の離宮に……どんなに急いでも、ここから2時間はかかるんだけどさ、そこに住まわせる、とか言うんだ」

不貞腐ってブツブツ言う横顔。本当に、子供みたい……。何となく、親近感。

「だから、ひとつ屋根の下じゃなきゃいいなら、ってことで、離れならどうか、って言ったんだ」

 モネは、別に離宮でもよかったのに、と思った。そんな、自分のために無理に、気に入っていた部屋を明け渡したようなことを言われては、気兼ねしてしまう。この後、離れに戻る時に、カイに、どんな顔を見せてから戻ればいいのかさえ、分からなくなってしまう。そう、口に出して言うと、カイ、

「そんな寂しいこと言うなよ……」

肩をちょっと竦めて見せた。それから、体ごと、モネの真正面を向き、真剣な表情でモネの目の奥を見つめて、

「本当に気にしなくていい。…オレが、モネに傍にいて欲しかっただけだから……」

 モネは、ドキッ。

(…それって……? )

思わず、カイの目を見つめかえす。 が、

「竜国は建国以来、どんどん人口が増え続けて、つい先日、1千万人を突破したんだが、どうしたワケか、王族だけは減り続けて、一昨々年うちのオヤジが死んじまってから、今日モネが来てくれるまでの間、オレ1人だけだったんだ……」

(…何だ、それだけのこと……)

 モネは、ガックリと力が抜けた。寂しかっただけか、と。

 そこへ、

「モネ様」

階段のほうから声がかかる。

 振り返ると、コリが階段を上りきった所で正座し、頭を下げていた。

 コリは顔を上げ、

「サナ先生がいらっしゃいました。離れでお待ちです」

 モネは、ちょっと途惑った。まだ、カイとの話が途中な感じがする。どうしようかと、カイを仰ぐと、カイ、

「モネが呼んだんだろう? 行っていい」

その表情が少し寂しげに見えて、モネは、行くのを躊躇われた。

 たった今、自分は、今まで同じ王族がいなかったカイの寂しさを、だけ、と思ったが、実際に寂しそうな顔を目にすると、寂しいという気持ちは、他人が勝手に程度を判断して、だけ、などと言ってしまっていいものじゃないと感じられた。

 コリが立ち上がり、

「モネ様、参りましょう」

促す。

 モネは、カイを気にしつつ、カイに背を向け、階段を下りた。


               *


「お待たせいたしました」

コリは、離れの玄関を開けてモネを通し、モネの靴を脱ぐ世話を焼いてから、自分も素早くツッカケを脱ぎ、モネの前を塞がないよう微妙に横に避けつつ、玄関を入って正面の障子を開け、中に向かって頭を下げる。

 部屋の中で、サナが、飲んでいた茶をテーブルに置き、モネのほうを向いた。

「モネ」

 サナは立ち上がり、モネを真っ直ぐに見つめて微笑んだ。

 モネの胸がキュウッとなる。…顔を見ただけで……。サナの顔を見ただけで、何故か、泣けてきた。

 モネは、

(…どうして……)

そんな自分に途惑いながら考える。……涙の、理由について。 悲しくないから、嬉し泣き……? …会いたかった、のかな……? 会いたかった理由は分からないけれど、きっと、とても会いたかったから? サナさんに、会いたくて、会えたから嬉しくて? …もう心細くなんかないのに……? …多分……。うん、多分、そうだ……。考えている間にも、ポロポロと、次から次へと、涙がこぼれ落ちる。

 サナは、うろたえた様子でモネに歩み寄って来、

「どうしたの? 」

モネの顔を覗きこんだ。

 モネは、ただ、首を横に振る。

(どうも、しないけど……)

涙が止まらない。

(どうもしてない、はずなんだけど……)

 サナが、モネの肩に腕を回した。

 モネは、ビクッ。反射的な感じで、涙が止まった。代わりに、胸がドクンドクンと、強く脈打つ。

 サナが、肩に回した腕で、そっと、モネを部屋の中へと押し、

「とにかく、座って。落ち着いて話してごらん? 」

 体中が、変に熱い。足下がフワフワする。

 モネは、サナに導かれるまま、フワフワする足で歩き、座布団に座った。

「コリさん。モネにも、お茶をお願いできますか? 」

言ってから、サナも、モネのすぐ傍の畳の上に腰を下ろした。

 コリが、片手に茶を、もう一方の手に座布団を持って来、サナに座布団を勧めて、サナが、ありがとうございます、と言って座るのを待ってから、モネに茶を手渡す。

 モネは、ゆっくり口に含んで、とのサナの言葉に従い、サナに見守られながら、茶を飲み干した。

 動悸も、体の火照りも、少し落ち着いた。

(私、おかしい……)

モネは小さく息を吐く。

 サナ、気遣うようにモネを窺い、

「落ち着いた? 」

 モネは頷く。

 「何が、あったの? 」

 心配げなサナの問いに、モネは困った。

(本当に、別に、何も無いんだけど……)

泣いた理由なら……。

(サナさんに会いたくて、会えたから、嬉しくて……? そんな感じ……? どうして会いたかったのかは、分からないけど……)

 それを、そのまま口にしようとして、モネは、ハッとした。まるで、愛の告白みたいだ、と。

(私、サナさんんのこと、好き、なの……? )

それなら、さっきの動悸と火照りも説明がつく。

 モネは、出かかっていた言葉を飲み込んだ。突然そんなことを言い出したりしたら、サナさんが、どう思うだろう、と考えたのだ。優しいサナさんのことだから、今、この場では何も、顔にも言葉にも出さなくても、心の中では、うっとおしいと思うかも知れない。気持ち悪いとさえ思うかも知れない。そして、避けられるようになってしまうかも……と。そんなのは嫌だ。

 モネは、もう一度小さく息を吐いてから、首を横に振る。

「大丈夫。何も、ないです」

 サナ、まだ心配げな感じを残して、

「そう? それなら、いいんだけど……」

言って、ちょっと間を置いてから、笑顔を作り、

「じゃあ、診察しようか」

黒テーブルの下から大きめの黒いカバンを引っ張り出し、その中から聴診器を出した。

 そこで、モネは初めて思い出す。サナに来てもらうのに、診察、という口実を使ったことを……。

 聴診器を出して、診察しよう、と言うからには……。モネは固まってしまいながら、サナの、聴診器を持つ手を見つめた。

 サナは、事も無げに、

「胸の音を聞くから、脱いで」

(やっぱり? )

モネは、酷く後悔した。医者だと思えば性別は関係ないのだが、一度、男性として意識してしまったら、もうダメだ。…恥ずかしい……。

 しかし、自分から頼んでしまったのだから仕方ない。モネは、ブラウスのボタンをはずそうとする。が、手が震えて上手くいかない。

 見かねたのか、コリが、ボタンをはずし、腕から袖を抜いてブラウスを体から取り去るところまで手伝ってくれた。

 冷たい聴診器がモネの肌に触れる。

 サナは真剣な表情。

 男の人は、やっぱ、仕事をしている時が一番カッコイイ、などと、冷静に、仕事中のサナの姿を楽しむモネと、好意を寄せる男性の前で肌をさらし、聴診器越しとは言え肌に触れられている、この状況が恥ずかしくて、それどころではないモネが、モネの体を奪い合っていた。

 胸、腹、背中……。サナが聴診器の位置を変えるたび、体中が、ムズッ、ムズッと、軽く痺れる。それが次第に快感になっていった。そして、

「はい、おしまい。いいよ、服着て」

との声が、サナから掛かった時には、もう完全に快感に身を委ねて恍惚としてしまっていて、その声で、ハッと我に返る。

(…ヤダ、私……)

そんな自分が すごく恥ずかしくて、モネは、大急ぎでブラウスに袖を通し、前を両手でギュッと掴んで合わせ、俯いた。

 しかしサナは、モネの態度を何とも思わなかったのか、そもそも気づかなかったのか、ごく普通に、

「脈が少し速めな感じがするけど、心配ないよ。今日、バタバタと色々あった中で、こうして、今の時点で、これだけ元気なんだから、大丈夫」

そう太鼓判を押し、もし、また何かあったら呼んでくれていいから、と言い置いて、カバンに聴診器をしまい、立ち上がる。

(もう、行っちゃうの? )

慌ててサナを見上げるモネの視線に、サナはニッコリと、笑みで応えた。


 玄関へと歩くサナの後を、コリが、見送るため、ついていく。

 サナとコリの姿が、モネの視界から消えた。

 玄関の開く音。

 「ありがとうございました」

コリの声。

 玄関の閉まる音。

 モネの胸がキュウッとなる。

 たまらず、モネは、ブラウスのボタンをするのも、そこそこに、部屋へと戻ってこようとしていたコリと入れかわりに、外に飛び出した。

 外は、すっかり暗い。外灯とボンヤリした月明かりに照らし出されたサナの姿は、もう遠い。

 (今度は、いつ会えるのかな……)

モネは、小さくなっていく、その背中を、見えなくなるまで見送った。


               *


 サナを見送った後、離れの中に戻った、特にやることの無いモネは、広縁に立ち、外に面した障子を開け、窓に映る自分の顔を何となく眺めていた。

 本当に、色々あった。

 人間の世界の家を普通に出掛け、普通に学校に行き、その帰りに地震にあった、人間の世界で過ごした最後の日が何日前なのか分からないが、きっと、それほど前ではない。サナの養生所で目覚めてから、今、これまでの出来事は、間違いなく、たった1日にも満たない間の出来事だ。

 考えてみれば、短い間に、すごい変化。人間の世界の普通の高校生が、突然、竜族の暮らす、この竜国に来て、敵視され、攻撃されて、そうかと思えば、いきなり、自分も竜族なのだと言われ、しかも、王族の姫として、今は、こんな立派な城の中で、様づけで呼ばれて過ごしている……。

(私、何で、こんなに落ち着いてるんだろ……)

 初めは、様づけで呼ばれることにも、違和感があった。自分では何も動かずに周りの人が自分のために動くことを、居心地悪く感じた。城にいること自体、申し訳なさに近い感情を覚えた。それが、たった数時間で、何だが当たり前になってきている。

(…こんなものなのかな……? )

 モネは、窓に映る自分の顔を見ながら、指で、そっと、額の族印に触れた。

(これだって、何時間か前には無かった……)

 と、そこへ、少し前に、ちょっと失礼いたします、と言って、どこかへ行っていたコリが戻って来、

「モネ様。カイ様が、こちらの離れで夕食を、ご一緒されたいと、おっしゃっておいでですが、いかがいたしましょう? 」

 先程のカイの寂しげな表情が気にかかっていたモネは、

「あ、はい。是非……」


               *


 モネの返事を受けたコリが、再び、少しの間どこかへ行って戻って来、

「間もなく夕食です」

まだ広縁でボンヤリしていたモネに声を掛け、黒テーブルのある部屋に入るよう言う。

 コリはキビキビと、黒テーブルの部屋に座布団を2枚、テーブルを挟んで向かい合う形に置き、うち1枚をモネに勧めて、モネが座るのを待ってから、自分は入口の障子脇に正座。先程から、離れにあって動き回らない時には、必ずと言っていいほど、そこに座っていたため、そこが定位置なのだろう。

 コリが座った直後、

「邪魔するぞ? 」

声とともに障子が開き、カイが入ってきて、空いているほうの座布団に腰をおろすなり、

「まったく、ムタはうるさくてかなわない」

溜息まじりの言葉を吐き出す。

 聞けば、ムタに、モネと夕食をとることを反対されたのだと言う。だが、反対の理由が、いまひとつ理解出来なかったため、押し切って来たのだ、と。

 そこへ、

「失礼します」

紺色の作務衣の男性2人が、料理を盆に載せて運んで来、モネとカイ、それぞれの前に並べ、部屋を出て行った。

 テーブルの上に並べられたメニューは、体長25センチくらいの、1人分としては少し大きいのではと思われる真鯛に似た魚の塩焼きと、大きな二枚貝のすまし汁。それから、小さな碗に入った無色透明の液体。

 竜国はメシも美味いぞ、と、自慢げに一言、言ってから、カイは行儀よく手を合わせ、

「いただきます」

 モネは、それを真似、同じように手を合わせ、

「いただきます」

 続いて、やはりカイを真似て、小さな碗の液体に口をつける。と、鼻から入って脳の中までフワッと広がり、酔わせる、その匂い。

(…お酒……? )

 モネが飲まずにいると、カイ、

「モネは、酒がダメか? 」

(ダメって言うか……)

一度も飲んだことが無い。未成年なのだから、当然だ。この国には、未成年が酒を飲んではいけないという法律は無いのだろうか? 途惑うモネ。

 カイは、ちょっと笑って、

「無理して飲むことはない」

言ってから、コリに向かい、

「モネに、茶を」

そして、コリがモネに茶を持ってくるのを待ってから、

「じゃ、これはオレがもらうよ」

モネが手にしていた酒の碗を取り上げ、いっきに飲み干した。

 2人分飲んだためか少々赤みを帯びた顔のカイは、魚に箸をつけ、時々、すまし汁をすする。

 マナー違反を恐れて、モネは、それを見事に倣った。

 料理は、おいしい。しかし、モネにとっては、どうしても、あと1つ、足りないものがあった。ご飯だ。ご飯が無ければ、うどんか、そばなどの和風の麺類か、メニューには合わないが、洋風麺類やパンでもいい。……とにかく、何か主食になるものが食べたかった。もしかしたら、主食抜きの食生活が、この国の習慣なのでは、と心配になる。この先、ずっと、ご飯を食べられないのでは、と。

 だが、いらない心配だった。魚とすまし汁を食べ終えようという頃、再び、

「失礼します」

と、さっきと同じ作務衣姿の男性2人が、新たな料理を載せた盆を手に入って来た。

 メニューは、細長い魚の煮物、野菜の煮物、ゼンマイのようなものの煮付、カブの味噌汁と一緒に、白く輝くご飯。

 モネはホッとし、やはりまた、カイと同じ順序で箸をつけていく。


               *


 大満足で夕食を終えたモネは、カイが母屋に戻りがてら母屋の中にある風呂へと案内してくれると言うので、庭園の小道を、ついていった。

 すぐに入浴出来るよう準備をするため、コリが一足先に走って行った。

 母屋へ向かって歩きながら、カイは、風呂についての自慢。竜国の全家庭で、風呂は、地下から湧き出る天然の湯を引いてきて利用しており、その湯に浸かると疲れがとれるのだ、と。

(それって、温泉、ってこと? )

 自宅に温泉があるなんてスゴイ、と、モネは感心し、楽しみにしながら、カイに続いて母屋の庭園側入口を入る。

 と、そこに、ムタが、何をするでもなく静かに、ただ、立っていた。

 ムタは、頭を下げてカイが通り過ぎるのを待ってから顔を上げて、モネに、ギロッと、冷たく力のこもった視線を浴びせかける。

 その迫力に、モネは固まり、足が止まった。

「モネ」

 先に行ってしまっていたカイに、離れたところから呼ばれ、モネは、ハッとし、逃げるように、カイのところへ走り、追いついてから、大きく息を吐く。

 …怖かった……。

(ムタさんって、もしかして、私のこと、嫌い……? )

モネは、ムタの、他の人たちに向ける目と自分に向ける目が、違っていると感じた。

確か、ナガ相手にも、モネに対してと同じような目をしていたが、それ以外の人たちには、温かくはなくとも、特に冷たい視線は向けていないように思う。

(私、ムタさんに何かしたかな……? )

 考えるが、分からない。

(まだ会って、そんなに経ってないし、嫌われる理由ができるほど関わってもないと思うんだけど……)

 小さく息を吐き、

(まあ、いいや)

気持ちを切り替えるモネ。分からないものは仕方ない。それに、カイさんが味方でいてくれれば、ムタさんに嫌われてても、そんな困ったことにはならないと思うから……と。


 カイは風呂について、その湯のことしか自慢していなかったが、モネが案内されて風呂場の戸をくぐり、最初にスゴイと思ったのは、その広さだった。モネの知っている限りの物で例えるとすれば、まるで、中学の修学旅行の宿泊先の大浴場。当時のクラスの女子全員がいっぺんに入っても、ゆったりできるだろう広さがある。雰囲気的には、それより、もっと上品だが……。

 磨き込まれた白い石の床や壁や、高めの天井。緻密な細工が施されたガラスの照明器具の明かりが、湯気で柔らかにぼやける。

 静かだ。

 そんな風呂に、1人で入る。

 伸び伸び出来て気分がいいが、少し寂しくも感じた。


               *


 風呂から上がり、モネは、コリが用意してくれてあった来客用の寝間着を着て、コリと共に母屋を出、離れへ歩く。

 火照った体に、夜風が心地よい。


 離れへ戻ると、寝室にと決めておいた部屋に、コリが、その部屋の押入れから布団を出し、敷いてくれた。

 湯冷めなさらないうちに、お休み下さい、と、コリに言われ、モネは早々に布団に入る。

 まだ全然眠くないと思っていたが、疲れていたのか、布団に入って目をつむると、敷布団の中に体の中身が吸い込まれていく感覚。

 気持ちがいい。

 空中か水上を漂うように、微かに揺れているような錯覚に身を任せながら、ゆっくりと眠りに落ちていくのが、自分で分かった。


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